第3話
「そんなのイヤならとっとと止めちまえよ」
いつの間にか私の隣りに来ていたマスターが冷たくそう言い捨てた。
「違うでしょうよ、マスター。富ちゃんは、イヤなんじゃなくて、寂しいんだよ。寂しいけど、きっと仕事が忙しいかもしれないって電話掛けたくてもかけらんないんだよ。富ちゃんはその人のことが大好きなの」
なんで私は、自分のことでもないのにこんなに熱く語ってんだって思ったけど、途中で止めるわけにもいかない気がした。
「だから、俺はそうやって悩んで、相手を信じられなくなるようなら止めちまえって言ってんだ」
「悩むのだって、迷うのだって相手が好きだからでしょう? 止めちまえって言って、止められるようなら最初から好きになってないだろうし、悩んだりしないよっ」
「まあまあまあまあ。二人とも、とにかく落ち着いて。というか、私の存在忘れていません?」
富ちゃんが言い合いを始めてしまった私とマスターを止めにかかった。
「よし、富。今からその遠距離の彼氏とやらに電話してみろ。俺達がここにいるんだから怖くないだろ? 自分の気持ちを思い切りぶちまけちまえ。もし、失恋ってことになったら、俺達が全力で慰めてやるから心配すんな。どうせ、家に帰ったって電話機の前で、悶々とするだけなんだろ?」
少々縁起の悪い言葉も混じっているように思えたが、この際大目に見よう。
「そうだそうだっ、マスター、たまにはいい事言うじゃん。それがいいよ。富ちゃん、頑張って」
私はマスターの提案に賛成の意を唱えた。初めこそ戸惑っていた富ちゃんだったが、あまりに私達が進めるので、とうとう携帯を取り出した。
富ちゃん、きっと大丈夫。何かあったら全力で慰めてあげるからね。
そう拳を握り締めて熱い眼差しを送った。
富ちゃんの携帯を持つ手が小刻みに震えていた。その震えから、富ちゃんがどれほど思いつめていたのかが解る。電話一本かけるのにこんなに緊張してしまうほどに怯えていたのだ。私は思わず隣りにいるマスターの腕を両手でぎゅっと掴んだ。
「もしもし、うん、私。今、大丈夫だった? そっか、なんか久しぶりだね。はははっ……。……あのね、単刀直入に聞くね。聡史、私のこと嫌いになっちゃったのかな? そっちに好きな子が出来ちゃったんじゃない?」
電話の向うの聡史が何かを喋っている。その内容は、流石にこちらには聞こえてこない。
「そんなことない。私だってずっと聡史が好きだよ。聡史の仕事が忙しそうだから、いつ電話しても留守電だから、もしかして他に好きな人が出来たんじゃないかって不安で、寂しかったんだよ。電話しても居留守を使われるんじゃないか、メールをしても返事が返って来ないんじゃないかって、そう思ったら怖くなって、電話出来なくなっちゃったんだよ。聡史、寂しいよ。会いたいよ。早く帰って来て」
富ちゃんの目は潤んでいて、今にも涙が零れ落ちそうだった。それを見て貰い泣きしてしまった私は、マスターのTシャツの袖でちゃっかり涙を拭いた。
「本当に? うん、うん。解った。また、電話してもいい? うん、またね」
話しが終わったようで、富ちゃんは携帯を畳んでことりとテーブルに置いた。ふぅっと小さな息を吐いてから、潤んだ目をこちらに向け、大きく微笑んだ。その笑顔を見れば、心配は無事解消されたのが解る。
「あのね、向こうも同じこと思ってたんだって。お互いがお互いを思いやってすれ違って、悩んで、不安になって。私達馬鹿みたい。彼、私の事大好きだって。他の女の子が目に入らないくらいなんだって。ふふっ、惚気ちゃった」
今にも泣き出しそうな富ちゃんを見ていたら、先ほどマスターのTシャツで拭いたばかりにも拘らず、ぶわっと涙が出て来て、私はカウンター越しに富ちゃんをひしっと抱き締めた。
「良かったねぇ、富ちゃん。良かったよぉ、聡史」
勝手に富ちゃんの彼氏を聡史呼ばわりしているのだが、富ちゃんはそんなことに気付く訳もなかった。私があまりにおいおい泣くものだから、富ちゃんも遂には泣き出してしまった。
「あ~ん、ベニちゃん大好きぃ。聡史も大好きぃ。マスター、意地悪ぅ」
「意地悪とは何だっ」
と、マスターは呟いたが、私も富ちゃんも完全にスルーした。
ドアのカランコロンという音(ドアにベルが付いている)と共に、ビニール袋を手にしたブルーが入って来た。
「戻りました」
そう言って、こちらを見て抱き合って泣きじゃくる二人の女を見て、一瞬凍り付いたように止まったが、その次の瞬間には、まるで何も見なかった、何も起こらなかったというように歩き出した。
ブルーは外掃除をしているんだとばかり思っていた(それにしては長かったのでサボってるんだと思っていた)が、どうやらマスターにお使いを頼まれていたようだった。
ブルーが帰って来た事により、今までのことに急に冷めてしまった私と富ちゃんは、ちょっと気まずげに体を放した。
富ちゃんは、たった今の出来事など何もなかったかのように、すましてビールに口を付けていた。
「ああっ、これ。いつものと銘柄が違うじゃんっ」
ブルーが買って来たケチャップはマスターがいつも愛用しているものとは違っていた。
「ああ、銘柄言うの忘れてたな。まあ、別にいいだろう。たまには違うのでも」
マスターは何でもないことのようにそう言った。
私が初めてお使いに出された時、いつもと違う銘柄だと、大人げないほどに私を叱り飛ばしたマスターが、ブルーには文句の一つも言わないのが、私には不快で仕方なかったのだ。
「差別だ。私の時と全然違う。私が同じ間違いした時には、恐ろしいほど、怒鳴り散らしてたじゃんか。何でブルーばっかり贔屓すんのよ」
「贔屓って、お前はガキかっ。それはな、お前が間違えたのは味噌だったからだよ。俺はな、味噌は仙台味噌じゃないとイヤなんだよ。お前が買って来たのは、なんだか知らんが坊主が書いてある味噌だったじゃないか。あの時俺は、必ず仙台味噌を買って来いって言った筈だ。あれは、お前が悪い。ケチャップには、そこまでのこだわりがないからな。それだけのことだ」
淡々とマスターが語れば語るほどに苛々が募って来る。
それにしたってさ、絶対マスターはブルーに甘いんだよっ。私には頭をバチコンと叩いたり、デコピンしたり、酷い扱いのくせに、ブルーには全然そういうことしないじゃん。
行き場のない苛立ちを、ブルーを睨み付けることで解消しようとしたが、ブルーの私だけに向けた人を小馬鹿にしたような目が私の苛立ちを増幅させるだけだった。
そんな私の頭をマスターは優しくポンっと叩いた。私は憮然としながらも、そのあと何組か入って来たお客さんを営業スマイルで乗り切っていた。
富ちゃんは、聡史と仲直り(実際喧嘩はしていないのだが)したことで、気持ち良く酔っ払い、挙句の果てにブルーに絡み出していた。仕事や恋愛、人間関係でイヤなことがあった日の富ちゃんの絡み方は正直酷いのだが、今日は心の靄がすっきりと晴れたせいか、愛についてしんみりと語っているようだった。カウンターの中でそれらを聞かされているブルーの表情には、呆れと疲労が現れているようで、私はざまあみろと声高に言いたかった。
「だからね、遠距離は忍耐なのよ。どれだけ相手を信じられるかよ。愛がなきゃ駄目なのよ。愛くらい強力なものでないと、すぐに壊れちゃうの。ブルー君は今恋愛してますかぁ?」
そんなようなことを富ちゃんは、恥かしげもなく大声で話していた。ブルーがその問いに答えたようだったが、注文を取っていたので聞こえなかった。だが、そのあとの富ちゃんの声で奴がどんな答えをしたのか解った。
「え~、そうなの? 恋愛しなよぉ、勿体ないよ」
別に奴に彼女がいてもいなくてもどちらでもいいが、私にも人並みに好奇心というものを持ち合わせているので、こっそり聞き耳を立てていた。お客さんの中でも、奴狙いの何人かの女性が聞き耳を立てているちょっとした緊張感が伝わって来た。そして、奴に今のところ彼女がいないのだろうことが解ると彼女らからは明らかに安堵を含んだ溜息が聞こえて来た。恋する女性は大変だ、と人ごとのように思った。
「ねぇ、付き合っていはいないんだけど、好きな人とか、気になっている人はいるんじゃないの?」