③水に守られ
鈴麗と胡睿の動きは速かった。
悲鳴が聞こえた次の瞬間には立ち上がって土を蹴って走り出していたし、2体のキョンシーは滑るように飛んで2人の前をぐんぐんと進んで行く。
村の入り口からは、2人とは反対に飛び出してくる人々の姿が多くあった。
見るからに、着の身着のままという様相である。悲鳴、嗚咽、子どもの叫び声。そして、それらに混じって2人の耳に飛んできたのは「化け物」という言葉。
ああ、どうして警戒を怠っていたのだろうと鈴麗は舌打ちをする。少し、肉と桃に意識を持っていかれすぎたか。
それにしたって魔物の気配に気づかないなんてことがあるだろうか。こんな近くに来るまでわからないなんてことがあるとすれば……!
「なっ……!」
2人が村に到着するのとほぼ同時に、それは気配を殺すのをやめた。
とんでもなく大きな殺意が2人を圧倒する。もし殺意に物理的なカタチがあったならば、2人の体は粉々に砕けていたかもしれない。
そしてそれは、2人の視界の真ん中に威風堂々とその姿を現している。
後ろ姿でもわかる異形。黄色に黒の縞模様はそれが虎の魔物であると教えてくれた。
虎に似た姿の魔物はそんなに多くないが、揃いも揃って馬鹿みたいに強い。さらに目の前のそれは、デカイ。
体高3メートルはくだらないだろう。
「あれは、ジィ?」
「いや、馬腹だ。尻尾が牛じゃないだろ?」
「あんな大きなマーフーがいるなんて!」
虎と牛を掛け合わせたようなジィであれば大きなサイズもたまに存在するが、マーフーは基本的にあまり大きくなる種ではないはずだ。
赤ん坊のような泣き声で人をおびき寄せて食らう、姑息なやつなのだから。
そして人を騙すためなのか、奴らの顔は人面でもある。討伐する道士は赤子の断末魔を聞き、誰とも知らぬ人間の苦悶の表情を見ながら討たなければならない。
できれば相手にしたくない種類の魑魅である。
「アレは、俺に任せろ」
「は?」
「君は村人を!」
言い終える前に胡睿は走る速度をあげる。
鈴麗が追いかけようとしたとき、傍の民家から火の手があがっていることに気づく。逃げ惑う人々が縦横無尽に鈴麗の視界の中を走り回った。
『敏敏! ああ誰か! 子どもがあの中にいるの!』
燃える家屋のそばで叫ぶ女の姿。
鈴麗は胡睿を追うのを諦めて立ち止まった。
「胡睿、村の外へ! 李斯は援護、路炎は私と一緒に来て!」
この声が実際に胡睿へ聞こえたかはわからないが、鈴麗は燃える家屋へ向かう。途中、共用の水場と思われる場所にある井戸を用いて、自らの体と路炎の全身にひたひたになるほど水をかけた。
「さっ……さすがに夜の水浴びはこたえるね、路炎。いい、この水が乾いて自分が燃えそうになったら一も二もなく逃げて」
冷たい井戸の水に震えながら路炎を見上げるが、路炎の濁った目はどこを見ているのかわからないし、もちろん返事もない。
「行こう!」
さっさと子どもを助けて、胡睿の元へ向かわなくては。
あんな異常なサイズのマーフーをひとりでやろうなんて無茶が過ぎる。しかも彼は、道士ですらないのだ。魑魅魍魎退治を一般人ができるなら、道士のおまんまは食い上げではないか。
「中の子どもは敏敏ひとり!?」
『は、はい』
燃え盛る家屋に飛び込む直前、泣き崩れる母親に叫ぶように問いかける。
煙に包まれた瞬間に背後から返事が聞こえ、鈴麗は心の中で「行」と呟いた。
宅内に入ってすぐが居間、右手側に炊事場があって、火はそこから出ている。
決して大きな家屋ではなく、他に部屋があるとは思えない。つまり、居間の奥の衝立で区切られただけの向こう側が寝室になるはずだが。
ちょうど出火元の近くから家屋を見たためにひどい火事だと思ったが、中に入ってみればまだ火の手が回っていないところのほうが多かった。
鈴麗は腰を下げ体勢を低くして敏敏を探した。
路炎はあまり見えていないはずだし、もし敏敏が息をしていなかったら彼に見つけることは不可能だ。鈴麗は路炎に自分を守ることに専念してもらうことにして、目を細めながらキョロキョロと視線を巡らせる。
敏敏は思ったよりすぐに見つかった。衝立のすぐ裏側で、気を失ったのか床に臥しているが命に別状はなさそうだ。倒れていてくれて良かった。
『ん……』
抱き上げると、少女は気が付いたのか薄く目を開きながら軽く身じろぎをした。
火事に驚いて暴れられたら鈴麗の力では押さえきれないかもしれない。鈴麗は敏敏を路炎へあずけて、急いで家屋を出た。
外に出ると、母親が路炎の手から子どもをひったくるように取り上げて泣き崩れる。
キョンシーに抱かせて戻ってごめんと思いつつ、鈴麗は胡睿と共にマーフーの姿を探して村の中心部へ向かった。先ほどは、中心部より少し北のほうでマーフーが暴れていたはずだ。
人々の様子から、胡睿たちは村を出た先のところにいるらしいことがわかる。
鈴麗は路炎に野営キャンプから荷物を取ってくるように言って、胡睿の元へ向かった。まだ死んでないとは、なかなかやるじゃないか。
走りながら、鈴麗は頭を働かせる。
まさか自分があんな大物と交戦することになるとは予想もしていなかった、というか、油断していた。だから……、ヤツに効果が期待できる呪符を用意していない。
通常、呪符や護符というのは朱砂に鶏の生き血を混ぜて記す。ほとんどの場合において、それで事足りるのだ。
だがまじないの規模が大きくなるごとに、鶏では効果が薄れるようになり、黒犬、黒牛とコストが上がっていく。
奴は、犬で足りるだろうか? いや、足りたとしても別に犬をいま準備できるわけではない。犬を準備できたとしても、……符を書く時間がない。符を書くこと自体に儀式的な手順が必要だというのに。
「これ詰んでるじゃん!」
叫びながら走る。
詰んでいたとしても、行くしかないのだから。
「道士は辛いよ……!! 桃食べたかったぁああ!」
足をもつれさせながら走っていると、追いついた路炎が鈴麗を摘まんで肩に担ぎ、加速した。
この速さなら、離れたところに見えている黄と黒の異形のところまで、そう時間をかけずに到着できるだろう。
異形の周りを2つの影が忙しなく動いているのも見えた。まだ生きている。
暴れるマーフーの手足が当たらぬ位置に降り立ち、鈴麗は路炎を攪乱役として戦場へ送り出す。
身長はそこまで高くないものの、大柄な李斯は戦闘においてはパワータイプとして活躍する。しかし相手がこれでは李斯の威力をもってしてもあまり大きなダメージにはならないらしい。
対して細身な路炎はスピードタイプと言えた。素早い動きで相手を翻弄しながら、急所を見極めて少しずつ攻撃を加えていく。
このマーフーに、路炎の攻撃が効くかどうかは甚だ不安であるが、翻弄することにおいては期待が持てるはずだ。
鈴麗は路炎が持ってきた荷物を逆さまにして、中身をすべて広げる。
その辺によくいる魑魅魍魎を相手にするための呪符が数枚、風邪薬や軟膏、留魂術の材料、桃剣、それから――白蛇革の柄と黒蛇の牙の刀。
桃剣は、読んで字のごとく桃の木でできた木刀である。桃の木は邪気を祓う神聖な植物であり、大体の妖異に効果があるが、残念ながらこのマーフーを仕留めるには不足するだろう。
しかしこっちは。
神の眷属とも、大鬼の使い魔とも言われる白黒の大蛇の妖は、鈴麗の養父である羅瑛が、鈴麗のために討ち、叩き、呪ったものだ。
柄と鞘は白蛇の皮で、刀身は黒蛇の牙でできている一振りの刀は、剣術が不得手である鈴麗には勿体ないほどの業物であった。
だが、あの男なら。
顔を上げ、天女と見紛う美しい男を見る。
美しいのは顔だけではない。あの太刀筋、身のこなし。先ほどのキョンシーとの闘いでも、キョンシーたちは彼の刀を全てわざと受けたわけではない。
避けきれなかったのだ。あの男の剣技はかなりの高水準にある。
ならば。
マーフーとの戦いは、路炎が加わることで多少こちらが優勢になったようだが、有効な決定打がないまま時間が経っている。
それはそうだ。胡睿の持つ剣は、いつまで経ってもマーフーに一太刀だって入れることができないのだから。
じりじりと胡睿の体力が削られて、いずれまた優位は逆転するだろう。
鈴麗は意を決して走り出した。
留魂術は野良のキョンシーに襲われた人を助ける術です!
襲われても対応が早ければ助けられるのでゾンビパニックみたいなことにはなりません。やったね!