第25話
「嘘だよ。頼むからそんな顔すんな」
「そんな顔って?」
「困った顔してたよ。どうしようってな。まさか、そんなに嫌がられているとは思ってなかったから、ショックだったな」
「困った顔なんてしてないよっ。嫌ってなんかもいないっ」
マスターは私の頭をガシガシと撫でると、微笑んだ。
「悪かった。そんなに怒るなよ。冗談だよ。娘みたいに思ってるベニを嫁さんにしたら、罪を犯してるみたいで心苦しいだろ?」
マスターは再び煙草を口に咥えると、厨房に戻ってしまった。
「今日もオムライスか?」
マスターはこちらを向かずにそう聞いた。
「うん」
私は頷いた。
私はどうしていいか解らず、ぼんやりと佇んでいた。
どんな脈絡でマスターが冗談でも、あんなことを言い出したのか解らなかった。いまだかつてマスターが冗談でもあんなことを仄めかしたことは一度もない。私の気持ちを恐らくある程度理解している為か、私に気を持たせるようなことは一度たりとも口にして来なかった。
マスターに何かあったんだろうか?
さっきの、冗談だって言っていたけど、冗談には聞こえなかった。あんな真剣な顔で言われたら、動揺するのは当り前ではないか。
冗談でもそんな事を言ってくれて嬉しいという気持ちよりも、普段とどことなく違うマスターに違和感と不安を感じていた。その感情が表情にも出ていて、困った顔をしていたように見えたのではないか。
その夜、一人の女性が店を訪れた。
優しい雰囲気の母性あふれるその女性は、カウンターの中のマスターを見ると、顔を崩して笑った。
とびきりの美人というわけではない。だが、その女性には全てを包み込んでくれそうな優しさが満ち溢れているようだった。
「よお、久しぶりだな」
「ほんとね。お久しぶり」
ふふふっと笑う姿は、落ち着いた大人の女性のものだった。私では、とても持ちえない類の。
マスターの少し困ったような、少し懐かしげな、少し苦しそうな、少し嬉しそうな、複雑な表情を見て、この人がマスターの元奥さんなのだと知った。
他にお客さんはいない。
カウンターに腰を降ろしたその女性は、私を見てにこりと微笑んだ。
自分が彼女を凝視していたことに気付き、失礼な態度を取っている私に対して向けられたその笑顔に、私は恥ずかしくなり俯いた。
この人が、マスターが一度は人生を共に生きようと誓った人。
私とはまるで正反対の人だった。どちらかと言えば私は気性が荒い。すぐに怒るし、泣くし、暴れるし、元気が良い時は煩いと言われることだって無きにしも非ずだし。それに比べて、彼女からは、怒鳴ったり、怒ったりする姿は想像も出来ない。
「最近、お酒飲めなくなっちゃったの。だから、烏龍茶くれる?」
「あっ、はい」
私はせっつかれたように飛び上がって、慌てて返事をした。
「ふふっ可愛い人ね」
独り言のようにそう呟いた。
しんみりとそう言われた私は、反応に困り、中途半端な笑みを浮かべながら、烏龍茶をコップに注ぎ、彼女の前に出した。
「ありがとう」
彼女の一つ一つの言葉が優しく、温かかった。
流石、マスターが好きになった人。温かい人だな。
「あのっ、マスター? 私は、外の掃除でもして来た方がいいかな? それとも、お客さんもいないことだし、今日は早上がり?」
「最近はこの辺も物騒だって言っただろ? 外掃除もしなくていい。早上がりにしても、俺が送っていくから大人しくここで待ってろ」
「でも……」
私、明らかに邪魔だと思うんだけど……。
「じゃあ、トイレ掃除でもして来ようかな?」
「いいからお前もここにいればいいんだ。変な気を回すな」
カウンターから逃げ出そうとしている所を、頭をぐゎしっと掴まれて、止められてしまった。
「ちょこまかしないで、大人しくしとけ」
そうは言われても、何か居づらいじゃん。二人の会話が聞きたくなくても、聞こえて来ちゃうじゃん。これって、聞いていいもんなの?
聞くべきか、聞かざるべきか、判断しかねていたのだが、聞こえて来てしまうものは仕方ないと、堂々と聞いてしまうことにした。
「それで? 突然来たってことは、再婚の報告かなんかか?」
「ふふっ、お察しの通りよ。再婚することに決めたの。大分、悩んだのよ。だけど、決めたの。私ね、彼には怒れるのよ。喧嘩も出来るの。この私がよ。凄いでしょ?」
「見つけたんだな、自分の気持ちをきちんと伝えられる相手を」
ええ、と微笑み、烏龍茶を一口飲んだ。
「それで、彼の都合で再婚後はここを離れることになるの。ごめんね、千里と会わせてあげられなくなっちゃうわ。とても、遠いの。あなたこういう仕事をしているし、千里もまだ小さいから自由が効かないし、今までのようには会えなくなるの」
「千里はいくつになった?」
「9歳よ。今、小学3年生。離れてしまってもあの子のパパはあなただけなのよ。あの子ね、あなたと会えなくなることを凄く嫌がった。あの子は昔からあなたが大好きだったから。だから、私も大分悩んだの。でも、千里と沢山話しあって、決めたことなの。夏休みに入ったらあなたの所に行きたいって言うかもしれない。そうしたら、お願いしてもいいかしら?」
「勿論だ。千里にいつでもおいでと伝えてやって欲しい」
マスターの愛娘の千里ちゃんの写真を何度か見せて貰ったことがある。笑顔がお母さんに似ていて、でも、全体の印象はマスターに似ているように感じた。どこがどう似ているとは言い切れないけど、どことなく、やっぱり似ていると思った。
「千里から手紙が届くと思うの。忙しいとは思うけど、返事書いてあげて。きっと、千里楽しみに待っているから」
「解った。書くようにするよ」
「ありがとう。……それじゃ、私、行くわね」
ああ、とマスターは頷いた。彼女はバッグの中から財布を取り出したが、マスターはそれをやんわりと制した。
「ふふっ、ありがとう。それじゃあね」
彼女は私達に背中を向けて歩き出した。
「千佳子。絶対に幸せになれよっ」
「うん。ようちゃんもね。ベニさん、ようちゃんをよろしくね」
突然声をかけられた私は、驚いて、「はいぃっ」と情けない声を上げた。
千佳子さんは笑顔で手を振って去って行った。千佳子さんが去った後の店内は急にしんと静まり返り、酷く寂しい感じがした。
「引っ越し先とか聞かなくて良かったの?」
「いいんだよ。千里がすぐに手紙を書いて寄越すさ。千里は手紙を書くのが好きだからな」
寂しさを隠そうともせずにマスターは言った。
今日は、不思議なことに誰一人として客が来ない。入りづらい雰囲気を醸し出していたのか、それとも、傷心のマスターを思ってのことか。
今まで、何度だってお客さんが来なくて、お店でマスターと二人きりになる事なんてあったのに、とても静かに感じる。それは、いつもはいる筈のブルーがいないせいなのだろうか。ブルーは、店では必要最低限以上喋ろうとしないのに、いるだけで存在感があるのだと、いなくなって初めて解る。
ブルー。一人で大丈夫かな。
今日、働きながら何度も思い浮かべたブルーの熱で苦しそうな姿が、再び蘇って来る。
確かに、ブルーのことも心配だけど、今は、傷心のマスターのことも心配だった。
「ベニ。これ、表に掛けといてくれ」
手渡されたのは、準備中の札。
「え? これって……」
「今日はもう閉める。客も来そうにないしな」
そうは言っても、それはきっと口実で、マスターが今日とてもじゃないが働けないのだろう。
ドアに札をさげて戻ってみれば、マスターはウィスキーのロックをカウンターに腰掛けてちびりちびりと飲んでいた。
「ベニ。少し付き合ってくれないか」
「お酒は飲めないけど、話を聞くくらいは出来るよ」