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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
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第100話

「ええっ、私?」

 まさか自分が出てくるとは思わなかったので、素っ頓狂な声をあげていた。今村先生の話を聞いて、口説いてばかりの人じゃなかったんだと感心していたせいでぼへっとしていたせいでもあるのだが。

「馬鹿。お前が俺の尻を叩いたんだろうがっ」

 いえいえ、そんなことした覚えはないんですけど。

「お前に自覚があろうが、なかろうが、俺がそうだって言ったらそうなんだよ」

 納得いかないなと思っていた私に面倒臭そうに言い放った。

「とにかく、俺はもう大丈夫だから。父さんのことも母さんのことももう嫌いじゃない。母さん、俺母さんを傷付けた。ごめん。どうやって償えばいいのか解らない。でも、少しずつ親孝行させて下さい」

 お母さんの瞳には涙が浮かんでいた。リビングに来る前からつないだ手は今もなお私の手の中にあって、お母さんがあまりに強く握るので、放すに放せなくなってしまった。唯一縋り付けるものが私の手だと言うように、きつくそして少し汗ばんでいた。

「俺は、小さい頃から父さんにも母さんにも愛されていないんだって思っていた。最初は気を引こうと、あれこれやってみたけど、そのうち諦めた。段々上手く笑えなくなってしまった。バラバラになっていく家族をただ何も出来ずに見ていた。俺は弱かった。傷付きたくなかった。俺をみているようで、決して俺自身をみてはくれない母さんから逃げたくて、家を出たんだ。今、俺を支えてくれる人がいるから強くなれる。もう、逃げたりしない。俺は家族がまた一つになれたらって思うよ」

 まるで自分の子供の雄姿を見つめる母親になった気分だった。青が一瞬だって俯かずに、自分の気持ちを言えたことが頼もしくて仕方なかった。

 お母さんの手が一際強く握られた。

「私もお父さん(桔梗さんのこと)も、貴方たちをもっと自由に育てるべきだった。貴方たちに苦しい少年時代を送らせてしまったのは全て私達なのよ。紫苑。あなたが謝る必要なんてないのよ。悪いのは私達なんだから。ごめんなさい。本当に。青。あなたにも謝らなくては。長い間不快な想いをさせてごめんなさい。でもね、私達はあなたを心から愛していたのよ。紫苑を縛るように育ててしまった私達は、もう後戻り出来なかった。あなたには自由に育って欲しかった。あなたたちには、いくら謝っても謝り足りないくらいなの」

 お母さんははらはらと涙を流していた。それでも一生懸命に言葉を紡ぎ、青と紫苑さんに頭を下げた。

 体は震えていた。だが、言葉はとても強いものに感じた。

「私と母さんは、お前たちにしなくてもいい苦しみを与えてしまった。恨まれても仕方ないと思ってる。だが、もう一度家族としてやり直せないだろうか?」

「「当たり前だ。俺達はその為にここに来たんだ」」

 青と紫苑さんの声が重なった。

「もう恨んでなんかない。話したらすっきりしちまった。過去のことはもうどうでもいい。なんて、俺は母さんに酷いことしたんだからそれは忘れやしないけどさ。それ以外のことは全部忘れちまった。覚えてるのはいい想い出だけだ」

 紫苑さんの口元には、笑顔が浮かんでいた。

 それを見ているお母さんの涙は恐らく視界を霞めているに違いない。

「やっと過去は精算された。それでいいんじゃない?」

 青の口元も綻んでいた。

「私達は良い息子を持って幸せ者だ。なあ、母さん」

「ええ、そうね」

 桔梗さんの目尻には涙が浮かんでいたが、笑っていた。その涙は悲しいものじゃなかった。

 お母さんも激しく泣いていたが、二人を見て全てを思い出した時の悲痛なものでは、もはやなかった。

「なんでお前まで泣いてんだ」

 紫苑さんの呆れた声に、酷い鼻声で答えた。

「だっでぇ、よがっだよぉ」

 こんな場面に立ち合って泣かないわけがないじゃないか。

 私の願いが叶った瞬間なんだもの。

 青が私の元へ寄ってくると、ふんわりと私を包んでくれた。

「あお……」

「ありがとう。紅」

 耳元で囁かれる言葉に首を横に振る。私は何もしてない。ただ私は見ていただけなんだ。

「紅がいなかったら、自分の気持ちを伝えられたか解らない。紅がいたから、落ち着いていられた。だから、紅のお陰なんだよ。素直に俺の感謝の気持ち受け取って」

 私がこくっと頷けば、「いい子だ」と言って頭を撫でた。

 まるで子供みたいな扱いに普段なら憤慨するところだが、くしゃりと撫でられた頭に乗っている青の手が震えているのに気付いて、怒ることは出来なかった。

 青、緊張してたんだね……。そりゃそうだよね。あんなに恐れていたんだものね。頑張ったね、青。すごく格好良かったよ。

 その言葉は、二人きりになった時に言ってあげるね。だってここには、みんないるから恥ずかしいもの。

「私、お茶を入れ直すわね。すっかり冷めちゃったわよね」

 お母さんは立ち上がったが、その瞬間、ぐらりと傾いて、それに瞬時に気付いた桔梗さんの腕の中に倒れこんだ。

「母さんっ」

「あっ」

 紫苑さんの叫び声に、私も小さな叫び声を上げた。青が息を呑む声がはっきりと私の耳に届いた。

 お母さん、やっぱり無理してたんだ。

 私や桔梗さんがいくら無理をしないように言ったところで、無理をしない人ではないと感付いていたのに、配慮が足りなかったんだ。お母さんをリビングに連れて来るんじゃなく、私達が、寝室で話をすれば良かったと今更ながらに思う。

「大丈夫だよ。少し疲れただけだろう。横になればすぐ良くなる」

「俺がおぶってく」

 紫苑さんの申し出に、桔梗さんが少し迷いを見せたが、紫苑さんが二人の前にしゃがむと、お母さんを紫苑さんの背中へおぶらせた。紫苑さんがお母さんを持ち上げた瞬間、驚いた顔をして桔梗さんに振り向いた。

「母さんは、ちゃんと飯食ってんのか?」

「母さんは元々食が細い。年のせいか最近ではさらに食べられなくなった」

「体調をよく崩されるんじゃないですか?」

 私が声をかけると、こちらを見て少し目を見開いたが、すぐに目線を逸らし俯いた。

「ベッドの横に置いてある椅子。枕元に置いてありましたよね? あれは桔梗さんがお母さんを看病する時の為のものなんじゃないかと思ったんです。そうでなければ、あんな所に椅子を置いておくでしょうか」

「君たちが心配すると思って言わないでおこうと思っていたんだが。紅さんの言うとおり、近頃は床に伏せることが多くなった。体にはどこも悪いところはない。医者は精神的なものだろうと言っている。紫苑、母さんは酷く軽いだろう?」

「ああ」

「私もいつも驚くんだ。こんなにも軽いのかとね」

 桔梗さんの悲しそうな声に胸が痛む。

 精神的なもの……。

 紫苑さんや青のことを忘れていたのなら、心が痛むことなんてないような気がする。

 ましてや、この夫婦の間には、不安要素はなさそうなくらい仲が良さそうに見えた。そこは、疑う余地もないだろう。

 ならば、もしかしたら、お母さんは本当は何も忘れてなどいなかったということではないのか。忘れてしまったふりをしていた。そうしなければ、精神的に耐えられそうにないと判断したのではないか。

 私達は、お母さんをベッドに運んだあと、家を出た。私達三人はそれぞれに思うことがあるのか、無言で帰路に着いた。


100話達成ですっ! 皆さま、いつもありがとうございます。

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