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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
45/104

第45話

 うちの実家は7階建てのマンション。新築ではないが、案外奇麗なマンションだったりする。

 私がこのマンションに住んでいたのは、ほんの数か月だった。

「じゃあ、すぐ戻って来るからここで……」

「あら、紅じゃない。こんな所で何しているの?」

 ゲッ、と思ったがもう遅い。

 今さらここを逃げ出すことも、隠れることもできそうにない。

「お母さん……」

 買い物袋をぶら下げて、私と青を不思議そうに見つめる母が立っていた。

「まゆと散歩行って来たんでしょ? あらっ、この方は?」

 青を見た母は明らかに瞬時に目を輝かせていた。

「あの……、その……」

 親に彼氏を紹介するなんて生まれて初めてで、恥かしいという想いがあった、と同時にこの人にだけは知られたくないという想いもまたあったのだ。

「こんにちは。杉田青と申します」

「こんにちは。もしかして、紅の彼氏さんなのかしら?」

 母の探るような瞳に動じることのない青。

「はい」

 青の短い返事に母の瞳は少女のようにさらに輝き、背景には花を背負っちゃっているようだ。

 ああっ、最悪。

「紅の彼氏さんなのねっ。また、そうと解ったら、こんな所で立ち話もなんだから、上がって行ってっ。ああっ、嬉しいわぁ。紅の彼氏……ふふふっ」

 母の夢。幼い時分から耳にたこが出来るくらい聞かされてきたその夢は、いつか私に彼氏が出来たら、私の幼かった頃の話を聞かせてあげるのだというもの。そういう幼き頃の話を聞かせたがるっていう心理は解らないではないのだが、私は何度もそのシミュレーションに付き合わされたことがあるから解る。アルバム一枚一枚事細かに語るつもりでいるのだ。それこそ、その写真を撮った時は天気がどうだっただの、この日はどんなことをしてただとか、この頃のお友達は誰だったとか、本当にそんな細かい事まで。莫大な量の写真と莫大な量の情報、それらをとことん話したらどれだけの時間が費やされるのか……。付き合わされる方もイヤだと思うけど、幼い頃のことを根こそぎ語られる私もまた最悪な気分なのだ。それが解っていたから、暫くは青を母に紹介しないつもりでいたのだ。

 ウキウキの母はちゃっかり青の腕に自分の腕を絡みつかせていた。買い物袋は青に持たせてるし……。

 少女のように舞い上がる母。

 離婚して今の彼氏と付き合い始めてから、まるで少女に戻ったかのように性格が変わったように私には見えた。笑顔が殆ど見られなかったあの頃に比べたら、こっちの方が断然いいのかもしれないけど、私としてはこんな母とどう接すればいいのかたまに解らなくなる。

 青はと言えば、こちらもご機嫌な様子で母の相手をしている。普段の青では考えられないほどに愛想を振りまいている。

 私一人が最後まで上がって行く事を拒んだが、二人とまゆがとっとと行ってしまうものだから、仕方なく渋々それに続いた。

「さっ、汚いところだけど上がって。青君は何飲む? 紅茶? コーヒー? お茶?」

 青君って図々しくも呼んでいる。

「じゃあ、お茶を。あっ、俺お手伝いしますよ」

「あら、いいのよ。男の子なのに気が利くのねぇ。紅はそんなこと言ったことないのよぉ」

 二人の視線が一斉に私に注がれた。まゆに水を上げていた私は、小さく溜息を吐くと立ち上がった。

「もうっ、解ったよ私が手伝いますっ。ブルーはそっちで座って待ってて」

 咄嗟に口を吐いて出たブルーという呼び名に、青は不満そうに眉毛をぴくりと上げた。

「ブルーってなあに?」

「俺のあだ名なんです」

「ああ、青君だからねぇ」

 納得した母がまだ青に何か言いたそうにしていたが、青を無理矢理リビングに連れて行き会話を中断させた。

「青って呼んでくれないんだ?」

「違うっ。つい癖で咄嗟に出ちゃっただけだよ」

 不満たらたらな青をどうやって宥めようか思案していた。

 たかが名前を呼ばないくらいでって思う人もいるかもしれない。でも、私もその気持はよく解る。名前って自分にとって凄く大切なもので、特に大切で特別だと想う人には名前で呼ばれたいと思うもの。私もいつもベニと皆に呼ばれているから、青が紅と呼んでくれることにちょっとした感動を覚えたものだ。

「じゃあ、キスしてくれたら許すよ」

 絶対わざとだっ。本当はそこまで怒っていないくせに、凄く怒っているふりをしてキスをせがむ。

 私がその瞳に弱い事を知っていて、わざと瞳を覗き込んでくる。全てにおいて確信犯。付き合う前も今も何等変わらない強引さ。

「お母さんいるから……」

 ……出来るわけないよ。

 目を逸らそうと試みるが、すでに捕まっている私は自力で脱出する事は不可能なこと。

「ここからじゃ見えないよ」

 甘い罠にもう捕らわれている私。どうしたって私は降参するしかない。だけど、その罠にかかってしまってもいいと思う私がいる。

 観念した私はそっとキスをして、その罠から逃げ出した。けれど、捕らえられた罠はそれだけでは納まらず、後ろ手を捕らえられ再び唇は熱に侵されていく。

「いただきっ」

 おどけて言う青に怒ったふりをして、拳を突き上げた。だがそれはただの照れ隠しに過ぎない。そして、この家のテリトリーで危険を冒したことへの罪悪感と高揚感。青のおどけた物言いもまた照れ隠しにすぎないことをちらっと覗いた青の顔が紅色に染められていることから察する事が出来る。

 そんな青をリビングに残し、私は台所に逃げ込んだ。

「紅は何飲む?」

「私もお茶。とびっきり熱いやつねっ」

 私はお茶は熱々なのが大好きなのだ。なので、自動販売機で売っているホットのお茶は生温くて飲めたものじゃない。缶やペットボトルは熱いのに、いざ飲んでみると温い。気の抜けた炭酸飲料を飲んでしまったようでがっくりとする。やっぱりお茶は舌が火傷するくらいじゃないと駄目でしょっ。

「勿論。紅の好みくらい言われなくても解っているわよ。何年お母さんやってると思ってるの」

 母のこういうところ、凄く身に沁みるというか、なんか感動する。ちゃんと自分という存在が理解され、愛されているのだと再認識することが出来る。一時期それすら解らなかった。父も母も私のことなんてどうでもいいんだと悩み、苦しみ、いじけた。今なら解る。父も母も私のことを沢山考えてくれていた。だから、離婚がこんなに伸びてしまったんだ。私がいなければ、それはもっと早く成立していたのだろう。逆を言えば私がいたせいで、父も母も長い間苦しみ続けて来たのだ。

「素敵な彼氏が出来たのね。良かった……」

 私の神妙な想いなど知りもしない母は、隣りで一人はしゃいでいた。

「本当はちょっと不安もあったのよ。もし、紅が連れて来た男の子が、髪の毛は金髪でツンツン立ててて、ピアスが耳にじゃらじゃら、鼻やおへそにも付けていて、ズボンをパンツが見えそうなくらいだらしなくはいているような子だったらどうしようなんてね。人を見た目で判断しちゃいけないとは思し、勿論そんな恰好をしている子でも優しい子は沢山いるんだろうけど、それでもやっぱりお母さんそういう子は何だか怖くて。だから、安心した」

 自分の娘がそんな男を彼氏にすると思っていたのだろうか?

 私だってそんなチャラ男は好きになれない。御免こうむりたい。

「紅はお茶菓子持って来てね」

 用意されたお盆には、山盛りのお菓子が……。

 こんなにテンコ盛りにしなくても良かったのでは? と思わずにはいられない。

 母はお茶を持ってとっとと台所を出て行ってしまったので、突っ込むことも出来ず、仕方なく今にも崩れ落ちそうなそれを慎重にリビングへと運んだ。


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