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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
36/104

第36話

「富、てめぇ。ベニに余計な物渡してんじゃねぇぞっ」

 マスターが富ちゃんに怒鳴りつけても、富ちゃんは全く動じることなど無く、

「あっ、そっか。マスターにはお気に入りがあるから余計なお世話だったんだ。でも、ほら、使ってみたらこっちの方がいいかもしれないじゃない?」

 店のみんながこちらに聞き耳を立てているのが恐ろしいほどに解る。この会話をブルーもまた聞いているのかと思ったら、怖くてそちらを窺うことは出来なかった。

 いや、きっと表情なんか全くなくて、こっちの話なんか無関心で違う所を見ているのではないか。本心はどうであるのかは見当が付かないが。止めるって、諦めるって思って、気持ちってすぐに切り替えられるものなのかな。あんなに笑顔を見せてくれていたのに、一日でその笑顔が消えちゃうことってあるのかな。

 富ちゃんの暴走はその後も続いた。

 それどころか酔い始めた富ちゃんの暴走は激しさを増し、もうキスはしたのかだとか、エッチはしたのかだとか、どんどんエスカレートしていくのだった。

 マスターもそんな富ちゃんに呆れて相手をすることを放棄し、私は一人、富ちゃんの相手をする羽目になった。

「まだ彼氏は出張から帰ってないの?」

「あっ、いっけない。今夜帰って来るんだった。もう、帰らなきゃ。マスター、おあいそお願いっ」

 やっと解放されたと息を吐き、店内を見回すと、ばちりとブルーと目が合ってしまった。

 予測していなかった為、焦ってあたふたしてしまった。ブルーの方でも目を一瞬見開いたがすぐにふいっと冷たく逸らされてしまった。

 心がすぅーっと凍って行くように感じた。

 自分の表情も強張って上手く表情が作れない。今、自分はどんな表情をしているんだろう。

「じゃあ、ベニちゃん。またねっ。ベニちゃん?」

「えっ? あ、うん。またね。気をつけて帰ってねっ」

 不審そうに覗き込んで来た富ちゃんに何とか表情を崩してそう言った。

 富ちゃんが帰ってからの店内は、異様なほど静かに感じ、静かすぎる為に、今は聞きたくはないブルーの声が聞こえて来てしまう。

 早くバイトが終わってくれればいいと、何度も願わずにはいられなかった。


「ブルー、ベニ。上がっていいぞ」

 マスターの声が神の声のように聞こえた。

 だが、これからブルーと連れ立って帰らなきゃならないと思うと気が重かった。

「ベニ。ちょっと話があるんだ」

 マスターに呼び止められた。

「うん。今?」

「ああ、出来ればな」

 ブルーの態度に気を取られていたせいで、マスターに返事をしていなかった事を忘れていた。店内の客はブルーが上がる時間をめどに、波が引くように帰っていて、今は誰もいなかった。

「じゃあ、俺先に帰らせて貰っていいですか?」

 私の背後にいつのまに立っていたブルーが私を通り越して、マスターを見据えて言った。マスターとブルーの間に立っている私がまるで存在していないかのようなその態度に、強烈な寂しさと憤りを感じた。

「ああ、悪いな。そうしてくれるか。お疲れさん」

「お疲れ様でした」

 ぺこりとマスターに頭を下げて、ブルーは出て行く。

「お疲れ」

 私の小さな声に、一瞬反応を示したような気がした。ほんの少しだけ、歩く速度が遅くなったような気がしたが、すぐに普通の速度に戻って店を出て行った。

 残ったのは、マスターと私の二人だけだった。

「また、二人だけになっちゃったね」

「そうだな」

 沈黙が二人を包み込んだ。

「富のことは気にしなくていいぞ。お節介でどうしようもないな、あいつは」

 苦笑を浮かべ、マスターはそんな事を言う。

 そのことをマスターは気にしていたのだろう。

「富ちゃんは、いい人だよ。あのプレゼントには正直困ったけど……」

 そう、あのプレゼントはどうしたらいいんだろう。かなり、困る。

「あのね、マスター。私ね、マスターのこと大好きだよ。だけど、だけどね、マスター以外に気になる人がいる。自分でもその人が好きなのかそうでないのかよく解らなくて、でも、この気持ちが何なのか解らないうちはどうにも身動きが出来ない。この気持ちが何なのかちゃんと知りたいと思った。逃げたくない。この気持ちを見なかったことにして、マスターと付き合うことは出来ない」

 マスターとは付き合えない。それが、私の出した答え。

 あんなに好きだったんだから付き合っちゃえばいいんだ。そうも思った。でも、それじゃマスターに申し訳ない。

「まさか掻っ攫われるとは思ってなかったな。……本当はバイトを入れる予定はなかったんだけどな、直談判してきたんだよ。お前が出勤前に来て、『ここでバイトさせて下さい』って突然履歴書付き付けられたんだ」

 それがブルーの話だってことくらい解っている。

「あまりに熱心だったんで、無下に断れなくてな、面接したんだ。あの熱心さに圧されて採用したんだが、今思えばベニに近づく為だったんだな。この歳になるとな、あれほどの熱心さをいくら心のうちで持っていても、見せられなくなるんだよ。だから、今は手を引く。だが、ベニを嫌いになったわけじゃない。ベニが泣くようなことがあればすぐに奪うからな」

 ブルーがこの店で、私を見て好きになってくれたということは聞いて知っていた。でも、バイトになる為に直談判していたなんてことは初耳だった。

「奪うって別に私はあいつのもんじゃないし」

「まあ、そうだけどな」

 マスターは煙草に火を付けると、ふっと煙を吹き出した。

「マスター、ありがとう。マスターの気持ちすっごく嬉しかった。本当だよ」

「ああ、俺もタイミングが悪いよな。あとひと月早かった答えはきっと違ってたのにな。そうだろ?」

「うん。ひと月前の私だったら、即答してたと思う」

 ひと月前なら確実にマスターの彼女になっていた。迷いなんて一つもなく。

「ベニ。みんな俺達が付き合いだしたと思ってるぞ。あいつもそう思ってるんだろ?」

「マスターに迷惑がかからないなら、暫くそういうことにしておいてくれる?」

「は?」

「知りたいんだ。ちゃんとした自分の気持ち。口説かれたら流されちゃいそうだし、それじゃいつまでたってもちゃんとした気持ちは解らないと思うから」

 流されてこんな変な気持ちになっていたのか、それともそうではないのか。それを冷静に見極めたい。私がマスターと付き合っていないってことが解ったら、きっと今までと同じことになってしまうと思うから。

「大丈夫なのか? それで」

 私は意志を固めた瞳をマスターに向け、大きく頷いた。

「困ったことがあったら相談しろよ」

「でも……」

 マスターに他の男の子のことを相談するほど、無神経ではない。

「いいんだよ。俺はお前の兄がわりでもあるんだからな。遠慮はするな。遅くなるからもう帰れ。送ってやれないけど、平気か?」

「うん。走って帰るから平気」

 マスターはいつものように笑ってくれていた。大人のマスターは弱音を私には見せたりしない。だけど、ほんの少し陰りのある笑顔が無理をしていることを物語っていた。マスターの大人の優しさが胸に沁みた。だから、私はいつもと変わらぬ調子で手を上げると店を出た。

 外に出てから、振り返ってしまって行くドアを見つめた。この扉の向こうにどんな表情のマスターがいるのか。今、ドアを開けたらきっとまた温かい態度で迎えてくれる。例え赤い目をしていても。

 私はぎゅっと目を瞑り、再び目を開けると胸を張って歩き始めた。


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