私と早朝の闘技場
鳥も鳴かぬ日の出前。
空も白みすらしておらず、まだ夜といっても良い頃、私の肩を揺する人がいた。
「アリア、起きて。朝のトレーニングに行くよ」
「うーん、今何時?」
眠気であまり声が出ない。
そして、寒い。ベッドから出たくない。
「そうだね、四時くらいかな。さぁ、起きた起きた」
布団がめくられると同時に、冷たい空気が入ってくる。
「寒いーっ」
私は身を丸めるが、ミリーとの問答や、冷たい空気に少し目が覚めてきた。
「こんなに早い時間からトレーニングするの?」
私は寒さに震えながらベッドの縁に座るようにして体を起こす。
「うーん、普段ならもう少し遅くてもいいんだけど、教えないといけない相手の生活時間と合わせようと思うと、どうしてもこの時間になっちゃうんだよ。さぁ、そんな訳で着替えた着替えた」
そう言うと、ミリーはテーブルに置いてある私の服を指さした。
「服はテーブルの上、洗浄魔術を使ってあるから、綺麗になってるはずだよ。服は脱いだら、昨日と同じように洗浄版の上に置いておいてね」
そう言うと、ミリーは部屋から出ていく。
洗浄版とは、浴室に置いてあった魔法陣の刻まれた石版で、上に置いてあるものを綺麗にする効果があるらしい。
私は着替え終えると、服を洗浄版の上に置き、洗顔用の水が入っている水瓶から洗面器に水を入れ、顔を洗う。
冷たい。
体の熱が一気に持って行かれるような、そんな感じのする冷たさ。
手がかじかむ。
私が、顔を手ぬぐいで拭き、浴室から出ると、玄関が開いた。
「準備はできてるみたいだね。じゃあ、行こうか」
そこには、ミリーと一緒に背の高い一人の少女がいた。
腰まで伸びる長い紺色の髪、目の色は黒で、目の下には隈が浮かび、肌は病的に白い。
身長は百七十センチを超えているようだが、ひょろりとした印象を受ける。
そして、細い体に関わらず、出るとこがしっかり出ていて、とても同年代とは思えない体つきをしている。
「俺はヨル。よろしく・・・」
「私は、アリア・クルードです。よろしくお願いします」
私がそう言うと、ヨルは少し驚いたように目を開き「あ、うん。丁寧にどうも・・・」と返事をした。
そんな私たちを交互に見て、ミリーは部屋の中にいた私の手を取る。
「ほら、挨拶もいいけど、早く早く。時間は限られているんだから」
私はミリーに手を引かれ、部屋を出る。
肌に刺さるような寒さの中、私たち三人が向かったのは、大きな屋根付きの施設だった。
中に入ると、寒さも幾分か和らぐ。
私たちは、控え室と書かれた扉や、観客席はこちら、と書かれた看板を無視してまっすぐ歩を進める。
室内の広さは、直径一キロメートルはあるだろうか、大きな円形になっており、足場は小石混じりの土で、地面がむき出しになっているだけのようにも思える。
円形の足場を囲むようにして作られた、三メートルほどの高台には席が設けられており、座って見学することもできそうだ。
それら全てを屋根に取り付けてある一つの大きな光源が、まるで太陽のように室内全体を照らしている。
「ここは、室内闘技場。まぁ訓練スペースだね。時々、全校集会なんかで使われることもあるけれど、基本は模擬戦をしたり、魔法の練習をしたり、そんな用途で使われるのが殆どさ。そして、ここには・・・、やっぱりいた」
そして、室内闘技場の中央に、一人の人影が見えた。
その人は銀色の剣と赤銅色の剣をそれぞれの手で持ち、袈裟切り、回転しながらの横薙ぎ、急停止からの突き、その技の繋がり一つ一つを確かめるように剣を振るっていた。
「げっ、鬼さん」
小さく呟くヨル。
「あそこにいるのは、スレイニー。学園の生徒会長だよ。毎朝ああやってトレーニングしているんだ」
ミリーはそう言うと、「おーい、スレイニー!」と大きな声で名前を呼ぶ。
その声が聞こえたのだろう、スレイニーは剣を脇に置いていた鞘にしまうと、双方の腰に差し、私たちの方へと歩いてきた。
「ミリーさん、どうかしましたか?」
スレイニーは丁寧な口調で話しかけてくる。
スレイニーの黒色の癖っ毛は左目の上辺りで分けられ、左右に分けられたうち、右側は黒に近い焦げ茶色の目、そして眉まで見えるのに対し、左側の髪の毛は右目を完全に隠していた。
「スレイニーに紹介しとこうと思って」
そう言って、ミリーは私を見る。
「昨晩、ルナに連れて来られた子。アリアっていうんだ。風と水使いで、風がメインなんだって」
私はミリーが言い終わると、「アリア・クルードです。よろしくお願いします」と右手を差し出す。
スレイニーは少し躊躇うようなそぶりを見せつつも、「スレイニーと申します。こちらこそ、よろしくお願いします」と私の手を握る。
その手は何かの皮の手袋が付けられていたためか、少し固かった。
握手を終えた後、ミリーが笑顔でスレイニーに話しかける。
「で、スレイニー。新人が来たんだから、模擬戦するでしょ?」
ミリーの様子からは、少しわくわくした様子が見受けられるが、その言葉に私は驚いた。
「え、そんな模擬戦って」
「そうですね。そうしましょうか」
「ええっ」
ミリーの言葉に、頷くスレイニー。
全くの迷いのない返答に、私は戸惑うばかりだった。
そんな私の戸惑いを察してか、スレイニーは私に話し始める。
「この世界では、戦闘に巻き込まれることが少なくないですから。魔物しかり、人間しかり。その心構えを持っていただくために、私はここ数年、この世界に人が来たら模擬戦を提案しています。無論、無理にとは言いません。ですが、戦闘経験が少ないならば、一度練習しておくことをお勧めします」
スレイニーの言葉に私は首を傾げる。
「この世界には魔物がそんなにいるんですか?」
私の世界では、魔物は巡回兵達によって定期討伐されていて、被害が伝わってくることは殆どない。
あっても、大量発生の予兆があるからと、交通禁止のお触れが出される程度だった。
「ええ、例年魔物による被害が多数報告されています。この学園も例外ではなく、学園外は討伐隊、学園内は自治隊を中心として警戒態勢を整えている状況です。ですので、学園内といっても安全という訳ではありません」
その言葉に、私は突如不安になった。
そんなに危険な世界なんて、考えもしなかった。
自治隊はただの警邏みたいなものだと思っていたし、安全だった私の世界では、実戦なんて当然したことがない。
私の心を見透かしたかのように、ミリーが私の背中をポンと叩く。
「不安なら、準備をしておけばいいのさ。丁度良い相手が目の前にいるんだから、やってみよう」
その言葉を聞いて、ミリーが私をここに連れてきた理由が分かった気がする。
私は、この世界で生きるには経験が少なすぎる。
それを少しでも補おうと、ミリーは考えてくれたのだろう。
嬉しい。
その思いに応えたい、そう素直に思える程に。
「スレイニーさん、模擬戦お願いします!」
私はスレイニーを真っ直ぐ見る。
スレイニーは「ええ、ではあちらでしましょうか」と言うと、闘技場の中央に向かって歩いていく。
私はその後に続く前に、ミリーを見る。
「私の為にありがとうございます」
私の言葉に、ミリーは「いいって、いいって」と笑顔で返答する。
「ミリーが学園トップクラスの実力者である、スレイニーとどう戦うのか見せてもらうよ。スレイニーは別名、鬼と呼ばれているけれど、きっと模擬戦なら大丈夫。頑張れ!」
私は、ミリーの言葉に意図せず固まってしまった。
(学園トップクラス? 鬼? 生徒会長ってだけじゃないの? そう言えば、確かにヨルさんが鬼さんとか言っていたような)
私は心の中で呟きながらヨルを見つけようと辺りを見回すが、ヨルの姿が見えない。
いつの間にか居なくなっていたようだ。
もしかして、スレイニーを見かけてすぐに逃げたのだろうか。
「じゃあ、私はヨルと一緒に観客席で見てるよ」
そう言うと、ミリーは観客席に隠れるようにして座っているヨルを指さし、手をひらひらと振ると入り口へと走っていった。
一人残されてた私は、「アリアさん、こちらですよ」と私を呼ぶスレイニーの声に、ギギギ、と軋むかのように固い動作で振り返る。
そこには、笑顔で楽しそうに体を解しているスレイニーの姿が見えた。
あの笑顔は何を意味しているのだろうか。
人の笑顔がこんなに恐ろしいものだとは、今まで私は知らなかった。