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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
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第5話

 ブルーの瞳が徐々に近付いて来るのを、私は魂が抜けたようにただぼんやりと見ていた。この時の私には、逃げようとかやぱいとかどうしようとか、そんな概念は持ち合わせていなかった。 

 私が我に返ったのは、自分の唇に違和感を覚えた時だった。その違和感は突然(突然ではないのだけど、私にはそう思えた)もたらされたブルーからのキスなのだと気付いた時には、もはや私はそのキスに魅入られてしまっていた。さっきのブルーの高圧的な態度からは考えられないほどの優しいキスだった。

 蕩けるような甘いキスに私は酔ってしまっていた。

 私の頬には、涙が一筋伝い落ちた。

 悲しいわけじゃない。悔しいわけじゃない。情けないわけでも、ましてや嬉しいわけでもない。震えたのだ。心が、震えたのだ。何故こんなにも心が震えるのか自分でも解らなかった。

「怒った?」

 私の涙にほんの少し動揺しているブルーがそう聞いて来た。

「怒ってるわよ。当たり前でしょっ。こんなことニ度としないでっ」

 本当は怒ってなどいない。怒りがどこかに吹っ飛んでしまうほどの衝撃を私は受けていたのだから。

 ブルーの腕は依然私の耳元にあり、捕らえられたままだった。ブルーの顔もすぐ間近にあった。

「それは無理だ。俺は君が欲しいんだ。君が俺を好きになるまで、俺は諦めるつもりはない」

「どっ、どうして私なの?」

 可愛い子だって、奇麗な人だってブルーなら選り取り見取りだろう。それなのに、どうしてよりによって私なんだろう。

「人を好きになるのに理由が必要なのかな? 何で、紅なのか、俺にだって正直解らないさ。ただ、震える。紅にだけ、心が震えるんだ」

 心が、震える……。

 私もさっきブルーのキスで心が震えた。だけどそれは、キスに心が震えたんであって、ブルーの気持ちに震えたわけじゃない。そうであって欲しい。

 ブルーの真剣な瞳が私を射抜いているようだ。その真剣な瞳を見れば、その気持が嘘じゃないように思う。だが、私の脳裏には、私をからかうように笑うブルーの顔が貼り付いて離れない。本気で言っているのか、それともからかっているのか、判断しかねた。

「ならないよ。私は、あんたを好きにはならない。きっとどんなに待ってても好きにはならない」

 ブルーがどんな風に私を想っていたとしても、私が好きなのは、やっぱりマスターなんだから。

「あんなに俺とのキスでうっとりしてたのに?」

 真剣な瞳を急に崩して、からかうようにそう言った。

「してないっ」

 そう言ってはみたものの、恐らくしていたんだろうと思われる。間違いなく。それが何だか悔しくて堪らない。

 ブルーのキスは甘くて優しくて蕩けるだけでなく、どことなく懐かしい気がした。何だか大きな温かいものに包まれているような、そんな気がした。イヤじゃなかった。好ましくさえあった。突然、許可もなく強引に奪われたキスだというのに。ブルーなんて好きでも何でもないのに。

「取り敢えず収穫はあったな。紅とキスが出来たし、そのキスは想像以上にいいものだったし、俺と紅はキスの相性がいいのかもしれないな。それから、俺が紅にキスをしたことで、最低でも今夜一晩は俺のことを考えずにはいられない筈だ。そして、キスをしたことによって、俺は君をより一層好きになってしまった」

 ブルーは大きく微笑んだ。人を惹きつけるだけの威力がある笑顔だった。そしてその笑顔は、ブルーが今日、イヤ私の前で初めて見せた表情だった。

「店でももっとそうやって笑えばいいのに。その笑顔、凄く良いのに。勿体ない」

 素直な感想が口をついて出て来た。ブルーはほんの少し頬を赤らめて視線を逸らした。照れているんだと解った。

 いよいよ私には、ブルーという男が、一体どんな男なのかよく解らなくなった。

 無表情で無愛想なクールな男なのか、高慢ちきで強気な男なのか、笑顔の似合う少し照れ屋な男なのか。多重人格者なんじゃないかと一瞬思ったが、それは現実的になさそうな気がした。

 私としては、いつでも照れ屋なタイプだったら可愛げがあって良かったのにと思ってしまった。

「もう疲れたから帰る。あんたのことなんか、1ミリも考えないんだからね」

 私は歩き始めたが、気付けばうちのアパートは目の前だった。月とブルーばかり見ていた(ブルーに関しては、見たくて見ていたわけじゃないけれど)、から、もう着いていただなんて知らなかった。

「一応、御礼言っておく。送ってくれてありがとう。またね」

 私はブルーにそう言って、アパートの階段の手すりに手を掛けた。

 小さなアパートだ。1階、2階にそれぞれ2部屋ずつしかない。私は2階の階段を上がって手前の部屋に住んでいた。

「あのさっ」

 ブルーに呼び止められ、振り向いた。

「ん? 何?」

 私が問い掛けても何も答えようとしない。

「何なのよ」

 私は階段の3段目辺りにいた。

 ブルーは階段の手すりの横に来ると、キョトンとしている私の頭の後ろに右手を添え、頭を引き寄せ、軽いキスをした。

「ロミオとジュリエットみたいだな、なんて。おやすみ」

 そんな捨て台詞を残して走り去るブルーの背中をキョトンとしたまま、見えなくなるまで見ていた。

 ロミオとジュリエットって……。

 この段差がそう見えなくもないけど。ていうかアパートのボロッちい階段だし。

「何言ってんだろ、あいつ……」

 何気にロマンチストさんなのかもしれない。クール男と高慢ちき男、照れ男、ロマンチス男。わけが解らない。

「……変な奴」

 あいつは今頃何を考えてんだろう? してやったり、とか? やっちまった、とか?

 あいつが今何を考えているのか、いまいち解らなかった。

「てか、2回もキスされちゃってんじゃん。あいつ~、今度会ったら懲らしめてやるぅ」

 そんな事を一人ごちて、私は階段を上がった。

 あいつの宣言通り、その夜は、あいつの事ばっかり考えてしまっていた。目を瞑ると、目の前には瞳を閉じたあいつが現れて、慌てて腕を振り回してそれを掃い消す。

 そんなことばっかりしていたら、すっかり寝不足になり、翌朝、授業にまんまと遅刻するのであった。


「お~い、ベニー。1限目、代弁しといたよ。どうしたの、お疲れの模様?」

 短大で同じクラスの馬場多恵が駆け寄って来た。

「んん、なんか寝不足でさ。中途半端な時間に着いちゃったからソファで寝てた」

 私は大きな欠伸を隠しもせずそう言った。多恵は、可笑しそうにけらけらと笑っていた。

「昨日バイト大変だったんだ?」

 隣りで並んで歩きながら、多恵が尋ねた。

「ん~ん、別にそういうわけじゃないんだけどね。なんか、狼に噛みつかれた感じかな」

「何それ。意味解んないんだけど?」

 けらけら笑いながら、はてなマークをあちこちに散らしているようだった。

 そりゃそうだろう。あんな抽象的な説明で解るわけもないのだ。

「ほら、前にイケメンがバイトで入って来たっていったじゃん?」

「ああ、クールで恰好良いんだろうけど、ベニーは苦手って言ってた人?」

「そう、それ。あいつにキスされた。しかも、2回も。あいつ、私が好きだなんて言うんだよ。意味解んないよ」

 昨夜のことを思い出すと、不思議な気分になる。怒っているような、怒っていないような、中途半端な感情。

「ベニー、マスターが好きだったんじゃないの? いつ乗り換えたの」

「勿論、私が好きなのはマスターだよ。私は最初から断ってるんだよ。なのに、あいつときたら。」

 段々興奮して声が大きくなっていたようで、まあまあ落ち着いて、と多恵に宥められてしまった。


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