第103話
「紅ちゃん。奈緒はもう大丈夫だよ。俺がついてるからね」
自信に満ちた名取さんと名取さんの隣で安心しきっている奈緒さんの表情を見ていたら、涙が溢れてきた。我慢しようとするのだけれど、溢れてくる涙を止めることは難しかった。
「やだ、紅ちゃん泣かないでよ。紅ちゃんに泣かれたら私……」
奈緒さんの瞳にもじわりと涙が溢れだし、止まらなくなってしまったようだ。
「仕方ないなぁ、君たちは。俺が二人を泣かした色男みたいに見えるじゃないか」
名取さんの言うとおり、喫茶店内では、名取さんを白い目で見る女性の姿がちらほら見られた。
大方、二股かけた男の修羅場とでも思っているのだろう。
「ごめんなさい。名取さん」
居心地悪そうに、それでも私に微笑みかけてくれた。その時、私の携帯が鳴りだした。
青からだった。
この場で、名取さんと奈緒さんが目の前にいる場で出てもいいんだろうか。この場じゃなく、席を外したとしても二人には恐らく気付かれるだろう。
携帯画面の青のアドレスを見ながら、思案していた。
「紅ちゃん。青だろう? 俺達に遠慮はいらないからここで出て構わないよ。それで、君さえ構わなかったら俺に代わってくれないかな?」
頷いて、奈緒さんを見た。
奈緒さんも笑顔を見せてくれた。
「もしもし、青?」
『うん、俺。今どこにいる?』
「今、喫茶店に来てるよ」
『喫茶店? 誰かと一緒にいるの?』
「うん。名取さんと奈緒さんと一緒にいる。名取さんが話したいって言うから代わるね」
そう言って、携帯を名取さんに渡すと、名取さんは口をパクパクさせて、「ありがとう」と意思表示をした。
「よお、久しぶりだな青。もしかして、俺らのこと忘れたんじゃないだろうなぁ」
青の声は聞こえないが、名取さんの表情は明るい。
「もういいだろう。過去のことは。俺達は幼馴染なんだ。あんなことで縁を切るなんて言わないだろうな? 今暇なら出て来いよ。紅ちゃんにも会いたくて仕方ないんだろう?」
最後の台詞の後に、私には聞こえない声で、名取さんは青に何か言ったようだった。
青が何かを言ったのか、ケタケタと名取さんは笑った。
「これから来るって、青。きっと物凄い速さで来ると思うよ」
携帯を手渡しながら、堪え切れずに笑いが漏れていた。
「青に一体何て言ったんですか?」
「それは内緒。帰ったら、青に聞いてみるといいよ」
可笑しそうに、腹を抱えて笑いだした名取さんを私は不思議な顔をしてみていた。
「もう、青をいじめたら可哀想じゃない。すぐ本気にとるんだから。紅ちゃんのことに関しては、特にそうなんだから。あんたもしかしたら殴られるかもしれないわよ?」
殴られる……?
一体名取さんは青にどんな凄いことを言ったっていうんだろう。
奈緒さんに窘められても、いぜん笑い続ける名取さんに呆れた笑顔を向けていた。
喫茶店の中のお客さん達は、泣いたり笑ったりと煩い私達を、迷惑そうな顔をしてみていた。
5分くらいたった頃だろうか。
血相を変えて倒れ込むように入って来た青が、喫茶店の中に入ると一目散にこちらにかけてくると、私をきつく抱き締めて、名取さんを鋭く睨んだ。
「紅。大丈夫? 名取に何かされなかった?」
「へ、平気だよ。ただお喋りしていただけだもの。一体何があるっていうの? 名取さんはさっき電話で何て言ったの?」
青は私の言葉を聞いているのか、いないのか。私の体を隈なく調べて行く。
こんな、念入りに私の体を調べなきゃならないほどの何を名取さんは言ったっていうんだろう。
「もうっ、青。聞いてるの。私、名取さんに何もされてないってば。とにかく座って」
少しキツめに叱りつけてみたが、私の体を放す気はないようだ。それでも、私の体を抱きしめたまま席に座る。座りにくいから放せばいいのに。
「名取お前。一発殴んなきゃ気がすまない。冗談でも、あんなこと言うなんて最低だぞっ」
「そうでも言わなきゃ、お前はここに来なかっただろう? いつまでも、自分だけが悪いって俺達の前に顔を出そうともしなかったんじゃないのか?」
恐らく、名取さんが言っていることは正しい。
青は、もしかしたらこの二人には二度と顔を合わせられないと思っているんじゃないかと、ずっと思って来た。
あれ以来、二人のことを口に出すこともしなかった。口に出すことさえも、自分に禁じていたのかもしれない。
「確かにそうだな。俺は二人に合わす顔がないと思ってた。俺はもう、二人と会わないつもりでいた」
「逃げるのか? 俺達から。お前が悪いんじゃないだろう? お前が奈緒を好きになれなかったのも、紅ちゃんしか好きじゃないのも、奈緒を助けてやりたいと思ったのも、全てどうしようもないことなんじゃないのか? たとえ、何度同じ場面に出くわしても、お前は同じことをすると俺は思うよ。人の気持ちはどうしようもないだろ? お前に何が出来たって言うんだ? お前は悪くない」
「そうよ、青。あなたが悪いんじゃないのよ。私がいけなかったの。父が死んで、あまりに悲しくて、どうしても誰かに傍にいて欲しかった。それが、青、あなただったらどんなにいいかって、どうしようもない夢を抱いてしまった。心が弱ってたからなの。今は、そんなこと思ってない。青と紅ちゃん。二人、幸せになって欲しいって思ってるのよ。それにね、私にはもう、好きな人がいるもの。青が罪の意識を感じることはもうないの。私、そんな風にずっと思われるのごめんだからね」
名取さんの袖をちょっとだけつまんで、私の好きな人はこの人なのよってアピールする。
目を見開いて、そんな二人の様子を見ていた青。
「好きな人って、名取なのか?」
「そうよ。ずっと、傍にいて欲しいって思える人。私もちゃんと見つけたの。だから、もう心配も負い目を感じることもしないで。ね?」
青の表情がふっと軽いものになったのを私は見逃さなかった。
奈緒さんに負わせてしまった傷は消えることはない。それでも、幸せそうに微笑む奈緒さんを見ることは、青にとってこの上ない救いとなるだろう。
「良かった。良かったな」
「だから、俺達のことはもういいんだかんな? 俺達を、結婚式に呼べよ」
「結婚式……、来てくれるのか?」
「「勿論」」
二人の即答に、青は泣き出しそうな表情を浮かべた。
少しずつ、少しずつ、青の背中に乗っていた重荷が落とされていく。
家族のこと、奈緒さんのこと。
「あっ、そうだ。実は、私が二人に今日会いたかったのはね、これを渡したかったからなの。これ、挿絵を私が描いたの。この絵本を、奈緒さんにどうしても読んで欲しいって思った。この文を読んだ時、一番に奈緒さんに読んで欲しいって思ったんだ。だから、受け取ってください」
ずっと、奈緒さんにこの絵本を送ることを決めていた。初めて、今村先生の文章を読んだ時から。きっと、大事なお父さんを失った奈緒さんの心に響く内容だと思ったから。だから、一生懸命奈緒さんに伝わるようにって、絵を描き進めて来た。
「紅ちゃんが?」
「はい。この本が、奈緒さんの力になればいいと思って。とても、素敵なお話なので、読んで下さい」
「ありがとう。嬉しいわ。今夜、二人で読んでみるわね。本当は、今すぐ読みたいけれど、我慢するわ」
奈緒さんの力に、少しでも生きる希望になることを願っている。
青が私の頭をくしゃりと撫でた。見上げるとそこには、いつもの優しい笑顔があった。
次回、最終回です。