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親父が靴下をどこへでも脱ぎ捨てるってことに、文句を言ってたのは覚えていた。
「えっ、ちょっと待って、今、なんて?」
『あんた、また私の話、聞いてなかったのね。おっきい祖母ちゃんの恋文が見つかったって言ったのよ』
「えっ、まさかっ」
つい大声になった。
ずっと生返事ばかりだった僕が急に反応したから、母は上機嫌でその経過を話し始めた。おっきい祖母ちゃんとは、曾祖母のこと。お祖母ちゃんと区別するために僕が昔からそう呼んでいた。このおっきい祖母ちゃんは物静かでいつも微笑んでいた。声を荒げる姿を見たことがない、とても温厚な人だった。三人の息子を生み、そのやかましい嫁たちに囲まれても穏やかに、実家の敷地内の離れで過ごしていた。
『それもね、その恋文の相手、曾祖父さんじゃないみたい』
「ええ~っ」
あのおっきい祖母ちゃんが、あの穏やかなあの人が、長年連れ添った相手以外に、恋焦がれる男がいたってこと。信じられなかった。想像が全くつかない。
『だから、親戚中が集まって親族会議をすることになった。次の日曜日、帰ってらっしゃいね』
「次の日曜日?」
なんでそうなるのか。おっきい祖母ちゃんの恋文発覚が、なぜ親族会議に繋がるんだ。
『もしバイトが入っていたら、お母さん、マネジャーさんに言ってあげるから』
やめてくれ~と叫びたくなった。母はまだ僕が子供だと思ってる。母親にそんなこと言ってもらうなんて恥ずかしすぎる。バイトは入っていない。
基本的に日曜日は妃呂美と会うことを前提にしているから予定はあまり入れていなかった。
『ね、あんた、ゴールデンウイークにも帰ってこなかったでしょ。いいわね。あんたが一番おっきい祖母ちゃんにかわいがってもらったんだから当然よね』
帰ることがおっきい祖母ちゃんのためって言う言い方だ。
「わかった。帰るよ」
その前日の土曜日は昨日のようにバイトがある。日曜日の朝、一番早い飛行機で帰ればいい。その費用くらい出してくれるだろう。そう、僕はいつもおっきい祖母ちゃんの離れに入り浸っていた。学校から帰っても家には誰もいないことが多かった。だから、おやつを食べながら一緒にテレビを見たり、編み物をしているおっきい祖母ちゃんの傍らで宿題をしたりしていた。外で友達と遊ぶことも好きだったけど、こうしておっきい祖母ちゃんのところで過ごす夕方のひと時も好きだった。反抗期の時でさえ、入り浸っていた。だって、母や祖母に何かいうと頭ごなしに叱られる。そうでなければ、思いっきり笑われる。そしてすぐに男らしくないとか、あんたはだからだめなのっていう前置きで、クドクドと説教が始まるんだ。そんな女性群に思春期の繊細な悩みを打ち明ける気にもならない。そこへいくとおっきい祖母ちゃんは何も言わない。
僕が沈んでいて、どうしたのって言われることはあっても、僕が黙ったままならもうそれ以上、なにも訊いてはこなかった。そして、その沈黙の代りに国語の辞書ごっこをして楽しむ。まず、辞書を適当に開き、そのページの目についた言葉の意味を読むっていうこと。これが意外におもしろい。中にはよく知っていると思った言葉が全然違った意味だったことがわかり、改めて感心することも多々あった。
今でも記憶に残っているのが「サボる」という言葉。一般的には仕事をサボる、怠けているっていう意味だけど、サボるの「サボ」がなぜカタカナなのか、気づく人は少ないだろう。サボタージュというフランス語から来ているらしい。仕事をしてもあまり働かず、経営者に損失を与えるとかなんとかの意味があった。怠けるっていう意味もある。そのサボタージュを動詞化した言葉がサボるという言葉になったことが、この辞書ごっこでわかった。こんなことをやっていると、なにが僕の心を暗くしていたのかなんて忘れてしまう。友達とのことや成績なんかで悩んでいたことが,すごくちっぽけに思えてくるんだ。
僕がものすごく沈んでいた時、おっきい祖母ちゃんは真顔で言ったこともある。
《世の中にはね、考えてもどうにもならないことがある。そんな時は仕方がないってあきらめて、なるようになるさって考えると楽になるんだよ》
でも、その時の僕はそれを受け入れられなかった。それに対して抵抗するとか、戦うことの方が正しいと思う。
「そんなの気休めだっ。あきらめちゃいけないんだよ。気が楽になってもそんなの嘘っぱちに決まってる」
確か、その時の僕はそんなことを言ったと思う。おっきい祖母ちゃんはちょっと悲しそうな目で言った。
「そうだね、あきらめたらいけないのかもしれない。気が楽になったような気がしただけなのかもしれないね」
たとえ話だと思っていた。だって、その時の僕にはおっきい祖母ちゃんの人生に、そんなどうにもならない出来事が起こったなんて考えられなかったからだ。それを僕はよく覚えていた。なにか教えてくれるのかと思っていた。でもおっきい祖母ちゃんはそれっきり何も言わなかった。
妃呂美が僕のティシャツを着て、台所へ来る。ゆっくりと寝ていられなかったらしい。僕の目の前で派手な大きな伸びをする。シャツの裾から、ちらりと下着が見えた。そして、よく眠れなかったという抗議の目を向けてきた。
妃呂美は明らかに、母との長電話にうんざりしているってわかった。僕の意識を自分に向けるような行動をしているから。冷蔵庫を開けている。
『翔? 誰かいるの?』
勝手にしゃべっていると思っていた母が、僕の気配を察していた。
ギクッとする。
年は取れども母も女。いや、むしろ年を重ね、いろいろな経験値を積むとさらに鋭くなる、女の勘ってやつなんだろう。だって、妃呂美は声を発しなかったし、音を立てて歩いたわけじゃない。それなのに、電話の向こうの母はいつもと違う雰囲気を察していた。
「いや、誰もいないよ。今、隣の人が出て行ったらしいんだ。ドアの閉まる音になんだよって思っただけ。乱暴にしめるとこっちにまで響くからさ」
とっさの言い訳だ。
『そう? あんたの気がちょっとそれたみたいだったから、それならいいんだけど』
女性は鋭い勘を持つが、母親はこんな他愛のない息子の嘘を、簡単に信じてしまう生き物でもある。福岡から千葉の大学へ行かせてもらって、ちょっと辺鄙だけど冷暖房完備の新しいアパートも借りてくれて。そこへ彼女を連れ込んでいる僕。この実態を母が知ったらなんていうか。想像はできるけど、したくはないな。
目の前の妃呂美は妃呂美で、おもむろに牛乳を取り出した。なにかを企んでいるのがわかる。にやにやしているからだ。グラスを選んでいるみたいだ。なにかを探していた。その視線が止まる。見つけたらしい。それはハンターが獲物を見つけた時の不気味な・・・・そう、不敵な笑いだ。
妃呂美はこともあろうことか、僕が大事にしているぴっかぴかのワイングラスを手に取った。僕がこの世で一番許せないという行為をしようとしていることがわかった。戸惑いもなく、ワイングラスに牛乳を並々と注いだ。妃呂美のしたり顔。そして一気に飲み干した。明らかな僕への嫌がらせだ。長電話のために機嫌を損ねている。
卑怯だ。僕が何も言えないことをわかっていて、こんなことをするなんて。これってある意味、母親と恋人との女同士の対立ってことか?
もうそろそろ切らないともう一つのグラスまでが危なくなる。これは僕の二十歳の誕生日に妃呂美がプレゼントしてくれたグラスだった。このピカピカのワイングラスをもらって、口走ったことがある。
「大事にするよ。絶対にワイン以外には使わない。牛乳とか注いだら曇っちゃうよな」って。その時の妃呂美は、「ワイングラスで牛乳を飲む人なんていないでしょう」と笑っていた。
「もうお昼だね。父さんは? 昼飯食べたの?」
日曜日だから親父は家にいてゴロゴロしている。その昼飯の支度をする時間だろうってさとす。
『あっら、やだ。もうこんな時間? お父さんのお昼、支度しなきゃ。日曜日って主婦には休みじゃないのよね。あ~あ、リラックスできないじゃない。まあとにかく、来週、帰ってらっしゃい」
「ん、わかった。お父さんによろしく」は~いという返事の後、すぐに電話は切れた。
やっと解放された。