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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
34/104

第34話

 普段なら空を見上げて、大好きな星を見ながらゆっくり歩いて行く道を、今日は下を向いてひたすら走っていた。

 と、突然人の靴が視界に乱入してきた。走っていた為に急には止まれず、ぶつかるっと思った瞬間には、既に誰かの腕の中に納まっていた。 

 不審者だったらどうしようかと緊張が走ったが、すぐに肩の力を抜いた。

 この匂いと腕の大きさ、腕の温もりが誰のものか私は知っていた。そう気づいた時にはきつく抱き締められていた。

「ブルー」

 その声には、何の表情も感じられなかっただろう。呼んだというよりも、口から零れ落ちたと言った方がしっくりと来る。

 あんなにイヤだと、放せと思っていたブルーの腕が、いつの間にか安心できる場所になっていたことに気付かされる。

「マスターと何かあった? ……マスターに好きだって言われた?」

 その言葉にびくっと体が震えた。

 どういうこと? ブルーは知っていたということなの?

 問い質したいのに、ブルーの顔を見たいのに、怖くて口を開くことも、顔を上げることも出来ない。

 ブルーは、今、どんな顔をしてるの?

「返事したの? 自分も好きだって伝えた?」

 何の感情も伝わって来ない淡々と語られる冷たい声に、私はごくりと息を飲んだ。

「紅。おめでとう。良かったね。俺はもう、付き纏ったりしないから、安心してくれていいから」

 それってどういうこと? もう私のことは諦めたってこと? もう止めるってこと?

 堪らず顔を上げた。ブルーの真意を確かめる為、私はブルーがどんな表情でそんな発言をしているのか知りたかった。

 本気なのか……、嘘なのか……。

 だが、ブルーの表情を窺い知る前に、唇を塞がれていた。

 そのキスで少なからず解ったこと。

 それは、ブルーが私にサヨナラを告げているということ。恐らくこれは最後のキスになるだろうということ。

 ほんの軽いキスだった。それでも、ブルーが私と離れようとする意志だけは鮮明に伝わって来た。

「バイバイ」

 ブルーの一方的な別れの言葉の後、ブルーの身に纏っている空気が遠ざかって行くのを感じた。

 瞳を開き、顔を上げ見えて来たのは、徐々に遠ざかって行くブルーの大きな背中だった。

 頬に手をあてると、そこは濡れていた。

 これはブルーの涙? それとも私の?

「ブルー?」

 何故私はブルーの名を呼ぶのか?

「ブルーっ」

 解らないのに、

「ブルー……」

 呼ばずにはいられなかった。

 ブルーは歩みを止めることも、振り返ることもなかった。ただ、私とは正反対の方向へ、私を拒否する様に歩き去っていく。そして、アパートの部屋に姿を消した。こちらを一度も見ることなく。

 ここからでもブルーのアパートの光を確認することが出来る。その光さえも私を拒絶しているかのようだった。

 ブルーがいなくなったことに、自分が想像以上に傷付いていることに気付いていた。

 ブルーが私の元から去ろうとしていることが辛かった。

 泣いているのは……私だ。

 よくよく考えれば、大好きなマスターが私を好きになってくれて、私達は両想いで、ブルーは私から手を引いたのだから、何の問題も残っていないのに。

 私は何の戸惑いもなく、マスターの胸に飛び込めばいいだけなのに。

 それなのに何故、こんなにも心がざわつくのか。こんなにも何故、痛いのか。何故、苦しいのか。何故、素直に喜べないのか。

 ぼうっとブルーの部屋の明かりを眺めていたら、バッグの中で携帯が鳴った。

「もしもし」

『もしもし、ベニちゃん? 富ですけど、今大丈夫だった?』

 ほんの何十分か前に聞いたばかりの富ちゃんの声が、とても遠い昔に聞いたもののように感じられた。

「うん。大丈夫」

 私は、自分が傷付いていることを悟られたくはなく、努めていつも通りの声を出した。

 富ちゃんの声を聞きながら、私は漸く歩き出すことが出来た。もし、富ちゃんの電話がなかったら、私は一晩中あそこに立ち続けていたかもしれない。

『私、凄くお節介なことしちゃったから、気になっちゃって。私はベニちゃんはマスターのことが好きなんだと思っていたから、両想いなのにってずっと歯痒かったんだ。でも、もしかしたらちょっと違うのかな? もしかしたら、ベニちゃんはブルー君が……』

「違うよ。私が好きなのはマスターだよ。だから、富ちゃんが気にすることないから」

 嘘は吐いていない。そう、嘘は吐いていない筈なのに、胸に違和感というしこりがはびこっているようだった。

『そっかぁ、じゃあマスターと付き合うんだねっ。良かったぁ。じゃあ、明日お祝いに行くねっ。突然電話しちゃってごめん。明日早いからもう切るね、おやすみぃ』

「えっ、ちょっと……」

 恐らく私の声は、富ちゃんには届かなかっただろう。

 ツーツーという電子音に、意味もなく話しかけたようなものだ。

 マスターと付き合う……。

 それが、自然だよね? だって、断る理由ないもんねっ。マスターが好きなんだしっ。何を迷うことがある? 答えは最初から決まってるじゃない。


 アパートに着くと、バッグを放り投げて、風呂場に直行した。

 頭からシャワーを浴びて、硬く目を閉じた。自分の迷いを全て洗い流したかった。

 よしっ、明日、マスターに返事をしよう。

 マスターが好きだということに嘘がない以上、何も迷う必要はないのだ。

 シャワーを浴び終え、そうそうに布団に入っても、なかなか寝付く事は出来なかった。

 瞳を閉じればブルーの抑揚のない声と冷たいキス、力を込めた手の強さ、振り返ることのない背中。

 想い出したくないのに、浮かんでくるのはブルーのことばかりだった。

 何度も寝返りを打ってみたり、邪念を払おうと首を振ってみたり、それでもそれらは私の頭から離れてはくれないようだった。


 翌日、私が起きたのは昼過ぎだった。

 出る筈の講義には到底間に合いそうにもなかった。

 諦めてTOEICの勉強をしてみても、気晴らしにパラパラ漫画の作成をしてみても、大好きな作家の小説を読んでみても、何一つ頭に入って来なかった。

 何かをすることを放棄して、バイトの時間までぼんやりと何をするでもなく過ごした。今の私には、ぼんやりと過ごすことしか出来なかったのだ。何をやっても頭の中はブルーのことばかりで、結局私は何かをすることを諦めたのだ。

 昨夜、マスターと付き合うと決めた筈なのに、ぐぢぐぢと考え、しかしいくら考えた所で、納得のいく答えは得られなかった。それもその筈、自分の気持ちが定まらないのだから、その先の結論が定まるわけがない。結論を得る為には自分の気持ちを理解するべきなのだ。だが私はその肝心の自分の気持ちを理解出来ていない。

 ほんの少し前だったらこんな悩みは皆無で、真っ直ぐで迷うことすらなく、マスターの手を取ったのに。

 私のこの心の痛みは、ブルーに恋をしているからなのだろうか。

 ブルーとプラネタリウムに行った日に芽生えたと感じた恋の赤ちゃんは、今、どうなったのか。

 萎んだってことはない。現状キープしているわけでもなさそうだ。少しずつ大きくはなっていることを、もういい加減認めてあげてもいいんじゃないだろうか。

 じゃあ、今、その赤ちゃんはどのくらいまで大きくなったんだろう。幼児か、小学生か、中学生か、高校生か、それとももう立派な大人?

 そもそもどのくらい大きくなったら、恋と認められるようになるんだろう。

 今まで、当り前にときめいて、当り前に人を好きになって、当り前に喜んで、当り前に傷ついて来た。当たり前すぎて考えたこともなかった。

 私は、恋に不慣れな奥手な女の子じゃない。大した恋愛経験があったわけじゃないが、それなりに恋だってして来た。

 そんな私が根本から解らなくなってしまった。

 好きって何なのか、恋って何なのか。


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