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次はニューデンバーという町。
日系の博物館があり、そこには当時の建物が保存されている。二軒繋がっている居住の小屋。入り口にすぐに台所があり、二世帯で共同で使用。左右わかれている部屋には三段ベッドがあった。
「家族の多い人たちは一軒ごともらえたらしい。狭すぎるし、この辺りは冬も厳しいの。こんな薄い板一枚だけだからすごく寒かったんだって」
うん、当時の写真にはテントの中で、鍋の水が凍ってたって書いてある。そんなところから生活が始まったんだ。日系人の中には日本語しか話せなかった一世もいたが、カナダ生まれの教員免許を持つ人や歯科医師もいたらしい。夢に描いていた未来とかけはなれたこの生活をどうとらえたのだろうか。
僕なら投げやりになっていたかもしれない。白人たちを恨んでしまうかも。
「なにもない」っていう言葉、汽車から見える景色を見て日系人たちがつぶやいた言葉らしい。そして、「しかたがない」が次にくる言葉だったそうだ。
「人種が違うってことはそんなに大きなことなのかな」
僕がぽつりと言った。クリスが振り向く。
意外に厳しい顔つきだ。賛同してくれると思っていた。
「日本でも、ものすごい差別をする人、多いのよ。知らなかった?」
「え? それって昔ってこと?」
「違う。今もよ。外国人観光客には優しいの。でも同じ地域に住むとなるとものすごく厳しい。私、ハーフでしょ。見た目が違う。最初は珍しがられてちやほやされたけど、慣れると全然。それどころか、他の人と同じ失敗してもあの子、ハーフだしって言われたの」
ああ、わかる。その気持ち。おそらく僕もそっちの日本人に入るかもしれない。なんとなく自分たちと違った部分が気になるんだ。それで同じ間違いをしたら、外国人だからとか言ってしまう。
なんでだろう。僕は本当にむなしくなっていた。
「結構つらかったんだね」
「うん、そういうときもあった。でもサリーがいたからよかったの。両親にはこんなこと言えない。でも同じ立場の姉にはうちあけてクッションとか殴ってたの」
こういうのって、長年鎖国だったからか?
ここには共同トイレや皆が集まって楽しむミュージックホールもあった。ってか、ミュージックホールってなんだ。
「ここでダンスとかコンサートとかやっての。その時はこの近所に住む若者たちも集まったそうなの。娯楽が少ないから一緒に楽しんだそうよ」
僕の頭の中には、日系人が白人たちにいじめられていたシーンばかりだった。日系人たちは皆、収容所でずっとつらい、悲しいって嘆いていたんだとばかり思ってた。
「それってこの辺りに住んでいた白人たちが、この強制収容所に来たってこと?」
「そうよ。だって、ここには鉄格子なんてないもの。出入り自由。一応、日系人がこの町から出る時には許可が必要だったけど。夏なんて、周辺の農家がいちご狩りの働き手が足りないからって、ここへ募集に来たり、人手不足のこの町で働いていた人も多いの」
強制収容所って、全く閉じ込められていたわけじゃないんだ。
*****
スローカン・バレーという地域の四つの強制収容所には4764人が分散された。
このニューデンバー博物館には、当時のバロック小屋、集団用のトイレ、イベント用のミュージックホール、日系人が植えた野菜、日本庭園もある。
その町を車で回った時、驚いたことがあった。今も白人が住んでいるその家は当時のバロック小屋を改築したものが多かったから。中には二軒を繋いでいる家屋もある。終戦後、この地域ではバロック小屋を解体せず、白人たちに二束三文で売ったそうだ。冬は寒い地域でもあるから、家の中はかなり手が入っていると思うが、ちょっと見ただけでも当時の小屋だとわかる。
サンドンという炭鉱の跡がある小さな町には920人が送り込まれたそうだ。その町には警察官がたったの一人。炭鉱博物館には当時の警察官の言葉が残されていた。「当時、この強制収容所とされたサンドンに大勢の日系人がやってきた。けど、みんな大人しくて地元に馴染んでくれたので、警官一人でもやれたんだ。これがアイルランド人だったら(おそらくその警官がアイルランド系)一人につき、警官も一人つけないとおさめられなかっただろうね」と。