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赤青鉛筆  作者: 海堂莉子
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第1話

 駅の南口から出て、一本入った路地にその店はあった。

 小さな扉の横にあまり目立たない看板だけがあり、その店がどんな店なのかを知る人は限られている。

 常連客が集う店。常連客が友人を連れて来て、そして、常連客の輪が広がって行く。

 バー『Baby Kiss』は、私のアルバイト先である。バーと言ってはいるものの、その雰囲気は家庭的で、どちらかと言えば居酒屋に近いものがある。お飾り程度にダーツが置かれ(これはバーっぽい?)、最新ではないカラオケも置いてある。ダーツをやっている人をあまり見ないし、カラオケを歌う人も限られている。そんな、まるで錆びれかけのようなあまりお洒落とは言えないバーで、私は働いていた。

 扉を開き、足を踏み入れた。

 私の勤務時間は夜の7時から12時まで。

「ごめ~ん。マスター、また遅れちゃったぁ」

 私がそういうとカウンターからマスターが顔を出した。

「おぉ、ベニ。今日も遅かったな」

 私は遅刻魔で、毎度のように遅刻していた。

「今日は真っ当な理由があるんだよ。電車が人身事故で止まっちゃったの。駅でずっと待ってたんだから。だから、許してっ」

「まあ、いいけどよ。あんま酷いと給料減らすぞ」

 カウンター越しのマスターはトレードマークの銜え煙草を燻らせながら、恐ろしいことを言った。

「ごめんなさいっ。気を付けますですっ」

「ふんっ、よろしい。努力しろ」

 マスターは銜え煙草が落ちないように器用に口の端だけ上げてニヤリと笑った。

 この『Baby Kiss』のマスター、滝川庸司たきがわようじ(35)は、一年前に私を保護し、この店で雇ってくれた言わば恩人のような人だ。


 一年前。

 私、板尾紅いたおべにが18歳の時、両親が離婚することを決意した。その事実を受け入れることが出来なかった私は夜な夜なほっつき歩いていた。

 ぴっちぴっちの女子高生が一人で歩いていて良く襲われなかったものだと、当時を思い出しては肝を冷やしている。

 酒を浴びるように飲み、補導されかけた私をマスターが保護し、介抱してくれた。

 店に入ってすぐ左にカウンター席があり、その奥にテーブル席が設けられている。低めのテーブルに、堅めのソファ。私はそのソファに寝かされていた。私は寝ながら聞こえる客たちの声を子守歌代わりににして眠っていた。

 そして、明朝酷い頭痛と、酷い吐き気で私は目覚めた。昨夜の記憶などまるでなく、今自分がどこにいるのかさえ理解出来なかった。

「よう、目覚めたか? その様子じゃ二日酔いだな。気持ち悪いならトイレ行って吐けよ」

 初対面の男にそう言われ、私は最初、如何わしい店に保護されてしまい、これから自分は体を売って暮らしていかなければならないんじゃないかと思い、怖れおののいた。だが、その男を警戒して体を強張らせた途端、強烈な吐き気に襲われ、私はトイレに駆け込んだ。

 胃の中の物が何度も何度も迫り出して来て、私は本気で死ぬかと思ったものだ。便器に顔を突っ込んで、何度も吐きながら、二度とお酒なんか飲むものかと思っていた。マスターはそんな私の背中を摩り、文句一つ言わずにずっと付いていてくれた。

 漸く酔いからさめた頃、私はここがバーである事を聞かされた。

 マスターはこの店に住んでいた。私はこの店に勝手に居着いた。マスターは私の事情を聞くこともせず、そんな私を目視していた。

 私がこの店に居着いて1週間ほどたった頃、マスターが言った。

「一旦家に帰れ。何があったか知らないが、お前には帰る家があるんだろう? ちゃんと家から通うならお前をこの店で雇ってやってもいい」

 マスターにそう言われた私は、大人しく家に帰った。自分の中で、そろそろ帰らなきゃならないことは解っていた。一過性の家出のようなもので、こんなことを私がしたからといって両親の絆が戻るとは思っていなかった。それを夢見るほど、私は子供ではなかった。ただ、この歳にして初めての家出だったものだから、帰るタイミングっていうものを図りかねていた。

 マスターがティーンエイジャーの微妙な心理を見抜いての気の利いた発言だったのかは定かではないが、私はそれに乗っかって家に帰ることにしたのだ。

 家に帰ってから暫くは色々と大変だったけど、その辺の重い話は割愛することにする。

 とにかく、両親は離婚し、私は母と二人暮らしとなった。そして、私は再びここを訪れ、ここで雇われる事になったのだ。

 高校を卒業してからは、家を出て、一人暮らしをしている。母一人ならば、傍にいるべきだと思うのだが、再婚秒読みの彼氏が入り浸っているので、半ば追い出されるように家を出たのだ。

 マスターは言わば私の恩人でもあるが、父親でもあり、そして、私の想い人でもある。


「お疲れ、ブルー。今日も愛想ないよね。ちったぁ、笑いなよ」

 まだ客のいない店内を吐き掃除していたブルーこと杉田青すぎたあおに声をかけた。クールでカッコいいと持て囃されているブルーだが、私からしてみれば、表情が乏しい無愛想な巨男って感じなのだ。クールでも何でもありゃしない。

 2週間前からアルバイトとして入ったブルーだが、未だに一度も笑顔を拝めていないような気がする。そんな無愛想な男なのにも拘わらず、ブルー目当ての常連客が増えていたりする。得体の知れない21歳の大学生だ。

 私は休憩室(ロッカールームなんてものはここには存在しない)に鞄を置き、エプロンだけ掛けて準備完了。

 フロアに出て、マスターに声をかける。

「マスター、何すればいい?」

 厨房で鍋を掻きまわしていたマスターは一瞬考えてから言った。

「まだ暇だから、二人とも飯食っちまえよ。何が食いたい?」

 この店は、大抵9時あたりから客が入り始める。それ以前に客が入るのは非常に稀なのだ。

「私、オムライスがいいっ」

「本当、お前はお子ちゃまだねぇ」

 鍋の火を消して、カウンターまで出て来たマスターが私の頭を良い子良い子と撫でながらそう言った。

 私はその手を振り払い、

「誰がお子ちゃまじゃ、子ども扱いすなっ、おっさん」

 と、叫んだ。

 マスターは35歳で、目つきがちょっとばかし鋭い所を除けば全体的に整った顔立ちをしており、見た目が若々しい為、20代に間違われる事もある。勿論、お客さんの中にはマスターを恰好良いと騒いでいる人たちもいる。モテるのは、ブルーばかりではないのだ。おっさんって言ったのは所謂冗談ってやつだ。本気でおっさんだなんて思っているわけではない。そして、頭を撫でられたことへの照れ隠しでもある。

 大人なマスターは、私がどんな暴言を吐いても笑って許してくれる。大人の余裕ってやつだろう。

「解った解った。吠えるなよ、ベニ」

 煙草を銜えた口の端でにやりと笑った。

 マスターはいつも煙草を銜えたままにやりと笑う。それはそれで嫌いじゃないが、一度だけ煙草を銜えずに笑った顔を私は見たことがある。

 私が家出から家に帰る時、

「絶対ここに戻って来て働くんだからっ。他の子雇わないでよ」

 そう言った私に、「待ってるよ」と、煙草を右手の指で摘まみあげると大きく笑った。私は男の人があんなに大きく笑ったのを見たことはなかった。そして、私はあの笑顔に堕ちたのだ。


皆さんこんにちは。海堂莉子です。

新連載、始りました。実は、この作品のバーは、私が昔よく行っていたお店をモデルにしています。自分に似通ったキャラクターも出て来ます。

基本的には、平日更新、土日祝日休みですが、急遽お休みこともあるかもしれません。

頑張ってまいりますので、宜しくお願いします。

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