第14話
「私、今何か言ったのかな?」
「可愛いって言った。それ、俺のことでしょ? 正直、男が可愛いって言われるのは複雑な気分だけど、紅に言われるのは悪くない」
あれ? さっきまで照れ男がここにいた筈なのに、嬉しそうに舌なめずりするあなたはだあれ? 聞かなくたって解るよ、あなたは高慢ちき男様ですね?
「えっと、あの、その、まあ、つい、出来心で。深い意味はなくってですね」
私は動揺して、しどろもどろになっていた。
だって、そりゃ動揺もするでしょうて。だってこの間まで苦手なやつだったブルーを、つい出来心で、しかも可愛いだなんて思っただけじゃ治まらず、口に出してしまっていたんだもの。どうかしてるんじゃないの、私?
でも、まだブルーを苦手と思っているのかと聞かれたら、容易に頷く事は出来なくなっていた。たった数日(そうなのだ。ブルーに好きと言われてほんの数日しかたっていないのだ)の間に、私はブルーを少なからず苦手な人というレッテルを剥がそうと考えていた。
好きなわけではない。だけど、悪い奴ではない……かな。
すぐに手を出そうとしてくるのには、ほとほと呆れかえる想いではあるのだが、言うほど嫌がっていない自分に戸惑いもまた感じているのだった。
「紅、俺って可愛い?」
さっきまでの照れ男を返してって叫びたいほどに、憎たらしい高慢ちきな笑顔でブルーが私の瞳をじっと見つめて問い掛けてくる。
「全っ然可愛くないよっ」
私はブルーの瞳から視線を逸らし、ぶーたれた可愛くない声で言った。
「紅は可愛いなぁ」
「あのねぇ、休憩室で口説くの止めてくれる?」
普通、可愛いなんて言われ慣れている女の子なんて、余程の美少女でない限りいないだろう。私だって誰かにそんなこと言われたことなんて記憶にない。
耳だって赤くなるのも仕方ないんじゃない?
「紅、可愛い。耳、真っ赤だよ」
耳元で、ブルーに囁かれて、ずざざっと耳を押さえてブルーの隣りから遠ざかった。
「馬鹿っ、変態っ、からかうの止めてよっ」
怒鳴りながらブルーの顔を見れば、ブルーの耳も真っ赤だった。今までは、自分のことで一杯一杯だったので、全く気付いていなかったけど、ブルーも恥ずかしさに真っ赤になっていた。
もしかしたら、ブルーは平気なふりで口説いているように見えて、本当はすっごく照れてたんじゃないの?
口説くのは初めてと言っていたのも、あながち嘘じゃないのかもしれない。
ブルーの顔を見ていたら、つられて私の顔も赤く染められていった。そしてその後、ぶくくっと吹き出した。
「ぶっ、ははは……。ブルーってば、人のこと言えないじゃん。自分だって真っ赤だよ」
腹を抱えて笑っていると、頭上から、
「だから、女の子を口説くのは初めてだって言ったじゃないか。俺だってそりゃ、恥かしくもなるさ」
ちょっと拗ねたその物言いがさらに私の笑いの着火剤になって、私は横っ腹が痛くなり、目尻に涙が溜まるほど笑った。
「ひぃっ、拗ねてる。拗ねてるよ、この人っ」
ブルーはいつまでも笑い転げる私の腕を引っ張り、よろけた私は、ブルーの膝の上にすとんと座ってしまった。
「笑いすぎ。笑わせなくしてやる」
そう言って、唇を塞がれた。
休憩室の外ではナルが歌を歌っているようで、歌声が微かに漏れ聞こえていた。
あれっ、私、ついさっきまで、あんなに嫉妬心で心が真っ黒だったのに、そんなことまるで忘れていた。これってもしかしたら、ブルーのおかげなのかな?
唇を解放されると、私はブルーを見つめ、口を開いた。
「……ありがとう」
ブルーが私を見つめ返し、訳が解らないという表情をした。
「キスしてくれてありがとうって言ってるんじゃないからねっ。誤解しないでよっ。心にあった黒いものがいつの間になくなってた。きっとブルーのお陰だと思ったから。だから、ありがとう」
ブルーは、小さなキスをした。
「ただ俺は、マスターのことじゃなくて、俺のことを、俺だけのことを考えて欲しかっただけだ。俺も嫉妬した」
「ブルーでも嫉妬したりするんだ?」
ブルーの顔が間近にあって、ブルーの表情のちょっとした変化でさえ、鮮明に私の瞳に映った。
「するよ。凄くする。紅の心の中、俺だけで一杯になればいいと思ってる。俺だけを想っていてくれればいいのに」
切ない瞳が私を見下ろす。少なくとも今は、ブルーのことしか見ていないし、考えていない。
そう思ったけど、口には出さなかった。恐らくブルーにはそれが解っているのだと思ったし、そうさせたのはブルー本人なのだと思ったから。
「そっそろそろ行かなきゃじゃない?」
ブルーの胸を押し放した。だが、すぐにブルーに引き戻され、きつく抱き締められた。ブルーの胸に押しつけられたことで、ブルーの胸の鼓動をしっかりと感じた。
ドクッドクッと激しく打ちつけられている心音に私はくすりと微笑んだ。
「ブルー、鼓動が速いよ。私といてドキドキしてるんじゃない?」
私が茶化した感じでそう言うと、抱きしめていた腕を緩め、困った顔で私を見下した。
「何でそんなこと言うかな。確かにそうなんだけどさ」
照れ隠しに頭の後ろをぼりぼりと掻くブルーを見て私は笑い、ブルーも声を立てて笑った。
ブルーが声を立てて笑うのを見たのはこれが初めてだった。それが何だか嬉しくて、私も笑った。
何故か心の中へふんわりと温かいものが流れ込んでくるような気がした。不思議な感情に戸惑いながらも、私はそれを笑顔で隠した。
休憩から上がり、店に戻ってマスターとナルが楽しそうにじゃれ合っている姿を見ても、黒い気持ちにはならなかったし、二人の会話に自然に加わって一緒に楽しく話す事も出来た。それは、さっき心の中に流れ込んで来た正体不明の温かいもののお陰だと思えた。そう思いフロアにいるブルーを見ると、視線に気付いたブルーが誰にも気付かれないように、小さく微笑んだ。フロアに立っている時にブルーが表情を崩すのは初めてだった。いつもは、強情なほどに無表情を徹底していたのに。
私だけに向けられた笑顔に、ブルーが仕事に戻って視線を外した後も、呆然とその姿を見ていた。
いつものようにマスターに上がるように言われ、私とブルーは店を出た。
二人並んで歩き、私は空を見ていた。星がいくつか見えるほどだけだったけど、それでも、私は星が堪らなく好きだ。
ちらりと横を見ると、ブルーもまた空を見ていた。月明かりに照らされたその横顔は、神秘的で美しかった。見惚れてしまいそうな横顔から視線を逸らし、前を真っ直ぐに見た。
「休憩室で、私に何かしたの?」
「何も、ただちょっとしたおまじないかな。俺のことだけ考えるようにってね」
空を見上げながら、口元を綻ばせ、そう言うブルーの言ったことが本当なのか、冗談なのか、私には解らなかった。
「ありがとう。助かった」
それでも、ブルーが私に何かしたお陰で、あの後、嫉妬心に苦しむことなく楽しく仕事が出来たのだと思った。
「感謝してるなら、一つ、俺の願いを聞いてくれないかな?」
空に向いていた顔を、私に向け、何かを企む風でもなく自然な笑みを浮かべて言った。
「えっ、願い? ちょ、ちょっと待って、最初に言っておくけど、私とその……エッチなことしたいとか、そんなのだったら速効拒否だからねっ」
自分から発言しておいてなんだけど、エッチって言葉に自分で恥かしくなってしまった。
「そんなお願いはしないよ。近い将来確実にすることになると思うからね、それまで楽しみはとっておかないとね」
「何よ、それっ。私があんたを好きになるなんて決まってないんだからねっ。もう、いい加減なこと言わないでよ」
ブルーにあんまりはっきりと自信ありげに言われてしまうと、それが本当のことになってしまうような気がして何だか怖い。