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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
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第26話

「お酒は飲めないけど、話を聞くくらいは出来るよ」

 私は、千佳子さんが飲んだ烏龍茶のグラスを片したあと、自分用に烏龍茶を注ぎマスターの隣りに腰掛けた。

「ショックだった?」

「まあな、それなりにはな。予想はしていたんだ。千佳子に男がいることは千里から聞いていたし、そろそろ再婚するだろうなってな。千佳子はきっと幸せになるだろうさ。だけど、本当は俺がこの手で幸せにしてやりたかったよ」

 自分の掌を眺めて、寂しく笑うマスターを見て、衝動的にマスターを私の腕で包み込んでいた。今のマスターは、私には迷子の子供のように見えた。

 今、マスターには誰かが必要なんだと思った。それはきっと、私でなくてもいいのかもしれない。

「ベニ。俺は大丈夫だ、有難う」

 そう言われて、私はマスターから体を放した。マスターは私を見て、微笑んだ。

「あいつ、千佳子は俺といる時、一度だって声を荒げたことも、怒ったこともなかった。いつも笑ってたんだ」

 想像通りといったところだ。温和であまり激しく感情をぶつけない人のように思えた。

「いつも笑ってる方がいいでしょ? それじゃ、駄目なの?」

「そりゃ、笑っているにこしたことはないに決まってる。だけどな、それは本当に心から笑っているのならっていう条件付きだな。千佳子は、怒れなかったんだよ。どんなにイヤなことがあっても、俺に不満な所があっても。溜め込んで溜め込んで、そして、ある日突然壊れちまった。今は治ったんだが、千佳子はノイローゼだったんだよ」

 もしかしたら、マスターの記憶から抹消してしまいたいと思ってる、だけどどうしてもそうすることが出来ないような、寧ろそうしてはいけないと思っているような苦しい過去を、ぽつりぽつりと言葉が零れ落ちて来るように、ゆっくりと語っていく。

「マスター。辛いなら、話さなくてもいいんだよ?」

「いや、ベニに聞いて貰いたいんだ。ベニには興味のない話かもしれないけどな」

 苦笑するマスターに、私は激しく頭を振った。

「そんなことないよ。マスターの話なら何でも聞くよ」

 そう言っておきながら、気を抜くとブルーのことが頭に浮かんで来た。

 今は、マスターの話をしっかり聞くべき時なのは解っているのだが、一人横になっているだろうブルーのことが気にかかって仕方がない。置き手紙には明日様子を見に行くと書いておいたが、本当は帰りにちょっと様子を覗いて行こうかなって思っていた。部屋に入るつもりはなくて、こっそり玄関から様子だけ覗こうと思っていたのだ。

「ベニは優しいな」

 私は優しくなんかないんだよ、マスター。

 聞いてるつもりでいるけど、頭の中では違う人のこと気になってるんだよ。

 マスターの一大事なのに……。

「ある日突然、千佳子は狂ったように家の物を片っ端から俺に投げつけてきた。何がきっかけで、千佳子の溜まりに溜めていたものが爆発してしまったのか全く解らない。俺の行動だったのかもしれないし、言動だったのかもしれない。今では、その時の情景が思い出せないんだよ。あまりに衝撃的だったからな。その日は、千里が千佳子の実家に遊びに行っていた。それが不幸中の幸いだったとでも言うべきか。ああなるまで俺は何一つ気付いてやれなかったんだ。それから暫く千佳子は病院に入院することになった。退院してすぐに離婚は成立したよ。千里にも千佳子にも会わせて貰えなかった。そりゃそうだよな。自分の娘をこんな風にしてしまった男に会わせる親はいないよな。千佳子が入院してから離婚が成立するまで一度も会えなかったよ。……でも、良かった。千佳子がまた笑えるようになって。俺は駄目な男なんだよな。千佳子を思いやることも、本当の千佳子を見てやる事も出来なかった。きっと千佳子は俺を恨んでるだろうさ」

 マスターは拳を強く握って、テーブルに叩きつけると、くそっ、と小さく呟いた。

「千佳子さんは、マスターを恨んでなんかいないよっ。そうでなきゃ、わざわざ今日来たりしないよ。電話一本でも、手紙一通でも伝える方法はいくらでもあったんだから。きっと千佳子さん、そうゆう風にマスターが自分を悔いてるんじゃないかって解ってたんじゃないかな。だから、今日元気な顔見せに来てくれたんじゃない?」

 そうであって欲しいと思ったし、そうである筈だとも思った。

 千佳子さんは優しい雰囲気のある人だった。マスターを恨んでいるのなら、あんな笑顔でマスターを見る事なんて出来ない。

 きっと、本当の目的は、マスターを過去の出来事から解放させてあげる為。再婚の報告や、引越しの報告はついでだったのかもしれない。

 マスターは私を正面から見据えた。

 煙草を銜えていないマスターにまともに見つめられ、私は居心地の悪い気分だった。こんなに間近でマスターの顔を見るのは久しぶりだった。ブルーとは違う釣り目な瞳が、私の瞳の中の何かを探るように見ていた。

「ありがとな、ベニ。情けない俺は今日だけにする。だから、今日だけは傍にいてくれないか? 一人になりたくないんだ」

 その言葉に私は目を見張った。それから、今頃うなされているかもしれないブルーの姿が頭に浮かんだ。ブルーは薬も飲んだし、お粥も作ってある。私が出る時には、大分良くなって来ているように見えた。

 ブルーの体の様子が気になる……。だけど、こんな状態のマスターを一人残して行くわけにもいかない。

 マスターの力のない瞳が、私に助けを求めているように見えた。

「全くしょうがないな。今日だけだよっ。こぉんな弱っちいマスター一人にしておけないからね。心優しいベニちゃんが、一緒にいてあげるんだから感謝してよねっ」

 なるべく明るく、深刻にならないようにそう言った。何故だかそうした方がいいような気がしたのだ。

 マスターはそんな態度のでかい私の物言いに、くつくつと笑っていた。

 その笑顔にはまだまだぎこちなさがあったが、それでも笑ってくれたことが嬉しかった。

「そうだよ、マスター。笑ってた方がいいんだよ。笑う門には福来るって言うじゃん。でも、今日だけは泣いてもいいんだよ? 私、誰にも言ったりしないから。いっぱい泣いて、イヤなこと全部涙と一緒に流しちゃえばいいよ。そしたら、きっとスッキリすると思うよ」

 とことん私って人を慰めることに不向きなんだと思った。気の利いた言葉をかけてあげることも出来ない。

「一応これでも大人の男だからな、女の前で涙なんか流したら格好悪いだろ?」

「何言っちゃってんの。女は涙を流しても何も言われないのに、男が涙を流すと格好悪いなんて間違ってるよ。私、ずっとそう思ってたんだ。親も、先生もみんな、男の子には『男の子なんだから、泣かないの』って言い聞かせてるけど、どうして男の子だからって泣いちゃいけないんだろうって、不思議で仕方なかった。涙が女の専売特許みたいになっちゃてるのはおかしいよ。人は泣きたい時に泣きたいだけ泣くのが良いんだよ。そこに、男だからとかそんなの関係ないよ。もし、私が見てるのがどうしてもイヤだって言うなら、私見ないし、いないと思えばいいよ」

 例えば、一つの恋が終わって、女は男よりも切り替えが早いと言われるのは、その悲しみや苦しみを涙を流すという行為や人に話すという行為で清算することが出来るからなんじゃないだろうか。単純に泣くとすっきりするものだ。私は、泣くことが恥ずかしいことだとは到底思えない。

「そうだな。もう、ベニの前では格好悪いところなんて何度も見せちまってるからな。今更、恰好付けてもしょうがないんだよな。まあ、生憎涙は出そうにもないけどな。泣きたくなったら、遠慮なく泣くさ」

 マスターはそう言うと、ウィスキーの入ったグラスを傾けた。私も烏龍茶をこくりと一口飲んで、喉を潤した。


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