私とルナと異世界と
「そこは、扉ですよ」
彼女の言葉を背に、私は橋から落ちていく。
私の眼前に迫る、水面の満月。
その満月に私の陰は映らず、私が触れたその時も、その輝きは増すことあれど、絶えること無かった。
長かった冬も終わり、運河にかかる架け橋をすれ違う人々は、すれ違いざまに春の訪れに感謝する挨拶を交わしていた。
運河に注がれる雪解け水がチラチラと光り、空には気の早い渡り鳥達が、昨年訪れた餌場を目指して飛んでいく。
運河にかかる架け橋が凍っていて転ぶ、なんて心配も無くなってきた頃。それは、国の魔法教育機関の冬季休業の終わりを示していた。
例年、雪に閉ざされて、閉鎖的な雰囲気が漂う学校から解放され、故郷に戻って家業の手伝いをするのが、学生における冬季休業の一般的な過ごし方だ。
それは、とある十五歳の少女も例外でなく、動きやすい服装の上に着た、学校規定の紺色のローブの襟元をしっかりと留め、今まさに学校に向かおうとしていた。
「はぁ……」
ドアにかけてある鏡を見ると、この世では比較的珍しい、肩まで伸びる黒い髪と、黒い目を持つ少女、アリア・クルードが泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「学校、行きたくないな……」
決して重くない木の扉。それがまるで鋼鉄の分厚い扉であるかのように感じる。
ゆっくりと開く扉。
爽やかな朝、その明るい日差しと裏腹に、どんよりと沈む気持ち。
その鬱々とした気持ちのまま、扉を潜る。
この魔法だらけの世界に私は嫌われている。
全部で十ある属性の内、一人三つの属性を持つのが当たり前の世界で、私は水と風の二つの属性しか持っていない。
そして、魔力は多めなのに、使える魔法は上級魔法でも、中級魔法でも、どれも威力が初級魔法程度しかない。
魔法は高威力・高火力であるべき、とされるこの世界で、この欠点は致命的であった。
そんな、できそこないの私が学校で、いじめの標的にされるのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。
一年生の最初は良かった。初級魔法しか使えなくても当たり前だったから。でも、一年の後半、中級魔法の練習が始まった。
周りが着々と成長する中、どれだけ、どれだけ練習しても、私の魔法に威力は出ない。
何度、魔力切れで倒れただろう。
何度、馬鹿にされ、陰で泣いただろう。
でも、私は救われなかった。
それから、毎日の嫌がらせが始まった。
そして、最後に人は言うんだ。
「見せかけの魔法使い、能無しアリアと言われているのにまだ学校に行くの?」
そう、今みたいに。
学校へ向かう途中、後ろから話しかけられた私の足はそこでビタリと止まった。
誰かが心臓を握りつぶそうとしているかのようだ。
苦しい。
声をかけてきた人物は、クラスメイトの女の子の一人。
振り向けない。
顔が見られない。
怖い。
黙ったままの私、何か言わなきゃ、そう思った時、相手のため息が聞こえて、私の心臓は跳ね上がる。
「あなたは学校、辞めるべきよ」
辞めるべき、その言葉が心に容赦なく突き刺さる。
胸が苦しい。
切ない。
悔しい。
悲しい。
感情がぐちゃぐちゃになる。
私は、その場に居られなくなって、思わず走り出してしまった。
「待ちなさいっ」
後ろでそんな声が聞こえた気がした。
でも、私はそんな声から逃げることしかできなかった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
そう考えているのに、辞めたくないのに、私はその足を学校に向かわせることもできず、ただ走ることしか出来なかった。
私がそれから何をしていたのだろう。
家に帰ることもできず、学校に行くこともできず、公園に行き、川辺に行き、そして、今、運河の架け橋にいる。
太陽は今にも沈もうとしている。
その一方で、満月が今まさに太陽に成り代わり、空を照らそうとしていた。
そんな、夕方と夜の間。
架け橋は、未だ寒い冬の空気を切るように、早足に家路に帰る人たちの姿がちらほら見える。
雪解け水で増水し、流れが速くなった運河と夕日を欄干に肘をつき見上げている私は、それらの流れからしたら、異質な存在だろう。
「私、だめだなぁ」
どうも自分が嫌になる。
止まったはずの涙がまた出そうだ。
「こんな私、消えてしまえばいいのに」
涙と共に、言葉が口を出た。
すると、
「それはいけません」
そんな声が真横から聞こえた。
彼女は、何時の間に横に居たのだろう。
肩口まで伸びた、私と同じ黒い髪、吸い込まれそうな青い瞳、ぷっくりとした唇。
服はこの辺りでは見たことがないデザインで、華やかな模様が刺繍された羽織を、別の布や飾り紐を使って腰の辺りで縛っている。
綺麗な人、まるでお姫様みたい。
それが私が彼女を見た最初の印象であった。
私が思わず見ほれていると、彼女は私の手を取った。
「消えていい人なんていません。あなたには、あなたの良さがあります。今はまだきっとあなたの良さに気づいていないだけです」
そして、いきなり力説される。
その表情は真剣そのもので、頬は赤みを帯び、熱を帯びたように彼女は、ずいっと顔を近づけてくる。
「な、何なんですかあなたは」
夕日が沈み、太陽の輝きが消えていく空を、満月が再び染め上げていく。
私は手を振り解くと、後ろへたじろいだ。
すると、彼女はハッとしたような表情を浮かべたと思いきや、一転、穏やかな表情を浮かべる。
先ほどの件がなければ、お淑やかなお姫様と思っただろう。
「自己紹介が遅れて申し訳ありません。私はルナ。あなたと同じ魔法使いです」
そう言うと彼女は指先に小さな光りを灯す。
その行動に、私は衝撃を受けた。
「え、詠唱なしに魔法が……」
ありえない。
魔法は詠唱を正確になぞらえないと発動しないもののはず。
それなのに……。
「不思議ですか?」
動きを止めた私を見て首を傾げるルナ。
その言葉に首をゆっくり縦に振る私。
「どうするのか、知りたいですか?」
もし、私に同じことができたら、魔法を詠唱なしで使えたら。
私は、学校でも、きっと。
「……知り、たいです」
緊張しているのだろうか、それとも興奮しているのだろうか、言葉が喉に絡む。
でも、ルナは気にした様子はなく、そんな私の様子を見て柔らかな笑みを浮かべたと思うと、私の手を握った。
「では、行きましょう。僕等の魔法界へ」
そして、私の体はふわりと浮かぶ。
橋から放り投げられたと分かったのは、数秒経ってからだった。
「えっ」
私はそんな言葉しか出なかった。
純粋な驚き。
それからひと呼吸する間もない内に、だまされたのでは、という考えが頭をよぎった。
「そこは、扉ですよ」
振り返ることもできず、ルナの言葉を背に、私は橋から落ちていく。
私の眼前に迫る、水面の満月。
満月の光は輝きを増し、落ちていく私を包み込む。
満月に触れる、そう感じたとき、不思議と水しぶきはあがらなかった。