残照
Ⅰ
「母、美千代は長く病床にありましたが、昨年九月、永眠いたしました。いつも同窓会のご案内をいただき、ありがとうございました」
同窓会の出欠ハガキが返って来た。前田理恵の署名があった。きれいな字でしたためられていた。
麻也は、もう五年、同窓会の事務局をやっている。関東からUターンし、それまでの不義理を詫びようと、同窓会の幹事を引き受けたのだった。
故郷を離れておよそ四十年が経っていた。生家は廃屋となりはて、古い市街地に土地を買い、家を建てていた。
美千代からの出欠の回答は、はじめてだった。
美千代はあの出来事をすっかり忘れ去っていたのか。それとも断片くらいは記憶にとどめていたのか。麻也には、もう確かめようがない。
一学年五十人あまりだった。山あいの狭い校地に、幼稚園から中学校まで同居していた。麻也たちのころは、ベビーブームの余波で、教室には多くの子供たちがあふれていた。
麻也の生まれ育った三足村は、全戸数が二十一軒。村に同級生が八人いた。美千代はとなり村だった。
美千代は内気で目立たない子だった。これといった特徴のない子ではあったが、ある時、クラスは驚嘆した。教室の後ろに生徒の硬筆が貼り出されていた。
「何、これ! 印刷したような字やない」
美千代の書いたものだった。印刷物と見分けがつかなかった。
中学を卒業すると、八割近くが就職し、残りが進学した。
三足村は街道から山深く入ったところにあり、麻也の生家は村の最奥部に位置していた。麻也の両親は「どっちにしても下宿して高校に通うのなら」と、地元ではなく、百キロほど離れた都会の高校に入学させた。
慣れない都会生活だった。毎日、下宿と高校を往復するだけ。下宿で三足村のことを思い、涙を流したこともあった。
寂しさを紛らわそうと、何人かの幼なじみに手紙を書いた。その中に、美千代がいた。
「美千代から返事が来たら、どんなに慰められることだろう」
麻也は心底そう思っていた。
美千代から手紙が来た。しかし、そこにはあの美しい字は見られなかった。二、三か月でこんなに変わるものだろうか。麻也の落胆は大きかった。
返事を書くと、その返事が来た。何回かやりとりするうち、わが目を疑う手紙が届いたのだった。
「……トイレは寮の端の方にあって私の部屋からは遠いの。だから、できるだけ我慢し、溜めておいてトイレに行くの」
美千代は中学を卒業後、兵庫県の郡部にある紡績工場に就職した。
当時、中卒者は「金の卵」と、もてはやされた。時代は高度経済成長の真っただ中にあった。好景気を背景に、高校進学者が急増し始め、企業は若年労働者の確保に躍起になった。福利厚生にも力を入れ、地方出身者のために寮を設け、定時制高校や企業内の訓練所に通わせたりもした。
同年配の者と起居を共にするとはいえ、十五、六の少年少女たちにとって安楽な毎日ではなかっただろう。
美千代に何かが起きていた。しかし、遠く離れた麻也にはどうすることもできなかった。麻也は返事を書くのをやめた。
Ⅱ
六月のある朝早く、麻也の義姉は家の門に少女がたたずんでいることに気付いた。あまり見慣れない子だった。
「どこから来たん?」
義姉が聞くと、少女は答えた。
「となりの村から」
「何の用?」
義姉の問いに少女は無表情の顔、抑揚のない声で応じた。
「麻也ちゃんは?」
「麻也はな、下宿して高校へ行っとるけん、夏休みには戻って来るよ。夏休みにまたおいで」
麻也の同級生の美千代だった。
「うん」
と言って、美千代は帰って行った。
翌朝も、美千代は門にたたずんでいた。
「家の人は? 心配してない?」
義姉は美千代に聞いた。
「お父さんは帰って来ん。お母さんは朝早くから仕事に行っとる」
「麻也はな、夏休みになったら戻るけんな」
義姉の言葉に美千代は
「うん」
とだけ答え、背を向けた。
これが、何度、繰り返されただろう。
美千代の家と麻也の家は速足で歩いても一時間は優に離れていた。それを毎日、通って来たのだった。
美千代は目に見えて衰弱してきた。途中には深い谷があり、欄干のない土橋がかかっている。ふらふらと帰って行く後ろ姿を、麻也の義姉は心配そうに見守っていた。
麻也が夏休みになるのを待たずに、美千代は近くの町の病院に入院した。
一学期の終業式を終えるとすぐ、麻也は汽車で自宅に帰った。受験勉強から解放され、今年こそは夏休みを満喫したかった。はやる気持ちに水をかけたのは、義姉から聞いた美千代の話だった。
自分の知らないところで、毎朝そんなことが繰り返されていた。麻也の心は乱れに乱れた。麻也はいてもたってもいられず、美千代を病院に見舞った。
病院には真夏の太陽が照り付けていた。病室に通されると、外からの風がカーテンを揺らしている。大部屋に三、四人の入院患者がいた。
美千代はベッドに身を起こしていた。
「やあ」
麻也は努めてさりげなく声をかけた。美千代の心の動きを読み取ろうとしたが、表情には何の変化もなかった。
「来てくれたん?」
美千代は能面のような顔で言った。
「うん。夏休みになったからな」
麻也は思わず美千代の肩に手をかけそうになった。
「ふーん」
やはり、美千代は現実との接点を失っていた。
それが美千代を見た最後だった。
Ⅲ
「お母様のご逝去、さぞかし心痛のことと存じます。是非とも墓参などさせていただきたく、命日とお墓の場所を教えていただければ幸いです」
麻也は、美千代の娘、理恵に宛てたハガキの下書きをした。何度か読み返し、「是非とも」の前に「近くにうかがいました折には」と挿入した。
理恵から、簡単なハガキが来た。命日は九月一日、墓の場所は美千代の生まれた村になっていた。
九月一日、麻也は三足村のとなり村の墓地に足を運んだ。墓地は山や川が見渡せる小高い丘の上にあった。この村も消滅寸前であり、墓地は荒れ放題だった。
美千代のそれはすぐに分かった。しかし、ほかの墓と同じく、周囲は高い草におおわれていた。
二基の卒塔婆が立っていた。ひとつは美千代のもの。施主は山崎ハルとなっていた。山崎とは美千代の旧姓。ところが、もうひとつの卒塔婆は山崎ハルのものだった。美千代と同じ年の十二月二十五日に亡くなっていた。こちらの施主は前田理恵。麻也には事情が呑み込めなかった。
草を抜いて、墓を掃き清め、焼香した。
「いろいろ大変だったね。ゆっくり休むんだよ」
長い間、黙とうした。
思い出がよみがえって来た。
桜の咲く校門を、緊張しながらくぐった小学校の入学式。
庭の丸い池を取り囲むように、木造の校舎が建っていた。
新緑の季節が去ると、ねずみ色のベールが垂れる。梅雨明けを待ちかねて、川遊びに行ったものだった。
男の子も女の子も、真っ黒に日焼けして教室に戻って来た夏休み明け。
秋は周りの山が真っ赤に紅葉した。畑焼きの煙が村に流れ、やがて、雪が遠くの山から冬の来たことを告げた。
冬の教室には、だるまストーブが焚かれていた。燃え盛るストーブの上にアルマイトの弁当箱を乗せて温め、昼食時間を待った。
そして、教室に貼りだされていた美千代の硬筆。あんなにも美しい字が書けたのだ。
「山谷さん……」
背後に人が忍び寄ったことに気付かなかった。肝をつぶされたように振り向くと、美千代が立っていた。麻也は言葉を失った。思わず後ずさりした。
「びっくりしましたか。ごめんなさい。私、前田理恵です。美千代の娘です」
それにしてもよく似ていた。
理恵は墓参りを済ませ
「ちょっと、よろしいですか」
と、ゆるやかな斜面に麻也を誘った。二人は腰を降ろした。
「母は前田家の代々墓には入れてもらえませんでした」
理恵は語り始めた。
Ⅳ
美千代が結婚したのは二十歳の時だった。となりの県の紡績工場に勤めていた。仲間とショッピングセンターに買い物に行った際、後に夫となる博文に見初められ、猛烈な誘いを受けた。
博文の家は地元の旧家だった。父は公務員をし、アパートも経営していた。博文が中学二年の時、父が他界した。以後、勉強に身が入らなくなり、遊び歩いた。
高校を卒業後、同級生の多くは大阪に就職して行ったが、博文はあるメーカーの四国出張所に就職した。
結婚二年目に理恵が生まれた。美千代はそのころからよく体調を崩して寝込んだ。博文は家にいることはほとんどなく、外泊することも多くなった。
気丈な祖母は何かにつけて美千代に嫌味を言った。
「まあ。最近の嫁は気楽でええなあ。一日寝とっても務まるのやから。博文が帰って来んようになったのも分かるわ」
友達に電話する時でも、美千代に聞こえるように大きな声で話した。
「そうよ。結婚相手の素性はよう調べんといかん。ヘタなのに引っかかったら一生の不作よ」
理恵が二十二の時に祖母が亡くなった。博文が棺にすがり、嘆き悲しむ姿は、参列者の涙をさそった。
しかし、母がいじめられるのを見て育った理恵は、むしろ清々した気分だった。それも束の間、今度は博文が美千代に暴力を振るうようになった。
博文は遅く帰り、大声をあげた。イラついている時の博文は手がつけられなかった。
ある日、風邪で寝ている美千代に腹を立てて、ふすまを蹴破ってしまった。
怒鳴られて、怯える美千代を、博文は執拗に小突き回した。顔をなぐることはなかった。妻への暴力が近所にばれると、体裁が悪かったのだろう。
美千代の父親は、農家の三男に生まれ、ハルと結婚して実家の近くに家を持った。
この地方の多くの家がそうであったように、出稼ぎに行っていた。出稼ぎに出た当初、盆と正月には帰省していたが、美千代が小学校に入学した頃からたまにしか帰らなかった。そのうち、仕送りが途絶えた。ハルが手紙を出すと、転居先不明で返送されてきた。
ハルは次第に夫の実家とも疎遠になった。農協や病院の事務員として働き、美千代を育てた。もっと稼げるからと、町のスナックを紹介されたこともあったが、美千代をおいて夜、働くことはできなかった。
美千代が博文を連れてきた時、ハルは長年の苦労が報われた思いがした。
美千代が恥をかくようなことがあっては、と事前に準備を怠らなかった。
「博文さん。いつもどんなものを食べとるの?」
ハルが電話すると
「お母さん。土地の食材を使った手料理が一番よ」
美千代は笑って答えた。
ハルにしてみれば、都会の人は豪華な肉や魚料理を毎日食べていると思ったのである。
精一杯のもてなしをした。食卓にところ狭しと並べられた手料理を前に、博文は美千代に言った。
「コレ、オレが食べんといかんの?」
美千代は母を気遣いながら言った。
「ううん。博文さんが食べられるものだけでええんよ」
博文は二度とハルの家の敷居をまたがなかった。
ハルは寂しい老後を予感した。娘夫婦に頼ることは許されない。それに、頭を下げて来られても、博文に老後を見てもらう気はなかった。
「死んだら、村の墓地に葬ってもらい、きれいな川の水、四季たたずまいを変える山々を眺めながら、ウチはゆっくり眠るのや」
そう決心したハルは、倹約の末、小さな生前墓を建てた。
Ⅴ
「父との初対面の話は、ハルおばあちゃんから直接聞きました。父は心配りができない人間なのです。ウチのおばあちゃんと言い、前田家の恥をさらすようで、恥ずかしいかぎりです」
理恵は二、三度かぶりを振った。
美千代の実家、山崎の家庭のことは初耳だった。狭い田舎のことであり、大人の間では話題になっていただろうが、子供たちにはあずかり知らぬ世界だった。
「母は五十過ぎから、よく転ぶようになりました」
理恵は続けた。
「あちこちをすりむき、青あざを作りながら『私、おっちょこちょいやから』と、母は笑っていました。ところが……」
理恵は県内の短大を卒業後、地元の銀行に就職した。
相変わらず父は家庭をかえりみなかった。その分、理恵と美千代は平穏な時間を過ごすことができた。
「ただいま」
勤めから帰り、玄関を開けたが、家はシンとしていた。台所を探し、寝室に回ってみたが、美千代の姿はなかった。
「お母さん、出かけたんだ」
そんなことを考えながら、トイレに入ろうとすると、美千代が倒れていた。声をかけると、かすかに反応があった。足元には汚水のたまりができていた。
救急車を呼び、急いで着替えさせた。父にメールし、山崎の祖母にも電話した。
病院で検査をし、病名が分かった。
「脳に腫瘍があります。薬と放射線療法しか治療法はありません。腫瘍のできている場所が悪い。脳幹なので手術はできません」
理恵は博文とともに、医師の説明を受けた。
「妻はあとどれくらいの命なんですか。正直なところを……」
医師は、博文の発言を最後まで聞かなかった。
「奥さんも、ああして頑張っておられるのだから」
容体が安定して来たので、美千代を家に連れて帰った。理恵は勤めを辞め、美千代の看病に専念した。
美千代はウトウトとする時間が増えてきた。簡易トイレを使うことも難しくなり、おむつをした。
ある時、美千代がうわごとを言っていた。
「何? お母さん?」
美千代は目を閉じたまま
「夏休み……」
とつぶやいた。
「夏休みがどうかしたの?」
理恵は美千代の手を取った。
「夏休みに帰る……大きな家……門に大きな樫の木……」
それから食事も摂らず、寝ているだけの時間が二日つづいた。容体を担当医師に知らせたところ、すぐ入院するように、という指示だった。
山崎の祖母もかけつけ、交代で昼夜、看病した。その間、博文は一回、来たきりだった。会社の帰りで腹が空いていたのか、ファストフードでハンバーガーとコーラを買い、病室でひとり食べていた。山崎の祖母は憮然として病室を出て行った。
Ⅵ
「母の葬儀は家族葬で行われました。そこで、父は絶対に許されないことを言い出したのです」
理恵は毅然とした口調で語った。
「『美千代の遺骨は前田家の墓には入れられない』と言うのです。私もおばあちゃんも『なんで』と聞きましたが、父は何も答えませんでした。おばあちゃんは泣き崩れました。しばらくして『分かりました。美千代は連れて帰り、私が建てた墓に入れます』と静かに言って、帰って行きました」
「なんということを!」
麻也は固く拳を握りしめた。
「おばあちゃんは母の遺骨を持ち帰って納骨してから、やせ衰え、ついにその年を越すことはできませんでした。お母さんが呼んだのでしょうね」
山の端を残照が赤く染め始めていた。麻也と理恵はどちらからともなく立ち上がり、車を止めてある場所へと歩いた。
「父は再婚し、この春から若い女性が家に来ています。私は間もなく前田の家を出ます。故郷を離れて、遠くの町で暮らします」
ドアに手をかけ、理恵が麻也の方を振り返った。
「山谷さんの実家って、もしかして、大きな樫の木がなかったですか?」
「ええ。ありました。それが、何か?」
理恵は車に乗り込んだ。
「いや。いいんです。母は、誰よりも山谷さんが来てくださったことを、喜んでいると思いますよ」
理恵の車は静かに山道を降りて行った。
(完)