⑤金を求めずとも
その後、鈴麗と胡睿は言い争いをしたり笑い合ったりしながら、マーフーを解体した。
魑魅の体はほとんどが薬になる。爪や牙であれば武器にもなるし、このレベルの強力な魔物に出会うことは珍しいのだから、毛の1本まで無駄にはできないのだ。
「傷は大丈夫なのか」
「ええ、そんなことを言っている場合じゃありません。キョンシーを動かせるうちに解体しなければ」
胡睿は、青白い顔で脂汗をかく鈴麗を見て溜息をつきながらもう一仕事することを決める。
「父は俺をかばって死んだ。修行のつもりで山を飛び回っていたときだ」
「……」
「赤ん坊の声が聞こえて草陰に向かった俺を、父が突き飛ばした。ほとんど一飲みだった……」
人面は幻のように消えてしまい、今は虎の目、虎の鼻がそこにあるだけだ。
馬腹の人面部が、直前に食べた人間の顔になるというのは鈴麗でさえ今回初めて知ったことだが、姑息なマーフーがわざわざこうやって人里まで降りてきた理由が、鈴麗には痛いほどわかった。
「信頼してたんですね」
「え……?」
「胡睿なら、このマーフーだって倒せると」
絶句した胡睿は、しばらく手伝いとしては使い物にならないほど泣き崩れ、鈴麗は言うタイミングを間違えたなと後悔した。
しかし鈴麗もまた、マーフーの悲しそうな瞳が忘れられずにいた。彼は鈴麗を見て悲しんだように見えたから。
いや、そもそも彼はさっき、鈴麗の名を呼んだのではなかったか。
「ジンさん……」
「え」
「そうか、彼が胡静だったんだ」
「君は、父を知っているのか」
「……話が聞きたくば、手を動かしてください」
持ち運べるだけの素材を確保し、その他の素材を村に寄付することにして、全ての解体作業を終えたときには日の出も間近になっていた。
「あばばばば、キョンシーたちを黒布で包んでやらなくては」
慌てて走り出そうとした鈴麗に、村人たちが立ちふさがる。
村の男の視線に、胡睿が慌てて鈴麗の道袍の前を閉じさせて帯できつく不細工に結んだ。
「あの、ちょっと急いでいるので――」
『道士様。ぜひ、村の宿屋を使ってください』
それは、村に到着したばかりのときに鈴麗一行をちらりと流し見て帰れと言った宿屋の主人であった。
『小姐ちゃん! さっきはありがとう!』
迷う鈴麗の膝に敏敏が抱きつき、鈴麗と胡睿は顔を見合わせて笑って、村に厄介になることを決めた。
*****
宿屋で食事と風呂をもらい、部屋に入って落ち着くと、胡睿は先ほどの鈴麗の言葉を思い出した。
なぜ彼女は父親の名を知っていたのか。
「羅鈴麗、起きてるか」
鈴麗の部屋を訪れて声をかけるが返事はない。
寝たかもしれない。寝たに違いない。胡睿だって今夜はひどく疲れているのだから、あの細い体ではもたないだろう。
ひと眠りしてから、話はそのあとにしようかと胡睿が戸に背を向けたとき、部屋の中から苦し気な声が聞こえた気がした。
「鈴……羅鈴麗?」
もう一度声をかけて耳を澄ませると、確かにうめき声が聞こえる。
戸に手をかければ、それはなんの引っ掛かりもなく横へと開いた。どうやら心張棒でロックする余裕もなかったらしい。
部屋の中には、窓から最も遠い位置に衝立があり、さらに黒い布が上から掛けられている。恐らくあの向こう側にキョンシーがいるのだろう。
寝台に横になった小柄な女は、苦しげな呼吸を繰り返していた。
「おい、大丈夫か」
「ふ、胡睿……すみません、私の荷物から薬を」
胡睿が慌てて鈴麗の荷物をひっくり返すと、ふるふると震える指先が絵付けの施されたハマグリを指さした。
手にとって開いてみると、中身は軟膏であった。マーフーの爪が刺さった左肩の傷口に塗るためのものだろう。
手渡そうと鈴麗を振り返ったときには、彼女はすでに気を失っていた。
「うそだろ……」
薬を塗り終え、煮沸した清潔な布で肩をぐるぐる巻きにしてやると、鈴麗はやっと落ち着いたのか、寝息が静かになる。
胡睿はその穏やかな呼吸にほっとして、しばらくその寝顔を眺めることにした。
彼女には、異国の血が強く出ている。緑色の瞳だけではなく、彫りの深さや真っ直ぐにとおった鼻筋も、細く色素の薄い髪も、この国の人間の特性ではない。
しかしそれは決して不美人ということではなく、胡睿にとってはむしろ逆であった。
「次に目をあけたら、俺たちはお別れか。君は笑顔でさようならと言いそうだな」
寝顔に声をかけるが、もちろん聞こえてはいないだろう。
次第に胡睿もまぶたが重くなり、鈴麗が横になっている寝台に頭を乗せて、眠りに落ちた。
*****
鈴麗が目を覚ましたとき、鼻と鼻がくっついてしまいそうな位置に、お客様の家に飾ってあった天女画にそっくりな顔が転がっていて、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「……!」
そうして次第に深い眠りに落ちる前の失態を思い出す。
鈴麗は、そっと左肩に手を当ててまさぐったあと、ゆっくりと顔を下に向けて襟元から肩の様子を覗き込んだ。
「……うわぁ」
しっかりと、治療されていた。
たぶんこの天女がやったのだと、思う。包帯の巻き方があまりにも不器用で、女性の仕事には思えなかったからだ。
やってしまった。鈴麗は声を出さぬように悶えた。
こんな、汚れなど一切知らぬまま大人になったみたいな顔の男に!
「……ここにはいられない」
肌を見られたとか見られないとか以前に、真横に芸術作品があるのにゆっくり寝ていられるはずがないのだ。
驚きに次ぐ驚きと後悔で、すっかり目を覚ました鈴麗は、胡睿を起こさぬように寝台を抜け出て、少し逡巡してから毛布を胡睿の肩にかけると、荷物を持って静かに部屋を抜け出した。
鈴麗は宿を出ると、まっすぐ北へと進む。
村の北側に、解体したマーフーの素材の一部を置いてあったのだ。
牙と爪を拾って眺める。爪だけでなく牙も十分な大きさだ。
マーフーは人面だが、口だけは人面とは別個に存在する。やはり人面部は擬態用であって、ただの飾りだと考えたほうが腑に落ちるのだが。
脳裏に浮かぶ胡静の悲しそうな表情を無理やり記憶の彼方に追い払って、鈴麗は爪牙を手に村の中心の広場へと戻った。
ゴリゴリと無心になって爪牙を削る。
零れ落ちた粉も薬の材料になるから、飛んでいかないように注意しなければならない。
『おねぇちゃん!』
「敏敏。おはよう」
『なにしてるのー?』
「んー……、お薬の材料とってるの」
双刀を作るのだと言っても少女にはわかるまい。鈴麗はそう考えてから、ぷるると頭を振った。
薬の材料の取得のほうが優先度は高い。べつに、全てを削ってしまうほどの量は多すぎるから、ついでに刀を作ってやってもいいかと思っただけだ。
意味もなく心の中で言い訳を並べたてる。
『おくすりー?』
鈴麗は、首を傾げる敏敏のおでこに火傷があるのを見つけた。
「敏敏もお薬塗ろうか」
『うん!』
爪牙を片付け、爪牙の粉をしまってから軟膏を取り出すと、村人たちがひとりふたりと集まって来た。
次第に、昨夜のマーフーによって怪我を負った者たちが道士である鈴麗に治療を求めるようになり、広場はあっという間に人だかりができてしまった。
普通、道士はその土地に根を下ろして生きる。
皇宮道士になれるのはごく一部、本当に一握りの逸材だけだし、道士の仕事の特性上キョンシーの存在が必須であるから、鈴麗のような根無し草をしたところで人々に受け入れてもらえないのだ。
だから、こうして人々に囲まれ、必要とされ、世間話に興じるようなことは、本当に久しぶりであった。
いや、もしかしたら鈴麗にとってこれは初めてのことかもしれない。元々住んでいた場所は、養父の羅英がいたからこそ、鈴麗にも優しかったのかもしれないのだから。
「あ、そういえば、最近……ここ数か月のうちに、この村を男性の道士が訪れなかった?」
鈴麗の問いに誰もが頭を振ったとき、ひとりの老齢の女が「あー」と素っ頓狂な声をあげた。
『半月くらい前だったかねぇ。息子がここよりもうちょっと北で棺を2つ運ぶ荷馬車を見たと言ってたね』
「それ! 詳しく聞かせて」
道士がもし道中を急ぐことがあったなら、キョンシーは棺に入れて運ぶのが一般的だ。
夜道を歩くよりも、日中にあらゆる交通手段を用いて移動したほうが早いに決まっている。
宿泊もまた、いい顔はされないが棺の中身がキョンシーであることを黙っていれば、滅多に断られることはない。
遺体には一定の敬意を払うべきとされているからだ。
キョンシーを棺で運ぶのはいいことばかりに思えるが、とにかく出費がかさむ。
よほどのことがない限り普通なら選択しないやり方だが、羅英の出奔には何か理由があるに違いない、あってほしいと思う。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、サブタイトルは五行説の五行になぞらえてきました。
この「金」だけは一言入れておかないとなんのこっちゃとなりそうでしたので補足します。
金は鉱物、金属を表します。色は白、六獣では白虎です。
虎を求めずとも、父はいつもそばにおりましょうや。
鉱物、金属。すなわち青銅製や鉄製の武器を求めずとも、良い武器を用意しましょうか。
そんな空気感でつけたタイトルでしたー。