第34話
普段なら空を見上げて、大好きな星を見ながらゆっくり歩いて行く道を、今日は下を向いてひたすら走っていた。
と、突然人の靴が視界に乱入してきた。走っていた為に急には止まれず、ぶつかるっと思った瞬間には、既に誰かの腕の中に納まっていた。
不審者だったらどうしようかと緊張が走ったが、すぐに肩の力を抜いた。
この匂いと腕の大きさ、腕の温もりが誰のものか私は知っていた。そう気づいた時にはきつく抱き締められていた。
「ブルー」
その声には、何の表情も感じられなかっただろう。呼んだというよりも、口から零れ落ちたと言った方がしっくりと来る。
あんなにイヤだと、放せと思っていたブルーの腕が、いつの間にか安心できる場所になっていたことに気付かされる。
「マスターと何かあった? ……マスターに好きだって言われた?」
その言葉にびくっと体が震えた。
どういうこと? ブルーは知っていたということなの?
問い質したいのに、ブルーの顔を見たいのに、怖くて口を開くことも、顔を上げることも出来ない。
ブルーは、今、どんな顔をしてるの?
「返事したの? 自分も好きだって伝えた?」
何の感情も伝わって来ない淡々と語られる冷たい声に、私はごくりと息を飲んだ。
「紅。おめでとう。良かったね。俺はもう、付き纏ったりしないから、安心してくれていいから」
それってどういうこと? もう私のことは諦めたってこと? もう止めるってこと?
堪らず顔を上げた。ブルーの真意を確かめる為、私はブルーがどんな表情でそんな発言をしているのか知りたかった。
本気なのか……、嘘なのか……。
だが、ブルーの表情を窺い知る前に、唇を塞がれていた。
そのキスで少なからず解ったこと。
それは、ブルーが私にサヨナラを告げているということ。恐らくこれは最後のキスになるだろうということ。
ほんの軽いキスだった。それでも、ブルーが私と離れようとする意志だけは鮮明に伝わって来た。
「バイバイ」
ブルーの一方的な別れの言葉の後、ブルーの身に纏っている空気が遠ざかって行くのを感じた。
瞳を開き、顔を上げ見えて来たのは、徐々に遠ざかって行くブルーの大きな背中だった。
頬に手をあてると、そこは濡れていた。
これはブルーの涙? それとも私の?
「ブルー?」
何故私はブルーの名を呼ぶのか?
「ブルーっ」
解らないのに、
「ブルー……」
呼ばずにはいられなかった。
ブルーは歩みを止めることも、振り返ることもなかった。ただ、私とは正反対の方向へ、私を拒否する様に歩き去っていく。そして、アパートの部屋に姿を消した。こちらを一度も見ることなく。
ここからでもブルーのアパートの光を確認することが出来る。その光さえも私を拒絶しているかのようだった。
ブルーがいなくなったことに、自分が想像以上に傷付いていることに気付いていた。
ブルーが私の元から去ろうとしていることが辛かった。
泣いているのは……私だ。
よくよく考えれば、大好きなマスターが私を好きになってくれて、私達は両想いで、ブルーは私から手を引いたのだから、何の問題も残っていないのに。
私は何の戸惑いもなく、マスターの胸に飛び込めばいいだけなのに。
それなのに何故、こんなにも心がざわつくのか。こんなにも何故、痛いのか。何故、苦しいのか。何故、素直に喜べないのか。
ぼうっとブルーの部屋の明かりを眺めていたら、バッグの中で携帯が鳴った。
「もしもし」
『もしもし、ベニちゃん? 富ですけど、今大丈夫だった?』
ほんの何十分か前に聞いたばかりの富ちゃんの声が、とても遠い昔に聞いたもののように感じられた。
「うん。大丈夫」
私は、自分が傷付いていることを悟られたくはなく、努めていつも通りの声を出した。
富ちゃんの声を聞きながら、私は漸く歩き出すことが出来た。もし、富ちゃんの電話がなかったら、私は一晩中あそこに立ち続けていたかもしれない。
『私、凄くお節介なことしちゃったから、気になっちゃって。私はベニちゃんはマスターのことが好きなんだと思っていたから、両想いなのにってずっと歯痒かったんだ。でも、もしかしたらちょっと違うのかな? もしかしたら、ベニちゃんはブルー君が……』
「違うよ。私が好きなのはマスターだよ。だから、富ちゃんが気にすることないから」
嘘は吐いていない。そう、嘘は吐いていない筈なのに、胸に違和感というしこりがはびこっているようだった。
『そっかぁ、じゃあマスターと付き合うんだねっ。良かったぁ。じゃあ、明日お祝いに行くねっ。突然電話しちゃってごめん。明日早いからもう切るね、おやすみぃ』
「えっ、ちょっと……」
恐らく私の声は、富ちゃんには届かなかっただろう。
ツーツーという電子音に、意味もなく話しかけたようなものだ。
マスターと付き合う……。
それが、自然だよね? だって、断る理由ないもんねっ。マスターが好きなんだしっ。何を迷うことがある? 答えは最初から決まってるじゃない。
アパートに着くと、バッグを放り投げて、風呂場に直行した。
頭からシャワーを浴びて、硬く目を閉じた。自分の迷いを全て洗い流したかった。
よしっ、明日、マスターに返事をしよう。
マスターが好きだということに嘘がない以上、何も迷う必要はないのだ。
シャワーを浴び終え、そうそうに布団に入っても、なかなか寝付く事は出来なかった。
瞳を閉じればブルーの抑揚のない声と冷たいキス、力を込めた手の強さ、振り返ることのない背中。
想い出したくないのに、浮かんでくるのはブルーのことばかりだった。
何度も寝返りを打ってみたり、邪念を払おうと首を振ってみたり、それでもそれらは私の頭から離れてはくれないようだった。
翌日、私が起きたのは昼過ぎだった。
出る筈の講義には到底間に合いそうにもなかった。
諦めてTOEICの勉強をしてみても、気晴らしにパラパラ漫画の作成をしてみても、大好きな作家の小説を読んでみても、何一つ頭に入って来なかった。
何かをすることを放棄して、バイトの時間までぼんやりと何をするでもなく過ごした。今の私には、ぼんやりと過ごすことしか出来なかったのだ。何をやっても頭の中はブルーのことばかりで、結局私は何かをすることを諦めたのだ。
昨夜、マスターと付き合うと決めた筈なのに、ぐぢぐぢと考え、しかしいくら考えた所で、納得のいく答えは得られなかった。それもその筈、自分の気持ちが定まらないのだから、その先の結論が定まるわけがない。結論を得る為には自分の気持ちを理解するべきなのだ。だが私はその肝心の自分の気持ちを理解出来ていない。
ほんの少し前だったらこんな悩みは皆無で、真っ直ぐで迷うことすらなく、マスターの手を取ったのに。
私のこの心の痛みは、ブルーに恋をしているからなのだろうか。
ブルーとプラネタリウムに行った日に芽生えたと感じた恋の赤ちゃんは、今、どうなったのか。
萎んだってことはない。現状キープしているわけでもなさそうだ。少しずつ大きくはなっていることを、もういい加減認めてあげてもいいんじゃないだろうか。
じゃあ、今、その赤ちゃんはどのくらいまで大きくなったんだろう。幼児か、小学生か、中学生か、高校生か、それとももう立派な大人?
そもそもどのくらい大きくなったら、恋と認められるようになるんだろう。
今まで、当り前にときめいて、当り前に人を好きになって、当り前に喜んで、当り前に傷ついて来た。当たり前すぎて考えたこともなかった。
私は、恋に不慣れな奥手な女の子じゃない。大した恋愛経験があったわけじゃないが、それなりに恋だってして来た。
そんな私が根本から解らなくなってしまった。
好きって何なのか、恋って何なのか。