3.氷刃の刺客(1)
*
ネロ・ディクタール・コンモドゥス・ファングラーダにとって目下の悩みは、このままでは自分の輝かしい評判が一転、地の底まで堕ちていきかねないことだった。
「ファングラーダ王子たる僕が。『奴隷の奴隷』へ熱心に求婚していた――などと言われるのは心外だ。実に腹立たしい」
『奴隷の奴隷』。
それは学園一番の王女、ミラーフィール・フレア・トリート―ラム・ド・プロテジェールに最近つけられた、あまりにも不名誉なあだ名だった。
プロテジェール王女は決闘に負け、『奴隷』になった。
それも『平民枠』を利用して入学した『奴隷』ガラオールの『奴隷』になったのだ。
『奴隷』の『奴隷』になってしまったから、『奴隷の奴隷』。
かつて各国の王女を率いて学園を闊歩していた王女のなかの王女、『王女の王女』という名誉あるあだ名とは、まるで正反対の忌まわしい呼び名。
「由々しい事態だ。このままにしておくわけにはいかない。始末をつけなくては。そうだろう?」
ネロは友人の貴族たちに熱弁を振るう。
趣味のいい古代絵画に囲まれた、ファングラーダ王子にふさわしいネロの自室には、取り巻きの貴族たちが集まっていた。
「その通りだ。このままではわれわれは恥をかく」
「あのガラオールとかいう畜生を殺してしまおう」
「決闘だ。決闘に勝って王女を取り戻す必要がある」
ネロは満足げにうなずいて、
「諸君、君たちの言葉は正しい。王女を救わなければならない。そして忌まわしい入学式での出来事を、なかったことにしなくては」
「賛成」
「貴族の誇りにかけて、剣を抜こう」
部屋に集まった貴族はみな、プロテジェール王女への熱心な求婚者だった。
プロテジェール王女と血脈交流すれば、自分の家系に由緒正しい強力な雷属性の血を混ぜ込み、広い領土と莫大な持参金、そしてなにより名誉を手に入れることができる。
が、それはミラーフィールが王女となる場合に限る。
もしプロテジェール王が、バカげた経緯とはいえ『奴隷の奴隷』となった娘を見捨てなければの話だ。ミラーフィールにはひとりの妹がいる。そちらに王位が譲られる可能性もある。それほど入学式の出来事はショッキングで、前代未聞だった。
ネロは部屋を見渡す。
自分も含め、決してガラオールなどには劣らない、強力な魔術の使い手がそろっている。
スフェルチェ公爵家のアルミス。氷魔術の戦巧者。
エストテランタ公爵家のレナード。風神フィンディムの末裔。
マルカッタ王子パルコプレシス。炎を操る煉獄の騎士。
そしてネロはマリーマリスを父祖にもつ、聖なる光属性魔術の類まれなる戦士。
「よし。この顔ぶれならまず負けるはずがない。……学園とわれわれ王侯貴族の未来のためにも、必ずガラオールを殺し――さらに、『例のもの』を下賤の者の手から取り返さなくてはいけない」
「協力する」
アルミスが抜剣する。
「異存ありません」
レナードが抜剣する。
「必ず仕留めてやっからよ」
マルカッタ王子が抜剣する。
「よし」
求婚者たちは剣を重ねあい、必勝を誓った。
『例のもの』。
それは学園を運営する老王たちより聞かされた、大陸の覇権を左右する『武器』。
もっともその全容は、この場ではファングラーダ王子のみしか知りえない。
*
学園の主席として過ごしてきた三年間、ミラは学友たちのなかでも特別の扱いを受けていた。その身分もさることながら、貴族もうらやむ気品と威厳で、強烈なカリスマを発揮していたのだ。
しかし他人の評価など、天国から地獄へと、恐ろしいほど変化しうるもの。
「ぐっ……」
いつも胸を張って歩いていた学園の廊下を、ミラはこそこそと隠れるように走る。
そこへ意地の悪い視線が追いかけてくる。
「あ、『奴隷の奴隷』……」
「いままでの気品が、もはや見る影もないわね」
「調子に乗っていた罰よ。あたし実はあの子のこと、前から気に入らなかったのよね」
薄情な貴族たちの、嫌らしいひそひそ話。
ミラは聞こえないふりをした。
悪意のこもった声を、頭では締め出そうとしても、身体のほうが正直に反応する。鼓動は早鐘を打ち、氷のような汗が額に浮かんで意識が遠のきそうになる。
「バカにして……みんな、私をバカにして……!」
ミラは歯を食いしばりながら、ついには全力で駆け出していた。王女が全力疾走するなどはしたない。けれどもとにかく、人間の視線から逃れたかったのだ。
「遅い」
目的地の大教室に入ると、憎たらしい男が自分を待ち構えていた。
「三十秒の遅刻だ」
年の割に擦れた印象を与える無表情で、ガラオールはミラを迎えた。
「席につけ。そして俺の代わりにノートをとれ、奴隷」
「ついでにアタシの靴でも舐めろ、奴隷」
「――!」
ガラオールの背後からひょっこりと、銀髪のアマリリスがおどけた顔を出す。正直なところ、ガラオールよりもアマリリスのほうが苦手だった。やることなすことに容赦がない。
「こいつの靴は舐めなくていいから、座れ」
「えー。つまんない」
「お前は帰れ」
「帰らない。アタシの暗殺術があるからこそこの奴隷は、ガルに反旗を翻せないんだよ。そこんとこわかってくれてる? ん?」
「……好きにしろ」
茶番じみたやりとりを尻目に、ミラは言われた通り座席に腰かける。もう抵抗する気力は萎え果てていた。
どうにでもなれ。
それが偽らざる心境だ。最後の頼みの、母国からの連絡が来ない。いくら死ぬほど悔しがろうと、どうしようもない。悲しいかな自力ではアマリリスに敵わない。教師も生徒もみな腫れ物に触れるかのようにガラオールを避けている。助けてくれる友人などいない。
そんな自分に愛想を尽かしたのか、十七人いた召使も日に日に数が減っている。逃げ出したのだ。
講師の哲学者がやってきて、講義がはじまる。機械的にノートをとる。
「えー。というわけで。神々は七柱存在していました。炎神シャクナドゥ。氷神パリオーテ。風神フィンディム。地神ラグディオーラ。雷神バリアンドー。光神マリーマリス。そして闇神ハーデスです。このうち仲間はずれがひとりいます。エストテランタ公爵の息子よ、わかりますか?」
「はい。闇神ハーデスだけ、他の神とは性質を異にしています」
「それはなぜですか」
「子供を残せない神だからです」
「正解。皆さんがた高貴の血脈を継ぐ人間は、闇神以外の神を父祖にもち、それぞれの属性の魔力を有しています。しかし闇属性の魔力だけは、遺伝しないのです。なぜならハーデスの血の流れる人間はこの世に存在しないからです」
「では先生、闇魔術は存在しないのですか?」
「いいえ。闇魔術は存在します。ハーデスは死を司る神。人のなかでも特に死と戯れて生きてきた者はハーデスに愛され、ハーデスの力、すなわち闇魔術を扱えるようになるのです」
死と戯れる。死。ミラの脳裏に魅惑的な単語がこびりついた。
「先生。死と戯れるとはなんですか?」
「簡単に言えば、何度も死にそうな目に遭うことですね――何度も、何度も。現世と地獄の境を行き来して、鮮血と激痛にまみれてなお生命を繋ぐことです。そう、たとえば闘技場の剣奴のように」
単調で退屈な講義は、ミラにとっては何の感動も残さなかった。
唯一覚えているのは「死」という単語。それだけは不思議と胸に木霊した。
名誉は王族の命に等しい。その名誉を無様に失いつつあるいま、ミラはほとんど命を削られるような痛みを感じながら、日々を過ごしている。一瞬一瞬が、辛く、苦しい。
「バカなことを考えるなよ」
講義が終わったのち。ガラオールは何もかも見透かしそうな鋭い瞳で、ミラを射抜いた。
「お前たちに死は生ぬるい。それにお前は俺の所有物だ。くれぐれも俺の命なく勝手をするな」
お前たち、とは。誰のことを言っているのだろう。王侯貴族全体を言っているのだろうか。ミラは何も言い返すことなく、無反応を貫く。
「講義は終わった。ノートはとったか? よし。奴隷、俺の部屋に帰るぞ」
ガラオールが言う「俺の部屋」とは他でもない、元ミラの部屋のことだ。
「ねーねーガル。アタシ最高級のシャンパン酒が飲みたい」
「ダメだ。手持ちの金がない」
「こいつから盗ればいいじゃん」
アマリリスは無邪気な半笑いで、ミラを一瞥する。
ガラオールは首を横に振った。
「もう勘弁してやれ。こいつは母国からの送金が途絶えて、ほとんど一文無しだ」
「あーあ。そうなの。無一文。じゃあ名実ともにいよいよ奴隷だね。あはは」
ガラオールとアマリリスが教室を出ていく。ミラもそのあとを無気力についていく。
「待て、ガラオールとやら」
そこへ、武人らしい勇ましい声がかかった。
「待てと言っている」
ガラオールは振り向く。ミラもつられて声の主を見る。
群青色の髪をした、長身痩躯の男。紅の制服を蒼に染めて、金モールはすべて銀につけかえてある。
スフェルチェ公爵家のアルミス子爵。容姿端麗な伊達貴族の姿がそこにあった。
かつてネロとともに、ミラへ熱心な求婚をしてきた者たちのひとりだ。
アルミスは剣の柄に手をかけ、
「決闘をしろ。プロテジェール王女の解放を賭けて」
と言い放った。有無を言わさぬ調子だ。
「ほう……待ってたぜ、そういうの」
意外にもガラオールは、感心したような顔で答える。
まるで待ち構えていたかのように、突然の挑戦にもまったく動じない。
「ひとつ断っておくが。俺は剣奴だぜ。貴族が奴隷の身分にある者と決闘するなんて、末代までの恥じゃないのか」