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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
39/104

第39話

 翌日のバイト。正直足が重かった。

 マスターと顔を合わせづらいし、ブルーにはどんな顔をしてあったらいいのか、悩みの種は尽きない。

「お疲れ様ですっ」

 店に入るといつもよりは若干小さな声で、おずおずといった感じで挨拶をした。

「何だ、ベニ。そんな元気のない声出して。風邪でも引いたのか? 馬鹿は風邪引かないなんて言うけどな」

 いつもの煙草を銜えたままの口の端だけの笑顔。いつもの声音、いつもの口調、いつもの態度。いつものマスター。

 それらを見ただけで元気が出て来てしまうくらい私にはとびきり嬉しいことだった。昨日の出来事のことなど露ほども出さない。

「ううん。超元気だよっ。私、滅多なことじゃ風邪なんて引かないもんねっ。でも、だからっていって馬鹿ってわけじゃないよっ」

「ああ、そうだったか。そりゃ失礼しました」

  マスターはにやりと笑って言ったのだった。

 いつもと変わらないこんな日常的な会話が特別なものなのだと感じた。当たり前の会話が何かをきっかけに突然なくなることがあると知ってしまった今、当り前であることが酷く貴重な物に思えた。

「んじゃ、しっかりと働けよ」

 元気よく返事をして、休憩室に向かった。

 気分良く休憩室のドアを開けると、ブルーがソファに座っていた。

 一瞬、戸惑いを感じはしたが、すぐに笑顔を作ってブルーに向けた。

「おはよっ」

 だが、すぐに視線を逸らされてしまった。

「おはよう」

 小さな声でただそれだけが聞こえた。

 ブルーが再び笑顔を見せてくれるまでの道のりは恐ろしく長いのかもしれない。本当に、笑顔を再び見せてくれる日は来るんだろうか。

 いやっ、絶対に笑顔にしてみせるんだからっ。

 鼻息も荒く私は心の中で熱い闘志を燃やすのだった。


 その夜は、久しぶりに李さんとナルが飲みに来ていた。李さんのいる所にこの人あり、とは少々言い過ぎかもしれないが、吉井さんもちゃっかり李さんの隣りをキープしていた。

 三人がかりでマスターとの事を囃し立てられ、それだけで疲労困憊に陥っていた。

「ねぇ、ベニちゃん。マスターなんかのどこが良かったの?」

 と聞いて来たのはナル。

「マスター、オヤジなのに話とか合うの?」

 と、かなり失礼なことをさらりと言ってのけたのは、李さん。

「マスターって正直二人の時はどうなの? あのマスターでも甘えたりすんのかな、想像出来ないな」

 興味津々で聞いてくるのは、吉井さん。

 質問自体は三者三様だが、共通しているのは、マスターに対して少々酷めな事を言っているってことだろう。

 それにしても、恐るべし常連客のネットワーク力。私もマスターも自ら口外したわけではない。

 富ちゃんと昨夜訪れていた客たちによって瞬く間に広まってしまったと考えられる。想像していたよりも結構しんどいことが今更ながら解った。

 厨房で何やら作っているマスターに助けを求める視線を投げ掛けるも、マスターはにやりと笑ったきり取り合ってはくれなかった。

 そりゃそうだ。私がそうして欲しいってマスターにお願いしたんだもん。これ以上、マスターに迷惑掛けるわけにはいかないよね。

 なんとかのらりくらりと交わしながら、三人の相手を務めた。

「ねぇねぇ、もうマスターとエッチしたの? そりゃあ、してるよね。マスター、スケベそうだもん」

 ナルがそう言うと、隣りで聞いていた李さんと吉井さんも笑い、凄まじい爆笑の渦が巻き起こった。

 三人ともお酒が入って、声が大きいものだから、堪ったもんじゃない。その大きな爆笑の渦に困り果てながら、ブルーは今のナルの言った発言を聞いていただろうかと気になった。

 ほぼ常にホールに立っているブルー。お酒を作りに来る時だけカウンターに入って来る。

 私がそこにいてもまるで視線を合わせようとはしない。

 避けるように露骨にこちらを見ないブルーにシクシクと胸が痛んだ。

 今のブルーがどんな気持ちでいるのか、考えるだけで苦しみが増す。恐らくその何倍も何十倍もブルーは苦しい想いを抱えているのに違いないのだ。

「ねっ、結局のところどうなの?」

「さぁ、どうかなぁ」

 ここの常連客は案外下ネタが好きだったりする。富ちゃんの昨夜のプレゼントも、あのようなものだったし、私にはちょっとハードルが高すぎて、適切な対応が出来ないのが悔しいところだ。

「えぇ、いいじゃん。ケチんないで教えてよ」

「おいっ、子ザル。そんぐらいにしとけよ。さもなきゃ入店拒否にすんぞ」

 マスターがナルに一括すると、ナルは不満そうに唇を尖らせた。

「ベニ。ブルーと休憩入ってこい。こっちは俺に任せとけよ」

 耳元でカウンターの三人には聞こえないように言った。

「マスター。ごめんね、私のせいで迷惑掛けて」

「あのな、俺はお前とたとえ嘘でも嬉しいんだぞ。それに、俺は完全にフラれたとは思ってないからな。あんまり俺の前で油断してると……」

 マスターはその先は言わず、にやりと笑っただけだった。

「ほらっ、休憩行って来い」

 体を回転させられ、背中をぽんっと押された。

 マスターはあの続きをなんと言おうとしたんだろう。意味ありげな発言に心がざわめいた。

「ブルー、休憩だって」

 ブルーに近づき、そう伝えると、先に休憩室に入った。

 ソファに座ってぽへっとしていたら、ブルーが両手にグラスを持って入って来た。無言でグラスを差し出すブルー。

「ありがとう」

 と言って、受け取った私。私の隣りに静かに腰を掛けるブルー。

 何を言っていいのかも解らず、正面の白い壁をひたすら凝視していた。

「良かったね。好きな人と初めてが出来て。あの時、間違って俺とやらなくて良かったってホッとしてるだろ?」

 私は考えるよりも先に手が出ていた。

 右手の掌がジンジンと疼いて痛い。

「言ったよね? 私はあの時、ブルーとやったとしても後悔はしないって。あれ、今でも嘘じゃないよ。どうしてそんなこと言うの?」

 ブルーは顔を背け、赤くはれた左の頬をこちらに向けていた。頑なにこちらを向こうとはしない。

「そうやってずっと私を見ないつもり? そうやってずっと私を避け続けるの? ねぇ、ブルー。どうしたら前みたいに笑ってくれる? 私、どうしたらいい?」

 自分の無力さに、涙が出そうになる。

「紅はマスターのことだけ考えればいい。マスターが悲しむだろ?」

 こんな時、自分が付いている嘘が酷く鬱陶しいものに感じてしまう。

 自分がついた嘘に行く手を阻まれている。

 いっそ全て明かしてしまおうかとさえ思ってしまう。

 歯痒くて仕方ない。

「ブルーは?」

「俺のことは放っておいていいって言ったよね?」

「ごめん。それ無理みたい。私には出来ないよ。ブルーを放っておくなんて私には出来ない。ごめんね。それは、ブルーを苦しませることになるんでしょ?」

 どう頑張っても、どう嘘をついても、私がブルーを放っておくなんて出来ない。気にしないなんてこと有り得ない。

「勝手にすれば」

 投げやりな言葉。

 傷つかないわけじゃないけど、それも十分覚悟していたこと。

「勝手にするさっ」

 改めて宣言する。どうしたってブルーの笑顔が見たいから。

 私と離れた方が笑顔になるんじゃないかとも思った。でも、お店の中のブルーは基本的にクール男なのだ。自惚れかも知れないが、ブルーが私以外の誰かに微笑みかける姿を見たことがない。

 お父さんとのやりとりを見る限り、家族の中が良いとは言えないようだ。

 大学でのブルーが一体どんな感じなのかは微塵も想像出来ない。考えてみれば、ブルーが大学の話をしたのを今まで聞いた事がない。そう思い至ると、大学生のブルーを見てみたくてたまらなくなる。


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