第33話
「ベニちゃん、マスターはね、あなたのことが好きなのよっ」
私は今、一体何を聞かされたのか、頭を整理することが出来なかった。
そりゃ、まさかとは思ったよ。だって、二人の会話の流れからして、そんな方向性を感じたから。だけど、まさかだよね?
私がマスターへ視線を向けると、明らかに顔を赤らめて、バツの悪そうな表情をしたマスターがいた。
「ええっ」
あるわけがないと思っていた。ブルーじゃないけど、マスターが私を好きになる確率は限りなく0に近いと思っていた。私の100%片想いだと確信していた。
「嘘? あっ、解った。二人して私をどっきりに嵌めようとしてるんでしょ? もう、その手には乗らないんだから。マスターが私なんかを好きになるわけないもんねっ。ねぇ、そうなんでしょ?」
そう、富ちゃんを見て行った。富ちゃんは呆れたという風に首を振り、苦笑いを浮かべていた。
その仕草は、富ちゃんが言ったことがどっきりでも何でもないという事を示しているようだった。マスターに視線を移すと、困ったような表情を浮かべていた。
嘘でしょっ? そんなのって……。
大好きなマスターが私を好きだと思ってくれている。嬉しい筈なのに、嬉しすぎるほどの大事件なのに、戸惑いばかりを強く感じた。
だって……。
浮かんでくるのはブルーの切なげな瞳。マスターが私を好きだとブルーが知ったら、あの瞳はもっともっと苦しげな瞳に変わってしまう。
どうして私は、嬉しい場面の筈なのに、こんなにブルーのことばかり考えてしまっているんだろう……。
「マスター……」
私は何を言うべきなのか、その先の言葉が出てくることはなかった。
「すみませ~ん」
ソファ席からお呼びがかかり、私は二人から逃げるようにその場を離れた。
「富、お前あとで覚えてろよっ」
微かにマスターが富ちゃんを叱咤する声だけが私の耳に届いた。
お客さんの注文を笑顔で聞きながら、私の頭の中では、富ちゃんの言葉が何度もリフレインしていた。未だに信じられずにいた。
だって、マスターに直接気持ちを打ち明けられたわけじゃない。もしかしたら、何かの間違いじゃないか。……これじゃ私、マスターの気持ちを否定したがってるみたいだ。何も聞かなかったことにしたいとおもっているみたいじゃないか。望んでいた筈のことなのに。
富ちゃんは私とマスターに強力な爆弾を落としておきながら、我関せずといった感じで、そそくさと帰って行ってしまった。
富ちゃんが帰ったのをきっかけとして、立て続けにお客さんが帰って行ってしまった。ブルーがいない為か、女性客の引きが異様に早い。ブルーがどれだけ人気なのかが窺える。
「ベニ。ジントニック作ってくれ」
誰もいなくなったカウンター席に、マスターは身を沈めると言った。
「飲むの?」
「1杯だけな」
私はジントニックを作るとマスターの前に差し出した。
「どうぞ」
こうして何かを作業している時でも、富ちゃんが言った言葉が、耳鳴りのように聞こえてくる。そして、それと同じ数だけ浮かんでくるブルーの悲しげな表情。
マスターと二人きりでこんなに気不味かった事なんて今まで一度だってなかった。
「やっぱりブルーがいないとお店が暇だね」
沈黙に耐えかねて、精一杯の明るい調子で話題を振る私。
「……嘘じゃないぞ」
辛うじて聞こえるか聞こえないかの声。油断していたら、聞き逃してしまうほどの声。
え? と返せばしっかりと私を見据え、こう言った。
「富が言ったことは嘘じゃねぇよ。俺は、お前に惚れてるよ。俺は、ベニが好きだ」
まさかと思っていた。あり得ないと思っていた。私みたいなガキをマスターが相手にするわけないと思っていたし、実際相手にされていなかった筈だ。それが何故? どうして? いつから?
数限りない疑問が一時に襲いかかって来るようだった。
それと共にしつこく浮かび上がってくるブルーの苦痛な表情。
「まさか、信じらんないよ……。マスターが私なんか相手にするわけないもん。だって、そんな素振り一度だってしなかったじゃん。信じらんない」
「本当なんだ、ベニ。嘘でも、どっきりでもない。俺の素直な気持ちだ」
「だけど、マスターはまだ千佳子さんのことが好きなんじゃ……」
だから、あんなに昨日取り乱していたんじゃないのか?
「千佳子への気持ちは、ベニを想っている気持ちとは違う。千佳子とのことはずっと後悔として俺の中にあったんだ。実はな、今日昼間千佳子ともう一度会ったんだ。二人できちんと話して、過去を清算することが出来たよ。千佳子のことがあって、もう女は懲り懲りだって思ってたんだ。誰かを幸せに出来るなんて二度と思えないだろうと思ってたんだけどな。こんな俺でももう一度、人を好きになることが出来た。自分に自信が持てなかったから自分の気持ちをひた隠しにして来た。中途半端に関われば、ベニを傷付けることになるとも思っていた。だけど、もう隠すのは止めた」
「千佳子さんと話せたから、そう思えるようになったの?」
マスターの思いがけない告白に左右の手を強く握りしめていた。
「それもある。が、それだけじゃない。ブルーの存在だ。ブルーもお前に惚れてる。それは、お前も知っているんだろう?」
そう聞かれても、体が金縛りにあったように固まって思うように動かず、首を振ることも返事を返すことも出来ずにいた。
マスターはそれを肯定と取ったようだった。
「二人がどんどん近付いて行く様子を見ていたら、いてもたってもいられなかったよ。お前はまだ解らないかもしれないが、この歳になると人を好きになるのも慎重に成らざるを得ないし、それを告げるには想像を絶する勇気が必要なんだぞ。余計なことばかり考えて、思うように動けなくなる。若い頃のようにがむしゃらには動けないんだ」
マスターのテーブルに置かれた手が硬く握られ、細かく震えていた。
「少し前までは好かれていると思っていたが、今は正直断られるんじゃないかって怖くて仕方ないよ」
マスターの笑みがぎこちない。
私の喉は干乾びたように渇き、口を開いてみるのだが、何の音にもなりはしない。
果たして声を出せたとして、私は一体マスターに何を告げるつもりなのか。
「ベニの気持ちが今、どこに向いているのか、何となく解るよ。ベニが出した答えなら俺は受け止める。ベニがもし俺を選んでくれるなら、必ず幸せにするよ。だから、考えてくれないか」
私の気持ちがどこに向いているのか、何となく解る? 自分ですら解らない気持ちがマスターには解るというのか? じゃあ、教えて。なんて言えるわけもない。自分で考えて答えを導き出さなきゃならないんだから。
マスターはブルーのように強引にキスしたりしない。きちんと私の気持ちを察してくれる人。
「ベニ、今日はもう上がっていいぞ。ブルーもいないから、これ以上大して客も入らないだろう。俺が送って行くよ」
「へっ平気っ。大丈夫っ。走って帰れるから。私、足には自信があるんだ。変な人に追いかけられても、絶対、追いつけないから。うんっ。マスターはちゃんと仕事しなきゃ。昨日も途中で閉めちゃったでしょ? 今日はしっかり営業しなきゃっ、ねっ」
言葉が漸出てきたと思ったら、頭で考えるよりも早く言葉が口をついて出て来た。
マスターが何かをそれ以上言う前に、バッグを掴んで、逃げるように店を出た。
いつも読んでいただき有難うございます。
本日は、更新がかなり遅い時間になってしまいました。子供が熱を出しまして(恐らくインフルエンザかと思います)、寝ている間を見て更新しました。明日、明後日は更新出来ないかもしれません。暇を見て出来たらします。来週からは、通常通り更新しますので、よろしくお願いします。