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雨の温度

作者: 目黒めぐみ

出掛ける準備をしていると、恋人のひろやからメールが届いた。夕方から雨の予報らしい。折り畳みの傘を持ってきた方がいいよ、と。

外に出ると、確かに、日差しはあるが薄く一枚膜が張ったような空模様で、この時期にしては気温もあまり高くないように感じた。半袖では夕方寒くなるかも、と思い、一度部屋の中に戻ってカーディガンを鞄に入れた。

少し早足で駅に向かい、待ち合わせの中野を目指す。土曜日なので、乗り換えに時間がかかるかもしれない。私の方が少し遅れるかな、と思い、ひろやにその旨をメールした。先に着いたら喫煙所で煙草吸ってるよ、と返事が来た。

その言葉通りひろやは喫煙所にいて、エリア内に入った私と目が合うと、短くなった煙草を一息吸って火を消した。その動作で、ひろやのもみ上げに留まっていた汗が、つ、と首筋を流れた。

「ごめん、結構待たせた?」

「いや、ちょうど一本吸い終わったとこだったよ。タイミング良かった」

「そっか、良かった」

そうやり取りをしながら、私達は歩き出した。


ひろやとは、付き合って四年半になる。実感としてはもっと長く一緒に居るような気もするし、もうそんなに経ったのか、という気もする。ほとんど毎日どちらかの家で一緒にご飯を食べて、並んで寝転がって買ってきた漫画を読んだり一緒に映画を観たり買い物に行ったりそういうのをくり返しているうちにいつの間にか経っていた四年半、という感じだった。大きな喧嘩はしたことがなくて、大きな事件が一度だけあった。ひろやは穏やかな性格で、声を荒げたり感情的になって理不尽なことを言ったりすることが無い。標準の顔が何となく微笑んでいるように見える人。私が感情的になって声を荒げたり理不尽なことを言ったり泣き喚いたりしても、困ったように微笑んで「そんなこと言わないで」と言って隣に居てくれる人。そして、それ以上何も言わない。私が泣き疲れて、もう怒ってたことも悲しかったことも全部どうでも良くなってお腹が空いて静かになるまでじっとただ隣に居て時々「そんなこと言わないで」と言って、私が静かになると、「何か食べに行く?」と言う。

二つ年上の、背の高い、奥二重の私の恋人。


ブロードウェイを抜けて早稲田通りを渡り新井薬師の商店街を歩く道中、自販機で私はミネラルウォーターを、ひろやはコーラを買った。少し風が出てきていたけれど、七月も後半に差し掛かるこの時期、歩くとさすがにじんわり汗をかいた。代謝の良いひろやは何度かタオルで額や首元の汗を拭っていた。私も時々ハンカチで鼻の下を軽く抑える。髪を束ねてくれば良かった、と思った。

私達は商店街の中にある文房具のセレクトショップと家具がメインのリサイクルショップに寄った後、駅前の喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。店内は多少強めに冷房が効いていたので、私はホットを頼んだ。文房具屋に寄りたいと言ったのは私で、リサイクルショップをちょっと見たい、と言ったのはひろやだった。私は文房具屋でマスキングテープとポチ袋を買った。「使うの?」とひろやが聞く。私は「使うこともあるけど、ただ欲しいんだよ」と説明したけれど、ひろやはわかったのかわかっていないのか、微笑んだまま首を傾げていたので、「コレクションだよ」と言うと「ああ」と納得したようだった。

「あの棚、やっぱり買おうかなぁ」

通りすがり、ガラス張りの店内にあった棚が目に留まり、ひろやは「ちょっと見たい」と言ってリサイクルショップに入った。お洒落な家具を集めたお店で、天井からはカラフルで可愛いライトがたくさん吊り下げられていた。ひろやが気になった棚は背面が無いウォールナット材のシンプルなもので、一番下の段だけ高さがあり黒い扉がついていて、確かに可愛かった。

リサイクルショップだけあって比較的手頃な値段のものが多い中で、その棚は、少し値が張った。扉を開けてみたりしていると、店員が声を掛けてきて、新しいもので状態も良いので、と説明してくれた。安くはないけれど、確かに綺麗だしつくりも良さそうだ。ひろやは触れてみたりいろいろな角度から見たりしていたが、「ちょっと考えてみます」と言って店を後にした。

「テレビの横のさ、スペースあるじゃん。そこにちょうど良さそうなんだよ。でも結構高さあるから、部屋が窮屈になるかと思って。迷う」

「奥の方なら気にならないんじゃない?可愛かったよ、あの棚」

「帰り、もう一回見てっていい?」

「いいよ。改めて見たら、やっぱこいつだ、ってなるかもしれないし。違うな、ってなるかもしれないけど」

「今、七割買うで三割買わない、くらいなんだよなぁ」

ひろやはアイスコーヒーを飲み干し、煙草に火を着けた。少し温くなったコーヒーを私は口に運ぶ。煙草の苦い香り。コーヒーの苦い香り。私の好きな香りが混じり合う。

喫茶店を出て、私達はまた歩き出した。線路を渡ると、途端に道行く人が少なくなる。

「傘、持ってきた?」

特に前触れらしきものもなく、ひろやが言った。

「うん、持ってきたよ。折り畳み。連絡ありがとね。天気予報、雨なんだね」

言われて初めて天気のことを思い出して、空を見上げた。少し雲行きが怪しくなってきている。薄い和紙のようだった空を覆うヴェールが、あちこちに禍々しい瘤を作り始めている。

「帰りまでもつかな」

「なんか微妙だね。観たら、今日は早めに帰ろう」

そうだね、と言って、私はひろやの部屋と、さっき見た棚を思い出していた。やっぱりあの棚はひろやの部屋に合いそうだ。あと一段少なくて、その分高さがなかったら即決なのにな。でもやっぱり合いそうな気がする。

十メートル程先で、若い男性が数人歩道の端に寄り話していた。目的地の画廊に着いたみたいだ。


歩道に沿うガラス張りの面を除いた三面のうち一番広い一面に、黒い額に入れた写真が数点ずつ飾られていて、残る二面には大きな写真が一枚ずつ飾られていた。私は敢えてその大きな写真をあまり見ないようにした。今回の展示は二人の写真家さんの合同のもので、そのうち一人がひろやの友達だ。ミナトくん。私も何度か会ったことがある。外で話していた人たちともひろやは友達のようで、彼らやミナト君と軽く挨拶を交わしたあと、私は作品を一枚一枚端から順番に見ていった。

ミナト君の写真は、風景を撮ったものが多かった。鮮やかで透明感のある写真たち。植物や海辺など自然の景色ばかりなのだけれど、シンメトリーなものが多くて幾何学的な印象だった。幻想的で生々しくて、ミナト君の写真はすごく綺麗だ。小さな写真を見終えて、私は見ないようにしていた一面、ミナト君のメインの作品の前に立った。画面の両端に下から見上げた二本の木、濃く茂った葉が透けて、抜けるような青空に映える。鮮やかできらきらしていて、けれど、何故か懐かしい気持ちになった。本当に綺麗。ミナト君の写真は、目に焼き付いてしばらく忘れられそうになかった。

もう一度ミナト君の写真を見直していき、初めの一枚まで戻って、今度は隣の別の人の作品に目を向ける。

もう一人の写真家さんの作品は、全て白黒の写真だった。風景を撮ったものも、人の顔を撮ったものもある。路上など、街なかのものが多かった。都会の風景。横断歩道、颯爽と歩き去っていく後ろ姿、幾重にも連なるビル。入り組んだ高速道路。目を伏せる老婆の綺麗な横顔。

直感で、この人の写真好きだな、と思った。綺麗な写真、ではなくて、もちろんすごく綺麗でもあるんだけれど、それより多分この人の見てるものが好きだ、と。何気ない景色だけれど、この人がどうしてこの瞬間を切り取ったのかなんとなくわかるような気がした。それは多分私の感性とかではなくて、そういう撮り方をしているんだと思う。一つ一つ、見ていく。この人の目が切り取った街の姿は面白い。飽きなくて、ずっと見ていられる。

心が躍った。一枚一枚じっくり見ながら、彼のピントの外にあるものにも気がいってしまう。ぼやけた看板の文字だとか、無造作に転がる空き缶だとか、電車や車の騒音だとか。

そして最後の一枚、大きな写真に視線を向けた。

瞬間、言葉通り、そのまま動けなくなる。

白と黒で切り取った画面。多分どこかのビルの屋上で、ものすごく綺麗な女の子が、煙草を口に咥えたままこちらを振り向く瞬間。表情も煙草もぶれている。引き攣るように歪んだ口元、感情の読めない目。

写真を見て泣きそうだと思ったのは初めてだった。全然悲しい写真でもないのに。見ているとたまらない気持ちになって、それが溢れようとしてくる。何の感情なんだろう。感動も切なさも違う気がするし、それも含まれている気もする。

すごく好きだな。

私はこの写真が、何故かはよくわからないけれど、すごく好きだ。

しばらくその写真の前で立ち尽くした後、私は改めて画廊の中と外を見回し、一人一人に視線を送った。窓の外で話している集団の中に、初めて見る顔が一つ。こちらを見ている。さっきひろやと一緒にみんなに挨拶した時には多分居なかった。写真を観ている私を見ている彼を私が見つけた訳だから、当然目が合って、彼は小さく会釈した。黒いニット帽を浅く被ったその彼は、痩せていて手足が細長く、デフォルメした漫画のキャラクターみたいだった。


その日のその後、私達は雨粒を力いっぱい地面に叩き付けるような豪雨に見舞われて、画廊の中に閉じ込められていた。季節柄、夕立だろう、きっとすぐ止むよ、という話になり、各々リラックスして過ごしていた。そんな私達の思惑に反して、雨は、勢いを弱めたと思ったらすぐにまた激しく降り出して、と繰り返し、一向に私達を逃してくれそうにない。時間は午後四時を少し過ぎたところ。普段ならまだ夕方と呼ぶにも早いくらいだけれど、窓の外は薄暗くて、蛍光灯のこうこうと点いた室内に居ると、まるで、夜のような気分だった。そう感じていたのは私だけではなかったんだと思う。何となく連帯感というか、親密な空気が生まれ、ここに居合わせたのも何かの縁、とばかりにみんなの交わす言葉が少しずつ増えていく。画廊のオーナーが温かいコーヒーを振る舞ってくれ、その生成り色の紙コップを片手に普段よりもう少しじっくりと話を深めていく。ひろやはミナト君とヤス君というもう一人の友達と三人で立ったまま話し込んでいた。私は展示場の奥にあるスタッフ用のスペースで、ソファに座りみんなの様子や窓の外を眺めていた。曇ったガラスと激しい雨、何層にも張られた幕の向こうに、街灯か何かのオレンジ色の灯りが淡く淡く滲んでいる。

私が居るその場所は少し窪んだ狭いスペースだから、人が来ればすぐにわかった。彼はソファに座った私に合わせて少し屈み、右手を差し出した。

「今日は来てくれてありがとうございます」

握手を交わすと、「今日の展示の、木崎です」言いながら、彼はソファの横にあった丸椅子に腰を下ろした。手にはコーヒーのカップではなく缶ビールを持っていた。

「ミナトの友達ですか?」

「あ、はい。というか、彼氏がミナト君と友達で。ミナト君の写真、少しだけ見させてもらったことはあったんですけど、こんな風にちゃんと見たの初めてです」

「そうなんだ。ミナトの写真、いいですよね」

「はい。すごく綺麗でした」

私はなんとか彼に彼自身の写真の感想を言いたくて、タイミングや伝え方を何度も頭の中でシミュレートするのだけれど、うまくそのきっかけが掴めずに、やきもきしながら彼と他愛ない会話を交わした。ただ、彼と交わす他愛ない会話は途切れることが無くて、初対面とは思えないくらいしっくりきた。今日ここまでどうやって来たとか、途中の商店街に猫が多いとか、うちの近所はもっと多いとか、俺晴れ男なのに、とか。

「晴れ男なんですか?」

「だと思ってたんだけどね。全然違ってたね今日この雨って」

「返上ですね・・・」

「返上ですよね」

窓の外はいよいよ本当の夜が近付いてきてそういう暗さに染まりつつあって、けれど雨は幾分弱まってきたようにも思えた。曇ったガラスの向こうのぼやけた街灯の揺らぎが心なしかおさまっている。音も、さっきまでの滝のような一続きの水流のものではなくて、一粒一粒が感じられるくらいになってきていた。「雨、弱まってきましたね」と何の気もなく言おうとして、すぐに言葉を飲み込んだ。雨が収まったら、解散の合図になるから。

とはいえ、何かを気にした気配というのは、伝わってしまうものだ。ほんの少し視線を窓の外へ向けただけのつもりだったのだけれど、彼は釣られるように外へ目を向け、握ったままだった缶ビールの中身を飲み干した。「雨、弱まってきましたね」言いながら、彼は立ち上がる体勢をとる。「そうですね」答える。

「そうだ、これ」

彼は指先で少し潰してしまったビールの空き缶を足下に置くと、ポケットからポストカードのようなものを一枚引っ張り出して、私に差し出した。椅子に座っていた所為でそれは少し角が折れて反っていた。

「来月の頭から別なところでも個展やるんで良かったら」

白地に黒い文字で『yukihito kizaki exhibition』の文字と、電線がたくさん行き交った空の白黒写真。裏面は黒い背景に白字で開催期間やギャラリーの地図が載っている。受け取ると、彼は一番初めと同じように軽く会釈して、今度こそ立ち上がろうとした。

「あの」

咄嗟に私は声を掛けた。それまでスムーズだったやり取りからしたら、唐突すぎるタイミングで。でも、一言、大切なことを今日まだ言っていない。

「写真、すごく素敵でした。木崎さんの写真、私、好きです。すごく。来月の展示も、絶対観に行きます」

しどろもどろにどうにか言いたいことだけ無理矢理口にする。伝えたいことはもっとたくさんあったけれど。必死過ぎて彼に笑われるかな、と思ったら、彼は下を向いて微笑んでいて、

「いや、本当にありがとうございます。そう言ってもらえるとめっちゃ嬉しいです」

喜んでくれているのが伝わってきた。まるで少年みたいに無邪気な人。社交辞令じゃない言葉を素直に受け取ってもらえて嬉しかった。彼は最後にもう一度会釈して、その場から立ち去った。

とっくに空になっているカップともらったフライヤーを手に、私はしばらくそのままソファに座って窓の外を見ていた。雨は随分大人しくなって、どこか優しささえ感じるようだった。長い雨宿りを強いられていた観客は一人、また一人と挨拶を交わし居なくなっていった。私達もそろそろ帰り時だろうか。私はソファから立ち上がりひろやの居るところへと歩み寄った。ひろやは、私の知らない友達と話をしていた。

その友達と私も少し会話して、私とひろやは残っている人たちに挨拶をし、画廊を後にした。傘をさして駅まで歩けなくもなかったけれど、私達はタクシーを拾った。まだ暗雲は厚く立ち籠めていて、いつまた激しく降り出してもおかしくないような様相だったからだ。再びひどくなる前に早めに帰ろう、と私達の意見は一致した。

そういうわけで、結局ひろやの目に留まったあの棚は買えなかった。その後にも何度か、中野に行ったら見に行こう、という話は立ち上がったのだけれど、丁度良いタイミングも無いまま随分時間が経ってしまって、今行ってもきっともう無いだろう、と見に行かないまま縁が無かったことにしてしまった。


木崎さん、の個展にはひろやも誘ったのだけれど、なかなか私とひろやが日中に時間の合う日が無くて、そうこうしているうちに二週間の開催期間はあっという間に過ぎていった。最終日まで粘って、結局私は一人で行くことにした。元々誘いを受けたのは私だったし、彼の作品に対しての熱量も私とひろやとでは違っていたんだと思う。前回の合同展示の後、ひろやは、ミナト君の写真がすごく綺麗で良かったと言った。それから「キザキ君の写真も良かったね」と。

渋谷で電車を降り、ひどく混み合った駅と駅前とセンター街を抜けて、もう少し歩く。フライヤーに載っている住所は、飲食店と洋服屋がギュウギュウ詰まった路地裏にある、雑居ビルの三階だった。一階は居酒屋で二階はマッサージ屋、そして三階は手作り感のあるお洒落なカフェ。黒い看板が掛かった赤いペンキ塗りの木のドアの横に、もらったものと同じフライヤーが裏表で二枚貼ってある。ドアの小窓から中の様子が少し見えた。結構人がいるようだ。最終日なので彼もいるのでは、と思っていたのだけれど、少なくとも小窓から見える範囲には彼の姿は見当たらなかった。

ドアを押すと、カラン、と厚みのある乾いたベルの音が鳴った。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

カウンターの中のベリーショートカットの女性店員がすぐに声を掛けてくれた。その店員に写真の展示を観に来たことを伝え、後でホットコーヒーを、と頼むと「飲みながら観ていただくことも出来ますよ」と言ってくれたので、用意してもらうことにした。

「出来ましたらお持ちしますので、どうぞご覧になっててください」

お礼を言い、店内を軽く見回す。赤を基調とした壁、椅子やテーブルは木目や黒のものが多く、深いグリーンやブルーのクッションがソファの上に置いてある。奥の方の壁に額に入れられた様々なサイズの白黒写真が飾られているのを見つけ、私はそちらに足を進めた。

写真の側のテーブル席では、カップルが一組と女性同士の二人組がカップを前に談笑していた。彼らや彼女達は写真を観たんだろうか。それとも全く関係ないし興味も無いたまたま居合わせたお客だろうか。どうしてか、そんなことが気になった。気になったところでもちろん話し掛けるつもりもないし、何となくだけれど無関係であって欲しいと思った。自分でも、何でそんな風に思ったのかはよくわからない。素晴らしい写真だから、多くの人が気に入ってくれた方がいいのに。少しだけ胃の辺りが重くなるような、何かに焦らされるような、そんな感覚がやんわりと胸を締め付ける。気付かないふりが出来るか出来ないか微妙な程度に、やんわりと。

彼ら彼女らに視線を向けないようにしながら、私は真っ直ぐ写真の飾ってある壁面へと歩み寄った。前回と同じように都会の一角を切り取った写真、と初めに思ったのだけれど、一つ一つ観ていくうち、人物が写った写真が多いことに気付いた。公園の写真の隅の方にはベンチに並んで座った老夫婦が写っているし、満面の笑みでこちらにピースサインをしている女性二人の写真もある。若い男性たちがスケートボードで疾走していく写真が三枚、彼らが集まって煙草を吸いながら立ち話でもしているような写真が一枚、ハットを深く被った男性がスケートボードを手に佇んでいる写真が一枚。彼らは木崎さんの友達だろうか。サッカーボールを追いかける小さな男の子とさらに小さな女の子、雑然と人の行き交う歌舞伎町一番街入り口の交差点、錆びた無機質な外階段を降りていくトレンチコートの女性の後ろ姿。それらの写真の間を繋ぐように、廃れた川沿いの団地や、スプレーの絵でいっぱいの古いビル、道路に書かれた『止レ』の文字。何本もの電線が空を横切る写真。

「お待たせしました」

電線の写真の前で足を止め見入っていると、先ほどの店員の女性がコーヒーを持って来てくれた。お礼を良い、黒い紙のカップを受け取る。巻いてある焦げ茶色のスリーブ越しに、熱が指先に伝わる。

「熱いのでお気を付けてくださいね。今日は来てくださってありがとうございます。木崎君のお知り合いですか?」

私は、先月の画廊で彼と知り合ったことや、そこでたまたま彼の写真を目にして惹かれたことなどを話した。短い髪にボーダーのタイトなカットソーの似合うその女性は、木崎さんとは数年来の友人で、今回の展示も彼女がオーナーに木崎さんを紹介したことから開催に結びついたのだと話してくれた。彼女自身も写真が好きでよく撮りに行くのだそうだけれど、私の写真はとても展示するようなレベルのものじゃないです、と笑って首を横に振った。

「木崎君、今日、来てるんですけどね。煙草買ってくるって言って出掛けて、戻ってこないんですよ。結構経つんだけどな」

「どこまで買いに行ったんでしょうね」

「ね。どこまで行ったんでしょうね。いい路地でも見つけちゃったかな。あの人裏道大好きだから」


コーヒーの代金を払い店を出ると、まだ日の当たらないビルの中にいるというのに、暖まった密度の高い空気が纏わり付いて来て、息苦しい程だった。昼間はもっとカラリとした空気だったのに。早く外に出たかったけれどエレベーターがなかなか来ないので、私は階段を使うことにした。鞄からハンカチを取り出すのも億劫で、じんわり額に滲んでくる汗もそのままに、ビルの階段を降りていく。

もうすぐ一階、というところで、入り口のガラス戸が開いて、見覚えのある痩せた体躯が滑り込んできた。顔を上げ、私と目が合うと、切れ長の目を見開いて彼が声を上げた。

「おー。ほんとに来てくれたんですね」

「来るの遅くなってすいません。間に合って良かったです」

「いや、めちゃくちゃ嬉しいです。ありがとうございます」

階段の上と下で、何故か私達は変な距離を隔てたまま言葉を交わしている。

「今回のも、すごく良かったです。見ていて、とても面白かった。誘ってくれてありがとうございます」

「いや、こちらこそ。えっと、今日は一人ですか?彼氏は?」

「一緒に行きたいって言ってたんですけど、なかなかタイミングが合わなくって」

「そうなんだ。初日ならミナトとかも居たんですけどね。あ、もう今帰るところですよね。送って行きますよ」

「いや、でも。木崎さん、戻ったばっかりなのに」

「うん、多分大丈夫。煙草買いに行くって言ってあるし」

「店員さん、木崎さんがなかなか戻ってこないって言ってましたけど」

「いや、なんていうかもう今戻っても後で戻ってもあんまり変わんないし。大丈夫」

私が階段を下りて来るのを待って、木崎さんがガラス戸を開けた。外、蒸し暑いなぁ、と、くらくらしてうまく働かない頭だか心だかで、シンプルに思った。


「人、すごいですね」

「ね。普段、渋谷とか結構来ます?」

「よっぽど用事がある時くらい。久々に来ました」

「俺も昼間渋谷歩くのなんて久しぶり。こんなに混んでるんですね。油断してた」

「夜はよく来るんですか?」

「そうだね、俺、歩くの好きで。夜はよく散歩とかします。裏道とか」

「ああ、あのカフェの店員さんも言ってましたね。木崎さん、裏道大好きだって」

「うん、好きな感じの道とかあると、つい入っちゃう。夜はちょっと奥に入れば人少ないから、歩きやすいですよ。特に今ぐらいの、夏の夜とかすげぇ気持ちいいんですよ」

人と人の間を縫うように歩くから、自然と木崎さんとの距離が縮まって行く。どれくらいまで近寄って良いんだろうか。時々人を避けた時に腕が当たる。その度に、ごめんなさい、と言うのも可笑しいから、お互いにもう当たるままにしている。夏の熱気で暖まった私の体温よりさらに熱い、木崎さんの皮膚の温度。二人とも半袖なので直に感じるそういった熱は、隣に居る人の存在をより濃く意識させる。私はまだ彼に慣れていない所為で少し緊張していたのだけれど、それでも木崎さんと話しながら歩くのは心地良かった。

「夏の夜の散歩、気持ち良さそうですね」

「いいですよ。それに、ちょっと入ると雰囲気のある住宅街とかあって、面白いんですよ。これ今も人居んの?って感じの廃墟みたいなビルとか、夜中なのにじいさんばあさんでやってる古い喫茶店とか、味のある銭湯とか、そういうのいっぱいあって見てて飽きないっすよ」

「それは面白そう。うん、すごくいいですね」

少し、足の小指の先が痛くなってきていた。履いてきた黒のピンヒールのサンダルは最近おろしたばかりのもので、まだ足に馴染んでいなかった。隣に居るのがひろやだったら、きっと、どこかで休んで行こう、と言っただろうけれど、もう目の前の角を曲がればスクランブル交差点が見えるところまで来ていたし、木崎さんもそろそろ会場のカフェに戻らなければならないだろうから、言い出せなかった。むしろ適当な場所で、ここでいいですよ、と声を掛けるべきなのはわかっていた。わかっていたけれど、気の利かないフリをした。どこかでお茶しましょう、と言う程図々しくはなれないけれど。結局、駅までの残り僅かな距離が、今の私たちにとっていろいろとちょうど良いのだろう。どちらにとっても。どういう意味でも。

「今度行きます?散歩。夜の渋谷散歩。渋谷じゃなくても良いけど」

いいんですか、と言おうとして、思い止まった。

「いいですね。行きたいです」

スクランブル交差点の信号は青で、そこまでは微妙に距離があった。少し急げば渡りきれるか、微妙な距離。どちらからともなく歩調を緩めた。ちょうど赤に変わったところで交差点に辿り着いて、私達は立ち止まる。

木崎さんはワークパンツの前ポケットから黒い革のカードケースを取り出し、中から名刺を一枚抜いて、差し出した。明朝体で「写真家 木崎行人」の文字と連絡先だけのシンプルな名刺だった。

「電話でもメールでも良いんで、連絡ください。夜なら割といつでも空いてるんで。まぁ、予定わかったら適当に」

「了解です。連絡します」

「今日は来てくれて本当にありがとうございます。またゆっくり」

言いながら木崎さんが右手を出したので、その熱い手を握り握手を交わす。

私は信号に背を向けて立っていたのだけれど、周囲の人たちが一斉に歩き出したので、青になったのだとわかった。木崎さんが送ってくれるのは、どうやらここまでらしい。「それじゃあ、また」軽く片手を上げ、木崎さんは身を翻す。そして少し歩いてから彼は振り向き、もう一度手を上げてくれたので、私は会釈して、横断歩道を渡った。渡りきってから振り返って人ごみの中に彼の姿を探す。黒いニット帽の後ろ姿を見つけたけれど、その人はもう振り返ることはなかった。


その日仕事終わりのひろやと合流して、二人で夕食も兼ねて飲みに行った。ひろやの家の近くの、よく行く小さな小料理屋。中瓶を一本と味噌揚げ茄子、しらすおろし、レバ焼き、肉豆腐を頼んで、手酌で満たしたグラスを合わせる。「お疲れー」カツン。

「あービール旨い。今日、暑かったねぇ」

「ね。外回り大変だったでしょ」

「移動中は基本車だからね。割と大丈夫だよ。ただ今日やたら道が混んでてさ。そっちの方がきつかった。日曜はそれが嫌なんだよなぁ」

ひろやはネクタイの首元を緩めながら言った。建築関係の営業をしているひろやは、時々だけれど、土日が出勤日になることがある。それがたまたま二週続いて、日曜が固定休の私とは休みのタイミングが合わなかったのだ。

「お疲れさま。長い一週間だったね」

「ね。やっと終わったー、って感じ。長かったー」

ひろやは瓶に残っていたビールを私と自分のグラスに半分ずつ注いで、「もう一本いっていい?」と聞いた。「いいね」と答えた。ひろやが店員を呼んで追加のビールを頼んでいる間、私は自分の取り皿の肉豆腐をせっせと食べ進める。つられるように、ひろやも取り皿の揚げ茄子を大きいまま一口で頬張った。

「しらすおろしお醤油このまま足していい?」

「うん、いいよかけちゃって」

「何か頼む?」

「いや、レバ焼き食べてからでいいや。飲んでるし。未歩頼んで良いよ」

「じゃあ、ニラ炒め」

「あ、いいね。やっぱり俺も食べる」

「すいません、ニラ炒めお願いします」

開けたばかりのビールがひんやりと喉から胃に落ちて、汗をかいていたことを忘れさせてくれる。

「今日、木崎さんの個展行って来たよ」

「そういえば今日最終日だったっけ。ごめんね一緒に行けなくて。どうだった?」

良かったよ。今回もすごく素敵だった。と、一頻り、浮かんだ感想をひろやに話して聞かせた。

「私やっぱり木崎さんの写真すごく好きだな」

「前見た時も言ってたもんね」

ふと、もらった名刺のことが頭をよぎった。夜に散歩する約束をしたことも。

「今度、一緒に散歩するんだ」

「へぇ。散歩?」

「うん。裏道散歩。木崎さんの写真の基になってる風景とか、見に行くの」

「おお。いいねぇ。それは面白そう」

ひろやはビールのグラスを口に運びながら、笑顔で言った。綺麗に爪が切り揃えられた手の人差し指の先が少し、インクか何かで黒く汚れていた。

「いいところがあったら、今度一緒に行こうね」

「うん。見つけてきてよ。楽しみにしてる」

ビールを早々に空にした私達は、店内が混み始めて来たこともあって、残りの料理もさっさとたいらげ店を後にした。

ひろやのマンションは店から歩いて5分程のところにある。向かう途中、歩きながら、ひろやは「そういえば」と唐突に話し出した。

「ミナトさ、今、島に居るらしいよ」

「島?」

「うん。瀬戸内海の島。ゲストハウスで働いてるんだって」

「島かぁ。ミナト君、合いそうだね、写真を見た限りでは」

「ね。海とか、綺麗な木とか花とか好きだから。ミナト。元々は旅行で行くって言ってたんだけどね。行ったら、気に入ったんだろうね」

「身軽だね」

「ねぇ」

玄関に入り、サンダルを脱いで裸足で冷たいフローリングを踏みしめると、強張っていた足の裏の力が抜けてほっとした。両足の小指が赤くなって少し腫れていた。この靴、滑り止めの中敷きが必要だな。明日仕事帰りに買ってこよう、と考えながら、下駄箱を開け仕事用のローヒールの黒いパンプスを玄関に出し、空いたスペースにサンダルをしまった。

部屋の奥からテレビの音が聴こえてくる。

そういえばあの棚まだ見に行けていないな、と思い出した。リビングへ行ってテレビの横のスペースに目をやる。やっぱり、少し大きいけれど部屋の感じとは合いそうだ。

来週の日曜、ひろやと一緒に中野に行ってみようか。まだあの棚があるといいのだけれど。


木崎さんは、あまり連絡はマメな方ではないらしい。二、三通やり取りすると、返事は翌日に持ち越しになる。一つ一つの返事は丁寧なのだけれど、個展に誘ってくれたお礼と簡単な感想を伝え本題に行き着くまでに、三日間が必要だった。

あれは約束ではなく社交辞令だったのかもしれない。「今度行きます?」の今度は近い予定の話ではなくて、「いつかそういう機会があったら」という意味だったのかも。そう思い始めていた、初めて連絡をしてから三日目の水曜日。前日の夜に送った『いいタイミングがあったら散歩したいですね』というメールに、昼頃、返事が来た。

それからはトントン拍子に話が進んだ。まるで会って話している時のように、スムーズに。互いに空いている日を聞いて、仕事の終わる時間を確認して、なんとその日の夜に私達は会うことになった。午後八時に、渋谷駅で待ち合わせ。私は仕事を終えてから時間があったので、一度帰って着替えをし、靴を履き替えた。以前ランニング用に買った、どれだけ歩いても疲れないスニーカーに。


随分遠くの方から、電車の通る音が聞こえてくる。

渋谷駅からは、もう大分離れたはずだ。電柱に南青山と書いてあったからその辺りの住宅街なのだろうけれど、どこを歩いているのか私にはよくわからない。方角も行き先も何も考えず、私は木崎さんの歩くままにただついてきた。木崎さんはまるでどこかへ向かうのに近道をしているかのように、角を曲がり、細道を通り、すいすいと歩いていく。散歩を始めて十分程の時に「知ってる道なんですか」と聞いたら、「いや、適当」と答えた。「なんか通ってみたい道を歩いてます」と。


渋谷の駅前の繁華街を抜けて、お洒落で落ち着いた雰囲気の飲食店が軒を連ねる裏通りを過ぎ、さらに奥へ入ると、道を一本違えるだけで急に寂れた廃墟ビルが姿を現した。隙間無く書き込まれたスプレーの絵、錆だらけの「立ち入り禁止」の看板が何枚も並んでいる。入り口の庇の下には、人の動く陰がいくつもあった。そんな道だけれど、結構人とはすれ違う。綺麗な格好をした若い男女が、平然と飲食店の換気扇からの排気を浴びながら歩き去っていく。煙草の空き箱やコンビニのビニール袋を踏みつける音が、雑踏のように無造作にどこからともなく聞こえる。

その道が終わると、また少し綺麗な通りに出た。遅くまでやっているような飲食店は少なくて、真っ暗なカフェやパン屋、洋服屋などが並ぶ中、ぽつり、ぽつり、といくつかの古着屋の灯りが道を照らしていた。

「何で古着屋って遅くまでやってるんでしょうね」

「ああ、ね。スタイリストの人とかがリースで使うから?でもそれ普通の服屋でも一緒か。なんでだろう」

木崎さんはポケットから煙草を出し、「吸っていいすか?」私が頷くと、火を着けて深く吸い込んだ。

小柄な木崎さんの小さな顔が、煙で一瞬半分しか見えなくなる。

「音楽聴いたりとかはしないんですか?」

「ああ、聴くよ。聴く時もある。ただ、まだ結構この辺人がいたり店があったりするからさ。そういうの聞いてた方が面白いんですよね」

「なるほど。確かに、街の音って面白いですよね」

「うん。人の気配とか、住んでる空気とかね。イヤフォンしてない方が、そういうの感じやすいから」

時々流れるように微かに吹く風が、頬の熱を拭い去っていく。落ち合った後、互いに夕食がまだだったので、木崎さんの知り合いのやっている焼き鳥屋でつまみながら一杯ずつ飲んできていた。店長も気のいい人で、いろいろおまけをしてくれた。木崎さんはもう一杯頼もうか迷っていたけれど、きりがないから、と料理が無くなったタイミングで切り上げた。

角を曲がると、もう完全に店がやっている気配はなく、その先は住宅街に続いているようだった。少し行くと小さな公園があって、ベンチでスーツを着た男性が眠っていた。マンションの窓々を見るとまだ灯りの点いている部屋が多い。その所為か、街灯の数の割に通りは明るかった。

この辺りは新しくて階層も高いマンションが多く、出歩いている人も少なかった。きっとここに住む人たちはこんな時間に電車で帰宅なんてせず、とっくに車で家に帰り着いているのだろう。決して華美でない、シンプルで洒落た建物が多い。マンションの一階にあるコインランドリーまで、黒地に白抜きの文字の看板が掛けられ、ガラス張りの室内には黒い洗濯機と赤いベンチが並んでいてまるでヨーロッパの映画みたいだ。きちんとメイクをしたスタイルの良いベリーショートカットの女性が一人で本を読みながら乾燥を待っていたりしたら、それだけで物語が始まってしまいそう。

いくつか角を曲がりさらに住宅街の奥へと入り込むと、コンビニが見えて来た。木崎さんは「コンビニ寄ります?」と聞いた。「はい。飲み物買おうかな」答える。

久しぶりに真っ白い蛍光灯がこうこうと点いた店内に入ると、目がちかちかした。慣れるのを待って、ドリンクの売り場に行く。木崎さんはアルコールの棚の前に居た。

「飲みます?」

「飲んでいいすか」

木崎さんはビールのロング缶を一本手に取った。私も同じものに手を伸ばす。上の方にあったので木崎さんが取ってくれ、「もう一つ?」と聞いたので「とりあえず一本」と首を横に振った。木崎さんはそのままレジに向かい、煙草と一緒に私の分も会計を済ませた。

「出します」

「いや、いいよ。今日付き合ってもらったお礼で」

コンビニを出て、自分の分の缶ビールと煙草を取り出し、残りを袋ごと私に差し出しながら木崎さんは言った。

「じゃあ、次のは私が買いますね。いただきます」

プシュ、と小気味よい音が二つ重なる。缶を軽く打ち合わせ、私達はまた歩き出した。

再び住宅街をしばらく歩く。マンションだけでなく、まるで公園のような広い庭のある一軒家や、ぐるりと生垣で囲まれ中の様子が全く見えない一画などもあった。もはやどんな人が住んでいるのか、さっぱりわからない。政治家か、財閥の会長か、大物俳優か。昔からの大地主かもしれない。

随分遠くの方から、電車の通る音が聞こえてくる。電柱には南青山と書いてあるけれど、私にはいまいちどの辺りなのかよくわからない。ただ、木崎さんの歩くままについてきたのだ。木崎さんは慣れた様子ですいすい歩き続ける。

「ここら辺、すごいよね。誰が住んでるんだろう」

「私もそう考えてました。思いついたのが、政治家か、財閥の会長さんか、大物俳優とか。あと、この辺一帯の大地主とか」

「この辺の土地持ってる地主とかだったら、恐ろしいくらい金あるだろうね。想像出来ないわー」

「ですね。でも、私はもっとがやがやしたところがいいなぁ。古い家とかお店とかいっぱいあって、がちゃがちゃした街の方が住むなら好きです」

「ああ、俺も。なんか、もっと生活感のあるところの方が好き。窓開けたら隣の部屋の洗濯物とか見えるような」

「それわかります。人の気配が常にある方が東京らしいなって。その感じ、いいですよね」

「いいですよね」

「木崎さんの写真からは、そういうの、伝わってきます。上手く言えないんですけど。人の気配とか、生活感とか、でもなんだか都会的で殺伐とした感じというか。すごい好きです、その感じ」

「ほんと?それ、すげぇ嬉しいです。うん、めっちゃ嬉しい」

木崎さんはそう言って目を瞑って笑った。初めて会った日、感想を伝えた時と同じように。その笑顔のまま、私の方を見た。「本当、ありがとうございます。いい時間だ」そう言って、また缶を打ち合わせた。

「私も。いい時間」

そう言って私も笑うと、木崎さんは嬉しそうににこにこ笑ったまま、ビールを流し込んだ。ぷはー、と美味しそうに息をつく。私も真似をして、缶を傾けた。体温と気温で少し温くなったビールは、いくらでも飲めそうな気がした。

私達は、結局別のコンビニで350mlのビールをもう一缶ずつ買って、最寄りの駅を目指した。駅に着くとベンチに座り、話をした。木崎さんは先にビールを飲み終え、咥えた煙草の先に火を移した。私ももう飲み終えそうだったけれど、焦らせては悪いと思い、残った最後の数口をちびちびと飲んだ。

「未歩さん、休みって決まってるんでしたっけ」

「日曜日が休みで、それ以外は不定休です」

「今度の日曜日、空いてます?すぐだけど」

今度の日曜日。ひろやと中野のリサイクルショップに棚を見に行こうと思っていたけれど、ひろやにはまだ何も伝えていなかった。

「空いてます」一応、と小さく言ったのは、多分木崎さんには聞こえていない。

「また散歩しませんか。こんな感じで」

「はい。是非」

木崎さんが煙草の火を踏み消したので、大事に残していた最後の一口を飲み切った。少し間を置いて、私から立ち上がった。木崎さんは少しふらつく私に寄り添うようにしてすぐ横を歩いた。

地下鉄の改札を抜け、渋谷行きの電車に乗り込む。電車の中はそこそこ混んでいた。私達と同じように、少し顔を赤らめた人たちが壁や手すりにもたれ掛かりながら揺られている。真っ黒な窓に映る大勢の人たち。まるで暗闇の中からここだけ切り出されたように明るすぎる車内は、すべてが合併した一つの景色の様でもあるし、一人一人が個として際立っているようにも見える。こんな時間に一人でちょこんと座って暗い窓の外を見ている多分九十歳近いお婆さんはどこへ行った帰りだろうか、とか、かなり親密そうな様子なのに敬語で会話をしている若い男女の二人組はどういう関係なんだろう、とか、変に物語じみたことを考えながら、私と木崎さんも似たようなものか、と思い至って右隣へ視線を送る。木崎さんは隠しもせず大きな欠伸をしていて、私の視線には気付いていないようだった。

車内では互いにほとんど無言だったけれど、それは多分話す必要がない為で、少なくとも私は隣に木崎さんがいることを会話する以上に楽しんでいた。

電車が渋谷駅について、乗客のほとんどが入れ替わる。

その流れに乗って、私達も電車を降りた。私は山手線で彼は井の頭線だったので、改札を出たところで私達は別れの握手を交わした。

「それじゃあ、また日曜日に」

「はい、日曜日に」

屈託の無い笑顔で手を振り、木崎さんは人混みの一部になる。

けれど私には、どれだけ改札から人が吐き出されてきても、木崎さんの後ろ姿が人混みに溶け込んで見えることはなかった。


日曜日。同じ時間に、同じ場所で待ち合わせた私達は、落ち合ってすぐに歩き出した。人多いですね、とか、夕食食べました?などのやりとりを歩きながらして、道玄坂の奥にあるタイ料理屋に入った。タイ風焼きそばと鶏のスパイス焼き、青パパイヤのサラダを頼み、二人ともシンハーとチャーンをそれぞれ一杯ずつ飲んだ。

一息ついてから、数日前と同じように、私達はひたすら歩いた。前回とは違う方向へ。もちろん通ったことの無い裏道だけれど、今度は私も何となく場所の見当がついた。古いアパートが連なるその先に、NHKホールが見える。

風に乗り、ふっと香ばしい匂いがしたので、木崎さんの方へ目をやる。いつの間に火を着けたのか、木崎さんの口元から白い煙が細く長く漏れている。変な話かもしれないけれど、その仕草が嬉しかった。それまで木崎さんは煙草を吸う時、私に許可を求めていたからだ。それに、私は人が煙草を吸う匂いがとても好きだったから。

「木崎さん」

「うん?」

「どういう時、写真を撮るんですか。普段、こういう時はあまり撮らない?」

「ああ。そうね、普段は・・・あんまり撮らないかなぁ。前はいつもカメラ持ち歩いてたんだけどね。人と居る時は、あんまり撮らないかな」

「やっぱり、一人の時の方がいいですか」

「うん、っていうか、まぁ大勢で居る時はまだいいんだけど、誰かと居る時はその時を楽しんでたいっていうか、なんて言うんだろう。カメラを構えるとさ、その時々のいい時間、っていうのが、止まっちゃうことがあるんだよね。完全に俺の感覚だけど。だからさ、俺がすげぇ楽しい、今この瞬間最高、って思ってる時、誰かがその瞬間を撮っててくれたらいいのに、ってよく思う。仲間内の誰かじゃなくて、全然無関係の第三者の人が、勝手に撮ってて残してくれてたらいいのにって。昔はそれが俺だと思ってたんだけど。それか、俺の額にカメラくっついてて、俺が瞬きするたびに俺が見たままの景色が写ってたりとか出来ないかな。そんくらい、いいものいっぱい見て触れてる実感があるのに、全然作品には残せてない。もったいないけど、残し方がまだよく掴みきれてない」

「木崎さんでも不本意だったりするんですか」

「するよ。めちゃくちゃする。満足いく写真撮れる方がずっと少ない」

「そうなんですね。確かに撮られてるって意識すると身構えちゃうかも」

「それがいい場合もあるんだけどね」

「あの写真は」

「ん?」

「あの写真を撮った時は、カメラを構えてたんですか。あの、女の人の写真。中野で観た展示の、一番メインの写真です」

「ああ」木崎さんは、左手の煙草を口元へと運んだ。

「あん時は、いつもカメラを持ち歩いてた。あいつが振り返った時、気付いたらカメラ構えてた。勝手に撮るなってすげぇ怒られたよ。後で出来上がった写真見せたら、まぁ一応納得してくれたけど」

「彼女さん、ですか?」

手持ち無沙汰だ。喫煙の習慣はないけれど、私も煙草を吸いたい。代わりに、髪を搔き上げた。ただ前を向いているのも木崎さんに視線を送るのも、何となく間が悪い。

「元、ね」

「すごい美人ですね。元カノさん」

「うん、まぁ、綺麗な子だったよ。気ぃ強いけど」

「気、強いんですか。でも隣に居たらすごく撮り甲斐がありそう」

「あー、でもあんまり撮んなかったよ。写真撮られるの嫌がる子だったんだよね。まともに写ってるのほとんどないかも」

「もったいないなぁ」

「もったいないかな」

「はい。すごく素敵な写真だったので。でも、撮ろうと思って、というか撮られるつもりでいた瞬間じゃなかったんでしょうね。なんていうか、無防備な感じがしました」

一瞬の間が空いた。多分木崎さんは私の話に続きがあると思ったんだろうけれど、私はそれ以上言葉が出てこなかった。必死で考えを巡らせていたところへ、頬に何か冷たいものが触れた。指先を添えると、湿り気を感じた。手の平を上に向けておずおずと前に差し出し、同時に真上、上空を見上げる。額に一滴。手の平にも二滴、三滴。瞬く間にそれは増えていき、木崎さんに声を掛ける間もなく、次の瞬間私達は頭上からの弾幕に覆われていた。

慌てて近くの灯りの落ちたタバコ屋の軒下へ逃げ込み、呆然とたった今まで自分たちがいた場所を眺めた。まるで滝の裏側に入り込んだように、目の前に激流のシャッターが下りている。木崎さんがその場にしゃがみ込んで、ぐっしょりと濡れた煙草をもみ消し、ポケットから黄色い箱を引っ張り出した。箱の中身は無事だったようで、改めて一本取り出し火を着ける。

私も隣にしゃがみ、木崎さんの方を見ながら声を掛けた。

「きちゃいましたね」

「うん。びっくりした」

「晴れ男、じゃなかったんですか」

「前の展示の時、返上したからね。それか未歩ちゃん、雨女?」

「あたしも、自分では晴れ女だと思ってました。前までは」

「俺ら二人合わさると雨側に傾いちゃうんかな」

「マイナス掛けるマイナスはプラスになる、みたいな?逆ですけどね、この場合」

前髪を伝い、生暖かい水滴が鼻の横を流れ落ちた。鞄からハンカチを取り出し顔や毛先を拭ったけれど、薄い綿の布切れ一枚では気休めにしかならなかった。それでも無いよりはマシかと思い、ハンカチを木崎さんの前に差し出したけれど、木崎さんは「大丈夫」と言って手の平をこちらに向けた。

「でも、俺好きだけどね、雨。濡れるのは困るけど」

木崎さんの顎の先に溜まっていた滴がぽた、と落ちた。私も、と思ったのだけれど、それを口に出したかどうかははっきりと覚えていない。ただ、日中熱を蓄えていたらしいアスファルトから湯気が上がっているように見えたことは、何故だかはっきりと覚えている。

なんて暖かい日だろう。ずぶ濡れなのに、少しも冷たさを感じない。

「木崎さん」

「うん?」

「また散歩しましょうね。夜でも暖かいうちに」

「うん。いい?付き合ってもらっても」

「あたしが付き合ってもらってます」

「ありがとう。いい時間だなー」

「いい時間ですね」

私は、木崎さんに一本もらい、数年ぶりに煙草をふかした。ほんの一時期吸っていた時期があって、喘息が悪化して止めたのだけれど、副流煙で慣れたのか、苦しくなることは無かった。けれど、自分の口から鼻孔を抜ける匂いより、隣から感じるつんとした焦げ臭い匂いの方が、ずっと落ち着くと思った。熱い吐息と、甘く苦い匂い。今私を包み込んでいる生暖かい雨の空気は、人の気配を濃くしてくれるという点で、受動喫煙に似ていた。

雨が止んだことを確かめて、私達は渋谷駅に戻ることにした。本当はもっと一緒に歩きたかったけれど、お互いずぶ濡れだったし、これ以上散歩を続けるのはどちらにとっても不自然なような気がした。いつものように握手を交わし、木崎さんが手を上げて別れを告げる。私はそれに会釈で応える。木崎さんの姿が駅の中に消えるのを、私は見送る。

ひろやは今日、何をして過ごしたのかな。ふと頭をよぎる。木崎さんとの約束は初めから夜だったのだから、昼間ひろやと棚を見に行くことは出来たのだ。そうしなかったのは、どちらに気を遣ったのだろう。いやそれは綺麗ごとだ。結局はどちらの為でもなくただ私自身の為なのは自分でもわかっている。

帰りの電車の中、木崎さんと歩いた夜の道の景色を思い返していた。すれ違う疲れきった顔で笑う人々。窓から漏れる灯り。街路樹の中から聞こえる、虫の声。

こんなにも鮮やかな感覚を、私はどう受け止めたらいいんだろう。


朝、時報の代わりに着けたテレビで、天気予報をやっていた。台風が近付いてきているらしい。

カーテンを開けると、嵐の前の静けさだろうか、空は青白く明るくて、隣のマンションの出窓の屋根の上ではよく見掛ける茶猫が日向ぼっこしていた。少し風があるらしく、茶猫の毛並みや庭先のほとんど花弁が落ちた向日葵がさわさわと揺れている。

雨に降られた散歩の日から二週間、木崎さんからの連絡はなかった。少し待っている気持ちはあったけれど、こちらからも連絡しなかったのは、最後にしたメールのやり取りが私のお礼で終わっていたからだ。夜の散歩は木崎さんの習慣で、私はそれに同行させてもらっただけ。こちらから何かアクションを起こすのはアーティストの生活にどかどか踏み込むことのようで、何となく抵抗があった。

木崎さんと行ったタイ料理屋がなかなか美味しかったから、週末、ひろやとも一度食べに行った。あの時迷ったけれど頼まなかったパクチー入りエビチャーハンが一番美味しくて、私もひろやもお気に入りの店になった。

チャーンとレオを飲みながら、いつかタイに行きたいね、と話をした。バンコクも行ってみたいけれど、チェンマイにひろやの友達が住んでいるから、まずはそこを訪ねたいね、と。タイって英語で大丈夫だっけ?旅行くらいなら大丈夫でしょ。ひろやは二本目にシンハーを注文した。私も同じものを頼み、料理ももう一品追加する。ココナッツミルクのたっぷり入ったカレースープ。これでもか、とパクチーが載っている。

「木崎さんと来た時、そういえばカレー頼んでなかったんだよね。カレー好き?って話から、タイ料理食べようってことになったのに」

「じゃあ、念願のカレーだ。スープだけど」

「うん。この、スパイス焼きって、ほとんどカレーじゃない、味付けが。多分これで満足しちゃったんだよね。美味しいし」鶏のスパイス焼きをカットしてひろやと自分の皿に取り分けながら言うと、ひろやは「確かに」と頷きながらそれを口に運んだ。「美味しいしね」。

会話の中に、少しだけ意識して木崎さんの話を紛れ込ませた。ひろやはいつも通りにこにこと微笑みながら聞いてくれたし「良い繋がりが出来て何よりだよ」と言ってくれた。

ひろやの部屋へ一緒に帰り、部屋着に着替え、少しくつろいでから、一緒にベッドへ潜り込む。寝付きのいいひろやの息遣いは程なくして寝息に変わっている。私はその広い肩甲骨の間に頬を寄せ、首筋の匂いを嗅ぐ。嗅ぎながら短く刈り上げた襟足まで昇っていき、体格の割に小さな耳たぶに鼻をつける。左耳に二つ、古いピアスの跡がある。社会人になってから使っていないその孔は、ほとんど塞がりかけている。

その耳たぶをそっと口に含むと、眠ったままのひろやが、指先で耳元を掻いた。寝息に乱れは無い。その無防備な姿に、愛おしさが溢れてくる。私に触れられても、風が頬を撫でたくらいにしか感じない無防備さ。けれど、微かに意識はあるのだろうか。そっと肩に腕を回して抱き締めると、もぞもぞと寝返りを打ち、私の体を抱き返す。私は女にしては身長がある方だけれど、ひろやの懐にはちょうどすっぽりと収まってしまう。

この世界で一番安全で温かい場所にいるのだと、心から実感出来るのがひろやの腕の中だ。

人の肌は甘く乾いた匂いがするのだと、ひろやと付き合って初めて知った。誰かと抱き合って眠ることは窮屈なものではなく、大の字に手足を伸ばすよりも自然で心地良いものなのだということも。

私はひろやを愛している。四年半、途切れなく、愛おしくてたまらないのだ。たった今この瞬間も、おそらくこれから先も。

ひろやの体を抱き締めながら、私は雨に霞んだ煙草から落ちる灰の行く末を思い出していた。ほんの少し訛りのある、低い声色も。鮮やかなモノクロの景色。あの女性の虚ろな目を思い出す度、何故かはわからないままに、喉の奥がぎゅっと締め付けられる。

目元がじんわり熱を持って来て、思わず抱き締める腕に少し力を込めた。ひろやを起こしてしまわぬよう、寝息を装って息を整える。思っても考えても溢れてしまいそうだったから、無心でひたすらひろやの匂いを吸い込んだ。程なくして眠気が訪れる。眠気が訪れたことにほっとして、私はその穏やかに揺れる船のような感覚に身を委ねる。何でもない。大丈夫。大丈夫・・・


螺旋階段を見上げて、携帯電話に付いているカメラのシャッターを切る。

私が持っている唯一のカメラは、この携帯電話のカメラ機能だ。木崎さんのように本格的なカメラなんてもちろん、一般的に普及している小さなデジタルカメラも持っていない。普段からあまり写真を撮る習慣はなかったし、旅行の記念とかたまたま見かけた綺麗な夕陽や空の模様を残しておくのなら、これで十分だったから。

ちゃんとしたカメラを買おうか、という程の熱意はなかったけれど、目にして気になったものや面白いと思ったものを写真に撮る癖がついた。綺麗に撮ろうというのではなく、自分だけがわかればいい、記憶の留め書きのようなもの。何気なく通り過ぎてしまっていた景色の中に、ふと興味深いものがあったりする。朽ちかけた看板ををそのまま掲げて灯りを点している小料理屋とか、細い道路にチョークで書かれた落書きとか、多分他の人が見ても大して面白いものではないのだろうけれど。誰に見せるでも何に使うでもない、私だけの記録が、携帯のメモリーに少しずつ増えていく。後で見返して、何でこんなの撮ったんだろう、と思うものも少なくない。

撮れば撮る程、木崎さんの写真はやっぱりすごいな、と思う。気にしなければ気にならないけれど気にしてみると興味深いもの、を絶妙に切り取っている。もちろん、私がそう感じただけで、それが写真の評価として正しいのかどうかはわからない。ただ私にとっては木崎さんの写真はそういう凄さがあって、彼の切り取るものはどれもこれも興味深い。

木崎さんの写真をもっと見たいな、と思っていたところへ、三度目の散歩の誘いが来た。平日の昼休み、『久しぶりです。今日の夜、散歩しません?』というメールに、すぐに承諾の返事をした。残業があるから少し遅くなりますけど、と付け加える。

『遅い分には俺は大丈夫ですけど。明日の仕事、きついっすよね。またにします?』

『明日、休みなんです。だから木崎さんが良ければ是非。ちょっとお待たせしちゃうかもしれませんが』

『知り合いのところに顔出す用事もあるんで、多分ちょうど良いっすよ。適当に飲んでるんで、仕事終わったら連絡ください』

了解しました、と送り、私は携帯を鞄に入れて仕事に戻った。


残業というのは月に一度通常業務の後にある全体会議のことなのだけれど、間の悪いことに、そこで入社後から世話になっている先輩の異動が発表された。現場から、関西にある本社への栄転だった。会議の後、先輩と二人で話をして、互いに寂しくなるから、と私にも隠していたことを謝られた。先輩自身、辞令を受けたのは数日前だったそうだ。私は今までのお礼を精一杯伝えた。心からのお祝いも。いろいろな思い出が呼び起こされて、話は尽きなかった。涙ながらに握手を交わして、残り一ヶ月半よろしくお願いします、と別れを告げた時には、九時をとうに回っていた。

ロッカールームに駆け込むと、急いで鞄から携帯を取り出す。木崎さんからの連絡はない。とにかく連絡を、と思い、謝罪と今仕事が終わったところであることをメールした。返事を待つ間に、涙で滲んだ化粧を人前に出られる程度に直す。髪を整えるのもそこそこに、会社を出たところで、木崎さんから着信があった。

「あ、未歩さん。お疲れです」

「お疲れさまです。すいません、遅くなっちゃって。大分待たせましたよね」

「いや、大丈夫。っていうか、まだ店にいるんだよね。どうしましょう。未歩さん、職場どこだっけ」

「市ヶ谷です。木崎さん、今どこにいるんですか?」

「マジすか。俺、今市ヶ谷で飲んでる」

マジすか、と思わず私もくり返した。「うわーこんなことってある?」という木崎さんの言葉も、そっくりそのまま鸚鵡返ししたい気持ちだ。「東京って狭いな」。

「本当ですね。東京って狭い」

「ね。あ、良かったら未歩さんも店来てちょっと飲みませんか。俺、迎え行きますよ」

夜の街にお酒を飲みに出るにはかっちりし過ぎている服装なのが少し気にはなったけれど、会話の途中からすでに足は駅から遠のき、繁華街の方へと向かっていた。まだ場所も聞いていないのに。木崎さんが思いのほか近くに居るという偶然で気分が高揚していたし、先輩と交わしたやり取りで少し感傷的になっていたのもあるのかもしれない。木崎さんと言葉を交わしたかった。見ているものや感じることについて、話したかった。自然と歩くのが速くなる。ほとんど走り出しそうになりながら、駅へと向かう人の波を躱しかわしすり抜けて行く。

場所を聞いたら大体の見当がついたので、お店で待っててください、と言ったのだけれど、木崎さんは迎えに来てくれた。途中の交差点で信号待ちをしていると、横断歩道の向こうに、見慣れたニット帽の彼の姿を見つけた。信号が変わって互いに歩き出し、横断歩道の真ん中で私達は落ち合った。木崎さんは踵を返し、私と並んでもと来た道を引き返す。

「お店に居てくれて良かったのに」

「いや、せっかくだし。って言っても店はこのすぐ近くだから、迎えに来たってほどでもないんですけどね」

木崎さんはもうすでに結構飲んでいるようだった。少し瞼が重たげで首や目元が赤い。それに、いつもより表情が柔らかい。よく酔うと陽気になる人らしい。

木崎さんが居た店は、本当にそこからすぐだった。横断歩道を渡って裏路地に入り、三件目と四件目の間にある階段から地下に下りる。階段の途中から、微かにベース音が聴こえていた。木崎さんが開けてくれた黒い鉄の扉から中に入ると、目の前にもう一つ扉があり、それも木崎さんが開けてくれた。お香の香りが漏れ出してきて、鼻をくすぐる。背後で重々しく扉が閉まる音がした。

そこは奥の方に三人掛けのソファ席が一つあって後はカウンターだけ、というこぢんまりしたバーだった。ゆったりとしたレゲエが流れている。壁や天井、カウンターなど、全体的に赤茶色や黄色が多く使われていて、地下にあるのに明るくひらけた雰囲気だった。カウンターの奥からアルミフレームの眼鏡を掛けた壮年のバーテンが顔を出し、「おお、おかえり」と木崎さんに声を掛けた。

私達の他に客は無く、カウンターには飲みかけのグラスと煙草の箱とライター、吸いさしで煙が上がったままの煙草が載った灰皿が置いてあった。まるでトイレにでも行くかのように、ふらりと外に出て行った木崎さんの姿が目に浮かぶ。こういう気軽さというか身軽さというか、その両方が、木崎さんらしいと思った。無邪気で飄々としていて愉快な人。

いろいろ置きっぱなしの席に木崎さんが収まり、隣に私が腰掛けると、バーテンは笑顔で「こんばんは」と声を掛けてくれた。挨拶を返し、「お邪魔します」と続ける。

「木崎にこんなちゃんとした感じの知り合いが居るとは思わなかったよ」

カラフルな織り地のコースターを置き、「何飲む?」と聞いてくれたので、ビールを頼んだ。「生でいい?缶と瓶のメニューはこれね」とりあえず生で、と伝え、横に視線を向けると、木崎さんが溶けた氷で薄まっているだろうグラスの中身を飲み干したところだった。「同じのちょうだい」グラスをバーテンの彼に差し出す。

「木崎さん、何飲んでるんですか?」

「ラムのロック」

注いだビールに泡を被せながら、バーテンの彼が答えた。

程なくして木崎さんの前にもグラスが置かれ、三人で乾杯をした。木崎さんは一息で半分程飲み下し、深く息を吐いた。灰が伸びた煙草を灰皿からつまみ上げ、ストローのように吸い上げる。作為的な熱い呼吸。アルコールと紫煙で満ちた彼の体は今、機関車のボイラみたいに、熱気と煙が循環してエネルギーの塊を作り出しているんだろうか。

それを裏付けるように、木崎さんはいつもよりよく笑い、よく話した。つられて私のグラスもよく入れ替わった。コロナを飲み、ワインに変え、すでに大分飲んでいる木崎さんに追いつかんとばかりにグラスを傾けた。坂巻さん、と紹介されたバーテンの彼は私と木崎さんの目まぐるしく題材の変わる取り留めの無い話を聞くでもなく聞き、上手く間の手を入れてくれたり茶々を入れてくれたりした。楽しい夜だった。本当に、時間の経つのを忘れてしまうくらい。

木崎さんの煙草の箱が空になったのをきっかけに、私達は店を出た。また来ます、と言うと、坂巻さんは「いつでも是非。今度は週末に来るとそれはそれで楽しいよ。音楽が好きならなおのことね」と教えてくれた。

酔いを醒ましがてら、飲屋街を二人でふらふらと歩いた。途中の自動販売機で水を買い、交互に飲んだ。木崎さんはまだエネルギーが収まりきらないらしく少し跳ねるように歩き、私はいつもより歩くのが遅かった。仕事用のパンプスを履いていたからだ。

木崎さんがそれに気付いたのは、賑やかな通りをぐるりと一周して、静まり返った住宅街に入った辺りでだった。「ちょっと休む?」と言って立ち止まり、木崎さんはガードレールに体重を預けた。私もそれに倣い、隣に寄り掛かる。そのまま、腰より少し上くらいの高さのガードレールに軽く飛び乗るようにして腰掛け、すとん、とパンプスを地面に落とした。比較的歩ける靴ではあるけれど、街中を跳ね歩くのにはスニーカー程適してない。

「足、痛い?」

「少し。でも、大丈夫です。ちょっと休めば」

「休んだら、戻ろうか」

大丈夫です、と言おうとしたけれど、結局木崎さんに気を遣わせてしまうし迷惑になると思い、「そうします」と答えた。

少し風があった。湿度の高い空気が、体の表面を撫でるように流れて行く。

道を数本違えば、騒々しく車が行き交う幹線道路がある。ここはそれらの喧噪の真ん中にぽっかり空いた台風の目みたいだ。静かだけれど、外側じゃない。喧噪とエネルギーの隙間。隣には、木崎さんが居る。ああ今寂しくないな、と思った。寂しい、と意識する時のように、寂しくない、と意識する感覚。少しひりひりするような、安心とか落ち着きとかとは真逆にあるそのぎこちない感覚は何かに似ていると思ったのだけれど、それが何なのかどうしても思い出せない。

木崎さんは何も言わず、少し熱っぽいとろりとした目で、空を見ていた。私も釣られて空を見上げた。彩度が低くて生暖かい鈍色の夜空。その下に立ち並ぶビルやマンション。それらをぼんやりと見るでもなく見ていると、やがてそのぼやけた景色を背景にするように、脳裏に見覚えのあるビルの屋上が浮かんで来た。目を瞑り意識を集中すると、次第に鮮明に、焦点が合っていく。白の多い曇り空。無機質なコンクリートとひび割れたブロック。火の着いた煙草の先、捻った肉感的なからだ、歪んだ口元。曖昧で無防備で綺麗な表情。

胸の音が少しだけ強く、高くなる。同時に、胃の辺りにまるで大きな石でも沸いて現れたみたいに、息苦しくなる。

欲しくて欲しくて触れたくて悔しくてじっとしていられないのに、どうしたらいいのかも何に対してなのかも正しくわからない。

初めてあの写真を前にした時、まるで恋に落ちたみたいだ、と思った。

理由を探すのも野暮。ただシンプルに強く、すごく好きだ、と思った。

シンプルに、すごく好きだ、と、

「木崎さん」

「ん?」

ガードレールに腰掛けた私を見上げる木崎さんと、目が合う。途端に体の力が抜けて、私は笑ってしまった。何かが可笑しかった訳じゃないのに。何故か木崎さんも笑い出す。訳もわからないまま二人で小さく笑い合った後、私が先に言った。

「木崎さん、何で笑ったんですか」

「いや、未歩さんが笑ってたから何となく」

「あたしも、木崎さん見てたら何となく」

「俺、そんな変な顔してた?いや間抜け面だけどいつも」

「そんなことはないですけど」

可笑しくはないけど、楽しくて嬉しくて笑ってしまったんだなんて、口に出せるはずが無い。

またひとしきり二人で笑った後、ガードレールから下りようとする私の足に、木崎さんがパンプスを履かせてくれた。久方ぶりに地面を踏みしめる。足は大分楽になっていた。もう少しなら歩けるくらいに。

改めて、二人でガードレールに並んで寄り掛かった。体重を掛けた時に投げ出した私の手が、木崎さんの手に触れた。少し汗ばんだ熱い指先。どちらからとも無く、重なった指だけで握り合っていた。

どんな表情をしても意味を持ってしまう気がして、私は木崎さんの方を見ずにまた空を見上げ、その何も無い曇天に飽きずに見入っているふうを装った。

もう終電が無いことには、気付いていた。木崎さんもわかっているはずだった。終電で帰るには、あのバーを出てすぐに駅に向かわなければならなかったのだ。互いに酔ってはいたけれど、店を出てすぐの交差点の手前で、ほんの一瞬、私達は立ち止まった。そして、何も無かったかのように駅から遠のく横断歩道を渡った。私は木崎さんの無邪気さと陽気さに時間を忘れたフリをし、木崎さんは決定権を私に委ねた。

「やっぱりもう少し、歩きませんか?」

「足、平気?」

「はい。痛くなったら、また休んでもいいですか」

「うん。俺はいいんだけど、未歩さん、大丈夫?時間とかさ」

時間なら、という部分を飲み込んで、「大丈夫です」とだけ答えた。

指先からとくとくと熱い血液が送られてくる。まるでそこに心臓があるみたいに。


よく冷えたラムは甘苦くて薬臭く、お酒そのものの味がした。

舌を出して眉間に皺を寄せながらグラスを返すと、木崎さんはそれを受け取り、軽く一振りしてから一息で飲み干した。

カラン、と氷が転がる音。

ベッドの端に座った私の頬を霞めるように木崎さんの腕が伸び、グラスをテーブルの上に置いた。その腕と体が元の位置に戻る途中に、いつもと変わらない口調で彼は言った。

「なんか俺、未歩さんにすごく会いたかったんだよね」

振り向くと、思いのほか近く、すぐ鼻先に木崎さんの顔があった。あまりに近過ぎてどんな表情をしているのかもわからなかった。ただ、彼の発する熱気というか纏っている空気感というかそういう気配そのものみたいなものが、直に触れていなくても伝わってきて、それだけで私はもう特別なものを手に入れたような気持ちだった。シャンプーとボディソープの匂いに隠れて微かに香る煙草の匂い。ひろやとは違う、華奢なくらい骨張った鎖骨。

木崎さんの髪はまだ少し濡れていた。風邪ひきますよ、とその髪に手を伸ばしかけて思い止まり、慎重に言葉を選んで、言った。

「私もなんか木崎さんに会いたいって思ってました」

いいタイミングでしたね。と、場違いを承知で付け加える。まるでまだ散歩の続きをしているように、何でも無いことのように、どちらともとれるように、私は言えただろうか。

この期に及んで未だ。

「うん。いいタイミング。良かった」

木崎さんの声に釣られて少し伏せていた視線を上げると、彼と目が合った。彼は私のように視線をあちこちに散らすこと無く、私の目を真っ直ぐ覗き込んでいた。

「会いたかったよ」

囁くような言い方でもないのに、それは彼から聞いたことの無い柔らかさで、私は私達の間に流れる空気の毛色が変わったことを感じ取ってしまった。

何で、こういう時の男の人の声は、こんなにも甘いんだろう。

木崎さんはごく自然に唇を重ねて来て、熱に浮かされたように私もそれに応えながら、拭いきれない弱々しい理性が彼を味わうことを躊躇させる。いつの間にか手を置いていた彼の肩をほんの少し押すと、木崎さんは顔を離し、

「やめる?」と聞いた。

口の中は甘苦いラムの味がした。互いの吐息も彼の視線もお腹に回された手も熱っぽくて、頭の奥がひりひりと痺れている。


キスのさなか、舌を交わしながら、まるで夢のようだ、と思った。

彼に触れられるのは何処も彼処も身震いする程気持ち良くて、彼の肩や頬や唇や腰に触れる度、特別なもの、遠くて触れる対象ではなかった人、という気がして、どこか現実味が無かった。

感覚ばかりが先に立って理解も感情もついて来ていなかったのかもしれない。

木崎さんとこんな風に触れ合う日が来るなんて思っても見なかった。

すごく好きで遠い、と思っていた人の体の発する熱が、意識を溶かしていく。

思わず私は彼の名前を呼んで、「気持ちいい」と零していた。今までこういう時に口にしたことのない言葉だった。肉体的な意味での快楽ばかりでなく、視界に入る彼の姿が、その彼によってからだを震わせている事実そのものがあまりに甘美で艶っぽくて、つまりは彼の色気にどっぷりと飲み込まれていた。

そんな中でも、心から完全に彼に身を委ねてはいけないという気持ちは頭の片隅にこびりついていた。

ただそれはひろやに対する背徳心からだけでなく、彼氏が居るのに他の男と平気で寝る女だと木崎さんに思われたくなかったからと、私自身、自分をそういう女だということにしてしまいたくなかったからでもあった。

もう遅いな。

けれど何がだろう。どこから?

上手く何も考えられない。

いろいろなことがよくわからなくなっていたけど、とにかくいれては駄目だ、とだけは頑に思った。

私は彼にそう伝えて、口でしていいか、と申し出た。

木崎さんは「中に入りたい」と言ったけれど、「それは駄目な気がする」ともう一度伝えると、納得してくれた。寂しそうな顔をしながらも、木崎さんは私から身を離した。

私はせめて快感だけでも匹敵するようにと、心を込めて彼に尽くした。

やがて口の中に発せられたそれを、彼に確認を取って、ティッシュペーパーに静かに出した。

飲み込むこと自体に抵抗は無かったけれど、飲み込んではいけないような気がした。


朝、玄関を出たひろやは、振り返って「今日、少し冷えるね。外に出るなら気を付けて」と言ってドアを閉めた。

かちゃり、と外から鍵をかける音。鍵をかける音というのは外からでも中からでも冷たい印象があって、それを聞かせたくないから、玄関まで見送りに出ても私は中から鍵をかけない。必ず、外からひろやに自分で施錠してもらう。私が見送られる時は逆に中から鍵をかけてもらう。遮断されるのは平気だけれど、遮断するのは心苦しい。

以前、一緒に住み始めたばかりの頃にそんな話をひろやにしたら、「わからなくはないかも。でも俺は鍵をかけるのもかけられるのも平気」と言った。それから、ドアを挟んで分かれる時は、ひろやが鍵をかけるのが私達のルールになった。

ひろやがいなくなったひろやの部屋で、洗濯機を回して朝使った二つのマグカップとコーヒーメーカーのジャグを洗いながら、昨晩一緒に観てそのままにしていたDVDや漫画を片付けながら、ワイシャツを干しながら、やるべきことが終わってしまったら後はただ座り込んで目を瞑ったりどこを見るでもなくぼんやりしながら、何度も何度も、味わうように木崎さんのことを思い出していた。話したこと、その言い方、声、表情。顔全体がくしゃり、と歪む笑い方。

なぞるように、順を追って、記憶の中の彼をかき集める。

まるで食後のドルチェみたいな、甘い、贅沢な想いが胸も頭も満たしている。

馬鹿なことをしたなぁ。

そう思いながら、少しの後悔も無かった。


ひろやと付き合ってから、こんな風に誰かを欲しい、と思ったことは無かった。魅力的だと思う人と出会うことはあったけれど、触れたいと思ったりしなかった。まるで中高生の頃みたいだ。何がしたいのかもどうなりたいのかもわからず、ただ気持ちばかりが溢れてどうしようもない。あまりに無秩序で乱暴な感情にすっかり混乱している。正しくない、というのはよくわかっているのだけれど、じゃあ何が正しいのかがよくわからない。どこから違ったのか。どこから間違ったのか。私は間違ったのだろうか。

間違いとは、なんだ?

私は、ひろやを愛している。今でも、この痺れてどろどろに溶けたような頭でも、その実感は何も変わっていない。

ひろやと一緒に積み重ねていく日々。これから先、一緒に迎える未来。それだけは正しいことだと心の底から思っている。


その日、昼から薄暗かった。煤けた暗雲が禍々しい濃淡を描いて低く渦巻いている。オフィスの誰もがひっきりなしに窓の外を気にしていた。台風は今晩関東を直撃するらしい。

会社の指示で仕事は四時で切り上げとなった。隣の席の川中さんは、時間になると同時に鞄とカーディガンを抱えて逃げるように飛び出していった。川中さんだけでなく一刻も早く会社を出たい気持ちはみんな共通の様で、挨拶もそこそこに、あっという間に事務所はがらんと人気が無くなった。

私は先輩と一緒に会社を後にし、駅に向かった。どこも同じような状況らしく、いつもより随分早い時間の帰宅ラッシュは駅の手前の交差点から始まっていた。改札の前からホームまで続く行列。四谷に住む先輩は早々に電車で帰ることを諦め、交差点の手前でタクシーを捕まえた。途中まで一緒に行かない?と聞かれたけれど、混んだ道で私の為に迂回させてしまうのは申し訳なかったので、「私は電車でまぁゆっくり帰ります」と言って、先輩とはそこで別れた。

どれくらいか、とにかく随分待って、ホームに滑り込んで来た何本目かの電車にようやく私は乗り込んだ。後ろから押し込まれるようにして。人と人の間で身を縮めながら、私は不思議と居心地が悪いとは思わなかった。鼻の頭に浮かんだ汗を拭うことも出来ないような車内で、それ以外にどうしようもないから、揺れに身を任せ目を閉じる。そして、数日前のまだ真新しい木崎さんの残像を頭の中で追っていた。表情や声。握手した手の温度。

クーラーのモーター音が唸る電車内は、けれどひどく蒸し暑かった。

今年、本当に涼しくなりませんね。ね、九月とは思えない。でも、あたし暖かい時期好きなのでありがたいです。ああ、俺も夏の方が好き、こうやって外で過ごしやすいから。

歩きながら交わした会話。汗ばんだ手は、お互い様。相変わらず彼は身体にアルコールの熱を取り入れれば取り入れるほど、よく笑う。

私達は明治通りから神南の方へと入り、比較的新しいオフィスビルが列挙する一画を通り抜けた。まだ明かりの点いているフロアも多かった。人通りも、昼よりは少し少ないくらい。かっちりとスーツを着込んだ会社員はあまり見かけず、カジュアルな襟付きの服を着た人たちが、オートロックのドアから吐き出されてくる。

大通りの方へと戻って来て、明治通から見えた裏道の立ち飲みの沖縄料理屋で私達は軽い当てをつまんでオリオンを飲んだ。木崎さんは二杯目に泡盛を頼んだ。少し遅れて、私はオリオンをもう一杯頼んだ。木崎さんは島豆腐にたっぷりと唐辛子をかけて食べていた。

先に手持ち無沙汰となった木崎さんはもう一杯泡盛を頼み、私に合わせてか、ちびちびとその味を確かめるように飲んだ。料理とグラスが載るだけの小さな丸テーブルを横並びに挟んで、私達はガラス越しに外を見ながら小さな出来事についてばかり話をした。

飲み終えて一息つくと、私達はまた散歩を再開した。すいすいと木崎さんは歩いていく。いつもほんの少し私より先を歩く足取り。私は木崎さんに付属したサイドカーみたいについていく。私には少しだけ速い歩くペースも、漂う煙草の匂いも、心地良くて、欲深いな、と私は自分に対して思う。

木崎さんはカメラを右肩から斜めに掛けていた。木崎さんがカメラを身に着けているのを私は初めて見た。写真家として、彼と知り合っているのに。彼の瞬きで写真が撮れるのだと私は思っていたんだろうか。それくらい不思議な感覚だった。ああ、この人はカメラで写真を撮る人だったんだ、と、改めて思った。

木崎さんは何を思って、どんな時にシャッターを切るんだろう。

木崎さんの実家のフレンチブルドッグの話をしながら、少し意識的に彼に視線を向けた。木崎さんは缶ビールをまるで氷の入ったグラスのように一振りしてから、傾けた。もう見慣れた仕草。喉が上下する。いつだったか指摘すると、「癖でやっちゃうんだよね。おかげで炭酸抜ける抜ける」と笑っていた。

「やっぱり、缶振っちゃうんですね」

木崎さんは手元を見つめ、あー、と声に出して笑って言った。

「ね。気ぃ緩んでんのかな。やっちゃうんだよね」

私も軽く一振りして、ビールを飲み込んだ。温くて気も抜けていて、喉の乾きなんて大して潤してくれない。ただ、熱くなる一方だ。

木崎さんは建物の隙間の細い道から年季の入った黒っぽいビルの裏側に回ると、非常用の錆びた鉄の外階段を昇っていった。踊り場のドアの小窓から建物の中を覗くと、薄暗い廊下に非常灯と誘導灯が光っているのが見えた。あまりのくたびれ様と人けの無さにもう役目を終えたビルかと思ってしまったのだけど、昼間はちゃんと機能しているらしかった。

最上階まで昇って木崎さんは淵が赤茶色に腐食した鉄のドアを押し開けた。その動作はスムーズで、鍵が掛かっていないのを初めから知っていたことを思わせた。木崎さんに続いてドアを潜ると、屋上に出た。取り囲む柵の足下やそこら辺に無造作に朽ちたブロックが転がっている以外何も無い、がらんとした狭い屋上。

木崎さんは柵に歩み寄り、身を乗り出すようにしてビルの麓を見下ろした。私も倣って隣で身を乗り出した。下は狭い路地だけれど、意外と人が通る。集団だったり一人だったりまちまちに、けれどみんな一様にどこかふわふわとした足取りで。

「屋上に出れるっていいですね。こんなところあるんだ」

「ね。何でかいつも鍵かかってないんだよね。なかなか無いでしょ」

「よく見つけましたね」

しばらく路上を観察した後、私は柵を離れ、ゆっくりとその狭い屋上を一周した。初めて来たのに既視感のある場所だった。どのビルも看板も背中か側面を向けていて、まるで渋谷の裏側に回り込んだみたいだ、と思った。煌びやかな表の顔とは打って変わってどこか退廃的な印象で、けれど、温かく感じた。あらゆる物がぎゅうぎゅうに詰まった昼も夜も無い鮮やかな街並、突然何もかもが他人事になってしまう裏通り。無機質で都会的でそこかしこに誰かの手垢がついたビル群は、田舎育ちの私には、寂しくない、と感じる。全ての場所に人が、誰かがいるのがわかるから。どこもかしこも生活感の塊だ。温かいな、と私は思う。

風もなく穏やかな夜だったけれど、今は少し静か過ぎるのが気になった。

しばらく周遊して木崎さんのところへ戻ると、彼は一眼レフのデジタルカメラを手にし、その画面に視線を落としていた。それを覗いていいのかわからなくて、私は視線を宙に漂わせながら、話し掛けた。

「カメラ持って来てるの、珍しいですね」

「うん。なんとなく、今日は何か撮るかもと思って」

「被写体はありましたか?」

「撮ったよ。少し」

木崎さんは私を見て、それから画面を見た。見ていいという合図だと受け取り、私は彼の方へと身を寄せその手元を覗き込んだ。小さく明るい画面には、下方にほんの少しネオンが映り込んだ暗い空の写真が映し出されていた。木崎さんが画面を切り替えると、この屋上から真下の路地を見下ろした写真が何枚か続いた。端の方に若い女性二人の頭頂部が在ったり、携帯電話を見つめながら俯いて歩く男性の後頭部が在ったり、誰も写っていなかったり。背景は同じだけれどどれも微妙に印象が違う。

「この下の路地、いいですよね。ずっと見ていられる」

「ね。周り、飲食店が多いからかな。結構動きがあって、面白いんだよね。俺は好き」

「あたしも好きです。なんだかとても腑に落ちる気がする」

「腑に落ちるか。ああ、それなんだかすごくわかる気がする」

そう言いながら木崎さんは笑った。私も、ふふ、と小さく声に出して笑った。

「そういえば」

と呟くように言って、木崎さんは撮り貯めた写真を遡り、一枚の写真で手を止めた。白い画面。白い内壁の建物の中、少し前屈みで食い入るように目の前のものを見つめている、横向きの私の写真だった。ガラス越しに撮ったのだろう、反射が微かに映り込んでいる。あの時窓の外に居た木崎さんが切り取った、無防備で他意の無い夢中な横顔。

まだ私が木崎さんに気付く前、まだ木崎さんを知らない時、彼の写真の中に自分が居るのがとても不思議なことに感じた。

「いつの間に」

「ごめん、勝手に撮ってました。こんな風に人が何かに見入ってる姿ってなかなか見れるものじゃないから。すごくいいなって思った。しかも俺の写真を見てくれてだから、ものすごく嬉しかったな」

「夢中で見てました」

「うん」

「あの写真、本当に好きだなぁ」

「あれ、評判良かったんだよね」

「でも、多分見た人で私が一番ヤられたんじゃないかと思う」

「はは。そうかも。ありがとう」

「こちらこそ。ありがとうございます。あの写真もそうだけど、私、木崎さんの写真と出会って本当に良かった」

「嬉しいな」

木崎さんは目を細めて緩やかに笑った、伝えたいことがたくさん頭に浮かんで来たけれど、まず何から話し出せばいいのかがわからなかった。こういう時、会話は、言葉はとても難しい。言葉の外にあるものばかり気にしてしまうから。でも私は言葉の他に伝える手段を知らない。もどかしい。何を言っても、本当に伝えたいこととは少し違ってしまう気がする。

私は木崎さんに対して嫉妬のような、気難しい感情を抱いているのに気付いていた。木崎さんの写真は言葉を連ねることよりずっと説得力を持っている。それは、彼が私に示してくれる彼らしさ以上に彼自身を知らしめてくれるものだった。きっとこれから木崎さんが写真を撮ることを止めても、その残像で、私はずっと彼に惹かれたままでいられると思う。けれどもし彼の写真を見ていなかったら、私は木崎さんの深い部分に触れられていただろうか。言葉の裏にあるニュアンスを、表情や仕草の含む微細な心情の変化を、過敏なほど気に留めていただろうか。

私は木崎さんの写真に恋をしたんだろうか。その写真を残した彼の根底に惹かれたんだろうか。ただ何となくわかっているのは、多分もし彼と恋人同士になれたとしても、私は満たされないだろうな、ということだった。

欲深いな。こんなに欲しているのに、彼と男女として繋がり合ったところで、満たされない。

彼ともっと話がしたいのに、言葉では正しく会話が出来ない。私は何も表す手段を持たないから、拙く感覚を羅列して口にすることでしか本当のことを言えない。

それが彼に伝わっていることを願うばかり。

木崎さんが羨ましかった。そうだ、私は羨ましいのだ。正しく自分を伝える手段を持っていることが。彼の写真は言葉以上に、言語性を持っている。羨ましいな。私ももっとちゃんと伝えたいし、表したい。

こんな欲求の存在を、私は知らなかった。

胸が詰まったように苦しい。何かを吐き出したいのに、それが上手くかたちにならない。鼓動ばかりが激しくなり、その音が口から溢れ出してきそうだ。溢れたらいいのに。溢れられたらいいのに。

胸も頭ももくもくと立ち上ったものでいっぱいで破裂しそう。

木崎さんは何も言わなかった。私も口をつぐんでいた。ずっと遠くの下界では話し声やら車の発進する音やらいろいろなものがごちゃ混ぜになった一つの音が絶え間なく満ち満ちていた。他人事のようなその音が、私と木崎さんを繋いでくれているような気がした。


ガタン、と電車が大きく揺れ、ぎゅうぎゅう詰めの人混みも同じ幅で揺れて、私の意識は否が応でも午後五時の都営新宿線に引き戻された。しばし停車した後、また少し動いてから完全に停まり、ドアが開いた。穴の空いた水槽みたいにドアから人が流れ出していく。私はその流れに身を任せ、そのままエスカレーターへと乗り込んだ。濁流は私を改札の外へと運び出した。どこへも行く意思を持たない私は、たくさんの人の行き会う新宿南口の地下の改札前で途方に暮れた。皆足早に帰路を目指している。私もそうすべきなのだと思いながら、あまりの人の多さに圧倒されて、足が前へと出なかった。柱に寄り掛かり、ぼんやりと人波の落ち着くのを待っていた。嵐の到来を控えた今、そんな瞬間は当分訪れないことはなんとなくわかっていながら。

そうして無為にただ立ち尽くして時間を過ごしていると、不意に鞄から振動を感じた。私は鞄の中を探り、携帯電話を手にした。画面に表示されたのは、たった今記憶を手繰っていたその人の名前だった。どくん、と心臓が脈打つのを感じながら、私は反射的に通話ボタンを押していた。手のひらにじんわりと汗が滲んできた。携帯電話を耳に当てる。声は無く、衣擦れのような雑音と、微かに電車のアナウンスが聞こえる。

「・・・は、台風の・・・分遅れで・・・谷、渋谷・・・」

携帯電話を耳に当てたまま、私はすでに歩き出していた。

電話口に向かって何度も呼び掛ける。木崎さん聞こえますか。木崎さん。聞こえます?

返事は無く、多分誤操作でたまたま私に繋がってしまったんだろうとわかっていたけれど、呼び掛けずにいられなかった。

木崎さん。今、渋谷ですか。まだいますか。木崎さん。そっち行ってもいいですか。木崎さーん。私、今結構近くに居るんです。

地下通路を抜け、JRの改札を通り山手線のホームへと向かって、再び長い列に並んだ。そしてまた随分待って電車に乗り込んだ。木崎さんとの電話は電波が悪くとっくに切れていて、彼が深い地下へ移動したか充電が切れたのか、何度掛け直しても再び繋がることはなかった。

改めて満員電車に揺られながら、今度は意思を持ち逸る気持ちが抑えられずにいた。行き先がはっきりしていた。そこに目的の人がいるかどうかもわからないのに。木崎さんは渋谷で電車を降りなかったかもしれないし、降りたとしても、もう移動して居ないかもしれない。そもそも連絡が取れないので会えるはずが無かった。何の約束も無く、連絡も取れず、あの街でたまたま巡り会えることに期待するほど夢見がちではなかったけれど、行かずにいられなかった。可能性があるのならどうしても。一言二言、言葉を交わすだけでいい。目が合って互いに見つけるだけでもいい。どんなに人が多くても、きっと木崎さんを見つけられる自信があった。押し寄せるような雑踏の中でも、私には木崎さんだけが違って見える。そう確信していた。そこに彼が居さえすれば、私は必ず彼を見つけ出せる。


関係が変わってしまったあの夜の後、私達は、二度会った。一度は屋上に昇った夜。その前に、私達は夕方早い時間に待ち合わせて以前木崎さんの個展が開かれたあのカフェに行った。件の個展の際に会った店員の女性が、今度は彼女自身の写真を展示するので見に行かないか、と木崎さんから誘いがあったのだった。

あの時聞きそびれた彼女の名前は、ゆりさんといった。ゆりさんは女性ばかりを撮る写真家だった。明るく淡い少し青み掛かった景色の中、髪も肌も睫も透けるような女性達はとても美しかった。率直にそう伝えると、「モデルが素敵な子ばかりなんです」と言ってゆりさんは笑いながら首を横に振った。

三人でお茶をして、木崎さんとゆりさんの写真の話に相づちを打ちながら、同じ目線で話の出来るゆりさんを羨ましく思った。

小一時間ほど話をして私達は席を立ち、そのまま駅に向かって、そこで分かれた。いつもと同じように、駅で握手を交わし「今日はありがとう。また」と言って私達はそれぞれの帰路に着いた。木崎さんの手はいつもと変わらず温かく、しっかりと私の手を握ってカラリと離れていった。

それから少ししてまた一緒に散歩した時も、そうだった。屋上から降り、他愛ない話をしながら駅に向かって、カラリとした握手をして分かれた。木崎さんは駅に着く前に、「いい夜だなぁ」と言った。別れ際にも「今日もいい夜をありがとう。また」と言った。

二度とも、木崎さんはあの夜のことを口にせず、表情にも仕草にも漂わせることは無かった。


渋谷で降りると、私は木崎さんといつも待ち合わせていたハチ公像の後ろで、縁石に寄り掛かり行き交う人々に視線を漂わせた。少なくとも見えている範囲に木崎さんの姿は無い。当然ではあった。木崎さんからの間違い電話を受けてから、すでに二十分以上経っている。渋谷で降りていたとしてももう駅の周辺にはいないだろう。こんな予報の日に出歩くほどの用事ならなおさら先を急ぐだろうし。人波の大半は駅を目指して流れていった。構内に入りきれない人々で、東口の広場はいつもよりさらに密度が高かった。木崎さんも多分帰路のさなかだったんだろう。そう思いながら、もう少しだけ待ってみることにした。もし渋谷に用があったのなら駅へと戻ってくる木崎さんに会えるんじゃ無いか、という考えがどうしても拭いきれなくて。一体私は何をやってるんだろう。あまりの諦めの悪さに自分で自分が情けなくなったけれど、足も視線もこの場から立ち去ろうとしない。せめて今居る人混みが駅の中に入るまで。辺りはますます薄暗くなってきた。けれど、まだ夜のそれじゃない。もう少しだけ。もう少し空いたら、私も駅に入ろう。

唸るような音を立て、重い風が吹き付けた。向かい風となった人々が腕で顔を守りながら姿勢を低くし立ち向かうように歩いている。私も掌で目元を飛んでくる小石や砂から守りながら、なおも広場に入って来る人々を目で追った。もう少し。どれくらいここに居るんだろう。でももう少しだけ。

そうしていると、不意に横から声を掛けられた。風の音で上手く聞き取れなかったけれど、男性の声。私はそちらを振り向いた。目元に手をかざしながら。

「あの、ずっとここに居ますよね?台風が来てて危険なんで、駅の中に入るか、どこか建物の中に移動してください。ここはほら、何が飛んでくるかわからないですし」

若い警察官は風が吹きつけてくる方の目をぱちぱちさせながら、声を張って言った。

「すいません。移動します」

咄嗟にそう言って、私はその場を離れた。駅前の広場を後にし、歩きながら、もう木崎さんは来ないな、とやっと心から思った。四方八方に吹き荒れる風でばらばらと散る髪が邪魔だったので、ゴムで束ねた。勢いで思わず駅を離れて来てしまったけれど、行く宛なんて無かった。警察官に言われた通りどこか店に入ってやり過ごそうかとも思ったが、夕立の止むのを待つようにはいかない。数時間、下手したら夜中まで、窓の外を眺め、ただ過ぎて行くのを一人待つだけの時間。それはあまりに間抜けで情けなくて惨め過ぎる。かといって、今更駅に戻る気にもなれなかった。

行き先も定まらないままとりあえず歩いた。木崎さんがこの街にいないのだったらどこに行っても同じだった。どこに行っても、間抜けで情けない。ただ、惨めではない場所がいいな、とぼんやりと考えていた。何でもいい、行く意味のある場所ならどこでも。

気が付くと、明治通りに出ていた。無意識で歩いているうちに、覚えのある道を選んでいたようだ。数日前のことが頭を過った。この道を、二人で歩いた。くしゃりと皺の寄る笑い顔。彼の首筋を時折汗が流れる、暑い夜だった。私は髪を束ねていた。今みたいに乱雑にでなく、もう少し丁寧に。

自然と足は同じルートを辿っていた。裏通りへ入り、沖縄居酒屋を通り過ぎた。その店は閉まっていて、台風の為本日は三時までの営業となります、と張り紙がしてあった。さらに奥へ行く。ほとんどのオフィスは暗くなっていたけれど、中にいくつか灯りの点いた窓があった。今夜会社に泊まり込む人々が居るんだろう。遠方から通っている人たちはその方が安全なのかもしれない。それとも仕事の都合だろうか。その両方、かもしれない。大変だなぁ、と思いながら、奇妙な親近感のようなものを抱いた。こんな日に、よりによってこんな夜に街の中にいるなんて。安らぐ家でなく。あるいは、誰かにとってはそこが安らぐ場所なのかもしれない。非日常的な、そしてひどく現実的な。何にせよ、そこに人がいるだけで少し嬉しくて、ほっとした。嵐は人の気配を濃く近くさせる。土砂降りの雨に閉じ込められたあの中野の画廊でのひと時のように。

ほっとして、その温もりに後押しされて、歩き続けた。甲高い風の音、それが力任せに揺らす表札のがたがたいう音や街路樹の枝葉がぶつかり合う音。様々な音が入り交じり入り乱れ激しく騒いでいたけれど、静かで穏やかな夜だった。

気が付くと、私はあの黒っぽい老ビルの前まで辿り着いていた。さすがにこのビルに人のいる気配は無い。鍵は今日も開いているだろうか。私は惹き付けられるように、赤黒い外階段を昇っていった。遠くの方で雷鳴が轟いていた。

強風に煽られながら中程まで来ると、頭のてっぺん、ちょうどつむじあたりに冷たいものを感じた。つう、と滴が額と頬を通り顎先まで滑った。

降ってきたな、と思ったのに、どうしてか、傘をささなきゃいけないということとは私の中ですぐには結びつかなかった。

はっとして、ようやく鞄の中の折り畳み傘に意識が向いた頃には、もうすっかり髪も顔も滴るほどに濡れそぼっていた。慌てて傘を取り出し広げるも、本降りとなった雨は奔放な激しい風と合わさり時化の海のようになって荒々しく私の体を揺さぶった。下からも横からも雨風が吹き込んでくる。鞄を胸に抱きかかえ、傘に隠れるように身を縮こませて、私はその場から動けなくなっていた。階段を昇ることも、引き返すことも出来ずに小さくなって身を守るほかなかった。気を抜けば傘ごと飛ばされてしまいそうだった。雨も風も時間が経つほどますます強くなっていく。


「ねぇ。背中撫でて」

温かい胸に額を押し当て、私は言った。彼は請願通り私の背を手の平でさすりながらゆっくりと呼吸した。

おでこに感じる鼓動。まだ少し速かった。私より肌の温度が高い。固い皮膚と筋肉の奥に、彼のあばら骨を感じる。今ならこの肌に触れていいのだ。木崎さん。木崎さん。温かさも感触も目一杯味わっているのに、まだ夢の中のようだった。足りない、のだった。もっと触れたかった。もっと深く。もっとちゃんと、しっかりと摑み取りたかった。ただどうしたらいいのかわからない。これじゃないのはわかっていた。もどかしくて足りなくて、そしてとても幸せだった。

「木崎さん」

「ん?」

「木崎さん」

「うん」

「木崎さん」

木崎さんは背中を撫でてくれていた手を止め、そのまま私の体を抱き締めた。私も木崎さんの背中に腕を回し、力を込めた。ただ、私のそれは抱き締めるというよりもしがみつく、という方がしっくりくるものだった。

言葉にしてしまえば終わってしまうのがわかっていたから、私は彼を呼び続けるしか無かった。

木崎さんの腕の中は、温かかった。熱いくらいだった。泣いてしまいそうだった。

これは熱過ぎるし青々しいものだ、とわかっていたから、泣いてしまいそうだった。


傘の小間布が激しく波打つ。荒々しい風雨はますますヒステリックになっていく。一瞬の出来事だった。縋り付いていた傘は暴力的な雨風に耐えかね、間接が逆方向に折れて万歳をするように伸び上がり、機能を成さなくなってしまった。剥き出しとなった顔や頭や手足に、容赦なく激しい飛沫が浴びせかかる。冷たい雨水と、髪を滴り落ちる生温い滴が混じり合って頬を伝い流れた。瞬く間に私は頭の天辺から靴の中のつま先までぐっしょりと雨水を含んで重たくなった。絞り忘れたボディスポンジみたいに。けれど、意外にも、その感覚は不快ではなかった。寒くも冷たくもないし、ここまで濡れ切ってしまえばもう抵抗する意味もなくなって、気持ち良くすらあった。まるで大好きな音楽を真夜中に聴いているような、何もせずに過ごした休日のような、とてもしっくりと来るものでもあった。

壊れた傘を畳み、私はまた階段を昇り始めた。鞄を片手でよりしっかりと胸に抱え、傘を持つ必要の無くなったもう一方の手で手摺りを握り締めながら身を屈めて一段一段昇っていく。そして錆びた鉄のドアの前まで辿り着き、その黒く変色した取手に手を掛け、捻った。ドアはあの日と同じように難無く開いた。狭くひらけた屋上に踏み入る。相変わらず、殺風景で素っ気ないブロック以外何も無い屋上。

荒波の中を掻き進むように覚束なく揺らされ流されながら、屋上の真ん中まで何とか辿り着き、そこで足を止めた。雨風はひどく変則的に、上からも横からも下からも前後からも縦横無尽に打ち付けてきて、私を包んだ。その雨風に包まれながら、目を瞑り、上空へと顔を向けた。伸びた首筋に、瞼に、背中に、ふくらはぎに、力強い波飛沫が降り注ぐ。そうしてその奔流に漂うように身を任せていると、次第に上も下も横も前後もよくわからなくなっていった。浮いているような、沈んでいるような感覚。深い海の中のようだった。この雨に溶け込んでその一部になっている。雨風と空気と私との境目がなくなっていた。心地良い。心地良くて曖昧で、とてもしっくりとくる。大きな雨粒が肌を打ち続けていた。私の肌よりこの雨は温かい。熱いくらいの雨が、私の表面を無造作に滑り、流れていく。

その瞬間、全てが腑に落ちた。すとん、と、すっかり、理解した。

正しいこと。私に在るもののこと。私に必要なもの。私の特別なもののこと。

私はやっと全部すっかり心の底から理解した。


ひろやは、きっといつも傘をさしてくれるのだ。壊れない、大きな傘を。


そして私の手を握って、ちゃんと温かくしてくれるのだ。ひろやの体温はこの雨の温かさよりももっと私の肌に馴染んだもので、互いの体温がそうなってしまっているのだった。私の温度はもうひろやと一続きになっていて、外側で感じる温かさや熱さは嵐のように気まぐれで刹那的で特別なものなのだった。いつもいつまでも雨に濡れてはいられないことを、私はやっとちゃんと理解した。ひろやの傘の下で、私はばしゃばしゃと水浸しになっていたに過ぎないのだった。雨に濡れていたかっただけなのだった。ピントが変わるほど熱い雨。染み込んでくぐもったヴェールで見える世界を色濃くしてくれた雨。それは必要なものだった。感覚でやり取りが出来ること。自分以外の人の内側に流れているものを私は初めて垣間みた。垣間みて、それは私にとってとても特別だった。ひとつの正しさを持っていて、紛れも無く本当だった。

私は木崎さんが好きだ。彼の見え方が、感じ方が、彼の中に息づく文化が、彼自身の内包する根の部分が、私は好きだ。あの写真を撮った瞬間の彼が好きだ。彼の見る世界が、そして世界をそう見る彼自身が心から好きなのだ。紛れも無く、言い訳も出来ないくらい。心から、私はどっぷりと恋をした。

けれど、これは愛ではないな、とわかっていた。随分前から。その違いを私はもう知っていた。知っていて、目を瞑っていた。いや、逆かもしれない。むしろ見開いてずっとはっきりと見つめていたのだとも思う。木崎さんを愛おしく思う気持ちも、根底で響き合った感覚も、鮮やかで色濃くて本当だった。間違っていたとは思えなかった。

私は木崎さんが好きだ。だけど、それだけなのだった。それ以上でもそれ以下でも無い。本当に大好きで、それだけなのだった。何も無くていいのだ。彼との未来も、彼を独占することも、ある意味では彼自身でさえも。彼の作品と出会った時、私は彼のある一面と出会い、それでもう形を成していたのだ。私にはその一面が重要で重大だった。甘い言葉を絡め合うことも、意味のある視線のやり取りも、この恋には本当は必要なかったのかもしれない。優しく触れてくれる熱くて大きな手が無くても彼は私にとって特別だった。彼が私のために何かしてくれなくても、ただそのままの彼と関わっていられればそれでよかった。木崎さんはそのままで良かった。

木崎さんは私のことを好きじゃないかもしれないし彼の目に私はあまり映っていなかったかもしれない。彼の気持ちを私は何も知らない。

ごめんなさい。

自然と、喉の奥から言葉がこみ上げてきて、けれどそれは声にはならなかった。

ごめんなさい。

守ってくれていたのに、こんなにずぶ濡れで居てごめんなさい。

あんなに温めてくれた指先が、また冷たくなっている。それがひろやに対して申し訳なかった。風邪ひくよ、髪乾かしなよ。シャワーの後いつまでもソファから動かない私にそう言ってひろやは発破を掛けてくれる。その髪から、雨水が滴り落ちている。ごめんなさい。

あなたが丁寧に愛してくれている私はあなたの庇護の届かないところで、勝手にずぶ濡れで冷えきって一人芝居を打っている。ごめんなさい。

私はひろやの居ない日々なんて考えていなかった。

相変わらず私の体は激しい雨風にゆらゆらと揺らされるままになっていた。その頼りない体の隅々にまで、ひろやの愛が通っているのだ。私の内側に。それに、私の皮膚そのものになって。

そう思い始めて、やっと肌に感覚が戻ってきて、この空間そのものの中から私、が切り離された。

一度すとんと胃に落ちてしまえば、後はがらんとしたとてもシンプルな気持ちだった。

真上に向けていた顔を下げ、そっと目を開いた。水気を含んだ睫は音がしそうなくらい重かった。

家に帰ろう。家に帰って、熱いシャワーを浴びて、髪を乾かさなければいけない。

手の平で目元を覆うように守りながらぐるりと一周、見回した。睫の滴と夜と雨の幕の向こうに、カラフルな灯りが幾重にも滲んで見えた。


翌朝、木崎さんから謝罪のメールが届いた。昨日の着信はやはりポケットの中の携帯電話がたまたま繋がってしまった為の掛け間違いだった。私はそれに昼頃返事をし、では、また。と文末を締めた。

その日の昼休み、先輩と一緒にランチに出た。台風で洗い立ての空と空気はぴかぴかに澄んでいて、横にも縦にも広々としていた。

先輩と、よく一緒に行くパスタ屋に入り、先輩はエビとあさりのクリームパスタを、私はきのこのペペロンチーノを頼んだ。ランチではそれぞれに小さなオニオンドレッシングのサラダがついている。猫舌の先輩はカフェオレを食前に頼み、傍らに置いたまま食事をした。食べ終えてから、私のホットコーヒーがテーブルに置かれたのを合図に先輩は小さなスプーンでカップの中身を一混ぜし、両手で包み込むようにして持ち上げまるで熱い日本茶のようにそれを啜った。

私のホットコーヒーはカップ越しにでもわかるくらい、まだ熱い。

「急に涼しくなったね」

不意に、先輩が言った。そうですね、と答えながら、その時初めて私は暖かそうな明るい日差しにさらされている空気が思っているほど熱を蓄えていないことに気が付いたのだった。

「夏ってもう終わりですかね?」

「私に聞かれても」

「ですよね」

カラン、と隣のテーブルの女性がストローをひと回ししたアイスコーヒーのグラスの氷の涼やかな音。

「もう終わったでしょう、とっくに」

すっかり冷めているはずのカフェオレに息を吹きかけながら、先輩は言った。


一週間ほど音沙汰なく、こちらから木崎さんに連絡することも無く、過ごしやすい気温の毎日をどこかうつらうつらと微睡むように過ごしていたある日、朝起きると、携帯電話に木崎さんからの着信とメールがあった。どちらも昨晩遅くのものだった。深夜に着信があり、その一時間ほど後に『度々すいません。友達に掛けようと思って間違えました』とメールが送られていた。

私と木崎さんとの時間は、木崎さんから散歩や何かの誘いが無ければ、動き出さない。私から彼に連絡することは無いからだ。彼の日々の中に招かれれば私はお邪魔するが、私の日々の中に彼を誘い込むことは無い。それが私なりの彼というアーティストへの敬意の払い方だった。

それなので、私と木崎さんとの時間は、動き出さなかった。微睡みは束の間で、また次の台風が来るという予報があり、私はそれに備えて毎日少しずつ残業を増やした。木崎さんとの時間が動かなくても、私、の時間は小刻みに正確に動いていった。湿気を含んだ雲が蔓延し傘を手放せない日が何日か続き、予報通りにまた大型の台風が来た。今度は、嵐が騒がしく窓や電柱を揺らすのを、私は自分のマンションの部屋の中で聞いた。ひろやから電話があって、台風は夜のうちに行ってしまうらしいね、明日の通勤は大丈夫そうで良かった。気になってる居酒屋があるから明日の夜一緒に行こう、と話しながら。

それから少しして、先輩が現職場での最終勤務を終える日を迎えた。業務の後、出勤していた職員全員で集まり、代表して私から花束を渡した。涙も流れるままにして抱き合うと、互いのブラウスの肩の辺りが落ちたファンデーションやらアイシャドウやらマスカラやらで変な色に汚れて、それが可笑しくて笑いながら泣きながら私達は何度も抱き合った。

翌日の朝、私はクローゼットからクリーニングのビニールがかかったままだったジャケットを取り出し、袖を通した。もう十月なのだった。


二ヶ月ぶりに会ったミナト君は、髪も髭も伸びて真っ黒に日焼けしていて、随分印象が変わっていた。

感傷的な歌詞を歌うバンドマンみたいだった細い手足の周りにしっかりとした分厚い筋肉がついている。よく似合っていた白いTシャツが前よりさらに良く似合っていた。夏そのもの、みたいな姿になって、ミナト君は島から帰ってきた。

「すっごくいいところだったんだよね。うん。海も山の中もものすごく色が濃くてさ。ずっと夏休みみたい。朝起きてから寝るまでずーっと飽きない、何してても。俺、都会じゃないと住めないな、って思ってたんだけどさ。初めて住みたいって思ったよ。また行くと思う、近いうちに絶対」

ミナト君は艶のある丈夫そうな頬をゆるませ、何度も自分で頷きながら言った。

「うわー行ってみたいな、出来ればみんなで。ちょっと長めのスパンで行けたら最高だよね」

私の隣、そしてミナト君の向かいに座るひろやは、片手にメロンソーダを、もう一方の指先に煙草を挟んで釣られるように何度も頷いた。

「ね。ひろやも未歩ちゃんも一緒に行こうよ。出来れば、行人がいる間に行けたらいいんだけどな。あいつまだしばらくはあっちいるから」

「木崎君、いつまで滞在してるんだっけ?」

「冬の間はいると思う。年明けまで結構予約入ってたし」

「行きたいですね、みんなで」

言いながら、多分実現しないだろうな、と思った。ひろやの仕事はまとまった休みを取ることが難しい。早いうちから具体的に予定を立てれば行けるのかもしれないけれど、何となく、行けないような気がする。根拠がある訳ではないけれど。

ミナト君が東京に着いたのは、一昨日の夜だそうだ。まだ荷解きも手を付けてないよ、とミナト君は笑って言った。

ミナト君からひろやに、東京に帰るよ、と連絡が来たのは、先週の週末だった。一緒にいつもの小料理屋で揚げ茄子と塩鯖をつまみながら飲んでいる時だった。電話を切ると、ひろやは私に「ミナトが来週帰ってくるよ。会う約束したから一緒に行こう」と言った。頷きながら、私は初めてひろやに実感の伴う嘘をついた。

ミナト君が帰って来ることを、もう私は知っていた。

木崎さんから電話があって、それで聞いていたからだ。二日前のことだった。


お久しぶりですね、と言うと、そうね、久しぶりです、と木崎さんは返した。

「間違い電話以来ですね」

「ああ、そうだね、何度もごめんなさい」

「いえ、全然。最近はどうしてますか?随分涼しくなりましたね」

木崎さんと電話で話したことはほとんど無かったので、新鮮だった。電話越しの木崎さんの声は、いつもより少しざらついていて重たい。

最近は少しバタバタしてたかな、いや、そうでもないか。なんかやることが立て込んでてさ。仕事もそうだし、出掛ける準備とか。そう、俺、しばらくこっち居なくなるんだよね。うん。ミナトが今瀬戸内の方行ってて。あ、聞いてる?そう、そこ。俺も行くんだ。うん。来週くらいかな、ミナト、こっち帰って来るの。入れ替わりで、今度は俺がそこで働くことになって。多分結構居るかなぁ。うん。割と長いスパンで考えてる、半年とか。

背景に、スローテンポの低音と掠れた男性ヴォーカルの歌声が微かに聞こえる。

「しばらく夜の散歩出来なくなるからさ、一応未歩さんには伝えといた方がいいかなって。いらなかったかもしれないけど」

「いや。ありがとうございます。そうですね。少し残念。すごくいい時間だったから」

「ありがとう。俺も、すごくいい時間だったな」

「あっちで撮った写真、帰ってきたら見せてくださいね。楽しみにしてます」

「うん。いろいろ、撮ってくる。多分。まぁ、楽しんで見てくるよ」

じゃあ、また。はい、また。


また、いつか。

あなたの写真を楽しみにしています。心から。


もう繋がっていない携帯電話を耳に当てたまま、私はゆっくりと、瞬きをした。

キュイン。額のカメラが、作動する。

それならいいのにな。何も残してくれない。もどかしいな。

そう思いながら、もう一度ゆっくりと目を瞑り、開いた。

キュイン。


あともう少し。

もう少しで、私は正しくコミュニケーションがとれる、と思うのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 未歩は恋愛の二文字をそれぞれ木崎さんとひろやに割り振ってるような印象を受けました。 彼氏であるひろやは『愛している』。一緒にいることに安心できる。みたいな。 木崎さんとは『恋をしていた…
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