そんなわけで僕は旅立つ
機上の人になっていた。日本からバンクーバーまで約9時間あまり。妃呂美に言わせると、神経質な僕は飛行機の中では眠れない人に値する。だから、最初から寝ないで集めた情報を読んでいた。
高橋ご老人はいろいろなことを教えてくれた。パールハーバー以来、日本人やカナダ生まれの日系人(日系人と称す)たちは祖国と居住している国との戦争に板挟みされていた。カナダ政府からは敵性外国人と言われ、今まで仲良くしていた隣近所の白人たちに恐れるような目を向けられたらしい。
連日のように、親たちが険しい顔で喧嘩をするように議論をしていたそうだ。母親たちは涙を見せる場面もあったという。
当時まだ五歳だった高橋さんは、その事情がよくわからず、いつもなら仕事に行って昼間家にいない父親が家にいたことが妙にうれしかったと記憶していると語る。そして、春になった頃、移動命令が下される。スーツケース一つ(約9キロ)で住み慣れた家を出て行かなければならなかった。
母親がシャツというシャツを何枚も着重ねるように言ったという。それが嫌で泣いたらしい。ある少女は洋服を何枚も着こんで、そのコートの上に晴れ着まで着せられていたそうだ。
僕は日本を出発する前に、バンクーバーの日系プレースという日系のコミュニティへメールを送っていた。自分の曾祖母が戦前カナダで生まれ、戦後帰国したことを知らせた。見つけたグローブのことも書いた。向こうはグローブに興味を示した。バンクーバーへ着いたらすぐに連絡をすることになっていた。
田中サリーというハーフの女性だ。日本で高校まで育ち、大学進学と共にカナダへ引っ越してきたらしい。日本語が普通に通じることが心強かった。
バンクーバーに降り立った。スーツケースを受け取り、ゴロゴロと引いていく。ここからスカイトレインに乗ってバンクーバーのダウンタウンへ向かうつもり。
下調べはしてある。けど、料金を支払うところで立ち往生していた。
「日本の方ですか」
そう僕に声をかけてくれた青年。はい、と即答。
「これ、良かったらどうぞ。まだ使えますから。僕はもういらないし」
えっ、救世主か? 手渡されたチケットを受け取る。
「ここの乗り物は同じチケットが使いまわせるんですよ。バスもスカイトレインもシーバスもね。買った時間から90分乗り放題。今日は日曜日なので、全ゾーン、一律の値段です。平日だとゾーンの違いで値段が変わるから気を付けてください」
そう教えてくれた。彼はこれから日本へ帰るみたいだ。最初からこんなに親切な人に会えるなんて、さい先いいぞ。
スカイトレインはモノレールのよう。街の上を走るからスカイトレイン。二両編成だ。自転車をひいて乗り込む人もいた。もちろん、それも許されている。だから、僕のでっかいスーツケースなんか誰も振り向かない。白人も多いが、東洋系も多い。白人でも英語じゃない言語で会話をしている人もいた。国際色豊かな街だ。
僕の予約しているホテルはそれほど遠くなかった。観光客の多いロブソンストリート。まだチェックインできる時間じゃなかったから、スーツケースを預けてなにか食べようと思った。調べたら、すぐ近くにラーメン屋があることを知った。バンクーバーへ着いていきなりラーメンって言われそうだけど、一人でレストランへ入るのも気がひけた。どうせなら慣れた味でカナダへ来たことを実感したかった。
てくてく歩いていくと店はすぐにわかった。行列が見えたからだ。すごいのはみんな日本人じゃないってこと。(あたりまえか)日本のラーメンがこんなにウケるって知らなかった。僕は一人だからカウンター席に案内された。
その隣に僕の後ろに並んでいた白人のおじさんが座る。にっこり笑い合った。
『ラーメン、好きなんですか』と訊いてみた。
『もちろん、早いし、うまいし、値段も悪くない。替え玉も安い。日曜日はここまで散歩にきて、帰りにかならずここで食べて帰るんだよ』
確かに早い。ここのチェーン店、日本で食べたことがあるけど、それとそっくり同じ味だった。さすがだ。僕が日本から来たばかりだと言うと、おじさんはいろいろ教えてくれた。
例えば、このロブソンのような人けの多い通りなら夜中でも歩けるけど、昼でも寂しげな道は歩かない方がいいと。チャイナタウンには本格中華のおいしい店がたくさんあるけど、ジャンキーたちがたむろしているから気を付けること。そして、スターバックスもいいけど、カナダに来たらティム・ホートンへ行くべし、だって。元はドーナッツ屋だけど、コーヒーは安いし、スープやサンドイッチもあるらしい。学生なんか、パソコンを持ち込んで勉強しているらしい。
僕はそのおじさんにカナダへきた理由を言ってみた。昔、日系が住んでいたところ。おじさんはちょっと考えて、ガスタウンの方だなと言った。あそこもジャンキーが多いから気を付けるようにと言われた。
***Tim Hortons。珈琲とドーナッツを売る店。日本のコンビニのように、あちこちで見かける。その創業者は、アイスホッケーの選手だった。24時間営業のところもある。
食べ終わって一応ホテルのロビーへ戻る。まだチェックインの時間には間がある。バスを乗り継いで、そのガスタウンの方面へ行ってみようかと思いついた。そのバス路線を調べていると着信。明日会うことになっているサリーからだった。
《もう着いたかなって思ってたんです》
「今、ホテルにいるんですけど、チェックインにはまだ時間があるからガスタウンまで行ってみようかなって思いまして・・・・」
そういうと、ちょっと待っててすぐに行くからとのこと。本当に数分でサリーが現れた。ハーフといってもすごく東洋系っぽい美女が二人。
あれ? なんで二人なんだ。
「こんにちは、翔さんですね。サリーです。こっちは妹のクリス」
サリーは二十三、四歳の大人な女性。長い髪をポニーテイルにして綺麗に化粧をしていた。
紺のビジネスっぽいワンピースにジャケットを着ている。妹の方は化粧っ気なし。普段着のまま、家を飛び出してきたみたいな白いティシャツにジーンズ。癖のない腰までの長い髪が揺れる。
サリーはにこやかに話してくれる。でもクリスはなぜか喧嘩したばかりの友達と会っているような顔をしている。僕と目があってもにらみつけるような表情をむけていた。なんだろう。僕たち初対面のはず。
「ちょうどツアーのお客様を見送ったところなんです。この周辺を車で通ったから翔さん、もう着いたかなって思ったところだったんです」
「それでこんなに早く来てくれたわけですね」
納得した。
「じゃ、今からパウエルへ行ってみましょうか」
そうサリーが言うとクリスが、意外そうな表情をした。
あきらかにいやがっている。
「あ、僕は一人で行ってみますから、大丈夫です」
クリスの心中を察して言った。
「大丈夫よ。ねっ」
サリーにおされて、クリスの車に乗り込んだ。
「到着したばかりで疲れてるでしょ」
「はい、でも大丈夫です。さっき、近くのラーメン屋へ入りました」
「えっ、日本から着いてもうラーメンですか」
そう言われると思ったんだ。
「腹減ってたし、どこでランチしていいかわからなかったんで、慣れた味がいいかって思って」
それからサリーとどこのラーメンがおいしいとかの話に花が咲いた。運転手のクリスはのけ者状態、いいのか。 クリスの表情が気になる。 なんでこんなにブスっとしてるんだろう。
「翔さんの曾お婆さんへ鈴木という姓でしたね。いろいろ調べてみたら、鈴木政吉さんという名前がカスロにあったんです」
「あ、政吉は曾々祖父さんです。高祖父です」
やっぱり、とサリーの顔がほころんだ。
「カスロって場所の名前ですか?」
「そうです。戦時中、強制収容所として日系人が送られた場所です」