第30話
「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど。紅があまりに夢中だったから気付かなかったんじゃないかな」
ケタケタと笑うブルーの表情は大分生気が戻って来ているようで安心した。
「もう、びっくりさせないでよ。で、具合の方はどう?」
「大分いいみたいだよ。薬が効いて来たみたい。多分もう熱も下がってると思う」
鼻が詰まっているせいか普段より低い声に、不思議と色気のようなものを感じた。
「良かった。だけど、今日は一日休んでなきゃ駄目だよ。無理してまた拗らせたら困るんだからね」
消しゴムで先ほど驚いたためにいらぬ方向に伸びてしまった線を消しながらそう言った。
背後からブルーの気配が消える様子がないので、「寝てなさい」と叱りつけてやろうと振り返ろうとしたその瞬間、後ろから抱き締められていた。
「ちょっと、寝てなさいってば。風邪がぶり返すって言ってるでしょ」
「紅。お風呂入ったんだ? 良い匂いがする。俺がいつも使ってるのと同じやつ」
私の言ったことには耳も貸さず、首筋や頭に鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅いでいる。
くすぐったくて、身を捩りたくなるが、何故かそうすることはブルーに負けるような気がして我慢した。
「風邪引いてるから鼻詰まってるんじゃないの? 匂いなんて解りっこないじゃん」
「うん。でも、不思議と紅の匂いだけは解るみたい。良かった、消えたみたいだ」
「えっ? 消えた? 何のこと?」
「マスターの匂い。……朝、紅を抱き締めた時、マスターの匂いがした」
私はぐっと言葉が詰まり何も言えなくなり、優しく首に巻かれているブルーの腕をギュッと掴んだ。
ブルーはどんな気持ちで私の体についたマスターの匂いを嗅いでいたのだろうか。お風呂に入るように言ったのは、私の体を温める為? それとも、マスターの匂いを洗い流させる為? そのどちらでもあったのだろう。自分がその匂いを嗅いだわけでもないのに、何故か心が締め付けられたように感じた。
「ごめん」
私は言った。
「どうして謝るの? それは何に対するごめん?」
不安そうなブルーの声が私の耳元を擽る。
「解らない。だけど、ごめん。別にマスターと何かあったわけじゃないよ。ただ、マスターが弱ってたから……」
「胸を貸してあげた?」
私の言葉じりをに被せるようにブルーが言った。
私はその言葉にこくりと頷いた。
「イヤらしい雰囲気とかじゃ全然なくて、誰でもいいから傍にいて欲しかったんだと思ったから、だから……」
「朝まで傍にいたんだ?」
再び頷いた。
何故かブルーに対して後ろめたい気持ちを持っていた。まるで釈明でもするように、昨日の出来事を話した。勿論、マスターの個人的なことについては言及を慎んだが。
淡々とそれに耳を傾け、時折言葉を挟むブルーの心が読み取れない。表情を見ることが出来ない為か、怒っているのか、呆れているのか、悲しんでいるのか、それとも、何とも思っていないのかその声だけでは図りきれなかった。
「店にマスターの元奥さんでも来た?」
「どうして……」
振り向こうとしたが、ブルーの腕がしっかりと首に巻かれていて殆ど動かすことが出来なかった。
「そりゃ解るよ。あのマスターが心を乱すのは、元奥さんと娘さんのことだろうことは容易に検討がつくからね」
「そっか。きっとブルーのことだから、奥さんが来た大方の予想はつくんでしょ?」
「再婚します。か、しましたという報告じゃないのかな」
私は黙り込んだ。それは肯定を意味しているのと同じことだ。
「弱ってるマスター、放っておけないじゃん」
「うん、紅らしいね。だけど、嫉妬した。マスターといる時、少しは俺のこととか考えてくれたりした?」
「したよ。一杯考えたよ。マスターといるのに、どうしてブルーのことこんなに考えなきゃなんないのって思うほど考えたよ」
そう、ブルーが心配で何度も考えた。でも、それだけじゃなくて、マスターの行動や言動を見たり聞いたりしながら、ブルーと比較してしまっている自分がいた。ブルーならこう言うんじゃないかとか、ブルーならここで強引にキスするんじゃないかとか、ブルーにはこんな台詞死んでも言えないだろうなとか。無意識のうちに、マスターの一つ一つをブルーと比較している自分がいた。なんでそんなことしなきゃいけないんだろうとか、折角マスターと二人きりになれてるのにブルーのこと考えちゃってんだろうとか、何度も何度も思った。
「ありがとう。それが嘘でも嬉しいよ。多分、風邪を引いてる俺に悪いとか思ってたんだろ? 紅は優しいから」
何かが違うと思った。
確かにそうは思ったけど、それだけではなかった。寧ろそれ以外のことの方が断然多かったのだ。
でも、私は反論することはなかった。どうして? と聞かれて、答えられるとは到底思えなかったからだ。
「紅、キスしてもいい? もし、紅に俺の風邪が移ったら、ちゃんと責任取るから」
責任って大袈裟な。
クスッと笑って頷いた。
私もブルーと今この時、キスがしたいと思ったからだ。そんな風に思ったのは初めてだった。いつもなら、ブルーに抗えず、流されるままに頷いていたのに。
何故なのか、自分でも解らなかった。何故なのかを今は知りたくなかった。今はまだ、その先に見えているものを、もしかしたら見ればすぐに解るような簡単なものかもしれない何かを、私は見ないように無意識に自分自身をコントロールしていた。
ブルーは私を抱き締めたまま、くるりと向きを変えると、私を見つめた。
ブルーはお店にいる時のように表情がまるでなかった。
私は両手でブルーの頬を挟んだ。
「ねぇ、笑ってよ」
そう言うと、ふっと優しい笑顔を見せてくれた。
それが私の望んでいた笑顔だったので、私は幸せな気分になって微笑んだ。こんなに気持ち良く微笑んだことはないと自分で思うくらいに、自然と作り上げられた笑顔を、ブルーは目を細めて見ていた。
「俺、もういつ死んでもいいかも……。今、女神に会った気がする」
「何それっ。大袈裟でしょ」
クスクスと笑うと、真剣な瞳をしたブルーの表情が近づいて来て、私はそっと瞳を閉じた。ブルーの唇がそっと触れたかと思うと、すぐに離れて行ってしまった。
私は瞳を開いた。
これだけ?
私はその時、うっかりとそう思ってしまったのだ。
ブルーは私のその反応にクスッと笑うと、再び短いキスを落とした。私を焦らすかのように、短いキスを何度も何度も……。
堪らずブルーの首に腕を回すと、自らの唇を押しつけた。すると、今度はブルーの舌が半ば強引とも思える態度で侵入してきた。歯列をなぞり、奥へ奥へ入って来ようとする。ブルーの舌が私のそれと出逢った時、取っ組み合いの喧嘩でもするかのように絡み合った。
私の頭の中は空っぽで、何も考えることは出来なかった。ただ、感覚だけが研ぎ澄まされていく。ブルーの唇を、舌を、重ねられた体のあらゆる箇所を全身で感じていた。
「んっ」
時折漏れる自分の声が、イヤに艶やかであることに恥かしさすら感じなかった。二人だけのこの空間で恥かしいと思う方がよっぽど変だと感じた。
突然、唇を放され、きつく抱き締められた。私の太腿のあたりに感じる硬いものに私はびくっと体を強張らせた。
「ごめん。何もしないから。紅が、色っぽい声出すからちょっと……」
男の生理現象。いくら未経験だと言っても、それなりの知識というものは持ち合わせている。そういう気分になるとあれが元気になっちゃうとか、一度元気になったら処理しないと治まらない? とか。
だから……。
「ブルー。いいよ……、しても」
いつも読んで下さってる皆様、お気に入り登録して下さってる皆様、感想をして下さった皆様、有難うございます。
早いもので気付けば、「赤青鉛筆」も30話となりました。
私の予定としましては、まだ続きそうですので、末永くよろしくお願いします。