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池木屋山十四  作者: 利田 満子
1/1

迷う

どれくらいの間眠ったままでいたのだろう。太陽からの暖かさが減少して時々吹く風に身震いするようになった。風邪をひく直前のような悪寒を感じたので私は目を覚ました。汗が冷えて背中や脇の下が冷たかった。すぐに私は大きなくしゃみを二回もしてしまった。寒い。上体を起こすと両腕を胸の前で合わせて私は身体を震わせた。周りを見ると賢一と貴洋の二人はまだ眠ったままだった。

「起きてよ、起きて」私は賢一の身体を揺すった。賢一はすぐに目を開けた。

「ああ、何だ。智子か」

「起きなさいよ、早くっ」

「ああ、そうだったな」賢一は目を半分だけ開けて寝ぼけたような声で言った。

 私は賢一の傍を離れると貴洋を起こすことにした。貴洋は起きると身震いをした。

「おいっ、たいへんだ」賢一が大きな声で言った。

「もう二時前になってるぞ。ちょっとうとうとしたつもりになっていたけれど、いつの間にか結構時間が過ぎてしまってたんだ。急ごう、ぐずぐずしてられないぞ」

「今から降りたんじゃ、今日中に家に帰るのは無理よね」

「ああ、多分無理かも知れない。とにかく降りてからバス停の前にあった店で電話を借りて家に連絡すればいいじゃないか。とにかく今は降りることが第一だ。後のことはどうにでもなる」賢一は早口で怒鳴った。貴洋は飛び起きるとすぐに先頭になって歩き出した。私は転びそうになりながらも後ろに続いた。山頂から急な斜面を少し下るとすぐに池が左に見えた。飲んでみようかと思ったが、水は粘りついたようで重く濁っている。昨日見たとうりだった。貴洋はさっさと先に行ってしまう。水を飲もうかどうか迷っている暇はなかった。賢一は後ろから急かしてくる。薮を掻き分けて私たちは必死に目の前の踏み跡を辿った。昨日歩いた道を戻った。似たような薮ばかりが続いていて睡眠不足の頭では確信が持てなかったが、途中に目立つように枝分かれした踏み跡がなかったのでこの踏み跡を進むしかなかった。確かに道は稜線上にあるが、両側の見晴らしはよくない。木々の枝の隙間から見える山並みは似たような山ばかりで特徴がなかった。昨日歩いている時にも思ったことだが、これといった特徴がないために現在地の確認が難しい所である。

 三重県と奈良県の県境にある台高山系は山並み自体が人里から遠く離れている。道には人が頻繁に歩いているような形跡がなく、その道も消えそうになるくらいに頼りない。道の両側からは木々の枝や草が伸びていて、これらが道を歩きにくくしている。また一歩道を外れると薮が深く、現在地の確認が難しい。私がこれまでに登った鈴鹿山系の山々や高見山、大台ケ原では登る人も多く道もはっきりとしていた。しかし池木屋山は谷が深く見通しのきかない樹林がうっそうと茂っている。登山道も整備されておらずこれまでの山よりもランクが一つも二つも上だ。

 踏み跡を追っていくと私たちは広い笹原に出た。

「奥の平峰や」そう言うと貴洋は立ち止まった。この笹原は私にも十分に記憶があった。間違いはない。

「さあ、ここからが厄介やでえ。登ってきた道をうまいこと捜さなあかん。尾根が広うなっとるし、踏み跡みたいなもんが何本も滅茶苦茶に走っとる。ここで道を間違うたらあかん」

「そらじゃあ、方向を確認しよう」賢一が地形図と磁石を取り出した。

「ここが奥の平峰、県境稜線上だね。あっちが池木屋山」賢一は来た方向を振り返って言った。「ということは昨日俺たちが登って来た尾根はこっちの方向だ。貴洋、この方向へ踏み跡を追って行ったらいいんじゃないか」賢一は自信を持って北東の方向を指差した。

「よっしゃ、わかった」

 貴洋は踏み跡を拾いながら笹を掻き分けて歩き始めた。しばらくの間胸くらいの高さの笹の中を泳ぐようにして歩いていたが、突然先頭の貴洋が立ち止まった。

「おいっ、道がないわ。どっちを見てもあらへんわ。ちょっと戻ってくれ」

 私たちは今歩いて来た道を十メートル程戻った。貴洋は別の踏み跡を見つけると笹を掻き分けて入って行った。私が後に続こうとすると貴洋は振り返って言った。

「あかん、あかん。ここも駄目や。バック、バック、戻るんや」

 私たちは来た道をまた引き返した。たった二回引き返しただけだったが、これだけのことで私はすごく疲れたような気がした。結局地形図と磁石で確認をした所まで戻ることになった。

「どないなっとるんやろう。今度は俺一人で捜してくるで待っとってくれ」

 そう言うと貴洋は薮の中へ姿を消した。それは昨日尾根を下った所で道がなくなった時の情況を思い出させた。

「おおい、余り遠くへ行くなよ」賢一が叫んだ。

「わかっとるわ」貴洋が大きな声で返事をした。私は枯れ草の上に腰を降ろした。ザックからポリタンクを取り出して水を飲もうとしたが、ポリタンクは空だった。そこで賢一に言った。

「ねえ、水、くれないかしら。もう喉がからからなの」

 賢一はちょっとだけ嫌そうな表情を見せたが、すぐにザックからポリタンクを出してくれた。私はポリタンクに残っている少ない量の水の重さを確かめた。どれだけの量を飲むことが許されるだろうかと考えた。自分のポリタンクの蓋に水を注いだ。わずかな量だ。私はゆっくりと口に流し込んだ。水は冷たくなかったが、粘ついた唾液で気持ち悪くなっていた喉が潤った。しかし、身体はまだ水を求めていた。私はまた蓋に水を注いだ。しかし、これはよくなかった。水に対する欲求はもはや少しくらいの量では収まらなくなてしまったのだ。水を飲む時は注意しなければならない。少しだけ残っているポリタンクの水をたとえ全部飲んだとしても渇きは収まらない。滝つぼにでも顔を突っ込んで腹いっぱいに水を飲まなければ駄目だろう。

「お水、ありがとう」私は急いで蓋をするとポリタンクを賢一に返した。中途半端に水を飲んだ私は余計に喉の渇きに苦しまなければならなかった。最初の一杯だけにしておけばよかった。

 笹を掻き分けて貴洋が戻ってきた。

「おいっ、道はあったか」賢一が尋ねた。

「いいや、どうもはっきりせえへんのや。どの道もちょっと歩くと消えてしまうんや。どうしたらええやろう」貴洋は賢一と私の前に腰を降ろした。

「ううん、それは困ったなあ。とにかくはっきりしているのはここが奥の平峰だということだけだからもう一度最初の方向へ進んでみるしかないのと違うかなあ。少々薮があっても進んだ方がいいだろう。ここは稜線が広くなっていて迷いやすい所だけどそのうちに細くなるだろうから低い方へ進まないようにして行けばいいと思う。北東に伸びている尾根登って来た尾根だからね」

「そうやな。それしかないわな」貴洋は頷いた。

「そんでは、また行くか。こんな所にずっとおってもしょうがないもんな」

 貴洋は立ち上がった。私は後に続いて笹を掻き分けた。すぐに道は消えたが、貴洋は腕力で笹を掻き分けている。足で踏みつけたり、手で押さえたりしながら笹の間を通り抜けて行った。私は今にもなくなりそうな力を振り絞って歩いた。道は踏み跡のように頼りなくなったと思うと途切れ、なくなったかと思うとまた続いていた。

 しばらく行くと笹に細い木が混じるようになった。笹が少なくなってきて幾分進むのが楽に感じられた。しかし、一向に昨日歩いたような所には出なかった。記憶にはない道を進んでいた。道を間違えているとは思いたくなかった。ただ睡眠不足なのでよくわからないだけのことに過ぎないと思いたかった。間違えているとしたらこの道を戻らなければならない。それは私にとって非常に体力を消耗させることだったし、同時にすごく落胆させることだった。またもとの場所に戻ったとしても次に歩きだすのには大きなエネルギーが必要になりそうだった。しかし、間違えたのであればどこかで位置の分かっている所まで戻らなければならない。戻る決断をしなければならない。だが、戻ったとしても次はどの方向へ進めばいいのだろうか。そんなことを考えていたら私には歩く元気がなくなっていた。

「おおいっ、貴洋。待ってくれ。智子が座り込んでしまったんだ」

 私は地面に腰を降ろすとかろうじて腕で上体が崩れるのを支えていた。しばらくの間は立ち上がることもできなかった。

「大丈夫か」

 賢一が肩に手をかけて軽く揺すって励ましてくれた。

「大丈夫」私は消え入りそうな声で返事をすると頭を小さく動かした。貴洋が戻ってくる笹を掻き分ける音が聞こえた。

「智子、大丈夫か。歩けるか」貴洋は私の顔を覗き込むようにして言った。

「うん」私は小さな声で返事をした。しかし、正直なところ、今すぐに歩き出す元気はなかった。

「私は、もう、駄目。・・・二人だけで行ってよ」

「馬鹿なことを言うなよ」賢一が言った。

「でも、これ以上歩けそうにないもの」

「そんなこと、言うたらあかん。歩くんや。とにかく歩くんや」貴洋が叫んだ。しかし、私には返答をする元気もなくなっていて、ただ首を振るだけしかなかった。

「どうも完全にバテてしまったみたいだな。無理もない。昨夜はほとんど眠ってないしろくに食事もとってない。バテない方がおかしいくらいだ。俺だって分からない」

「そうか。そんなら智子が歩けるようになるまで待ったろうか」

「ああ、そうするしかないだろう」

 二人は私の横に腰を降ろした。

「ありがとう」私はかすれた小さな声で言った。

「ええやんか、気にせんでも。ゆっくり休めよ。俺も疲れとるし」貴洋は言ってくれたが、私の体力はちょっとやそっとでは回復しそうになかった。

「おいっ、そやけど全然見たことないような所へ来てしもたなあ」

「ああ、しかし、どこで間違えてしまったんだろうな。やっぱりあの笹原かなあ」

「あそこは稜線が広うなっとったし、道みたいな踏み跡みたいなもんが縦横無尽にあったでなあ。そやけど、ここ、どこやろう」

「さあ、もう完璧に分からない状態だな」

「どうするんや。このまま進むんか」

「まさか戻る訳にはいかないだろう」

「ほんなら、このまま行くんやな」

「何とかして山を降りるのさ、今日中に」

「降りられると思とんのか」

「分からない。しかし、こうするしかないだろう」賢一は地形図と磁石を取り出した。

「左に開けているのが奥の平峰じゃないかな。これを降りて行けば蓮に行けるはずだ。地形図には道はないけれど」

「谷には降りやん方がええんと違うか。鉄則やんか。そやけど、もしかしたらそのまま進んで谷を降りる道に出られるかも知れへんな。そんな道があったらの話しやけど」

「そうだろう。やっぱり、谷を降りる気になってしまうだろう」

「大丈夫よ、私。何とか歩けそう。早く行きましょう」少しは体力が回復したような気がしたので私は二人に言った。

「本当に大丈夫か、智子。無理しなくてもいいんだぜ。もう少し休んだ方がいいんじゃないか」

「ううん、もういいの。大丈夫よ」

 そう言うと私は立ち上がった。私の急な回復に二人とも驚いたようだったが、出発を決心させるには十分だった。

「じゃあ、行こうか」

 私は貴洋について行こうと歩き出したが、すぐに間隔が開いてしまった。一生懸命に歩こうとするのだが、足が思うようには動いてくれなかった。やっぱり立ち上がるだけの力しか残っていなかったようだった。立ち止まると膝に両手を置いて上体を支えて呼吸を整えた。視界には地面しかなかった。枯れ草の生えた地面を見て、こんな所では死にたくないと思った。しかし、いくら呼吸を整えようとしても荒い呼吸は収まらなかった。そして歩こうとする力も湧いて来なかった。もう完全にバテていた。立っているのが精一杯だった。

「大丈夫か、智子。やっぱりもう少し休んだ方がいいんじゃないのか」後にいた賢一が心配そうな声で言ってくれたが、その声もどこか遠くから聞こえてくるみたいに虚ろだった。私はまた地面に座り込んでしまった。

「智子」賢一は大きな声を出した。

「おおい、ちょっと待ってくれ。智子がまた座り込んでしまったんだ」賢一はずっと前を行く貴洋を呼び戻した。貴洋はすぐに戻って来ると身体を屈めて私の顔を見た。

「私、今度こそ、もう駄目。歩けそうにないわ。二人だけで行ってよ」

「馬鹿なことを言うなよ」

「でも・・・・・」私は顔を上げることもできずに頼りない小さな声で言った。

「よう歩かへんのやったら、俺が担いでったるわ。さあ、智子。俺の肩に掴まれよ」

 貴洋はザックを降ろすと私の前に腰を降ろした。

「さあ、早うっ。こんな山の中に放ってく訳にはいかへんやろ」貴洋の声は真剣だった。

 私がためらっていると貴洋は肩を動かしてみせて背中にもたれるように促した。

「・・・」

「早うしてくれよ。ぐずぐずしとったらあかん」貴洋は怒鳴りつけるように言った。

 私は賢一の助けを借りてゆっくりと貴洋の背中にもたれた。貴洋は全身に力を入れると膝を震わせながら私を背負って立ち上がった。

「さあ・・・賢一・・・悪いけど・・・智子と・・・俺の・・・ザックを・・・持ってくれへんか」貴洋は息切れでもしたような途切れ途切れの声を出した。私は自分で歩きたかったが、今は貴洋に従うしかなかった。

「ああ、わかった」賢一は自分のザック以外に貴洋と私のザックも背負った。しかし、貴洋はザック三つよりはるかに重い私を背負っている。

「さあ、行こか。・・・賢一、先を歩いてくれ。・・・この荷物・・・ちょっとばっかし重たいけど・・・すぐに追いつく・・・」

 賢一は先頭になって歩き出した。貴洋は私を負ぶってちょっとふらついた足取りで歩いている。疲れているはずなのにすごい体力だと感心した。歩くに従って私の身体は貴洋の背中で上下した。顔を貴洋の左肩に載せていると荒い息遣いが感じられる。

「負ぶってくれるのはありがたいんだけど」私は目を閉じたまま貴洋の背中で揺られながら呟いた。「重いっていうのは余分じゃないっ」

「いいや・・・重たいわ。・・・智子が・・・こんなに・・・重たいとは・・・思わへんだわ」

「ちょっと、レディーに対して失礼じゃない」しばらく歩いてから私は言った。

「こんな・・・緊急の・・・事態に・・・レディーも・・・へったくれも・・・あらへんわ」貴洋は言ったが、しんどそうな感じがしたので私は話しかけるのを止めた。

 口は悪いが、私は貴洋に感謝しなければならない。自分一人が歩くのもしんどいのに私を負ぶって歩いているのだから。

 私たちは薮の中に心細く続く踏み跡を拾いながら進んだ。進んで行けば何とか昨日歩いて来た道へ出るだろうくらいにしか方向に確信はなかった。今日は一日中薮漕ぎばかりをしてきた。いつになったら、どこまで歩いたら薮漕ぎから開放されるのだろうか。もういい加減にしてほしかったが、薮の中を進むしかなかった。

 二十分だったか三十分だったか歩いて行くと、突然私たちは切り開かれた道に出ることができた。現在位置は全く不明だったが、しっかりした道に出られて私たちは救われたような気分になった。落ち葉が積もっていて地面はほとんど隠されていたが、両側の木の枝が払われていて道であることは明らかだった。幅は一人が通るのに十分だった。ただ、この道はかなり長い間人が通っていないように思われた。それでも笹や木の枝を掻き分けることから開放されたことがとても嬉しかった。戸惑いや不安もあったに違いないが、貴洋と賢一の様子からは安堵の雰囲気が感じられた。貴洋は私を負ぶったままでいるので私は言った。

「もう大丈夫みたい。何とか一人で歩けそうだから、降ろしてくれても」

「遠慮せんでもええんやで。今から歩きやすい道を行くんやでそんなに負担にはならんから、まだ負ぶっとってもええんやけどな。まあ、さっきまではえらかったけど」

「ありがとう。でも、いつまでも私が荷物じゃたいへんでしょう。そろそろ降ろして。いつまでも負ぶっている訳には行かないわよ」そう言うと貴洋はゆっくりとしゃがんでくれた。私は貴洋の背中から離れた。

「ありがとう」

「ところで本当に大丈夫なんか」

「うん、大丈夫」

「そうか、残念やな」

「えっ」私にはその言葉の意味が分からなかった。

「えらかったけど、楽しみがなくなってしもたわ」

「えっ、どういうこと」

「いや、別に」

「何か気になるわね。はっきり言ってよ」

「いやあ、言いにくいな」

「隠さなくてもいいじゃない。気持ち悪いわ。ここまで言っといて口にしないなんて」

「ほんじゃあ言うけど怒るなよな」

「うん、怒らないから」

「いや、あのさ。その、胸の膨らみが感じられへんようになって寂しいなっていうことなんやけど」

「まあ、何、言ってんの。このエロ男」

「怒らへんって言うたやないか」

「言ったけど、そんなの誰でも怒るわよ。変態」

「ああ、それにしても重たかったわ」

「私、そんなに重くないはずよ」

「ほんなら証拠を見せてみろよ」

「今は貴洋が疲れているからそう思うだけ。普段だったら軽く感じるはずよ」

「ほな、何キロなんや、体重は」

「失礼ね。レディーに体重を聞くなんて」

「本当は言えへんのやろ。六十キロはあると思たけどな」

「馬鹿。六十キロもある訳ないでしょ」私は貴洋の左肩に軽くパンチをお見舞いした。

「痛え。骨が折れた」貴洋は大げさな動作で右手を肩に当てた。

 私はかなり頭にきたが、何故か貴洋と言い合いをしたら少し元気を取り戻した。歩けるような気がしてきたのが不思議だった。

 私たちは乾いた落ち葉を踏む音だけをさせながら歩いた。いつの間にか風はほとんど吹かなくなっていた。無風状態になると空気がかなり湿っぽく感じられた。顔や首筋に粘っこい汗が半分だけ蒸発して半分が残っていた。道の両側から密生した樹木が覆いかぶさっている。隙間から見上げると空は一面が濃淡の変化がない銀色の雲に覆われていた。時間が動かなくなったような感じの、息が詰まりそうなトンネルのような空間の中で落ち葉を踏む音だけをさせて私たちは歩いた。そこは何十歩、何百歩と歩いても進んだ気などしない所だった。

 先頭を歩いていた貴洋が立ち止まった。道は丸い小さな広場に突き当たった。失望感が頭を持ち上げ始めた。ぐるりと周囲を見渡すと貴洋は地面に視線を落として何かを捜している。私は貴洋の視線の先を追った。するとその先には真っ赤に錆びた大きな鉈が落ちていた。近寄ると貴洋はそれを手に取った。

「おいっ、こんな所に鉈が落ちとるわ。ぼろぼろに錆びとるけど、グラインダーで研いだらまだ使えんことはないでぇ」貴洋は鉈を賢一と私に見せた。

「こんな物拾ってどうするつもりなんだ。まさか持って帰るんじゃないだろうな」

「勿論、持って帰るつもりやけど」

「ええっ、ただでさえ疲れているのにこんな重い物、よく持って帰る気になるなあ」

「ほんなら、放ったろかいな。やっぱ重たいでな」

「ああ、その方がいいよ」

 ちょっと惜しそうにしていたが、貴洋はすぐに鉈を笹の根元に放った。鉈は大きな音をたてて笹の間に落ちた。

「ちょっと待てよ。笹が落ちているということは、ここは人が来る所だということだな。あっ、おいっ、今鉈を放った所の右を見てみろよ。伐採された枝が積まれているじゃないか」大きな声で言うと賢一は積まれた枝の方へ駆け寄った。

「おういっ、道が続いているぞ」

 賢一は伐採された枝を避けて薮を掻き分けた。するとすぐに別な道に出た。貴洋と私も後に続いた。そこには今まで歩いて来た道よりももう少し手入れされた感じの道が伸びていた。賢一は枝を打たれた木の切り口と落ち葉の踏まれ具合をじっと見つめた。

「この道はちょっと前まで人が通っていた道だ。それもそんなに前のことじゃあないぞ。行けるぞ。この道を行くんだ」

 賢一が先頭になって進んだ。この道も人が一人通れるくらいの幅の道だったが、さっきまでの道とは明らかに違っていた。枝を払われた木の切り口を見るとまだ白くて新しい。疲れていたが、私たちは歩いた。両側の木々が密生していて視界は遮られえていた。やがて道は稜線をはずれて山腹を緩く斜めに下り始めた。

 しかし、十分くらい下ると太い木の幹が短く切られてドラム缶のように何本も転がっている所に出た。先に進もうとすると乱雑に転がっている丸太を乗り越えて行かなければならなかった。

「俺が先の方を見てくるから、二人ともここで待っていてくれ」賢一はそう言うと転がった丸太を乗り越えて行った。私は丸太の一つに腰を降ろした。貴洋は立ったままで周囲を眺めていた。

「おおい、この先に道はないぞ」しばらくすると賢一の声がした。それを聞いても貴洋は声のした方へ行かずに丸太に腰を降ろした。

「一体、どうなってるんだろう、この山は。道があったかと思うとすぐに消えてしまったりして」息を切らしながら戻って来ると賢一は言った。

「それにしても、もうくたくただよ。朝から歩いてばかりだったから」

「俺は腹が減ったわ。チョコレートだけではもたんわ。他に何か食う物あらへんか」貴洋が情けなさそうに言った。

「キャンディーが一つだけ残ってるけど」

「飴かっ、いらんわ」

「でもこれしかないもの」

「それは大切にしておこう。このままだと今夜もビバークになるかも知れないからな」

「ええっ、またビバークか。もうあかんで、昨夜の寒さ、よう我慢せんわ」

「私も。今夜もビバークになったら、もう完全に駄目だわ、私」

「そやけど、飴はいらんわ。水ないかなあ。俺はとっくになくなったし」

「俺のポリタンクにちょっとだけ残っているからそれを分けよう」賢一は自分のポリタンクに残っていた水を分けた。私は最後になるかも知れない水をゆっくりと飲んだ。すでに宮の谷で汲んだ時の清冽さはなかった。ポリタンクの臭いがするだけの水だった。生暖かく喉を通過した。ふと時計を見たら午後の四時を過ぎていた。空の前面を覆っていた雲が薄暗くなってきた。

 やばい。私は本当にやばいと思った。今夜もビバークすることになったりしたらと考えると泣き叫びそうになった。昨夜のような寒さは味わいたくないし、それに耐える自信もない。第一に食べる物がほとんどないし、水もない。今朝、北の方の遠くの山の上に見えた雪のことも気掛かりだった。もし雪にでも降られたら、三人とも駄目だろう。


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