第12話
「紅…、紅っ」
キスの合間に囁かれる自分の名前が、自分の名前じゃない特別な言葉、例えばそれは、愛してるって言葉と同じ意味を持っているように聞こえる。
ゆっくりと絨毯の上に押し倒され、より深いくちづけに私は翻弄されていた。まともに脳が働いてくれない。
ブルーの唇が私の首筋をなぞるように進んで行く。その唇が胸元に辿り着いた時、ちくんっと痛みが走った。
「やっあっ」
自分でも初めて出す淫らな声と共にびくりと体が跳ねた。
好きじゃないのに……。ブルーのこと決して好きじゃないのに、何でこんなことになってるんだろう。
おかしい、変だ。変だ、おかしい。おかしい、変だ。
何がおかしいの? 何が変なの? 何が本当で、何が嘘なの? 私が好きなのは、マスター? それとも、ブルー? 私が求めているのは、マスター? それとも、ブルー? 心はマスターを求めてる? じゃあ、体は?
解らない、分らない、わからない……。
混乱した頭の中で、ブルーが与える快楽だけが唯一の事実だった。
流される……。そうなったら私はどうなるの?
怖いと思う気持ちと、このままいっそ流されてしまいたいと思う気持ちが私の中で混在していた。
「ブルー……。ブルー」
私はブルーの名を呼んだ。私はブルーに、優しく撫でる指や唇を止めて欲しいと思っているのか、止めて欲しくないと思っているのかも解らぬまま、名前を呼んだ。
私の目には涙が溜まっていた。
不意に優しく抱き起こされて、きつく抱き締められた。息が止まるほどに強く。
「ごめん、もうしない。だから、泣かないで。俺が欲しいのは体だけじゃない。紅の心も体も全部欲しい。このまま続けても、それはそれで気持ち良いかもしれないけど、それだけだ。それじゃ、意味がない」
耳元で聞こえるブルーの声がとても悲しげで、泣いているのかと思った。
「怖いよ、ブルー。怖かった」
「ごめん、紅。ごめん、ごめんな……」
本当に私は怖かったんだろうか? ブルーに対して恐怖感を抱きはしなかった。初めてなのに。こんな状況になるのも、男の人に体を触られるのも、甘い声が漏れてしまいそうになるのも全て初めてなのに、私はブルーを怖いとは思わなかった。怖いのは流されそうになる自分。気持ちがきちんとしない自分。悪いのは、ブルーじゃない。はっきりしない自分。イヤも好きも言えない自分。
だから私は……。
「ブルー。私が、今、好きなのはマスターなの。だけど、これからブルーのことをもっともっと知ったら、私の気持ちがどう変わって行くのかは解らない。どんなにブルーのことを知っても、やっぱりマスターが好きだって思うかも知れないし、もしかしたらブルーを好きになることだってあるかもしれない。だから、教えてブルーのこと。ちゃんと知って、見て、感じて、考える」
ブルーの胸に押しつけられて、くぐもった声。
私はブルーと向き合うと決めた。
私がいつもブルーに言って来た言葉、『マスターが好きだから』。これは、いい訳だと思う。だって、私はブルーのことを何も知らない。知ろうともしないで、見ようともしないで、ブルーを避けるのは、駄目なんだと思う。ブルーをよく知った上で、それでもマスターが好きだったら、その時はきっとブルーも納得してくれるんじゃないかと思う。
もしかしたら、マスターよりももっともっとブルーのことを好きになることだってあるのかもしれない。
先のことは正直解らない。でも、始めようと思う。怖がってちゃ駄目なんだ。
「私の結論が出るまでは、今日みたいのは駄目だからねっ。解った?」
不思議……。本当に不思議。たった今、私はブルーに襲われそうになったのに。普通なら、この場を泣きながら駈け出して行く場面なんじゃないかな。だけど、ブルーの傍にいても怖くない。安心出来るって言ったら変なのかもしれないけど、うん、それに近い気持ちなんだと思う。ブルーに襲われそうになったとは、どうしても思えないのだ。
「キスは?」
「キスは……駄目?」
何で疑問形? って自分で自分に突っ込み入れたくなっちゃう。私はブルーに甘いのかもしれない。だって、今目の前で、ブルーのお願いモードのうるうるした瞳で見詰められたら、それ以上強く駄目とは言えないんだもの。
「たまになら……ね」
結局、ブルーの瞳に負けた私は、キスを承諾してしまったわけで……。きっと、ブルーのことだから、たまにな筈はないわけで……。
でも、まっいっかぁ。なんて、思っちゃ駄目なのかな。
「紅。ありがとう」
今日一番の笑顔をブルーは惜しげもなく見せつけた。
「いつも思ってたんだけど、ブルーにだけは、いつも本当の名前で呼ばれてる気がする。みんなは、ベニってカタカナで呼ばれてる感じがするのに、ブルーだけいつも漢字で紅って。気のせいかな?」
「気のせいじゃないよ。紅って漢字だろ? 好きな子の名前は特別だから。俺だけはきちんと呼びたかったから」
散々好きだ好きだと言われ続けているのに、好きな子って言われると体が痒くなるほどに恥かしい。
「へぇっ、そうなんだ」
照れ隠しが、つんけんした物言いになってしまった。
「そうなんだよ」
高慢ちき男なブルーはどこかに姿を消えてしまっていた。柔らかな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。今までにないほど落ち着いて見える。無表情なわけでもなく、意地悪なわけでもなく、極度に照れ屋なわけでもなく、笑顔が印象的な、本当に普通の男の子のようだ。
「今のブルーが本当のブルーなの?」
私は不思議に思ってそう尋ねた。
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。今まで俺は、無表情で無愛想な俺が本当の俺だと思っていたんだ。自分も勿論、周りもそう思っていた。まあ、今でも紅以外の前では、無表情で無愛想だから、こんな俺は紅しか知らないけどね。だけど、紅と出会ってからの俺は、俺であって、俺じゃないみたいだ。自分でも解らない。どれが本当の俺なのか」
苦笑して、そう口にするブルー。
こんな風に色んなブルーが出てくるのは、私のせいなのかな。それとも、本当のブルーは今みたいな男の子で、何かがあって笑わない無表情で無愛想なブルーになってしまったんじゃないか。
「ねぇ、ところで課題はもう終わったの?」
「ああ、もうプリントして終わりだよ。安心したらつい寝ちゃったんだ」
そう言って笑った。
「前にもいったと思うけど、いつもそうやって笑ってたらいいんだよ。私、ブルーの笑顔、凄く好きだよ」
私も笑顔を返した。ブルーは照れ臭そうに鼻の頭をかいていた。
私とブルーの間にあった何かがどこかに吹き飛んでしまったような気がした。
もう私はブルーの傍にいても怯えない。怖くない。そう思えるようになった。
私は午前中いっぱいブルーの部屋にいた。あの後すぐに帰ろうとしたけれど、ブルーが放してくれなかった。
ブルーは、私を抱き締めたまま寝てしまって、気付けば私もブルーの胸の中で寝ていた。何もイヤらしいことはなくて、ただ、二人兄弟のように寄り添って寝ていた。私は、本当に安心して寝ていたし、ブルーも穏やかな表情で寝ていた。
目が覚めた時、目の前には私を見つめているブルーの顔がドアップであって、有無を言わさず短いキスをされた。