第47話
青は中学時代の彼氏の写真を未だに見つめていた……。
んぎゃっー、怖いっ。
逃げるようにリビングを出て、母の言いつけどおりに大人しく野菜を刻んでいると健二さんが帰って来た。
「あっ、健二さんお帰りっ」
私は台所からひょっこりと顔を出してそう言った。
母は、健二さんの帰宅を確認すると、彼の傍に駆け寄り、娘の前だというのも忘れてか、抱き付き、唇を重ねた。
娘の前だってのに、ったくよくやるよ。
私がこの家を出たのは、この二人の熱々ぶりがあまりに鬱陶しかったというのも一つの要因である。
青もまた二人の熱々ぶりを目の当たりにして、唖然としていた。
「健二君。今日はね、紅の彼が遊びに来てるのよ」
漸くおかえりの儀式とも言える催しが終わり、青を健二さんに紹介した。
「紅ちゃんの彼なんだ? はじめまして、紅ちゃんのお母さんの恋人で健二といいます。よろしく」
「こんにちは。杉田青です。こちらこそよろしくお願いします」
相変わらずのおっとりした健二さんが場の雰囲気を和らげてくれたのか、先ほどまで不機嫌顔だった青の表情もいつの間にか柔らかくなっていた。
まゆも健二さんが大好きで、玄関を入って来たところから、健二さんの足元に纏わりついて離れなかった。
「杉田君はビール飲むかな?」
健二さんが青に聞くと、にこやかに頷いた。
そう言えば、青がお酒を飲んでいる姿を見たことがなかった。
お酒、飲めるんだ……。
てっきり飲めないものだと、思い込んでいた。飲んだ青がどうなるのか、ちょっと興味があったが、性質の悪い酔い方をするのはイヤだなっと、見たいような見たくないような、複雑な気持ちだった。
「先にビール飲んでてもいいかな?」
健二さんが母に聞くと、蕩けそうな表情を浮かべた母が頷き、いそいそとビールを運んで行った。
もしかして、私も青を見る時、あんな締まりのない表情をしているんだろうか。
そう思ったら、ちょっと恥ずかしくもあったが、それはそれでほんの少し嬉しくもあった。自分にもそんな風に思える人が現れたということが何よりも嬉しいことではないだろうか。
青と健二さん二人がのほほんとビールを酌み交わしている光景は、青が私の父親と飲んでいるみたいで不思議な感じがした。実際、健二さんは私の父親ではないが、私の中ではもはや父親みたいなものだと思っている。
暫く様子を窺っていたが、青はお酒を飲んでもあまり変わらないようだった。
夕飯の準備ができて、二人をダイニングに呼ぶと、賑やかな夕餉が始まった。
「杉田君は中学校の教師になるって決まったそうだよ」
健二さんが誰にともなくそう言った。
「えぇっ、もう決まったの?」
以前プラネタリウムの後に歩いた川岸で、青は漠然と中学か高校の教師になりたいと話していた。あれからいくらもたっていない。
「夏に採用試験を受けていて、ついこの間結果が出たばかりなんだ」
驚く私に青が説明した。少し恥ずかしそうに頬を染めている。いや、頬が赤いのは半分は酔いのせいかもしれない。
「そっかぁ、良かったっ。青、中学の先生になるんだぁ。杉田先生だ。すごいねっ」
「青君なら素敵な先生になるわね」
私と母に褒められ、ますます頬を赤らめる青。
私も母も健二さんもそんな青を可愛いと思っていたのは言うまでもない。
「で? 紅はどうするつもりなの?」
ウハァ、青がいる時にわざわざそんなこと聞かなくてもいいのにっ。
きっといつも曖昧に言葉を濁していたので、この機会にと思っているのだろう。
「一応、考えてはいるけど……」
いや、お母さんごめんなさい。全く考えちゃいなかった。
青の事やら、マスターのことやら、そんなことばっかり考えてて、すっかり忘れていたよぉ。ああっ、私……どうしよっ。
「無理に就職しろとは言わないけど、真剣に考えてみてもいい頃じゃない?」
母は帽子をデザインし作っている、所謂帽子職人である。
そして、それをお店に置いて貰っている。最初はただの趣味だったものが、知人に作って欲しいと頼まれるようになり、それが口コミで広がり、そのうち店頭に置かせて下さいとあらゆるお店からオファーが来るようにまでなった。
ただ、あまり大袈裟にはしたくなかった母は、アシスタントの若い人(弟子なのだろう)を一人だけ雇っている。たった二人きりでの仕事なので、置かせて貰う店は、一店だけと決めていた。
私は幼い頃から母のお手製の帽子を被っていた。それが私の自慢だった。今でも忙しい中、私が頼んだわけでもないのに定期的に作ってくれる。それらは全てどこの店で見る帽子よりもお洒落で、私の好みに合ったものだった。流石母親なだけあって私の好みを熟知している。
私にも何か母のように好きな物があればいいのに……。
「うん。よく考えてみる」
青が心配そうな視線を投げかけて来ているのが痛いほどに感じられた。すでに行き先の決まっている青。青において行かれて、今までには感じていなかった焦りを感じる。
「まあ、それはゆっくりでもいいんじゃないかな。あんまり焦って後悔しても仕方ないと思うよ。とっても大切なことだから。とにかく、食べよう。お肉が硬くなっちゃうよ」
健二さんが助け船を出してくれて、その気まずい雰囲気からは解放された。
健二さんにありがとうと視線で伝えると、目を細めて微笑んで見せた。健二さんにはこうやっていつも助けて貰っている。もう、本当にいい人なのだ。私のことも初めから実の娘のように接してくれていた。それは、全然恩着せがましくなくて、偽善的でもなくて、さらっとして自然で、すっと私の心に馴染んだ。私が家を出る時、二人に猛反対された。それこそ実の娘を一人にするなんて断固反対だというように母よりも強く反対した。そんな人だから、安心して母を任せられるし、そんな優しい人たちだから邪魔をしたくはないと思ったのだ。勿論、単純に一人暮らしをしてみたいってのもあったが。
「で? あなた達はいつからお付き合いしているの?」
「えっ。別にいいじゃん。私達のことはどうでも……」
親に馴れ初め話をすることほどイヤなものはない。
「実は今日からなんです。もう、本当数時間前」
私の発言を遮るように、嬉しそうに青がそう言った。
「あら、そうなの? 出来立てほやほやのカップルさんなのね。それで、どっちから告白したの?」
「それは、俺からです。俺はずっとずっと紅が大好きで、だけど、中々振り向いて貰えなくて。もう諦めようって思ってたんですけど、紅が好きだって言ってくれて」
そんなことまで話さなくてもいいのにぃ。
そんな想いを込めて、視線を送ったが、逆に少年のような爽やか過ぎる笑顔を返され、グーのねもでなくなってしまった。
その笑顔は反則でしょぉ。眩しいよぉっ。ズルイっ。
「紅は幸せねぇ。こんなに想って貰えて」
「お母さんだって健二さんに想って貰えてるでしょ?」
「そうよ。だから、私は世界で一番幸せ者だと思っているもの」
そう堂々と宣言して健二さんに微笑みかける母は娘の私が見ても十二分に奇麗だった。
幸せな人ってこんなにも奇麗になれるんだ……。
じゃあ、私も青といたらあんな風に奇麗になれるんだろうか。
「気をつけて帰ってね。青君もまた来てねっ」
食後、母に何やかやと引き止められたが、健二さんが気をきかせてくれて、私達は漸く帰宅を許された。
「ご馳走様でした。また、伺わせて貰います」
青はぺこりと頭を下げ、そう言った。母と健二さんに温かく見送られ、私達はマンションを出た。