④土に刻め ★
2020/6/26:文末にFAを追加。
鈴麗は、馬腹の尻尾に抱きついてよじ登っていく。それをマーフーは虫を払う牛のように左右にぶんぶんと振ったが、鈴麗はしがみつく。
離さずにいるうちに、マーフーは虫が止まっていることを忘れてしまったらしい。
ただ、気が気でないのは胡睿である。キョンシーの援護はありがたいが、その飼い主は生身の人間であり、ガリガリの女の子なのだ。
マーフーの爪が当たっただけでもポッキリと折れてしまいそうだというのに。
「羅鈴麗!」
叫ぶ胡睿の焦りを知ってか知らずか、鈴麗はマーフーが尻尾を振るのをやめるとすぐにまた登坂を再開して、尻尾の付け根へと移動した。
そしておもむろに自らが着用する衣類の帯をほどいてしまった。
襟が開き、美しい道袍が風にはためく。それは遠目に見れば真っ赤な旗のようでもあったが、胡睿の焦燥は募るばかりである。
道袍の下に着る内衣と袴が露になると、より一層、鈴麗の華奢さが際立って見えた。
「路炎、これを胡睿に!」
鈴麗が叫んで細く長い何かを放り投げる。それを路炎が空中で受け取って胡睿の元へ向かうが、マーフーの右前脚が路炎の進行方向を薙いだ。
「なにをしてるんだ! 早く降りろ!」
寸でのところで躱した路炎が一度距離をとって地に降り立ったとき、胡睿が地を蹴ってマーフーの左肩に切りかかる。
既に右脚を下して態勢を整えたマーフーに対してその攻撃は甘すぎるが、胡睿にとっては鈴麗を逃がすためにもそのタイミングが重要であった。
必ず、マーフーは胡睿を狙って一撃を放つ。その瞬間を狙って鈴麗を逃がさなくてはならない。
果たしてマーフーは自らの左肩を狙った胡睿を叩き落とさんと、的確なタイミングで左脚を大きく振り上げた。
それは、敢えて飛び掛かった胡睿でさえ驚き覚悟を決めるほどに、完璧なタイミングの迎撃であった。
「やー!」
鈴麗はしかし、逃げない。
「めー!」
「羅鈴……っ!」
尻尾の付け根から、全速力でマーフーの肩へと走る。
「ろおおおおおっ!!」
黄色い紙をばら撒きながら大きく跳躍した鈴麗は、今にも胡睿へ叩きこもうとしている左前脚の付け根、すなわち肩に向かって飛び掛かった。
手には細い木刀。
それを、走って飛んだ勢いと軽いながらも鈴麗の全体重をかけて、マーフーの肩へ差し込む。
黄色い紙はマーフーを一瞬痺れさせ、鈴麗の握る木刀は、刀身の半分がなんの抵抗もなくその強靭な肩へと吸い込まれていった。
まるで月明かりを受けて、真っ赤な海月が夜空に舞うように、美しくも儚いその姿は……。
「ぐがあああっっ!!!」
一瞬動きを止めたマーフーの左前脚を蹴って、胡睿が距離をとる。
しかし鈴麗は、大きく振り返ったマーフーに振り回され、桃剣の柄をどうにか握って耐えるしかなかった。
もう一度体を震わせたマーフーに、ついに鈴麗の体が宙に飛んだ時、大きな魑魅はその隙を逃さず爪を立てる。
「やめろ! やめてくれ! 父上っ!」
「んあああっ!」
引っ掻くように振り落とされたマーフーの爪先は、その勢いのほとんどを間に入った李斯によって受け止められた。
端の1本を除いて。
お返しと言わんばかりにその1本は鈴麗の左肩を抉り、鮮血をまき散らしながら鈴麗と李斯は大きく吹き飛ばされた。
そのとき、鈴麗はマーフーと目が合った。人面のマーフーのその瞳は、憤怒の奥に悲しみが見えた気がした。
「っ!!」
鈴麗の元へ駆け寄ろうとする胡睿の前に、路炎が立ちはだかる。
手には細い布が巻き付けられた白い太刀。先ほど、マーフーの上で鈴麗が放り投げたものだ。巻き付いているのは、彼女の帯であるとわかる。
――術者の力の差でしょう。この子たちに傷をつけたければ、皇宮お抱えの高名な道士の剣でないと
鈴麗の言葉が、胡睿の脳裏を駆け巡る。
きっちりと鞘に収まったこの刀を、路炎と呼ばれたキョンシーは素手で持つことができない。鞘ですら、持つことができないほど強力な一振りということだ。
胡睿は白い蛇革の刀を受け取って、マーフーを仰ぎ見る。
これがあれば勝てるはずだが、問題は、この魔物に隙がほとんどないということと、胡睿の疲労が限界に近いということであった。
一方、鈴麗は左肩を押さえて顔をしかめる。
さすがに無茶をしすぎたかもしれない。李斯がいなければ間違いなく死んでいたところだ。
本来なら、胡睿に白黒の太刀を渡した後で桃剣でヤツの動きを止めるつもりであった。
彼の剣技と、あの太刀があったならばほんの一瞬でいい、マーフーの意識を逸らすことができれば勝機はあるのだから。
「うーん、桃剣はあいつの肩に刺さったままだし、何か動きを止めることができるとしたら、もうキョンシーと私で捨て身の同時攻撃を仕掛けるしか……」
顔をあげれば李斯はすでに戦闘に戻っており、2体のキョンシーと美貌の男が虎の怪を相手にじりじりと間合いを詰めている。
しかしこれだけの傷を負って、まともな結果が残せるだろうか。たとえ命を賭けて体当たりしたとしても、なんの取っ掛かりも作れないかもしれない。
それが鈴麗が躊躇する理由であった。
思い悩みつつ立ち上がろうとして、鈴麗は自分の白い内衣が赤く染まっていることに目を留める。
なぜ忘れていたのだろう。簡易の術式にはなるが、しかしこれなら。
「路炎!」
鈴麗が叫ぶ。
路炎からそう離れていない場所に立っていた胡睿に、かなり疲労が蓄積されているのは鈴麗の目から見ても明らかであった。
チラリと一瞬鈴麗に視線を投げ、しなやかな眉を荒々しく顰めたその表情を、平時に若い女性が見たならば10人中8人は卒倒しただろう。
肩で息をしながら常にマーフーの動きを追っている胡睿は、大怪我を負いながら走り寄る若い女道士に文句を投げる余裕すらも失っていた。
呼ばれた路炎は、鈴麗を抱えてどこかへ飛んでは鈴麗を降ろすという作業を繰り返す。
一方で李斯は路炎の動きが常にマーフーの死角になるように向きを調整しながら、今まで以上に捨て身とも思える攻撃を繰り出していた。
大妖は自らの周りをちょこちょこと動き回る虫けらにイライラしながらも、人型をした小さな魔物の攻撃をいなすしかない。
胡睿もまた、鈴麗たちが何をしているのか訝しみながらも、ただマーフーが隙を生むことを期待して白黒の太刀を握り締めるのだった。
胡睿にとっては結構長く、鈴麗にとってはあっという間に、そのときはきた。
鈴麗が北の空を背に立つと、それは奇しくも胡睿の真横であって、胡睿はマーフー、いや、父親の瞳を真正面から見た。
男が太刀を構える横で、若き道士は二本指の手刀を立てて何事か呟いている。
「吾……紫微大帝……五行六甲……」
小声で唱えられる呪を胡睿は聞き取れない。しかし魔物の耳にはそうではないらしい。
彼女の従えるキョンシーたちはマーフーの眼前でその意識を遊ばせていたが、主人の呪が終わる直前にその場を離れた。
「……駆逐……千邪斬断……急急如律令!」
真昼のように、地が光る。
いつそれが描かれたのか胡睿にはわからなかったが、そこにはマーフーを取り囲むように五芒星があり、5つの角には黄色い呪符が打たれていた。
「胡睿、あれは簡易的な符だから長くはもたない。お願いします」
鈴麗の言葉に慌てて目の前の魑魅を仰ぎ見ると、その人面は驚きに目を見開いて2人を見ていた。
動けないのだと理解する。
動けないならば。
胡睿は手の中の業物を握り直して、高く高く飛んだ。
終わってみればあっけない、と胡睿は思った。
3メートルはくだらない体高の強き魔は、ついに膝をつき、じきに頽れた。
ぶわりと土が舞い、魔を取り囲む五芒星は次第に光を薄れさせていく。まるで、失われ行く魔の命を可視化したかのように。
眉間に深く剣を突き立てられた大妖は、最後に穏やかな顔をして一言だけこぼした。
「強く……生きよ……。睿、鈴鈴」
猫屋敷たまる様よりいただきました!!
作者が急急如律令って言いたいだけのシーン(違います)。
また明日、明後日と1話ずつ更新して完結の予定!です!