第46話
リビングに入ると、母は青の隣りにちゃっかりと陣取っていた。
そこって普通……。
「普通、お母さんがこっちに座るもんなんじゃないの?」
楽しそうに話す二人を見て、若干ムッとしてそう言った。
「あら、いいじゃないの。隣りの方がゆっくりと話せるもの。紅は付き合ってるんだから会いたい時にいつでも会えるけど、お母さんはいつ会えるか解らないんだから。紅はそっちに座ってね」
にこやかにそう言って正面のソファを指さした。
憮然としながらも、仕方がないので言われたとおりに正面に座った。
「さっ、青君お茶もお菓子もどうぞっ。遠慮なくね。青君は熱いお茶大丈夫? 紅がお茶は熱々じゃないと飲まないものだから、かなり熱いから飲むとき火傷に気をつけてね」
必要以上に青に近づく母にほんの少し黒い感情が湧いてくる。
私ったらお母さんにまで嫉妬してどうすんのよ。
「青君ったら本当に奇麗な顔立ちしてるのね。その辺の雑誌に載ってるモデルさんよりも恰好良いんじゃないかしら。モテるんじゃないの?」
「いえっ、そんなことないですよ」
「嘘吐けっ。お店でいっつもキャーキャー言われてんじゃん」
謙遜する青を見て私は口を挟んだ。
「お店?」
母が首を傾げて尋ねた。
「青とはバイトが一緒なんだよ」
「ああっ、あの紅が家出した時に保護してくれたお店ね? あのお店素敵よね。アットホームな雰囲気で落ち着いてお酒が飲める感じ」
私が約1年前に家出してマスターに保護されたことは、青は知らない。
「紅、家出したことがあるんですか?」
「そうなの。1年くらい前、私と元主人の離婚問題で家の中でごたごたしている時にね、紅が家出をしたの。今あなた達がバイトしているお店のマスターが紅を保護してくれて。暫くお世話になったのよね」
青の表情が心なしか強張って見えるのは、私の気のせいだろうか。
「そうだったんですか……」
ちょっとなんか怒ってる気がする……。なんか変な風に誤解しているんじゃないだろうか。私の方を見ようとしない感じが酷く怖い。
「でも、お母さん店に来た事なんてなかったよね?」
「ふふふっ、実は紅には内緒でね。ご迷惑をおかけしたからお礼とお詫びにね伺ったの」
「へぇ、全然知らなかった」
マスター、私にそんなこと一言も言わなかった。何となくマスターらしいって言えばマスターらしいんだけど。
「お店のマスターとお話しして、とても感じの良い方よね。私が伺った時は、まだ営業前だったからお酒は飲まなかったけど、今度健二君と一緒に遊びに行こうかしら」
健二さんというのは、母の恋人で、今現在生活を共にしている人だ。母より4歳年下のおっとりとした雰囲気を持った人物だ。
二人を見ていると老夫婦を見ているように感じることが多々ある。それは、決して二人が年老いているからではない。母は今、40歳だがその年齢よりも大分若く見える。二十代後半から三十代前半と言っても納得してしまうくらいに若く見える。
離婚する前の母はそれこそ五十代の疲れたおばさんのように見えたものだが、健二さんの出現のお陰で、今は若々しく私と並べば姉妹に間違われるほどにまでなった。しかしながら、おっとりとした健二さんと母の元来より持っているぽわんとした天然な性格が二人をおっとりとした落ち着いた老夫婦に見せているのではないだろうか。
「来てもいいけど、お店いる時の青って超無表情だよ。全然笑わないんだから」
「あら、そうなの? でも、それはそれで見てみたいじゃない」
母に微笑みかけられ、青は苦笑した。
青は母が店に来たら、どんな対応を見せるのだろうか。一時的に笑顔を見せるのか、普段通りのクール男を装うのか。青がどうするのかちょっと楽しみだったりする。
「で? 今日健二さんは?」
「健二君は、お友達と釣りに出掛けたわ」
「ふ~ん、遠くまで行ったの?」
「ううん。すぐそこの釣り堀」
自転車で10分くらいの所にある釣り堀。
健二さんは釣りが大好きで、私もたまにお供をすることがある。母も勿論お供をするが、寒さに弱い母は寒くなると行きたがらなくなる。
「今日夕飯すき焼きなの。二人とも食べて行ってね。青君はすき焼き好き?」
「はい。好きです」
ニコッと微笑みながら言う青。
今日一日で一生分の笑顔を使いきるつもりなんだろうか……。
そんな私の視線を感じたのか、ひょいとこちらに目を向ける。目が合った拍子にこちらにも笑顔を向けた。この笑顔が私に向けた、私だけのものだと思うと、幸せで蕩けてしまいそうになった。
母が早速私が幼い頃のアルバムを引っ張り出して来て、青にあれこれ話し始めた。
「ほらっ、この男の子。紅はこの子が大好きでね。将来結婚するんだって毎日のように言っていたのよ」
母のそんな話を聞いて、瞬時に機嫌の悪そうな表情を浮かべる青。
もしかして、この男の子にやきもち妬いてるなんてことないよね? それ、幼稚園の時の話ですからっ。その子の名前すら覚えてないし、自分でそんなこと言った記憶もほとんど残ってないよっ。もうっ、お母さんも余計なこと教えないでよっ。
「これが、小学2年生の時の写真なんだけどね。友達の誕生日会に招かれて、この後ダンスを披露したらしいんだけど、くるくる回転し過ぎて目回して柱の角にぶつけて救急車で運ばれたのよ。その子のお母さんからお電話頂いて、もう生きた心地がしなかったのよ」
これにはうっすらとした記憶がある。頭から血を流す私を誕生会を開いている子のお母さんがオロオロしながら見ていた。傷は浅いのに血だけは滝のように流れていて、来ていた友達も怖がっていた。私が大丈夫、大丈夫って何度も言いながら微笑んでも、まるで恐ろしいお化けでも見るように、引き攣った顔でこちらを見ていた。今なら解る、血流しながら微笑んでいたら、ホラーでしょ。
その時の私には痛さは全く感じられなくて、本当に大丈夫だと思っていたのだが、病院に着いた途端今まで痛くなかったのが嘘のような激痛にみまわれ、泣き叫んでいたのを覚えている。
病院に駆けつけた真っ青な顔の母とその子のお母さんがペコペコと頭を下げ合っていたのも覚えている。
「これ、中学時代の部活の大会の時の写真。応援しに行ったら、何で来たのよって怒られたのよぉ」
大会は先ほどまで青といた公園のテニスコートで開かれていたものだから、母はお弁当を持って応援に来た。だが、家族が応援に来ている友達はおろか、他校の生徒にだっていなくて、恥かしくてやつあたりのように母を怒ってしまったのだ。
母が帰った後、私は同級生にも先輩たちにも冷やかされて恥かしい想いをして散々だったのを覚えている。
「あっ、これ。この子、紅の彼氏だった子じゃない?」
明らかにその言葉に青の表情が曇り、その男の子の写真を食い入るように見つめていた。
うわっ、なんか怖っ。
青の顔が酷く怖いっ。
なんとか他の話題に変えなければ。
「ええ、そうだったかなぁ。まあ、いいじゃん。次行こうよ、次」
「あらっ、紅ったら忘れてしまったの? お母さん知ってるのよ。よく下校帰りに公園で話してたでしょ?」
お母さんっ。お願いだからここは空気呼んでっ。青が、青の顔が笑ってるのに、笑ってないですからっ。
「ああ、うん、そうだったかもしんないね。あっ、これ高校ん時のだっ」
どうにか話をそこから逸らしたくて私は違う写真を指差した。
高校の正門の前で真新しい制服を着込んだ私と友人の写真。この友人とは3年間同じクラスだったが、今はどうしているのか音信不通に陥っていて解らない。
1年くらい前、そう、丁度店に転がり込んでいた辺りには連絡は取れていた筈なのだが、その後メールをしても返事が返って来なくなった。電話をしてもいつも留守電になる。もしかしたら、携帯が壊れて全てのデータが消えてしまったのかもしれない。
「ねぇ、お母さん。そろそろ夕飯の支度しないの? 私、手伝おっか?」
「あら、本当。もうこんな時間なのね。じゃあ、青君はここで寛いでいてね」
母がそう言うと青は、何か手伝いましょうか、と申し出たが、いいのいいの、と母は断って台所に消えていく。私もその後を追い、リビングを出た。出る際にちらりと青を見ると、青は中学時代の彼氏の写真を未だに見つめていた。