きれいになりたい
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ここはいつも線香のにおいがする。カンカン照りの日も、道路が濁流になるくらいに土砂降りの日も、店のなかだけは変わらずにひんやりと静かで、橙色の照明が天井でときおりゆらゆらと揺れていて、気持ち悪くならないていどに線香のにおいが漂っている。
「俺、奥にいるからお客さんきたら呼んで」
悠はいつも私に店番をまかせて、店の奥にある自分の家に引っ込んでいる。あいつ自身からも線香のにおいがする。見た目からしてまだ二十代後半とかそのあたりだろうに、まるで駄菓子屋を経営するじいさんばあさんみたいな暮らしをしている。服はいつも同じようなものばかりで、きびきび動いているところなんてみたことがない。のんびりお茶を飲んで、お菓子を食べて、めがねをかけて本を読んで、あとは店の商品と戯れている。それでもこの店はしっかりと回っている。私に自給千三百円のバイト代と、たまに色をつけて渡せるていどには稼いでいる。
私の仕事は店のカウンター替わりのショウケースの前に座って、ふらっと訪れる客に飲み物をもてなすことと、軽く店のほこりを払うことと、客から受け取ったお金を形ばかりのレジに入れることだ。たったそれだけで自給千三百円。暇すぎるのがちょっとイヤだけど、ほとんど座っているだけで結構な額が入ってくるからやめられない。
今日も客足はすくない。秒針の音が店内に響いていて、ぼけっとしていると寝てしまいそうだった。頬杖をついてスマホを見る。7月11日月曜日17:32、と大きく記された下にツイッターから通知が表示されていた。あなたの投稿が3人にいいねされました。通知をスワイプする。
どこかを歩くじぶんの後ろすがた、友達とのプリクラ、上目遣いの自撮り、特別目を引きもしない似通ったアイコンを眺めながら画面をスクロールする。画面更新のマークが一瞬映ったあと、年上の彼氏からもらったピアスとか、かわいいカフェで食べたパンケーキとか、鏡に映った今日の自分とか、おなじような写真が同じようなコメントといっしょに増える。ちょくちょく猫とか犬とか鳥とか好きなアーティストの動画が挟まっている。余計に眠くなった。
メイクが崩れていないか確認していると、店の戸が開いた音がした。そっと鏡を閉じて顔をあげる。セミロングの黒髪をハーフアップにして、肩口のひらひらしたノースリーブブラウスと白いチュールスカートをはいた二十代くらいの女がいた。おそるおそるといった風に店の中をうかがっている。ブラウスの胸元には、そこを中心に首元とお腹の真ん中あたりまで広がる黒くて汚いもやがあった。客だ。
「いらっしゃいませ」
声をかけると女は肩をビクつかせて私を見た。こっちは何も聞いてないのに、あ、とかええと、とか意味のない音を吐いている。ちゃんと喋れよ。そんなこと言わないけど。店の性質上、ここに来る客はこんなやつばっかりだ。もやも相まってすごく醜い。
客かそうでないかを見分けるのも私の仕事のひとつだった。簡単にわかる。胸に黒いのを抱えた汚いひとだったら客、何もないフツーのひとだったら近所の人、極端に明るい顔をしていたら商品を返しに来た客。どれにしたって私のやることはたいして変わりがない。客だったら麦茶を出して悠を呼びに行くし、そうでなくてもやっぱり麦茶を出して用件を聞く。ほとんどがただの世間話だ。つまんないけど、にこにこして聞き流していたらそのうち悠が出てきて相手をしてくれる。
店の真ん中に置いてあるテーブルで待っているように促して、カウンターのとなりにある簡易な台所に移動する。細長いコップに、喫茶店で出てくるような真四角に穴が開いている氷を三つくらい、それから店で沸かした麦茶を入れてストローを刺す。まるくて茶色いお盆にコースターといっしょに乗せて女のところまで運ぶ。
素直に席についていた女が困った顔でそばにきた私を見上げた。
「あ、あの、ここは……」
「いま店主を呼んでまいります。すこしお待ちください」
にっこりして、お盆を胸に抱えて頭を下げる。私が店のことに関して余計なことを言う必要はない。大丈夫ですよ、とか、あなたの不安は消えます、とか胡散臭いセリフを吐くのは悠の仕事だ。はたから聞いていると詐欺みたいに聞こえてくるけど、悠を目の前にする客たちはみるみるうちに体の力が抜けて、ほっとした顔になる。この店の雰囲気みたいに、いつもゆったりしている悠に侵食されるのかもしれない。
店と悠の家を分ける戸を開けると、店よりも濃い線香と、それにまじって少しだけ畳のいぐさのにおいがした。御鈴をたたく音が聞こえる。悠はまた仏間にいるらしかった。リィーン、リィーン、と澄んだ高い音が二回響くのを聞きながら土間でローファーを脱ぐ。この家の襖は基本的に全部開けっ放しになっているけれど、仏間は店からみて一番奥にあるからここからじゃ悠の姿は見えない。わざと足音を鳴らしながら歩く。ちゃぶ台と小さなテレビが置いてある部屋を通り抜けて廊下を曲がって五歩くらい行くと、やっと悠の姿が見える。
「悠、お客さん」
「……お、いらっしゃったか」
「まあまあ汚いよ」
「そう」
仏壇のまえに正座して手を合わせていた悠が私を見た。悠の動きに合わせて、部屋にいた十何匹もいる商品の目が一斉にこっちを向く。悠の首にゆるく巻き付いていた商品が瞼を開いて細い瞳孔をした金色の瞳を開いた。この店で一番でかくて、一番それらしい顔をしたやつだ。私をじろりと見たあと、ゆっくり悠の首から離れていく。きもちわるい。こいつらは私に視線をよこすとき、何を思っているのか知らないけど、いつもぺろりと舌を出した。仏間は嫌いだ。汚いやつの体内に入る生き物は見た目も気持ち悪い。
悠は紫色のふかふかした座布団にこぶしをついてじじくさい掛け声で立ち上がった。商品が頬ずりをしてくるのに、人差し指で眉間のあたりを掻いてやることで答える。ドラマなんかでよく見る、愛娘を見る父親みたいにデレデレしている。私にはこいつらのどこが可愛いのかさっぱりわからない。
真っ黒な羽織が悠の商売衣装だ。客を待たせているとは思えないほどゆったりとした動きで袖を通して、袂に上から触れて重みがあるのを確認した。そこにはショウケースの鍵が入っている。使ったところは見たことがない。
線香のにおいをまとわせながら私のとなりを通った悠は、ぐっと背伸びをしながらまたゆったり店に向かった。こいつは一歩が大きいから、動きが鈍いだけでそんなに遅くはない。でものんびりしていることに変わりはない。私がさきに店に出たって仕方ないから、悠の後ろをついていく。悠のなかにキビキビという擬音はない。
「いらっしゃいませ。お待たせしてしまってすみません」
誠意が感じられない口調で、悪びれなく悠は言った。待たされた挙句こんな態度を取られたら私なら間違いなくいらいらするけれど、ここにくる客はそうはならない。店主、ときいて想像される人物像よりも若いのと、ゆるい口調に毒気を抜かれるのか、はあ、と気の抜けた声をあげて、緊張で怒らせていた肩をゆっくり下げていく。今回の女もそうだ。ぼけっとして悠を見上げている。悠の身長は普通くらいだけど、下駄をはいているから立っていると妙に高く見える。悠が女に向かい合って椅子に腰かけるのを見てから、私は悠の分の麦茶を用意する。
台所にいても、悠の声は聞こえてくる。
「ここの店主をしています、藤永悠司と申します。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「ここへくるのは大変だったでしょう? ずいぶん奥に店を構えているもんで……あはは、わかり辛くてすみません」
「なんでも言ってくださいね。ここはあなたの怖いものをなくす場所ですから」
接客しているときの悠の口調は動きといっしょでゆっくりだ。聞いている側が焦れないぎりぎりのスピードで、ひとつひとつ丁寧に説明するように話す。普段もゆっくりではあるけどこれほどじゃない。
用意した麦茶を出すと、悠はすぐにストローに口をつけた。つられて女もたっぷり汗をかいたコップを手に取る。私はお盆を片していつもの場所に戻って、接客の邪魔にならないていどにふたりの話を聞く。
女は、はじめは私のことをちらちらみて様子をうかがっていたけれど、悠にゆっくりと促されていくうちに自分の話に没頭し始めた。母親が若くして肺がんで入院していること、仕事で大きなプロジェクトを任されたこと、そのチームのなかが不穏であること、上司に過剰にプレッシャーをかけられていること。
「毎日不安でしかたないんです。母さんの死に顔とか、上司や部下が夢にでてきて、怖くて眠れなくて。前なら気にしなかったような小さなミスも、過剰に反応してしまって」
私は他人の不安そうな顔が嫌いだ。視線を右往左往させて、手を強く握って、つらくてたまらないと言った風に言葉を吐く。そのさまがウザったくてしかたない。嫌な話をしているとき、みんな自分がこの世で一番不幸だって思っている。その顔がダサくて汚くて嫌い。こんな小心者に仕事まかせる上司もどうかしている。
ついには涙をこぼし始めた女に、悠はたれ目を細めて笑って見せた。
「よく頑張りましたね。あなたはとても強いひとだ。問題にきちんと向き合って、立ち向かおうとしている。なかなかできることじゃありません」
「いまの苦しい時期を乗り越えるために、私に不安を取り除くお手伝いをさせてください」
女が顔をあげた。悠は立ち上がって、店の壁一面に並んだガラス戸の棚に触れる。そこには瓶詰にされた商品がたくさん眠っている。鱗のある胴をゆったりと水に浮かべてそっとまぶたを閉じている。小さいのと、起こすまで動いたりこっちをみたりしないぶん、気持ち悪さは仏間にいるやつらよりずっとましだ。
悠は天井から数えて五段目の戸を開けた。丁寧な手つきで瓶をとりだして表面を親指で撫でる。仏間にいるやつらを撫でてやるのと同じ手つきだった。女はいぶかしそうに首をかしげている。悠はテーブルの上にそっと瓶を置いた。瓶の中には白いうろこで、犬みたいな頭と上半身を持つやつが二匹いた。白い毛をゆらゆらと水に遊ばせて、前足を折り曲げて、蛇みたいな下半身を瓶の底に付けている。
「……これは?」
「あなたの不安をやっつけてくれるいい子たちですよ。……ほら、起きて」
悠はレバーを持ち上げてふたを開けた。こんこん、と容器をたたいて、瓶に満たされた水の表面を撫でる。中に入った二匹は同時にまぶたを開き、瓶のなかを滑らかに泳いで見せた。
「瓶のなかに指を浸してみてください。第二関節くらいまで……そう。なにかにつつかれている感覚がしませんか?」
「……し、します」
「よく目を凝らしてみて。あなたになら見えますよ」
二匹は女の指を交互につついている。女はびく、と肩を揺らしたが、すぐ悠の言葉に従ってじっと瓶を見つめた。このひとは落ち着いているほうだ。人によっては指に触れただけで瓶をひっくり返すし、何も入っていないように見える瓶を愛おしそうになでる悠を気持ち悪がって指を突っ込まない。
自分の指に体を絡める二匹のすがたを、女はやっと認識できたようだった。見るからに指が震え、少し顔色が悪い。二匹はそんなのお構いなしに体を擦りつけ、指先を甘噛みする。女は短く悲鳴を上げたが、決して指を抜くことはなかった。小さく開いた口をゆっくりと引き結んで喉を上下させた。悠の笑みが深くなる。
「あなたのなかにある不安は、この子たちが食べてくれます」
「これ、は、なんですか」
「この子たちを私は龍と呼んでいます。龍は人間の体内に入りそのひとが抱えている不安を食べて生きる生き物です。この店は彼らの貸し出しを行っています」
龍の片方が水面からぬるりと顔を出した。前足を瓶のふちにかけてぶるぶると体を震わせる。地面をかけるように前足を動かしてふわりと浮かび上がると、悠の頬に突撃した。それをみたもう一匹が女の指から離れて同じように毛の水気をとる。悠は二匹のうろこをそれぞれ撫でた。
「私の持つ龍たちは、頭部の動物の性質を持っています。この子たちは狼です。狼は群れで行動していますが、狩りをするのは群れの中で最上位のつがいがほとんどなんですよ。獲物をしつこく追いかけて、逃げる力を失わせてから襲う。この子たちはいまちょうど飢えていますから、あなたの不安をどこまでも追いかけて食べつくしてくれるでしょう」
やっと瓶から指を抜いた女はさきほど噛まれた指先をそっと撫で、悠に戯れる二匹を見て、それから少しだけ私を見た。にっこり笑ってやる。この時間は夢じゃない。あんたが見ている気持ち悪い生き物は、私にも見えている。私の笑顔をどうとったのかは知らないけれど、女は首の位置を戻してまた人差し指を触った。悠が女を見て笑う。
「今日決めていただくことはございません。家に帰って、よく寝て、よく考えて、それでもやっぱり必要だと思ったならまたお越しください。店はいつでも開いていますので」
何回も来るひとは別として、龍を借りるのをその場で決める人間はいない。あたりまえだ。わけのわからないものを見せられて、これがあればあなたの不安は消えるとか言われて、値段は使用後、それも言い値でいいなんて怪しいことこの上ないから。むしろここに来たことが不安の種になりそうだ。説明を受けて、もう顔を見せない客だってもちろんいる。でも、あの女はまたここにくるだろう。それも結構すぐ。女は龍を見ても引かなかった。
女を出口まで見送ったあと、悠はぐっと腕を天井に伸ばした。そのまま体を右、左に傾けて両手を勢いよく元の位置に戻す。そしてコップを片付けている私を振り返っていたずらっぽく笑った。
「彼女は絶対また来る。な、お前もそう思ったろ」
「思ったらなに」
「店番が板についてきたってことだよ」
「あっそ」
コップのなかの氷が音を立てて落ちた。麦茶が残ることは滅多にない。いつもの大股でテーブルまで来た悠が、瓶の周りで戯れていた二匹を撫でて戻るように促した。二匹は好きなだけ悠の手に戯れたあと、瓶に戻ってまぶたを閉じる。
2
学校にも黒いのを持った汚くてダサいヤツはちょいちょいいる。それは明らかにいじめの標的にされそうな暗いデブスだったり、教室の端で固まっているどこにでもいそうなフツーのやつだったり、メイクをばっちり決めていつも楽しそうにしている彼氏持ちの女だったり、普段は明るい先生だったりする。さすがに店に来るくらいでっかい黒いのを抱えているやつはそんなにいないけど、チリか?というくらい小さいのが乗っているのはままいて、それは日によって消えたり復活したり、大きくなったり小さくなったりする。
「玲奈、帰ろ」
教室の窓から夏生が顔をのぞかせた。一年生の最後から付き合っているけれど、いまのところ夏生に黒いもやは見えない。一年かけて選りすぐったんだから当然だ。付き合うなら、顔がよくて、細身で、背が高くて、何よりも黒いもやが一度も見えたことのない男じゃないと許せない。あんなのが一度でもちらつくような汚いやつとは隣に歩くのも嫌だ。夏生はまわりの男子に比べて落ち着いているし、がみがみ私に口出ししてこない。そのぶんいっぱいしゃべったりとか笑わせてくれたりとかはしないからつまらないけど。
「じゃーね、真紀」
「ばいばい」
真紀は私に手を振りながらにこっと可愛らしく笑った。真紀の胸元はずっときれいなままだ。
夏生に呼ばれて立ち上がるときに集まるまわりの視線は爽快だった。憧れ、羨望、おびえた顔を向けてくるやつもいる。私はクラスにいる人間の目を浴びながら教室を出る。夏生の腕をとって階段を下りる。すれ違う人間が私たちのことを見る。組んだ腕を見て、私たちの顔を見て、納得したような表情をする。付き合ってるんだ、と小さくつぶやく声が聞こえる。
私たちが帰るのはいつも人の多い時間だ。下足場で靴を履き替えて、また夏生のとなりに並んだ。
「今日泊りに行ってもいい?」
「……いいけど」
夏生がなにか言いたげに少しだけ眉を寄せた。でもすぐ目を伏せて耳のあたりに手をやる。私は腕を引っ張って無理やり手をつないだ。
3
夏が盛ってきて外はめちゃくちゃ暑いのに、悠の家はいつでもひんやりとしている。店もそうだ。エアコンなんてどこにも見当たらないのに、冷たい風が風鈴の音といっしょに流れ込む。寒すぎるときもあるくらいだ。だから薄手のカーディガンは必需品だった。寒くても、あの黒い羽織は着たくない。悠とお揃いとか絶対に嫌だ。
「口を開いてください。あくびをしたときみたいに、のどを開いて……そう、とっても上手です。あはは、そんな緊張しないで。恐ろしいものじゃありませんよ。ゆっくり飲み込んでください、あとは自分から入っていきますから」
龍は口から体内に入る。客が口を開ければ龍は自分から体を突っ込んで、のどの奥を少し刺激する。そうして口内に分泌された唾液を飲み込むのに乗じて、やつらは食道に体を滑り込ませる。……らしい。私は龍を借りたことがないし、これからも借りないから確かめようがないけれど、悠はそう言っていた。本当かどうかはしらない。
奇妙な顔をして目をぱちくりさせる若いサラリーマンに、悠は気の抜ける笑みを向けた。
「お疲れさまでした。あとはいつもどおりの生活を送っていただければ、あなたの不安はすべて龍が消し去ってくれます」
「……本当に? これだけでなくなるんですか」
「はい。さすがに今すぐ、というわけにはいきませんが、一晩たてば効果を十分実感していただけますよ」
悠はまっすぐにサラリーマンを見て言った。男は腹をさすり、やはり不安そうに眉尻を垂れる。このひとの抱える黒いもやはすごくデカい。みぞおちから鎖骨あたりまでの大きさが多いのに、この男はへそから顎につくかつかないかくらいまで膨れ上がっている。ここ一か月じゃ一番の汚さだ。初めて店に来たときの表情も見るからに「おれ不幸です!」っていうのが丸出しですごくイライラした。そんなどでかい靄がほんの少しずつだけれど小さくなっていく。不安が取れたと実感しはじめるのは、靄が本来の半分になってからだ。
「先ほどもご説明いたしましたが、龍を貸し出せる最大の期間は二週間となっております。今日からですと、八月十七日までですね。お手数ですが、こちらにご記入ください」
簡易な契約書を書かせた悠は控えを客に渡した。原本を丁寧にファイリングする。しっかり保管するようにと、貸し出しの期間を厳守するように言い含めたあと、サラリーマンを誘導してゆっくり店の扉を開けた。
「ご利用ありがとうございます。また二週間後、お待ちしていますね」
くどいくらいに二週間を繰り返すのは、それ以上龍を体内に入れたままにしておくのが危険だからだ。あなたの精神的な健康に関わる、まともに生活できなくなる危険があると悠は書類を書かせるときも、龍の説明をしているときも折を見て口にする。あまりこだわりを見せない悠が、この部分にだけはとても気を張っている。
でも、たとえどれだけ悠が気をもんで頭に残るように、危機をあおるように言ったとしても、期限を守らないバカはどこにでもいる。そういうのは、繰り返して龍を借りに来るやつに多い。
「ああ、また出ない」
サラリーマンがこれまでの客と同じように、気持ち悪いくらいの上機嫌で龍を返しに来た二日がたった。悠の家の玄関を開けると家主が困った顔で携帯を耳に当てていた。いつも首に巻き付いているデカい龍がぱたんぱたん、と尾を振っている。悠は部屋や廊下をうろうろしながらばりばりと頭をかいて、ため息をつきながら携帯を閉じる。電話の相手はすぐにわかった。五日くらい延滞しているどっか会社の重役のおっさんだ。このあいだ来たサラリーマンに負けず劣らずの汚いもやを抱えたあの年寄り。いつでも焦ったりしない悠にため息をつかせるのは、私が知っている限りで延滞者だけだった。
ヒールを手に持って家に上がると、私をみて眉を下げて笑った。
「おはよう」
「なに、あのおっさんまだ連絡つかないの?」
「うん。家からかけても携帯からかけても駄目だし家に行っても留守だった」
弱ったなー。大きくぼやいたくせに、声音はそんなに困ってなさそうだ。スキニーの後ろポケットに携帯を突っ込んで大きくあくびをする。そしてまた仏間に入ってごろんと横になった。とたんに大きさのまちまちな龍たちが悠に近寄っていく。首にいたやつはいつのまにか悠のお腹の上で丸くなっていた。
延滞しているおっさんが来たとき、私はほんとうにびっくりした。今まで見たことないくらいに胸元が汚かったからだ。その記録はサラリーマンで更新されてしまったけれど、今思い出してもでかいもやだった。見た瞬間顔をしかめたくなったくらいだ。思い出したら背筋が寒くなってきた。
「汚かったし時間かかるんじゃない? このまえのサラリーマンも酷かったけど」
「玲奈はさ」
悠がゆっくりと私を見た。のどが詰まる。いつもののんびりとした動作なのに、まったく違う。客に対するのとも違う。じろり、という擬音がぴったりな視線の向けかただ。まるで、まったく知らないものを見ているような、観察するような、そんな瞳だった。
「いつもお客さんを汚いって言うよな」
「……だって汚いから」
「じゃあ、お前にとってのきれいってなんなの?」
え、と小さく声が漏れた。なにその質問。必要ある? そう言ってやろうと思ったのに、なぜだか言葉にはできなかった。代わりに悠の言葉を頭の中で反芻する。私にとってのきれい。そんなの決まってる。容姿が整っていて、身なりもちゃんとしていて、なによりもやが全くないひとだ。答えははっきり出たのに、なんだかしっくりこなかった。
悠はふっと瞳を和らげた。一匹ずつを同じようにかまってやりながら、電話のつながらない客のことや、いま私に言ったことばなんて忘れたみたいな能天気な笑顔をみせる。
「じゃあ、今日も店番よろしく」
言われなくてもわかっている。返事の代わりに悠を睨んで店に出た。頭の中では、悠にされた質問がずっと残っていた。
4
朝起きたら、まずまだ寝ている夏生の胸元を確認する。ちょっと布団をめくったくらいじゃ夏生は起きない。Tシャツは少しよれていたけど、彼の胸には黒さのかけらもなかった。今日も私の彼氏はきれいなままだ。
高校一年生のころに初めて見たときから、夏生はずっときれいだった。いつもしゃんと背筋を伸ばしていて、歩きかたも堂々としてて、髪型も決まってて、制服をだらしなくない程度に着崩している。顔も私が見たなかでいちばん整っていたし、もやもない。私が思うきれいがすべて詰まっていた。彼氏にするなら絶対にこのひとだと見た瞬間に思った。
夏生は怒鳴ったりしない。物を投げないし、暴力もしない。周りの目を見てこそこそしない。私たちは喧嘩なんてしたこともなかった。夏生はいつでも落ち着いている。私の話も聞いてくれる。そのせいか会話は弾まないし面白いことも言わないけど、きれいだからそれでもよかった。真紀もそう。可愛くてもやがなくて、聞き上手な真紀は、夏生と並ぶくらいにきれいだった。ふたりを見るたびに、前に悠にされた質問のみょうな違和感が溶けていった。これが私の思うきれいだ。なにも間違っていないとはっきりわかる。ふたりともそのまま、私のそばにいてくれればいい。
洗面台のまえに立つと、いつもどおり、寝起きでちょっとだけブスな私がいた。胸にはなにもない。あたりまえだけど、私もちゃんときれいだった。ハンドタオルといっしょに掛けていたヘアバンドで前髪をあげて歯を磨く。しっかり口を濯いでから、冷水でまず顔を濡らして、洗顔料を泡立てた。夏生が起きるまえに支度をすべて終わらせたい。元がどれだけよかったとしても、ちょっとでもブスな自分はだれにも見られたくない。今日はなにを着ようと考えて、そろそろ洗濯物が溜まってきたことを思い出した。気分が悪くなった。
メイクが終わったころに夏生が起きてきた。スウェットもTシャツも着崩れている。夏生はぼけっとしたまま顔を洗って、適当に髪を梳いた。脱力したようにベッドに座る。いまにも寝てしまいそうだった。今日は朝からふたりで出かける。出発する時間まであと一時間もなかった。このまま放っておけばそのまま外に出そうな気がして、私は声をかけた。
「パジャマみたいなのじゃなくて、ちゃんとした服着てよ。いっしょにいる私までダサくみられるんだから」
そういうと、夏生は一瞬うんざりした顔をして、それでもゆっくりと立ち上がりおとなしく服を着替え始めた。
5
ずっと学生でいたい。このバイトを始めてから、何度もそう思った。だって、この店にくる客はほとんどが社会人だ。もちろん子供だっている。園児はさすがに見たことないけど、小学生や、私と同い年くらいのやつ、大学生もこの店にくる。でもやっぱり多いのは大人で、そいつらのもやは学生よりもずっと大きくて汚い。社会に出ると不安に思うことが格段に増えるってことなんだろう。私はそんなことにはならない自信があるけど、まわりに汚いやつが多いと気分が悪くなる。もしかしたら夏生も、真紀も汚くなってしまうかもしれない。そんなの絶対に許せない。そう考えると、多少汚いやつがいても、きれいなままの夏生や真紀や、悠が近くにいるいまのほうが確実に気持ちよく過ごせる。だから私は、学生のままでいたかった。
悠の家から店に入った。客はだれもいない。来そうな気配もない。今日も暇な一日になりそうだった。ショウケースの前に座って、そばの棚に手を伸ばす。そこには青いカバーのファイルがたくさん並んでいる。契約書の原本が詰まったファイルだ。毎回今日返却の客がいるかどうか確かめなければならない。
ぱらぱらと几帳面にファイリングされた資料を見ていると、返却日が今日になっているものをひとつ見つけた。八月十九日、と記されたそこから名前まで指を滑らせる。太田美奈子。ボールペンで書かれているのに薄く、弱々しい筆跡だった。たぶん、狼の龍を紹介されていた女だ。客の名前と顔をいちいち照らし合わせているわけではないからはっきりとは言えないけれど、そろそろ返却期限になる女の客と言えばあいつしか思い浮かばなかった。
契約書を書かせるときのためにいつでもおいてあるペン立てから適当に一つ抜き取り、メモに女の名前を控えた。あの女は社会人だったから、返しに来るとしたらきっと夜だ。私が対応することはないかもしれない。ショウケースの上にハンカチを広げて、化粧が崩れないようにそっと頬を付けた。体の力が抜ける。眠たい。今にも寝てしまいそうだ。ここにいると、変に気が抜ける。ふと、また悠のことばを思い出した。お前にとってのきれいってなに。私にとってのきれいってなんだろう。答えは出ている。でも、ひとりのときに考えていると、その答えがゆがんでいく感じがする。
私は立ち上がってゆるく首を振った。いつ客がくるかわからない状態で、みっともない寝顔をさらすわけにはいかない。麦茶でも飲もうと台所に入ったところで、がらがらがら、と戸が開いた音が聞こえた。中のようすを見るために小さく開けたのではなく、一気に戸を開ききった音だった。間違いなく初めての客じゃない。踵を返して入り口を見ると、前に狼の龍を二匹飲み込んで帰っていった女が後ろでに戸を閉めていた。女の胸にもやは跡形もない。こいつの見た目は悪くない。服のセンスだってそうだ。でもきれいだとは思わなかった。龍を借りてきれいになったやつは汚い。作り物でしかない。きれいの定義がぼやけたとしても、私のなかの汚いははっきりしてる。
女は私のすがたを見ると、にこっと笑った。私も微笑み返す。夏休みに入るまえ、初めてここを訪ねてきたときとは比べ物にならないほどに機嫌がいい。気味が悪かった。
「いらっしゃいませ」
「太田です。返却に参りました」
私の予想は当たっていた。太田美奈子は口に笑みを引いたままうっとりと目を細め、薄い腹をさする。そこには化け物がいるだけなのに、わが子が宿っているかのようにいとおしそうに腹部を見ている。重傷だ、と思った。龍にのめり込んでいる。依存しそうだ。したところで、私にはあまり関係がないけれど。
「店主を呼んでまいりますので、こちらへかけてお待ちください」
決まった文句を口にして、麦茶を用意し、悠を呼びに行く。悠はいつも通り仏間に寝転んでいた。いつもそばにいる龍が悠の腕に体を絡めて、じっと見つめあっている。まるで恋人のようだった。悠は龍に関してほんとに気持ち悪い。私に気が付いた悠が首をかしげる。
「お客さん来た?」
「太田美奈子が返しに来た」
「お、そっか。よかったよかった」
「でも」
「ん?」
悠は龍を首に移動させて立ち上がる。言葉を切った私を見てぱちぱちと目を瞬いた。私も自分で少し驚いた。なんで太田美奈子の状態を言おうとしたんだろう。わざわざ報告しなくったって見たらわかることだし、問題もないのに。悠はいつもみたいにゆったりと羽織を着ていた。いつだって、どんなに時間がかかっても悠は焦れずに他人の言葉を待つやつだ。急かしたりしないし、つまらないことだったとしてもしっかりと話を聞いてこいつなりに返してくる。そういうところが、客に自分の話をさせるのかもしれない。私が黙っていたらいつまでもこのままだ。けれど取り消すのはなんだかみっともない気がしたから、太田美奈子について言うことにした。
「あの女、すごい依存してる。めんどくさそう。下手したら延滞者になるかも」
悠は悩みなんてひとつもなさそうな馬鹿っぽい笑いかたをした。首に巻き付いた龍を優しい手つきで撫でる。
「大丈夫だよ。こいつらのことはみんなすぐに忘れてしまう、知ってるだろ?」
「そうだけど」
「もう一度彼女がここにきたときは、それは彼女がこの子たちの力を必要としたからだ。延滞したら、彼女がそれを望んだってことさ」
節度を守って利用してくれるのが一番だけどな。笑顔のままそう言い切る悠はきっと冷めた人間なんだろう。延滞して返しに来なかった客がどうなるかわかっているのに、それでもあっけらかんとしている。化け物のそばにいすぎておかしくなっているのかもしれない。
龍は依存性の低い麻薬みたいなものだ。魔がさして体内にとどめ過ぎたら終わり。懇切丁寧にそれを説明されても、龍を利用したり延滞したりするのはそいつらが弱いからだ。不安が続くのが怖い。龍を手放してそれが戻ってくるのが怖い。ここにくる人間は弱くて醜いやつばっかりだ。
悠は太田美奈子と対面すると、借りたあとの調子を訊ね、契約書の控えを受け取ってから龍を取り出す作業に入った。作業と言っても簡単なものだ。客の前に水の入った大きなたらいを用意して、客の背中をさすりながら龍に「出ておいで」と言葉をかける。すると龍は客の口から出てくる。
太田美奈子が小さく呻いた。悠が口を抑えかけた女の手を止めて、たらいに顔を近づけるように言う。太田美奈子はたらいを抱え、涙目で口を開けた。口から唾液といっしょにぬるりと龍が出てきて、そのまま水の中に身を沈める。瓶に入っていたときよりも二回りくらい大きい。二匹目も同じように身を出して、二匹でたらいのなかをすいすいと泳いでいる。何回も見た光景だけど、どうしようもなく気持ち悪い。これが体に入っていたんだとまざまざと見せつけられているのに、太田美奈子は肩で息をしながら二匹を見てうっとりと目を細めた。こいつ本当に重症かもしれない。顔をしかめる客もいるのに。こういうところを見ると、やっぱり龍を借りて得たきれいは作り物だと思う。作り物のきれいは気持ち悪い。しょせん偽物だ。本当のきれいは、夏生や、真紀や、私みたいなことを言うんだ。そのなかに悠も入れてやってもいい。
太田美奈子は龍二匹と私たちに笑顔でありがとう、と言って、十万を払って少し名残惜しそうに帰っていった。OLの給料じゃ生活が破たんしそうだけど、あの女はそれを不安になんて思わない。龍を借りるっていうのはそういうことだ。不安と感じる感情が少しずつ戻ってから、一度逃げたものとどう向き合うのかは太田美奈子自身にかかっている。耐えきれなかったらまたここにくる。そうすると店が儲かる。それだけだ。
私は金額を数えてレジに入れる。悠はたらいを抱えて、龍を洗いに風呂場へ行く。
6
どれだけ帰りたくなくても、やっぱり家には帰らなきゃいけない。夏生の家で洗濯できるわけではないし、私服や制服を置いとくのにも限度がある。私にとって家はでっかいクローゼットで、ただで洗濯できるコインランドリーみたいな存在だった。
玄関を開けてまず耳を澄ます。物音は聞こえない。そっと鍵を閉めた。あいつらに夏休みなんてないから、平日の午前中に家にいることはないのはわかっていたけど、それでも確認は大切だ。ぴかぴかに磨かれた革靴と赤いパンプスが靴箱に踵を向けて並べられている。持ってきておいたビニール袋にサンダルを突っ込んで、並べてあるスリッパを履かずにまっすぐ洗面所に向かった。
ボストンバッグに詰め込んだ衣類を分けながらふたつの洗濯機に入れる。衣類の量を計算させて、洗剤と柔軟剤をいれてふたを閉じる。洗濯から乾燥までのスピードコースに設定して、二台ともちゃんと回っているのを確認してから二階の自分の部屋に入った。リビングで待っているほうが早く動けるけれど、万が一どちらかが帰ってきたときを考えると、部屋にいるほうが安全だ。あいつらと鉢合わせるのだけは嫌だった。
部屋はほこりっぽかった。換気扇はついてないし、カーテンは閉まったまま、まえに帰ってきたときからものはひとつも動いていない。うちの母親は帰ってこない娘の部屋を甲斐甲斐しく掃除するような女じゃない。部屋を覗くことだってしないだろう。
ボストンバッグと靴を床に放りなげ、ベッドに寝転んでスマホを見た。7月20日水曜日、11:20。下から上に画面をスワイプして、時計ツールを呼び出した。三時間後くらいには乾燥まで終わっているはず。アラームを14:00にセットして耳元に置いた。その時間ならきっと誰も帰ってこない。大丈夫だ。
甲高い音で目が覚めた。ガラスが割れるような音だ。目を開けると部屋は薄暗くて、カーテンのすきまから橙色に輝く丸いものが見えた。夕方? ここはどこだ。
何回かまばたきをして、自分がいまどこにいるのか認識するまえに、下から女と男のわめき声が聞こえた。昔から嫌というほど聞かされた声音、バカでかい声量、汚い言葉だ。痛いくらいに頭が急激に冷めていく。そばにあったスマホをひっつかんで時計を見る。17:47、そのしたにはちゃんとアラームとスヌーズが作用したという通知があった。最悪だ。
かばんと靴とをつかみ、できるだけ音を立てないように、でも急いで部屋の扉を開けた。あいつらがいるのはいつも通りリビングらしい。今度はものが壁にぶつかる音がした。醜い声は止まない。こっちまでわめき散らしたくなるような耳障りなことばだ。ばかばかしいし、どうしようもなくイライラする。あいつらも、いまの自分が一番不幸だと思っている。
ふたりがヒートアップしているあいだに静かに階段を下りて洗面所に入った。すっかり作業を終えている洗濯機のなかから服を取り出してかばんに詰める。冷えた衣類はみんなしわになっていたけれど、それはアイロンをかければきれいになる。今は一刻も早く外に出ないといけない。
やっと服を詰め終わった。まだ怒鳴り声は響いている。このままならばれない。つま先を使って玄関まで歩いて、サンダルを袋から取り出したとき、声が近くなった。父親の声だった。
「おまえとは話にならない。もういい」
ドアノブをひねる音がする。早く早く早く。手に持っていたサンダルを地面に投げた。なおもうるさかった母親の声も止んだ。転がったサンダルを足で転がしながら玄関扉に手をかける。鍵は閉まってない。一瞬の静寂のあと、こちらへ踏み出した足音がした。早く!!
むわりとした熱気が肌を撫でる。夕陽がまっすぐに私を照らした。何かが手に触れて、とっさにかばんを振り回した。手をおさえて顔をしかめた父親が、その奥にいる母親が、たった一瞬だったのに妙にはっきりと見える。サンダルがはけているかも確認せずにそのまま走った。
「っ待ちなさい、玲奈!」
ひさしぶりにみた両親の胸には、店に来たおっさんやサラリーマンよりも大きなもやが、さらに広がっていた。
7
中学一年のはじめのほうの記憶がはっきりしない。記憶が薄れているというよりはそこだけ虫に食べられた葉っぱみたいにところどころが綺麗になくなっている。私が記憶を頼りに話せるのは二学期が始まるぐらいからだ。
私が黒いもやを見るようになったのはたしかそのころだ。夏の終わりだった。はじめて見た、親の胸に巣食う黒いもやは汚くて気持ち悪かったけれど、騒ぎ立てたり病院に行ったりすることはなかった。そのときにはもう私は悠と出会っていて、不安を食べる龍やもやの話をよく聞いていたから。もぞもぞと両親の胸を染めるもやをみて、悪寒がはしるのと同時にはやく悠に知らせなければと思った。当時よく遊びに行っていた彼の家にいくと、悠はまるで私が来るのを知っていたかのように玄関で待っていた。悠はなだめるように私の頭を撫で、自分の職業を説明し、私に店番をやるように頼んだ。
そのころから、私は四年ここのバイトを続けている。それだけやっていたら期限を守らない客は嫌でも見るし、龍を返しに来なかったあとどうなるかというのもわかってしまう。
重役のおっさんと連絡が取れなくなってもう十日を過ぎた。悠は相手に着信拒否をされても番号を変えて連絡を入れ、ときどき家を訪ねているみたいだ。それでも接触できない。悠はめげずに催促を続けているけれど、私は手遅れだと思う。最初の期限もあわせて一か月弱も龍を飼っているのだ。そろそろ駄目になっていたっておかしくない。
今日はだれも来なかった。来たのは近所にあるらしい水屋だけだ。瓶に入っている龍の水はそこから買っている。世界中にあるいろんな水を保管している店らしいけれど、私は行ったことがない。というかこの店の外がどうなっているかを知らない。いつも悠の家から店に入るし、そっちのほうが学校にも近いから店から外に出る必要がなかった。
バイトの時間が終わった。店の掃除を簡単に済ませて仏間へ行くと、悠はいなかった。代わりに、思い思いに過ごしていた龍たちの目が一斉に私をとらえる。クジラの顔、サメの顔、カメの顔、ワニの顔、イヌ、ネコ、クマ、いろんな顔を持つ龍たちが同じ角と胴体と、それぞれ特異な色をもって存在している。ここにいるやつらは店に並んでいるのとは違って大きいから、よけいに気味が悪い。
「お、もうそんな時間か」
ぺたぺたと足を鳴らしながら風呂場のある方向から悠が歩いてきた。肩にタオルをかけている。首にはいつもの龍が巻き付いて、腕にはトカゲの顔をした龍がじゃれていた。おっさんに貸していた龍だ。十五センチていどの体がオコジョくらいまで大きくなっている。たてがみがほんのり湿っていた。やっぱり駄目だったらしい。
「帰ってきたんだ」
「いまさっきだよ。これ、レジに入れといて」
悠がスキニーのポケットから万札を何枚か渡してきた。おっさんのものだろう。悠は大きなあくびをしながら仏間に行った。
客が龍を返しに来なかったとき、龍は勝手に契約書と金をもって帰ってくる。まるで自分の成長した体とくわえた獲物を見せつけに行くようにまっさきに悠のもとへ行く。そして客はたいてい行方不明になる。龍が食べるのは不安だけじゃない。やつらの餌は人間の感情だ。契約期間の二週間は悠の言いつけを守って不安ばかりを食べるけれど、それを過ぎると我慢が効かなくなる。これまで比べ物にならないスピードで感情を食べつくして、客はなにも感じず考えられない廃人になる。期限を三日過ぎて返しに来た客が昔いたけれど、そいつはずっと呆けていてまるで会話にならなかった。
そのあとのことは私も悠もわからない。どうやって客から出てきたのか、契約書と金を探してきたのか、なぜ客は行方不明になるのか。ただ確かなのは、帰ってきた龍の体が水浴びをしたあとのように濡れていることと、行方不明になった客はどんなに深く捜索されても見つからないこと、捜査線上に悠や私の名前が上がらないことだ。
お金をレジに入れて戻ってくると、悠が仏壇の前でトカゲ頭にドライヤーをかけていた。龍は目をつぶって心地よさそうに温風を浴びる。悠は龍をいとおしそうに見つめていた。仏壇にはまた線香が上がっていた。
私はこの仏壇が誰を供養しているのか知らない。写真立てはあるけれどなかには誰も写ってない風景があるだけで、顔はおろか性別や年代すらわからなかった。悠は毎日線香をあげ、手を合わせている。拝んでないのに仏壇の前に座っているときもある。だからといって感傷にふけっているようすではなくて、悠はいつもただただそこにいるだけだった。気にならないわけじゃない。でも、なんとなく聞くのをためらっていた。
「あんたと初めて会ったのっていつだっけ」
ずっと考えていた疑問とは別の、たいして気になってもいない言葉が口を出た。なんでこんなこと言ったんだろう。自分にあきれたけれど、言葉を取り消すのはなんだか癪に触った。だらしなく寝転んでいた悠は顎をあげて私を見て、目を細めて、ゆるりと口端をあげた。
「おまえがはじめてここに来たのは中学一年生のときだよ」
覚えていないだろうけど。そういった悠の顔は変わらずに笑みをかたどっていた。私が当時のことを忘れているのが当然という口ぶりだ。たしかに覚えてないけど、なんでそんなに自信満々に言えるんだろう? こめかみが一瞬つきりと針で刺されたみたいに鋭く痛んだ。
8
「別れたい」
「……は? なんで?」
「お前といると疲れる。俺が浮気したとかでいいから別れてくれ」
「意味わかんないんだけど。疲れるってなに? っていうかなんで私が浮気されなきゃなんないの? そんなのダサいじゃん」
「そういうところが疲れるんだよ」
「そういうところって」
「ダサいとかかっこ悪いとか汚いとか。おまえほんと外側だけだよな」
「は? 外側よくするのの何が悪いの」
「それだけなのが駄目なんだって。半年でよくわかったよ、お前、俺を使っただろ」
「俺を教室まで迎えに来させるのも、帰るときに腕組むのも、デカい声で泊りの約束取り付けるのも、全部見せつけたいからだろ。彼氏に愛されてる自分を見てもらいたかったんだろ? いっつも周りばっかり見てさ」
「さすがにもう付き合ってやれない。俺はお前の道具じゃない」
「なんなの、えらそうに! 私だってあんたのつまんない話聞いてやってたじゃん!」
「お前自分の話ばっかりだっただろ。そうやってすぐ他人のこと見下すの、やめたほうがいいよ」
「っなにも知らないのにそんなこと言わないで!」
「相手のこと考えようともしないくせに自分だけわかってもらえるとでも思ってんの? もう高校生なんだからいい加減気付けよ。不幸気取んな」
「どんだけ美人でも、おしゃれでも、見た目だけじゃダメなんだよ」
「俺が今まで見てきたなかで、お前がいちばん汚いよ」
「私は汚くなんかない、不幸気取ってなんかない! 一緒にすんな!」
「お前の好きなように話作っていいから、もう俺に関わらないでくれ」
「……私は、私は!」
9
夏生と別れてから、まわりの目が変わった気がする。いや、確実に変わっている。教室に入るとき、下校するとき、夏生が教室の前を通ったとき、クラスのやつらが私をじろりと見る。睨むように堂々と視線をよこすやつもいるし、こっそり横目で見てくるやつもいる。ばれていないつもりか知らないけど、そんなの顔の向きですぐわかる。気になるのなら直接聞いてくればいいのに、こそこそと話しているのがうっとうしい。全然落ち込んでないね、なんで別れたんだろ、どっちから、どうせ振られたんでしょ、夏生くん振るとかありえない。聞こえてないとでも思っているのだろうか。私に落ち込んでほしいの? 別れたくらいで気落ちなんてそんなダサいことするわけがない。
いつも同じように接してくれるのは真紀だけだ。中学三年間は違う学校に通っていて、また高校で同じところに行くことになっても、真紀の態度は何一つ変わらなかった。いつも私の欲しい反応をくれる。ちゃんと私の話を聞いている。覚えている。夏生との関係だって変に避けたりせずにちゃんと訊いてきた。だから存分にあいつがなんていったか聞かせる。
「ほんとむかつく。なにが見た目ばっかりなんだよ。あいつも顔が良いだけのくせに。話術もないし、気の利いたこととかできないし」
「確かに中村くんはきれいな顔してるよね」
真紀はカフェオレの入ったグラスをふたつもって眉を下げた。ひとつ受け取って口をつける。牛乳は多めでシロップは入っていない、私が好きな味だった。真紀は家に遊びに行くと、いつもこのカフェオレを入れてくれる。一気に半分くらい飲みすすめて、そっと机に置く。真紀は私の目の前に腰を下ろして首を傾げた。
「でもさ、中村くんはすごく優しいひとだと思うよ」
「は? ……なに真紀、あいつの味方するの?」
「味方とか、そういうわけじゃないけど」
真紀はへにゃっと笑ってやんわり否定する。私と意見が逆っていうのはそういうことじゃないの? 私が悪いって、そういってるんじゃないの。今までにはなかったことにイラッとした。これまで私の話に口出ししてこなかったのに、なんでそんなことを言い出すのかわからない。
私がどう思っているかを気付いているだろうに、真紀は続ける。私はコップに指を這わせる。
「はたから見てても、中村くんはいつも玲奈優先だったよ。友達の約束を蹴ってまで玲奈と一緒にいたり、バイトの時間を玲奈に合わせたりしてくれてたし」
「そんなの、彼氏なんだから当然でしょ」
「ほんとにそう思ってるの?」
持ち上げようとしたコップが妙に重い。顔をあげると真紀が笑みを収めて私を睨むように見ていた。教室で遠巻きから送られていた視線が、目の前で私を鋭く貫いていた。
「他人のために時間を割くのがどれくらいむずかしいことなのか、玲奈はよく知ってるでしょ」
真紀まで、そんな目で私を見るの。
「なんなの? 説教でも始めるつもりかよ」
「玲奈」
体が震えた。こんなに強いことをいう人間じゃなかったのに。知った風な口をたたくひとじゃなかったのに。むかつく。
「ひとを見た目だけで判断したら駄目だよ」
真紀の顔が夏生の顔と重なって見えた。夏生も、こんな顔をしていた。私を強く咎める顔。私が悪いと決めつける顔だ。夏生に振られたときの気持ちがふつふつとよみがえってくる。
「昔はそうじゃなかったよね? ちょっと周りの目は気にしてたけど、今みたいにぐちぐちひとの悪口言ったり、見下したりしてなかった。ちゃんと相手のことを見てたよ。私がいないあいだに何かあったの?」
私はべつに見た目だけで判断しているわけじゃない。もやが、汚いやつがわかるんだ。話さなくても、見ただけでわかる。だれが私の親みたいになるのかが見えるんだよ。不安は感情のひとつなんだから中身でしょ。真紀は私が毎日何を見ているか知らないからそんなことが言えるんだ。
「なんにも知らないくせに……」
「玲奈」
「なんにも知らないくせに!」
「言ってくれないとわからないよ」
わかってよ。わかるでしょ。いま私がどう思っているか。どれだけあんたの言葉がいやなのかくらいわかるでしょ、友達なんだから。なんでそんなこと言うの。なんで私の話を聞いてくれないの。なんで否定するの。昔じゃなくて、いまの私を見てよ。
「いま、玲奈がなにに怖がっているのか、教えてくれないとわかんないよ」
「私が? 怖がってる?」
「そうだよ」
玲奈は、ずっと、おびえてるよ。真紀はゆっくり、言葉を切って言った。
冗談を言っているのかと思った。そんな馬鹿な話があるものか。怖いって思うのは不安だからだ。黒いもやを持っているからだ。私の胸にそんなのはない。あるはずがなかった。だって私はダサくない。汚くない。お金もあるし、成績もいいし、体も健康だ。なにも不安に思うことなんてない。
真紀はもうあの目をしていなかった。けれど、いつも話を聞いてくれているときのような笑みも浮かべていなかった。真剣な顔で、まっすぐ私を見ていた。
「玲奈はなにが怖いの?」
真紀の声音はとても柔らかかった。まるで泣きじゃくる子どもに話しかけるみたいな言葉遣いだった。その柔らかさが、じわりと私にのしかかってくる。ゆっくり押しつぶしてくる。息が出来なくなる。
「……もういい」
声はみっともなくかすれていた。もういい。わかってくれない真紀なんていらない。押し付けてくる真紀なんて真紀じゃない。これ以上話したくない。
近くにあったかばんを手繰り寄せた。ふらつきそうになる足に力を入れて立ち上がる。真紀が名前を呼んできたけれど、睨んで黙らせた。真紀はきゅっと眉を寄せて机の上にこぶしを作る。なんでお前が傷ついた顔をするんだよ。むかつく。
「玲奈」
「もう話しかけてこないで」
そのまま歩いて家を出た。走ってなんかやるもんか。私が逃げたみたいじゃないか。真紀は追ってこなかったけれど、何が怖いの、と押し付けてきたときのまっすぐな視線がいつまでも頭について回った。私に怖いものなんてない。当然だ。
新しく泊まるところを見つけないといけない。震える手にイライラしながらスマホを取り出す。ラインを開いて、スクロールして、なにもせずに電源を切った。悠の家に行こう。なにもわかってくれない友達なんかよりも、あの線香のにおいのほうがよっぽどましだ。
10
私が目を覚ましたとき、悠はたいてい起きている。身支度をすませて台所に行くともう朝ごはんは出来上がっていて、悠は体に巻き付いた龍を撫でながら挨拶をしてくる。私は悠の向かいの椅子に座って、用意された朝ごはんを食べて、食器を片付ける。時間が来たら学校に行く。悠は私が出る時間になってやっとご飯を食べ終わる。
初めてその光景をみたとき、正直驚いた。こいつもご飯食べるんだ。そんなあたりまえのことを思った。私はずっと悠が人間らしい生活をしているところが想像できなかったから、悠が台所に立っているすがたさえ不思議に見えた。きっとこの不気味な商売のせいだ。バイト中に見る悠は、いつだって龍と戯れていたから。
連絡も入れずに押しかけたのに、悠はなにも訊いてこなかった。いらっしゃい、とゆっくり出迎えられて、しばらく泊めろと言ったら空き部屋に案内された。ただ泊まるっていうのはフェアじゃないと思ったから、毎日できるかぎりの料理と店番をやると言ったらまかせると頷いた。あたらしく入る分のバイト代は家賃にすること、洗濯をさせてほしいこと。悠は私の出した条件を否定しなかった。悠からなにか言ってくることはなかった。クラスのやつらみたいな目も、夏生や真紀みたいな顔もせずに、ただいつもどおりのゆったりした声で、表情で「わかった」と言った。
私が来たって悠はいつもどおりだ。本を読みながら龍と戯れて、せんべいを食べながら龍と遊んで、仏壇に手を合わせながら龍に触れる。龍も、私をじろりと見るだけでなにもしない。教室とは違う。家とも違う。私が増えても、ここの時間はかわらずゆっくりしている。
学校から帰ると、慣れた線香のにおいがした。お鈴の音が聞こえる。部屋に荷物を置いて私服に着替える。仏間をのぞくと、悠が仏壇に手を合わせていた。いつもと同じような真っ黒い服をきたからだ、セットをしているようには見えない髪、首にはいつもの龍が巻き付いている。悠は姿勢がいい。だからただ正座しているだけでも様になっているように見える。閉じていたまぶたが持ち上がって、ゆったりと首がひねられた。
「ああ、おかえり」
「……ただいま」
返事をする必要はなかった。無視したって悠は何も言わない。でも、飽きずに毎日いってくるものだから、私も返事をするようになった。家でもこんなことはしなかった。妙な気分だった。
「今日の客は?」
「返しに来るひとが一人。あとはお米が届く」
「ふーん」
「今日もよろしくな」
「わかってるよ」
相変わらずじろりとこっちを見てくる龍を睨んでから店に向かう。毎日見ていたらいいかげんその視線にも慣れてきて、鬱陶しくはあるけれど前ほどの嫌悪感は抱かなくなった。悠みたいにかわいがる気にはなれないけど。
土間でサンダルを履いて店に続く扉を開ける。夏よりもさらに冷えた空気が体を撫でた。ショーケースの前に座って、いつものファイルを手に取って返しに来る客の名前を確認する。今日来る予定なのは酒井和寿、四十七歳男。借りたのはネコの顔をした龍らしい。記憶にないから、私がここに泊まり始めるまえで、バイトが入ってないときに来た客なんだろう。ファイルを戻して頬杖をつく。店には時計の音だけが響いている。
今日の店番も変わり映えしなかった。十七時ごろに米を届けに業者が来て、一時間あとに酒井和寿が顔を見せた。初対面でもわかるくらいに憑き物が落ちたというような表情で椅子に座って、私が出した麦茶をためらいなく飲んだ。たらいを持ってきた悠に促されながら龍を吐き出して、飲み込んだときよりも大きくなった商品に少し引いていた。契約書の写しと封筒に入ったお金を悠に渡して、明るい顔で店を出て行った。金額は二十五万だった。歳も歳だしかなり稼いでいるらしい。私はそれをレジに入れて、悠と店番を交代する。晩ご飯を作って悠を呼ぶ。悠はゆっくり仏間に戻り、羽織を脱いで台所にくる。私はそのあいだにテーブルを拭いたりコップにお茶を入れたりして、食べる準備を整える。
「いただきます」
仏壇を前にしているときのように静かに手を合わせた悠がスプーンを手に取った。今日はオムライスを作った。そんなに手の込んだものは作れないけど、味は不味くないはずだ。悠は私が用意したものに文句を言ったことがなかった。料理を口に入れて、時間をかけて咀嚼して、飲み込んだ後においしいと言う。私はそう、と返事をしてご飯を食べ始める。
食事のときに会話はない。わざわざしゃべる内容もないから必要がなかった。食器がぶつかる音と、自分の噛んだり飲み込んだりする音だけが、私たちの発する音だった。学校のようなにぎやかさとは違う、家のひとりだけのものとも違う時間は嫌いじゃない。ご飯を食べているときは、唯一線香のにおいがかき消される。
私が三分の二を食べ終えたころ、悠はまだ半分に行くか行かないかくらいの進み具合だった。悠はお世辞を言うようなタイプじゃないし、食べる手が止まっているわけでもないからそれなりに口には合っているんだろう。悠はオムライスにスプーンを差し込んで、一口ぶんをすくった。切れていなかった卵が皿に落ちた。チキンライスだけが乗ったスプーンが悠の口に入っていく。私はそれを、じっと見ていた。だから、悠の喉が上下したあと、まっすぐに私を見たのもすぐに気が付いた。
「玲奈」
「なに?」
悠の口元には、いつもの笑みが浮かんでいた。
「なにがきれいなのか、わかった?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。私がすぐに言葉を返せなくても、悠は私をじっとわたしを見たままだった。食べ終わるまで止まったことのなかった手が、スプーンを持ったまま机に置かれていた。
「もやを持ってないひとはきれい」
容姿が整っていたらなおいい。そう答えると、悠は笑みを深めた。
「龍を借りてもやがなくなった人は?」
「汚い」
「もやはなくなったぞ」
「そんなの龍で作った偽物のきれいだよ」
私はオムライスにスプーンを突き刺した。いままでの、龍を返しに来た客の顔が頭をよぎる。すっきりした顔で、明るい調子で、ありがとうなんて言って店を出ていく客。あんなのは作り物でしかない。龍を借りなければ安心できないような人間はきれいとは程遠い。
「じゃあ、もうちょっと細かく見ていこうか」
オムライスを食べた私が飲み込むのを待って、悠はこてんと首を傾げた。
「他人に助けを求めることは?」
「汚い」
「悪口は?」
「汚い」
「見た目だけで判断する人は?」
「汚い」
「相手を見下すのは?」
「汚い」
「怯えてる人は?」
「汚い」
「すぐに怒鳴るのは?」
「汚い」
「いやなことから逃げるのは?」
「汚い」
だんだん苛立ってきて、私はお皿に残ったオムライスを早めに口に運んだ。悠は口のなかがなくなるのを見計らって質問してくるから、すぐに減ることはなかった。それでもいつもよりは速いペースであと一口というところまで食べ終える。何の根拠もないのに、私が食事を終えるのがこの会話の切れ目だと思った。
悠の皿は減っていない。悠は龍を愛でることすらせずに、私に言葉を投げつけてくる。さっさと食べればいいのに。そうしたら、こうやってわけもわからないことを訊かれることもないのに。
「お前のことを悪く言う人は?」
「汚い」
「お前のことをわかってくれないひとは?」
「汚い!」
「そのひとたちが、初めからもやを抱えてなかったら?」
答えられなかった。最後の一口を口に入れることもできなかった。台所は一気に静かになる。悠の腕に巻き付いた龍がじっと私を見ている。玉ねぎや肉の焼けたにおいを押しのけて、線香のにおいが鼻をかすめる。私はむりやりスプーンを口に突っ込んだ。それなのに、悠は飲み込むのを待たずに言葉を重ねた。
「その場合、もやを抱えていない相手と、そのひとに悪く言われる玲奈は、どっちがきれいで汚いんだろうな」
私はまだ粒の残ったチキンライスを飲み込んだ。残った麦茶で胃に流して、席を立った。
11
悠の言葉はしばらく私のなかで暴れていたけれど、悠はけろりとしたままだった。私に答えを求めることもなければ、同じ話題を蒸し返したりもしない。いつもどおり、ご飯を食べて、客の相手をして、龍と遊んで、風呂に入って仏間で寝る。なにも変わらない。きっと、たいして考えもせずに質問したんだろう。そうじゃなければ、あんな、見てきたかのようなことを訊いてくるわけがない。こうやってずっと気にしているのも、私らしくない。汚い。
やっと苛立ちがどこかに消えたころだった。悠の家に泊まり始めてから三週間がたった夜、突然悠が言った。
「そろそろ一回家に帰れよ」
いまなんて? そう聞き返すことすらできなかった。仏壇で手を合わせていた悠が体ごとゆっくりと振り返る。悠は真紀や夏生みたいな目をしていなかった。まじめな顔もしていなかった。いつものように、客に見せるのとは違う笑みを浮かべていた。
「は? 冗談でしょ」
「冗談じゃない。今までだってちょくちょく帰ってただろ。それといっしょだよ」
「それは洗濯のためだし」
悠の家で洗濯をしている今、私が家に帰る理由なんてなかった。秋服は少しまえに取りに行ったし、あとは冬になるまで帰る必要はない。
なのに悠は、じっと私を見ている。それだけで、今の言葉を取り消すつもりがないのが分かった。帰りたくない。今帰ったら、あいつらがいる。私は悠の肩をつかんだ。龍がじろりと私をみる。
「ねえ、お願い。明日、あしたちゃんと帰るから今日は」
「だめ。いまから帰らないと意味がないよ」
意味ってなに。もともと帰ったって意味はないのに、なんでそんなこというの。掴んだ肩を握りしめると、悠は私の手をそっと掴んだ。悠の手は、氷でも触っているみたいに冷たかった。思わず振り払う。
「いや。帰りたくない」
「明日は戻ってきていいから、今日はちゃんと帰りなさい」
今まで聞いたことのないような大人の口調だった。優しい声だった。柔らかい重みを感じる。ずしりとのしかかってくる。
座ったままでいると、悠は細い体には見合わないくらいの強い力で私を無理やり立たせた。財布と携帯を私のズボンに突っ込むと、肩をもってゆっくりと玄関まで誘導する。抵抗しようと足を踏ん張っても、悠の体は岩を相手にしているみたいにびくともしなかった。足を踏んづけてやっても、痛そうなそぶりすら見せない。ぎり、と奥歯が鳴った。
「悠も私を追い出すのかよ」
「俺はここにいるから。お前が帰ってくるのを待ってるから、な」
玄関にいくつも並んだ私の靴のなかから、悠は迷いのない手でサンダルを選んだ。今着ている服に合った、オレンジのサンダルだ。丁寧な手つきで履かされる。悠は私の背中に腕を回したまま玄関を開けると、私といっしょに外に出た。軽く背中を押される。
「ほら、行っておいで」
「嫌だ」
「玲奈」
いつも通りの柔らかい声がまた柔らかい重みをもって私ののどを締め付けた。悠の腕から離れた背中が寒い。すぐにでも悠に背中を押し付けてもたれたかったけれど、できない。それは、悠にすがるってことだ。汚くてダサい、弱いやつのすることだ。
「おまえなんか大っ嫌いだ」
憎しみをこめてそういうと、悠は楽しそうに笑った。悠の胸はきれいだった。
一歩足を踏み出すたびに大嫌いなあの家へ近付く。あいつらの声がここまで聞こえてくるようだった。悠と私の家はそんなに遠くない。近いといってもいいぐらいだ。もう目と鼻のさきにある家に足が重くなる。でも、行かないわけにはいかない。悠の家を追い出されてしまった以上、あそこ以外に行く場所がない。このままこのあたりをうろついて、補導なんてダサいことをされるのはどうしても嫌だ。着替えを持たされないだけよかった。帰ってきていいと言った悠の言葉が嘘じゃないのがわかる。
門扉に手をかけた。さび付いた蝶番が耳に痛い音を立てる。私が帰ってきたことに気付かせなければいい。こそっと家に入って、寝て、あいつらが仕事に行くころに悠の家に帰ればいい。普段じゃありえないくらいにゆっくり歩いて、なるべく音を立てないように玄関を開けてこっそり体を滑りこませた。
黒いもやを上半身いっぱいに抱えた汚い化け物がそこにいた。
「っ」
「……玲奈?」
母親だった。体が反射的に外に出ようとする。閉じ切っていない玄関を背中で押し開けようとしたところで、母に両肩をつかまれた。強い力だった。痛い。顔がゆがむ。
「こんな遅い時間に、どこをほっつき歩いていたの!」
まるで、心配しているような口ぶりだった。思わず顔をあげると、もやのせいで見えにくかった表情がいくぶんかわかりやすくなっていた。ひさしぶりに見た母の顔は、かなりやつれていた。
「ぜんぜん顔を見せずに……学校には行ってるみたいだけど」
まるで、子どもを心配する親のような言葉だ。息が詰まる。
私のことなんて、全く興味がないと思っていた。仕事ばっかりで、毎日文句ばかり言って、父親と喧嘩して、ただそれだけのひとだと思っていた。もしかして、私のことを考えてくれていたのだろうか。この馬鹿みたいに大きいもやも、私が家にいなかったから? そんな考えがちらついた。なにも言えないでいると、母の顔が鬼のように醜くゆがんだ。
「こんな時間に家に帰ってきて! ご近所さんに見られていたらどうするの?!」
「うちの評判が悪くなるでしょう?! 成績も悪くないし、そのあたり気を使ってるみたいだから放っておいたのに……まさかこんなことするなんて! 家に入ったところをだれにも見られていないでしょうね? もう、明日なにか言われたら……あぁっ!」
気が付けば母親は玄関に座り込んでいた。私が押したらしい。化け物でもみるような目で見てくる母親に目の前が白くなった。
「ばけものはお前だ!」
階段を駆け上った。自分の部屋に入って鍵を閉める。また怒鳴り声が聞こえて、布団の中にもぐりこんだ。すこしでも期待した私がばかだった。ああいうひとだってわかっていたはずなのに。
気が付いたら朝になっていた。見えた腕がお気に入りのブラウスに包まれて、しかもしわが入っている。着替えるのを忘れていた。最悪。体を起こして、自分がいまいる場所と昨日のことを思い出した。この家で朝を迎えたのは久しぶりだ。気分が悪い。
部屋の時計は七時を回っていた。悠の家に戻って学校の支度をする時間は十分にある。学校を休むなんてありえない。クラスには真紀がいるのだ。いま私が休んだら、喧嘩したのが苦しくて逃げたみたいになってしまう。
悠はまだ寝ているかもしれないが、どうにかして叩き起こして文句を言ってやる。そうしないと気が済まない。気分が悪いのも、私服のまま寝る羽目になったのも全部悠が私を追い出したせいだ。
布団から抜け出して、机の引き出しから櫛とヘアゴムを取った。髪は絡まってはないけど、寝起きの髪のまま外には出たくない。姿見の前に立って──……息が止まった。
鏡のなかに、私のすがたが写る。つやのある茶髪、細いからだ、整った顔、すべて完璧な私のなかに、ひとつだけ、ありえない黒が、汚い黒がある。あいつにも、あいつにもあった黒が! 胸元、ちょうど心臓のうえあたりにある黒は、もぞもぞと気味が悪くうごめいて広がっていた。見たことのない勢いで、私の胸のうえを、腹のうえを這う。雨上がりにミミズが道路で体をくねらせているのに似ている。背筋が寒くなった。
「やだ……やだ! 消えろ、消えろ!」
抉りとってやるつもりで、黒い部分を鷲掴みにした。感触は服そのもので、想像していたミミズみたいな触り心地はない。指をさらに潜り込ませようとすると、柔らかいのと同時にちくりと痛みがした。私の胸だ。もやはつかめない。そのまま引きちぎるようにしてひっぱっても、肌がひきつるだけで黒いのはびくともしなかった。何度も、何度も何度も何度も繰り返したって、取れない。ブラウスのボタンが飛んで行っても、カーディガンが伸びても、汚らしい黒は取れるどころか広がりつつあった。
悠のところにいかなければ。はじめて靄を見たときと同じようにそう思った。悠なら、あいつの飼っている龍ならこれを消せる。もとの私に戻してくれる。
財布だけをつかんですぐ家を出た。近くのコンビニに行って口座からお金をたまっているだけ引き出す。最近は買い物も行ってなかったから結構な金額が財布に入った。処理が遅いのにいちいちイライラして、なんどもATMをたたいた。
走って悠の家まで行くと、はじめてもやを見たときと同じように、悠はいつもの服を着て、玄関の前で待っていた。驚いた様子も見せず、こてんと首をかしげてにやっと笑う。
「おはよう玲奈」
私は悠の胸ぐらをつかんだ。財布を悠の胸に押し付けながら強く引き寄せる。
「これだけあれば黒いのなくなる? ねえ、悠! 消えるでしょ、はやく消してよ!」
「金額を決めるのはお前だよ。よーく知ってるだろ」
おまえはいつも見てたんだから。穏やかな声だった。悠のたれ目がゆるりと細まった。悠がいつも、店にきた人に見せる表情だ。骨ばった手が肩に置かれて、とんとん、と二回たたく。ふわりといつもの線香のにおいが漂ってきた。耳元で騒ぎ立てていた心臓がゆっくり静かになっていく。そうだ、私はいつも見ていた。黒いのを抱えた汚い人に、悠がこうやって笑いかけるところ、肩に手を置くところ、そのあと、店のテーブルに座らせて、ゆったりとした足取りで店の戸棚を開けて、商品を出す。そして、それが体の中に入ったとき、客の胸にあった黒はじわじわと小さくなっていく。
悠は私を店まで連れて行って、お客さんの席に座らせて、戸棚にはいかず私がいつも座っているカウンターにしゃがみ込んだ。羽織の袂から鍵を取り出してショウケースを開ける。こんなのは初めてだ。……本当に初めてだろうか。私は前に悠がこうやってしゃがむ姿を、いまと同じ角度で、見たことがなかっただろうか。ぴりり、とこめかみが痛む。
悠は手を伸ばし、さほど迷うことなく一つの瓶を取り出した。青みがかった、コルク栓のされた瓶だ。電灯にあたって、なかでゆったり揺れる龍の鱗がはっきりみえる。
なぜかどきりとした。その瓶と龍に見覚えがある気がする。最近じゃない。ずっと前に、この龍を見た気がする。こうやって、ショウケースから出してもらったような。いや、そんなことはない。初めて見るはずだ。私が店番を始めてから、悠がショウケースを開けたことなんてないんだから。
「玲奈にはとっておきを貸してやろうな」
爪の先で瓶をつついた悠は、そっと瓶のふたを開ける。龍がゆっくりと首をもたげた。体の色は銀色で、顔は少し平べったい。つぶらな目の上に鹿とも牛ともいえない角が生えていて、背中には金色のたてがみが尻尾までつながって、最後は束になっていた。悠が人差し指を突っ込むと、体をくねらせ嬉しそうに巻き付いた。すりすりと顔を手の甲に擦りつけている。
「この子は蛇だ。交じりっ気のない、蛇の龍だよ。蛇は獲物を丸呑みにするんだ。体の形が変わるくらい大きな獲物でも、口を大きく開けて喉を開いて、全部胃に収めてしまう。そしてゆっくり溶かす。早くキレイになりたいおまえにぴったりだろ」
龍の眉間のあたりを悠の指が滑る。たてがみに沿って撫でて、時折毛を乱すように爪を潜り込ませる。どの龍にも言えることだけれど、悠が何をしても龍はうっとりしている。
しばらく龍をかわいがったあと、悠は私をみて、ゆっくりと、噛んで含めるように言った。
「今日から二週間だ。ちゃんと守れよ、十月二十三日の夜は逃げずにここにいるんだ」
耳にタコができるくらいに聞いた台詞だ。わかってる。守らないと体があぶないんでしょ。そんなの言わなくていいから、早くそれを私にちょうだいよ。
悠の指から名残惜し気に離れた龍が、私を見る。つぶらな金の瞳で、細く黒い瞳孔で私を見る。これが体にはいったら、私はきれいになれる。もとの私に、完璧な私になれる。夏生も、真紀も、私のところに戻ってくる! 嬉しさに体が熱くなったとき、ぽたりと冷たい言葉が落ちてきた。お前にとってのきれいってなんなの。一瞬だけ、熱がどこかに消えた。作りもののきれいは汚いんだと、過去の自分の声が言った。腹を抱えて笑ってやりたかった。そんなのどうだっていい。きれいになれさえすれば、それでいい。
口を開けた私の舌に、冷たいものが乗った。氷みたいに冷たくて、すこし塩辛い。それは腹をうねらせながら私の舌の上を進み、のどに届く。柔らかいところをその鼻先でかき分けて、体を無理やりに潜りこませる。いつまでたっても冷たい希望が、自然と上下した食道の動きに合わせて落ちていく。懐かしい感覚だった。
12
いつもいつも聞こえてくる怒鳴り声が苦手だった。努力が足りないのかと、勉強と運動を頑張って、生活態度もよくしたけれど駄目だった。いつも二人は、つまらないことで喧嘩をしていた。わたしは家に帰るのが嫌になった。学校や友達の家で時間をつぶしてから帰ることが多くなった。
夕方家に帰ると、玄関には革靴とヒールが並んでいた。もう、ふたりは家に帰ってきていた。なるべく静かに扉を閉めようとしたら、また怒鳴り声が聞こえた。家庭訪問のことについてだった。二人は、どちらが仕事を休むかでもめていた。わたしのために仕事を休むのがどうしても我慢ならないらしかった。
吐き気がした。
気が付いたら家を飛び出ていた。勘付かれるだとか、そんなのはどうでもよかった。あとから怒られることになってもよかった。どうしてもあの場所から離れたかった。あの声から逃げたかった。
走って走って走って、見覚えのない道に来た。戻ることを考えていなかったのだから当然だった。振りかえっても、ふたりのすがたは見えなかった。いやというほどうるさかった心臓の音が、だんだん静かになっていった。同時に、気味が悪いほど寒くなった。家に帰るのが遅くなりすぎたらいつも怒られた。教育ができていないように周りに見られるのが嫌らしかった。さっきはどうでもいいと思ったのに、いまになって後悔した。それでも、家に帰りたくなかった。
ふと、ひとつの店が気になった。すりガラスの引き戸で、中の明かりがぼんやりと見えた。立て看板に筆の手書きで『不安消します』とあった。いつもなら気にも留めないような地味で不気味な店だった。なのにどうしても気になって、目が離せなくて、わたしは引き戸に手をかけた。
店内の両側には天井に届く棚があった。なかには水だけが入っている瓶が入れられていた。真ん中に丸いテーブルと椅子がふたつあって、その奥にはショウケースがあった。若い男の人と目が合った。その人はにこりと笑った。
「いらっしゃい」
男のひとは一度店の奥に消えると、すぐにお茶の入ったコップをふたつ持って帰ってきた。テーブルの上に置くと、椅子のひとつに腰掛けて手招きした。断る勇気もなくて、わたしはそっと男の人の向かい側に座った。
男の人は藤永悠司さんといった。藤永さんはこのお店に付いて丁寧に説明してくれた。ここでは、ある生き物を使って不安を消してしまうらしい。アニマルセラピーのようなものなのかと思ったけれど、そうではないと否定された。
どうしてここに来たのかを訊かれた。はじめは話したくなかったのに、藤永さんの目を見ていたら、そのゆったりした動きを見ていたら、どうしてか話そうという気になった。なんでもうなずいて、視線を合わせて聞いてくれるものだから、ふたりのことをどう思っているかまで話してしまった。担任にも、親友の真紀にも言ったことがなかった。わたしは初めて、他人に両親が怖いのだと言った。一度言ってしまうと、次から次へと文句が零れ落ちてきた。わたしは言葉にして、あのふたりが嫌いなんだと知った。
藤永さんは嫌な顔一つしなかった。話が終わったあとには、わたしの頭を撫でてくれた。よく頑張ったね、えらいね、いい子だね。すべてがあのふたりには一度も言われたことがない台詞だった。
彼はおもむろに立ち上がると、ショウケースからひとつの瓶を取り出した。水しか入っていない、青みがかった、コルク栓のされた瓶だった。藤永さんはやさしく瓶を撫でると、そっと栓を開け、わたしに指を浸すように言った。言われるがままにすると、指先を何かが撫でた。つるつるとしていた。背筋がぞわりとしたけど、我慢した。指をそのままにしていたら、水の中で不自然に何かがきらめいた。まばたきをすると、たてがみを持った銀色の蛇がそこにいた。
これがきみの不安を消す生き物だ。龍と呼んでいることを教えてもらった。龍は水面から顔を出して、泳ぐみたいに藤永さんのところに行った。あきらかに懐いている様子だった。そして、その龍よりも何倍も大きな龍が、彼の首に巻き付いているのに気が付いた。
藤永さんは言った。これを飲み込めば、わたしの不安は消える。あのふたりを怖いと思うこともなくなる。喧嘩を見て、毎日苦しまなくなる。根拠のない言葉だった。不気味でしかなかった。でもわたしは、龍を借りることにした。どんな方法を使ってでも、あのふたりから逃れたいと思った。
口を開けた。舌に長細いつるつるしたものが乗った。龍は勝手に動いて、わたしの喉をつついた。上あごにたてがみが当たった。肉を分けて龍が奥に入っていった。わたしは喉を上下させた。つるり、と冷たいものが食堂を通っていったのが分かった。
龍を飲んだあと、簡単な契約書を書かされた。名前、住所、電話番号、どんな龍を借りたか。わたしはその写しをもらって、どう行けば家の近くに行けるかを聞いて、店を出た。龍を借りても、自分が変わったようには思えなかった。
家に帰ると、案の定ふたりに怒られた。言いたいことを言いたいだけ言うふたりに身がすくんだ。大嫌いな怒鳴り声だった。ふたりの気が済んだあと、お風呂に入って適当に夕ご飯を作って宿題を終わらせた。布団に入ってもすぐに眠気は来なかった。明日の朝には変わっていると言った藤永さんの言葉を思い出しながらまぶたを閉じた。
朝起きると、いつもよりすっきりしているように感じた。これからふたりと顔を合わせるかもしれないのに、あまり怖くなかった。部屋を出て階段を降りると、仕事に出かけようとしている母と鉢合わせた。母は顔をしかめた。わたしの口からはすんなりとあいさつの言葉が出た。いままではできなかったことだった。
朝ごはんを食べていると、父がリビングに来た。わたしは母のときと同じようにあいさつをした。父はなにも言わなかった。なのに、すこしも気分が重くならなかった。驚いた。睨まれても、怖くなかった。
学校に行った。いつもよりたくさん手をあげられた。いつもよりたくさん友達と話せた。いつもよりたくさん笑えた。いつもより授業が楽しかった。いつもより体が動きやすかった。学校が終わっても、苦しくなかった。気のせいじゃなかった。龍のおかげだった。藤永さんのおかげだった。
誰とも遊ぶ約束をせず、学校に残ることもせず、家に帰った。楽しい気分だった。宿題と予習をして、晩ご飯を作った。いらないと言われてから一度もしたことがなかったのに、今日は作る気分になれた。
はじめに父が帰ってきた。おかえり、と言うと、なにをしているのかと聞かれた。苛立っている声だった。わたしは晩ご飯を作っていることを教えた。いらないと怒鳴られた。わたしはそれでもいいと言った。父は舌打ちをしてリビングを出て行った。
母が帰ってきた。父と同じことを訊かれて、わたしは同じように答えた。母はいらない、そんなの食べられない、不必要なことをするなと言いたいだけ言って部屋を出て行こうとした。家庭訪問はどうするのかと聞くと、お前のために休みなんか取れないと言って強く扉を閉めた。その音がうるさかったのか、父の怒鳴り声が聞こえた。母はのどを嗄らす勢いで言い返していた。元気だなあと思った。
それからずっと、わたしは怖くなかった。いやだった家庭訪問も楽しく過ごせた。結局休みを取った母は、先生のまえだけでにこにこしていた。先生はわたしをたくさん褒めた。わたしもにこにこした。勉強はいつもより楽しかった。クラスメイトと話すのも楽しかった。最近明るいね、と言われて、わたしは全部がうれしいからと答えた。嘘じゃなかった。怖いと思っていたことは、ぜんぶ怖いことじゃなくなった。
龍を返す日が来た。わたしは学校の帰りにお店に寄った。一度しか通っていないのに、迷わず店に行くことができた。引き戸を開けると、初めて来たときと同じように、藤永さんがにっこりしながらわたしを見た。
藤永さんが持ってきた大きなたらいに龍を吐き出した。飲み込んだときは大きなミミズよりちょっと太いぐらいだったのに、たらいに泳いでいる龍はその何倍も大きくなっていた。片手じゃつかめないかもしれないくらいだった。せまそうにたらいのなかを泳ぐ龍を撫でると、龍は心地よさそうにわたしの指に擦りついた。
月初めにもらっていたお小遣いの、いままでの残りをすべて支払いに回した。ファイルに閉じていた契約書の写しも渡した。藤永さんはお金をレジに入れ、写しを保管してからわたしを見て首を傾げた。どうだった? わたしは明るい気持ちのまま答えた。
「たのしかった!」