日系人の強制収容所巡りへ出発
クリスは僕と同じ年で、大学でアジアのヒストリーを専攻している。これまでも様々なストーリーをインタビューして歩いていたそうだ。収容所跡にも何度も足を運んだとのこと。だから、僕は車に乗せてもらい、他愛のない話をしていれば現地に辿りつけるって計画。けど、クリスはバンクーバーを出発して、二時間が経過しても話をしようとしなかった。僕が何を言っても、イエスかノーだけ。それって話って言わないだろう。僕はもうあきらめて、ラジオに耳を傾けるしかなかった。
あのグローブの持ち主なんて、カスロへ行ってもわからないだろうな。ましてや、なぜ、おっきい祖母ちゃんが持っていたのかなんてわかるはずがない。けど、強制収容所の跡地ってどんなとこなのか、その地に立って、同じ景色を見てみたかった。
また僕の頭の中は過去の出来事にとんでいた。胸が痛む過去のこと。
僕がリトルリーグに入った時、おっきい祖母ちゃんが子供用のグローブを買ってくれた。すごくうれしくて毎晩抱いて寝た。僕が庭の木をターゲットにボールを投げる。そんな姿を離れの縁側に座って見ていたおっきい祖母ちゃん。いつも試合を見に来てくれた。そして中学に入り、僕はあいつと出会った。僕はますます夢中になる。一緒に練習して、勉強もした。それで同じ高校へ入ったんだ。あいつのことはおっきい祖母ちゃんもよく知っていた。週末はいつもうちでご飯食べたり、泊りに来ていた大親友だった。
車はハイウエイを外れ、細い小道へ入っていった。大きな家、変わったドーム型の家までが並ぶ。おそらくこの辺りはセカンドハウスなんだろう。クリスは車を徐行させながら進んでいた。
見渡す限りの草原の前にぽつりと小屋がたち、そこに看板がある。TASHIMEと読めた。
「えっ、ここがタシメ」
約2600人がいた最大の強制収容所だった。しかし、広い草原があるだけでなにもなかった。
「そうよ。ここがタシメ」
ようやくクリスが口をきいてくれた。無知な僕、説明するしかないと決断したらしい。
この場所に立っても、博物館として残っているこのバロック小屋がなければわからないだろう。大きなパネルには当時の写真があって、小さな小屋がずらりと並ぶ。
「この場所って、今でも地図にはないの。タシメっていう名前も、当時のRCMP(王立カナダ騎馬警察)幹部の頭文字をとってつけた名前なんだって」
「そんなにいい加減だったのか」
「そうね、とりあえず、この地の呼び名があればよかったんだと思う。全く何もない所に2万6千人が来て、町が生まれ、戦後、また誰もいなくなった所」
最初はどこの町でも大勢の敵性外国人、つまり日系人を受け入れるのを渋ったらしい。そりゃそうだろう。真珠湾に奇襲攻撃をした国を祖国に持つ人々ってきいたら、嫌だって思うに決まってる。
「政府はね、まず、イベントや品評会用の牛舎や馬小屋なんかの家畜用の建物に押し込めた。糞尿の臭いがする建物に約8000人がいたっていう話。それからどこへ移動させるか検討していたみたい。その八か月間に結核も流行って、それで亡くなった人も多いの」
人とは思っていない扱いだ。
「カナダ政府は、住むための小屋の木材を用意してくれた。けど、それを建てるのはそこに住む日系人自身たちだった。さらに後でわかったのは、その木材を買う費用も、政府が勝手に日系人の家や財産を売ったそのお金から差し引かれていたの」
しっかりしているっていうか、チャッカリしすぎだろう。
住み慣れた家を追われ、強制収容所に入れられた。その間、政府が日系人たちの家や土地、工場、店、家具まですべて勝手に格安で売ってしまっていたなんて。しかもそれらのお金の中から日系たちにかかる費用のすべてを差し引き、手数料までとっていたって。
それってひどすぎないか?
「アメリカの日系人も同じような目にあっていたけど、戦後ちゃんと自分の家に戻れたの。強制収容所も政府が建てて、そこで食事をさせてもらってた。カナダは、自分のお金で自分たちの住むバロック小屋を建て、毎日の食事を自分たちで賄わなければならなかった。さらに戦後、自分の家に戻れなかった。そこは大きな違い」
あのおっきい祖母ちゃんがそんな目にあっていたなんてと胸が締め付けられる。どんな思いでいたんだろう。自分たちの未来があるのか、さぞかし心配だっただろう。僕だったら悲観して、投げやりになっていたかもしれない。
*****タシメ強制収容所
バンクーバーから車で約3時間(約160キロ)のところにある。今でも地図にその地名はない。
2624人が送り込まれた。土地が広かったから、自給自足でミソ、醤油、豆腐などを作り、他の収容所へも配っていたらしい。
今は当時のバロック小屋が一つ、博物館として残っているだけ。




