うなぎ
父さんは今日も部屋でごろごろとしていた。仕事を辞めてしまってからずっとこの調子で、ただでさえ狭い部屋が息苦しく感じる。母さんは生活を支えるためにパートに出かけていたので、日中の私は父さんとふたりきりで過していた。
「ねえ、今日はうしの日だよ。ウナギ食べようよ」
私は父さんにねだった。それほど食べたかったわけではなかった。ただ、わがままを言ってみたかっただけなのかもしれないし、何でもいいから父さんにやる気をだして欲しかったのかもしれない。
「ウナギだあ? そんな金あるわけないだろ」
父さんは横になったまま答えた。私は珍しく強情になった。
「ウナギ食べたいよう。ねえ、食べようよう」
父さんの肩を両手でつかんでゆさゆさと揺すりながら繰り返した。父さんは、仕方ねえなあと呟きながら立ち上がるとちょっと待ってな、とひと言残し玄関から出て行ってしまった。残された私は呆気にとられながら部屋の真ん中にちょこんと座り父さんが出ていった玄関を見つめていた。
しばらくして父さんが帰ってきた。その手には釣竿とバケツを持っていた。
「どうしたの、それ?」
私が訊くと父さんは得意げな顔をして言った。
「義雄から借りてきた。さあ行くぞ典子」
「行くって、どこへ?」
「決まってんだろ釣りに行くんだよ。ウナギ食べたいんだろ」
「えーっ。ウナギって釣れるの? どこで?」
「川だよ、川。魚だから釣れるだろ。ほれ、さっさとしな」
そうして私は父さんとウナギを釣りに出かけることになった。
私の嫌な予感は見事に的中し、父さんの言っていた川とは近所のどぶ川だった。とは言うものの、かなり幅も広く深さもあり流れる水の量もかなりのものであったし、土手もしっかりと設けられていてどぶ川と呼ぶには気の毒な感じもする、そんな川だった。川の水は深緑のような茶色のような色をしてゆっくりと流れ、水の中のようすはまったく見えなかった。むっとするような臭いが辺り一面に漂っている。父さんはいそいそと土手を下りて行き、コンクリートで固められた川岸に着くとバケツの中から小さな箱を取り出してその中のミミズを針につけた。えいとばかりに竿を振ると、針とミミズは水面に落ちてちいさな波紋が出来た。
私といえば気が気ではなかった。こんなところを友人に目撃されてしまったらどんな噂話をされるか分かったものではない。父さんに気付かれぬようこっそりと後ろから離れ、すぐそばに架かる橋の上に行きそこから覗き込むように眺めていた。
それからしばらくは何の動きもないままにただ時間だけが過ぎていった。私は橋の上からぼうっと父さんを眺めていた。高い所から見た父さんは、なんだか知らない人のように見えた。そして活き活きとしているように感じた。それは不思議な光景に思えた。
すると突然、竿がぎゅーっとしなった。糸が水面であちらこちらへとすごい勢いで動き回る。
「父ちゃん、きたよ! 釣れたよ!」私は夢中で叫んだ。
父さんは橋を見上げると「なんだ、そんなとこにいたのか」とのんびりした口調で言った。
「ほら、ちゃんと見ないと逃げられちゃうよ。そっちそっち」
興奮した私は水面を指差しながらぴょんぴょんと跳ねた。父さんは真剣な顔つきになって竿を握る手にぎゅっと力を込めた。水上を走る糸の勢いはさらに激しくなり、ときおりばしゃばしゃと水面に跳ねが上がった。橋の上では通行人が足を止め、私の周りで見物人となり魚と釣り人の戦いを見守っていた。しだいに糸の動きが弱くなってきて、ついに止まってしまった。父さんはぐうっと竿を立てた。竿はU字のようにしなっていたが、少しずつ竿先の向きは上を指していき、とうとう水面から大きな魚が姿を現した。墨のように真っ黒な鯉だった。鯉は糸にぶら下がりながら、なんとか逃れようと激しく身をよじらせて、その度に尾びれがばしゃばしゃと水面を叩いた。私の周りではおおーっと歓声が上がり、大したもんだ、とかこの川にあんな大物がいるんだね、などと口々に褒め称えていた。私は誇らしい気持ちでいっぱいになり「あれは私の父ちゃんです。父ちゃんが魚を釣ったんです」と大声で叫びだしたいくらいだった。
転びそうになりながら土手を駆け足で降りていくと、父さんは釣り上げた魚を両手のひらの上に載せていた。魚は観念したようすで大人しく横たわっていた。口とえらだけが規則的な動きを繰り返していた。父さんはなぜか悲しそうな表情をしていた。私を見ると済まなそうに言った。
「ごめんな」
「え? なんで?」
「ウナギじゃなかったよ」
私はまくし立てるように言った。
「ウナギじゃなくたってすごいよ。こんな大きな魚だよ」
その言葉に父さんの表情は明るくなった。
「そうか? そうだよな。ウナギじゃなかったけど、これはこれで立派なもんだよな」
「そうだよ。すごいよ」
「これだけ大きいと、もしかしたらこの川の主かもしれないな」
「そうだよねえ。魚たちのお父さんかもしれないねえ」
「よし。それじゃ帰ってこれを捌いて食うか」
「えーっ。だめだよ。やめようよ。もし魚のお父さんだったら子どもたちが寂しくなっちゃうよ。可哀そうだよ。返してあげようよ」
「そうか? 典子がそう言うんだったらそうするけど。いいのか?」
「うん」私が大きく肯くと、父さんは魚をそっと川の水の中に沈めた。魚は動かずに水の中でじっとしていたが、ぷるぷると少し体を震わせると泳ぎ出し、そのまま水の奥の方に消えて行ってしまった。細かい泡がいくつか水面に浮かんではじけ、そのあとには深緑のような茶色のような水だけがゆっくりと流れていた。
父さんは地面に置いてあった竿をつかむと、私に言った。
「それじゃあんみつでも食べに行くか?」
「やったあ」私はバケツを持つと、父さんの後をついて土手を上っていった。
甘味処であんみつを食べながら、父さんは私に言った。
「今日の事は内緒だからな。俺と典子のふたりだけの秘密だ。母さんにも言っちゃだめだからな。約束だぞ」
うん、とスプーンを咥えながら私は肯いた。
それは父と交わした最初で最後の約束だった。
何度目かの墓参り。私は父の墓前で小声で呟いた。
「お父さん、あの約束はまだ破ってないよ」
隣りの母が耳ざとくそれを聞いて不審げな表情を浮かべた。
「なあに、それ?」
「ううん、なんでもない」
私は首を振り笑みを浮かべた。
あのとき橋の上から眺めた父の姿と、水の中に消えていった魚が鮮やかに脳裏に蘇った。川と父と私とを包み込んでいた空気がここへやって来て、そっと私に触れたような気がした。