第15話
蟻地獄に入れられて、逃げ出そう、逃げ出そうともがいているのに、足を動かすたびに下で待ち構えているブルーに少しずつ近づいて行ってしまう。いつか私は精根尽きて、ブルーの所に落ちてしまう。自分がまるでそんな状況にいるような気がしてならない。
蟻地獄から抜け出す術はあるのか?
恐らく自分ではどうする事も出来ないのだ。時間稼ぎくらいは出来るかもしれないけれど。私がこの蟻地獄から抜け出すには、第三者、言わば私を引っ張り出す王子様のような存在がいれば。マスターが私の手を取って助け出してくれればなんて夢を抱いてみたりして。
マスターの白タイツ姿を想像してしまって、私は思わず吹き出してしまった。
突然吹き出した私に、ブルーは心底驚いた顔をしていたけど、私はそれを完全に無視した。
「まあ、それはいいや。先のこと心配してもどうにもなんないし。で、願いって何なわけ?」
「一日、俺に付き合って」
私は足を止めて、隣りを歩くブルーを見上げた。ブルーも足を止め、私を見下ろす。
それって……。
「デート?」
「そ、デート。駄目かな?」
私を覗き込む瞳が心配そうに揺れていた。
正直意外な気がした。抱きしめたり、甘い言葉(?)を投げかけたり、キスしたり、体に触れたり、今まで散々そういうことを私に許可なくやって来たのに、デートの誘いをこんな形でして来るなんて。しかも、そんな心配そうな瞳で覗き込むなんて。
「デートくらいなら別に構わないけど。ただし、絶対変なことしようとか考えないでよね」
そう言って、じろりと睨みつけてやったのだが、
「本当っ? やった」
ブルーは子供の様にはしゃいで私に抱き付いて来た。実際にやったわけではないが、ぴょんぴょんと跳ね出してしまいそうなほどだった。
なんでこんなに喜んでんの?
私には、不思議で不思議で仕方なかった。
「ちょっとぉ、ちゃんと聞いてんの? 変なことしないでよ? 解ってんでしょうね」
心底喜ぶブルーに戸惑いを感じながらそう言った。
「勿論っ。解ってるよ」
どうだかと心の中で思いながら、私は苦笑した。
「紅、今度の日曜日は空いてる?」
遠足のワクワクを我慢出来ずにいる小学生みたいなブルーを可愛いなと不覚にも思ってしまった。
「どうせ私は暇人ですからねぇ」
ちょっとひねた言い方をしたけれど、それはブルーを可愛いと思ってしまった自分を隠す為だった。
「ねぇ、どうでもいいけど、そろそろ放してくれない?」
「もう少しこのままで……」
ブルーの腕が私を放すまいと、よりきつく抱き締めた。
最近、ブルーにいつも抱き締められている気がする。でも、不思議とイヤじゃない。そう、イヤじゃないんだよ。変なのっ、ブルーに抱き締められて安心してるよ、私。どうかしてるな。
どのくらいの時間そうしていたのか解らないけど、私にはとても短く感じた。ブルーが私の体を解放した時に、えっもう? と思ったほどに。
それが顔に出ていたんだろう。
「あれっ? 物足りなかったのかな? 俺としては、朝まで抱き締めても良かったんだけどね。勿論、ベッドの中で。紅のご要望とあらば、今からでも……」
両手を広げて、私を招き入れようとするブルーの手をばしりと叩いて、私は怒鳴った。
「馬鹿っ! 何言ってんのよ、このドスケべっ。しかもあんたん家ベッドなんてないでしょうがっ!!!」
「ベッドなら、ほらあそこに……」
ブルーの指さす先には、キラキラと光るラブホテルのネオンが……。
「馬鹿っ!!!」
私は持っていたバッグでブルーの後頭部を狙って、振り回した。
ガツッという音がした後、ブルーは痛そうに頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
最初は、ざまあみろと思って見下ろしていた私だったが、中々起き上がらず、頭を抱えて痛そうにもがいているブルーを見ていたら、急に怖くなった。
「嘘っ、ねぇ、ブルー? 大丈夫?」
「携帯がっ」
どうやらバッグの中の携帯がもろに当たってしまったようだ。あまりにブルーが痛がるので、私も心配になってブルーの前にしゃがみ込み、覗き込んだ。
「ごめん。大丈夫? 当たったとこ見せて」
ブルーの手を掴み、当たった箇所から血でも出てやしないかと見ようとした。だが、逆にブルーに手を掴まれ、唇にはほの温かい感触の物が押し当てられた。
ああ……。また、私、ブルーにしてやられたんだ。
子供騙しのようなこんな簡単な嘘に、私はまんまと騙されて、今日もまた唇を奪われた。
ブルーが私を解放したら、絶対もう一度殴ってやらないと、気が済みそうにないっ。そう思っていたのに、そのキスが長く、深くなるにつれ、そんな怒りの感情さえ、考えられなくなっていった。
ブルーは狡い。いつも私を振り回して、怒ってるのに、いつも何も言わせなくさせる。狡い。狡いよ。狡い……。
やがてブルーの唇は離れて行く。湿った唇が秋風に触れて、急に温度を下げて行く。
唇の温もりをどうか消してしまわないで。
私は、誰にともなく願った。
「紅? そんなに俺とキスするのがイヤ?」
「えっ?」
「涙……」
慌てて頬に手をやるとそこは涙で濡れていた。無意識のうちに涙が零れていた。
私は頭を激しく横に振った。
「違う。イヤだったんじゃない。温もりがなくなって行くのがイヤだったの」
私は何を言ってるんだろう。これじゃ、ブルーの唇の温もりをいつまでも感じていたいと言っているようなものじゃないか。
「違っ、違うのっ。間違えた。今の忘れて。何でもない。うん、何でもない。多分、コンタクトがずれて痛かっただけ。そう、うんっ」
必死に取り繕う私をブルーは真剣な表情で見つめていた。私は、ブルーの真剣な瞳に耐え切れず、俯いてしまった。
ブルーの手が顎に触れ、くいっと持ち上げられ、隠していたかった表情を露わにされた。
そして、ブルーはキスをした。何度も何度も絶え間なく続くキスを。
「温もりがなくなるのがイヤなら、また温めればいい。俺は何度だって紅にキスをするよ。紅、温もりがなくなるのがイヤなのはどうして? 俺が……好き?」
「解らないっ、自分でも解らないんだよ。どうしてそんな風に思ったのか、解らないよ……」
ブルーは私の前髪にそっと触れ、その後頬へ手を滑らせた。
「ごめん、俺、焦り過ぎ。でも、俺は紅に嫌われてない。そうだよね?」
私はブルーの瞳を見つめ、ゆっくりと頷いた。
もう、ブルーを苦手だとは思っていない。もう、嫌いだなんてこれっぽっちも思ってない。好意さえ抱いているように思う。それが、恋愛感情としてなのかは解らない。だって、私は変わらずマスターが好きなんだから。私は、二人の人を同時に好きになれるほど、器用には出来ていない。
「そっか、良かった。嫌いって言われたらどうしようかと思った」
ほっと息を吐くブルーは、本気で自分が嫌われていると思い続けていたんだろうか。
「まあ、嫌いって言われたって、絶対に奪うけどね、紅のハートは俺のもんだし。誰にも渡さない。勿論、マスターにもね」
この男は、つくづく解らない。つい今しがたホッと胸を撫で下ろしていたのに、今度は強気の発言ときた。
「それじゃ、もう、俺行くから。また明日。おやすみ」
ブルーは私を立たせると、そう言って行ってしまった。
ああ、もうアパートの前だったんだ。気付かなかった。
「おやすみ」
小さい声で呟いた。
聞こえている筈もないのに、ブルーは振り返り、手を振った。あるいは、ブルーには私の声が聞こえていたのだろうか。
私はそんなブルーの背中を、見送っていた。