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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
35/104

第35話

 好きって何なのか、恋って何なのか。

 こんな初歩的なところで躓いてしまうなんて思いもしなかった。5年前の私も10年前の私も当たり前に好きな人がいて、今現在の私が、そんな当たり前のことも解らなくなってしまうなんて、想像出来ただろうか。

 ただ一人、大迷路に放り出された様な気分だった。相談する人も、助けてくれる人もいない。四方は壁に囲まれ、どっちに行けばいいのかいいのか解らず、天を仰いで立ち往生している。助けてくれるのは、自分自身だけ。でも、どんな大きく複雑な迷路でも、ゴールは必ずある。どんなに時間をかけても決して諦めなければ、必ずゴールには辿り着ける。ゴールは決してなくなったりしない。どこかに必ずある。そう、必ず。

 ちょっと私は焦り過ぎているのかもしれない。もっとちゃんと解るようになるまで、じっくりと考えるべきだ。その気持を、きちんとマスターに伝えよう。

 中途半端な気持ちのまま付き合ったりしたら、マスターを傷つけることになるやもしれない。そうだ、そうしよう。

 テーブル(小さな丸テーブル。いつもここで勉強している)に片肘を付き、手の平に頬を預ける。開いた手でシャープペンシルをくるりくるりと回しながら、全く進むことのないTOEICの過去問題集を睨みつけて考えごとに耽っていた。

 取り敢えずの方向性のようなものを見つけたことに気が抜けた私は、そのまま後ろに倒れ込んだ。

「ふぁ~、眠っ」

 あまり普段から熟考することがないものだから、キャパシティを超えてしまったようだ。大の字に横になったまま昼寝と決め込んだ。

 ああ、前にもこんな事あったな。つい居眠りして、あの時はバイトの時間に起きれなくて、ブルーが迎えに来た。あの頃はまだ、ブルーが苦手で、いけすかない奴だと思っていたんだった。そう、前日にブルーにキスをされて、眠れなかったのが原因だった。

 今では、その時のことを思い出してクスッと微笑んでしまいそうな想い出を思い起こしながら、意識を手放した。


「ブルー」

 正面から歩いてくるブルーに呼び掛けたが、ブルーは私のことなどまるで見えていないかのように、私の横を素通りして行った。

 通り過ぎて行ってしまったブルーに驚き、振り返るとブルーの視線の先にはもう一人の私がいた。

 ブルーの視線の先にいるもう一人の私は、私の存在に気付くと意地の悪い笑みを浮かべた。

 ニセモノ……。

 私じゃない私に、ブルーは近付き、抱きしめた。ニセモノはブルーの首に腕を回し、背伸びをしてキスをした。ブルーの方に頭を乗せ、こちらに視線を投げ掛けると、にやりと笑って見せた。

「それはニセモノだよ、ブルーっ。私はここにいるよ。こっちだよ、ブルー!」

 必死に呼びかけるのに、ブルーに私の声は届かない。

『無駄よ。あんたの声はブルーには届かないの。彼はもう私の物になったのよ。ニセモノさんっ』

 ニセモノが高笑いをして、ブルーをぎゅっと抱き締める。

 ブルーの首筋にキスをして、挑戦的な視線をこちらに投げかけてくる。

「ブルーっ」

「ブルーっっ」

「ブルーっっっ!!!」


 がばりと体を起こし、肩で息をした。

 ……夢。

 喉が痛いのは実際にブルーの名を呼んでいたからなのかもしれない。

「あんまり人の名前を連呼しないでくれるかな」

 ビクッと飛び上がって、振り向けば、そこにはブルーが立っていた。

 無表情な仮面をつけたブルーがそこに。

「ブルー」

「マスターが様子見て来いって。外で待ってるから、早く用意して」

 表情という表情の感じられない店でお馴染みのクール男なブルーだった。いや、店の中よりもさらに表情が硬いかもしれない。

 私の前では、もう笑顔も見せないということなんだろう。

 唇を噛み締めて、扉の外に消えて行こうとするブルーの背中を見送る。

 苦しい胸を懸命に隠して、支度を整え、外に出た。

 ブルーはアパートの下の道路で待っていた。

 私がドアを開けてもこちらを見ることはなく、断固として背中を見せるつもりのようだ。階段をおり、ブルーに近づくと、私が声をかける前にブルーは一人歩き始めた。

 ちらりともこちらを振り向こうとはしない。

 昨日までは、隣を歩いていれば常に、イヤというほどブルーの視線を感じていたのに。

 今は、逆に私がブルーを見ていた。その私の視線にブルーは当然気付いているのだろう。

 沈黙が重苦しく二人の間に漂い、私とブルーの間に高い壁があるように感じられた。ブルーといて沈黙を苦しいと感じたのは初めてだ。

 店に着くと今度はマスターとも顔を合わせなければならない。

 昨日まるで逃げるように帰ったことを思い出し、気まずさを感じるが、いつも通りの調子でマスターに声をかけた。

「ごめん、マスター。また、やっちゃった。肩揉みしてあげるから、減給にだけはしないでっ。お願いっ」

 顔の前で両手を合わせてマスターを見た。

「全く仕方ねぇな。肩揉み10分な」

「うぇぇ? 肩揉み10分って長すぎない?」

「イヤなら俺は別に減給でもいいんだけどな。俺はどっちでもいいぞ。どうするよ?」

 普段通りのマスターの対応に有難いと思うと同時に嬉しかった。色恋沙汰で店の中の空気がギクシャクするのは、出来れば避けたいところだ。

 ブルーのあの調子は、一見普段通りなので、私とブルー以外で私達の異変に気付く人はいる筈もなかった。

「じゃあ、肩揉みするよ。マスターはオッサンだから、体にガタが来てるみたいだから、まだまだ若いこの私が揉みほぐしてあげようじゃないのさ」

「聞きづてならない言葉が中にあるようだったが、まあ、そのうち頼むわ」

 本当に表面上は何も変わらない。三人の間に何かがあったとはとても思えない。それぞれの心の中はそうではないとしても。それぞれに抱えている思いや状況は昨日とは明らかに違うとしても。

 10時を過ぎた頃、富ちゃんが現れた。

 うわっ、忘れてた。富ちゃんは私とマスターが付き合うことになったって思ってるんだよ。お祝いしに行くって言ってたんだよぉ。

「ベニちゃんっ! マスター! 良かったねっ。おめでとう。それもこれも私のお陰なんじゃない? はい、これっ。お祝いに二人にプレゼントっ」

 入ってくるなり大声で祝福の言葉を述べ、お祝いだと何かの包みを手渡された。

 ちらりとマスターを見ると、一瞬困った顔をしたが、耳元で、

「取り敢えずそういうことにしておけ。面倒だから」

 と、呟いた。

「えっと、ありがとう、富ちゃん」

 マスターに頷いて見せると、富ちゃんに微笑むとそう言った。どうにもこうにもわざとらしさがどうにも否めない。

 私は演技ってもんが異様に下手だと気付いた二十歳の冬……。

 だが、興奮気味の富ちゃんには、私の猿芝居に気付く暇はないようだった。

「ねっ、開けて開けてっ」

 それは結構小さめな薄くて四角い箱だったんだけど、包みを開けたら、赤面せずにはいられない代物だった。

 いくら未経験の私だって存在くらいは知っているそれは、「コ」のつくもの。

「ほら、これから必要になるでしょ? まあ、もしかしたらもう初めてはやってるかもしれないけど。とにか、それは私のお勧めなの。薄いんだけど強度は抜群でね、破れないから安心っ。ね?」

 ね? と言われましても、これを一体私はどうすればいいのですか。

 声の大きな富ちゃん。

 店中に私が一体何を受け取ったかは、暗黙の了解のような雰囲気が立ちこめていて、その場にいた全員が私とマスターが付き合っているのだと瞬時に認識したようだった。


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