2.恥辱の鉄鎖(2)
顔を真っ赤にしながら、ミラーフィールは歯を食いしばる。
「おうおう、ミルクのたっぷり詰まってそうな袋だこと。ガルも触る?」
「いらん」
「じゃあアタシのは? 小ぶりだけど触り心地と感度は結構イイよ?」
ガラオールは何も言わず、アマリリスの腕を掴んで凶行をやめさせた。
「くだらない遊びはやめろ。それよりミラーフィール」
「……なんです?」
「ミラーフィールだなんて贅沢な名前はやめだ。いまから俺はお前を単に『ミラ』と呼ぶ」
「か、勝手にすれば……」
「当然勝手にする。俺はお前の主人だ。お前は俺の下僕だ」
ガラオールは手入れを終えた剣を鞘に納め、立ち上がって教室後方の扉へ向かう。
「あ、ガル待って! ガルが行くならアタシも行く!」
扉の前に立つ兵も、前方で講義をする教師も、ガラオールには関心を示さない。関わり合いにならないほうがいいと思っているのだ。
ガラオールは教室を出る直前に『ミラ』のほうを振り向き、
「いまのところお前を自由にさせておくが、俺が呼んだらすぐに来い。命令には素早く、確実に服従しろ。……じゃあな」
と言い残してから出て行った。ぱたぱたとその背中をアマリリスが追う。
扉が閉まる。
「っ――!」
気づけば教室中の視線が、ミラへと集中している。
ミラにとってはガラオールに無礼な扱いを受けるよりも――そんな扱いをされる自分を、他の王侯貴族たちに見られることが百倍も辛いのだった。
*
「どうして、お前が、ここに!」
屈辱を噛みしめて自室へと帰ったミラは、目の前の信じがたい光景に、つい飛び上がって驚いた。
「簡単だ。お前は俺の奴隷。お前の部屋は俺の部屋だからだ」
学生寮。とりわけ広く豪奢な、様々なアンティーク家具が設えてあるミラの部屋。
そのなかでも特に価値ある、学園創設時につくられた二百年もののイスに深く腰かけているのは、他ならぬガラオールだった。
「きょうからここは俺の部屋だ」
不法侵入を悪びれもせず、ガラオールは背もたれに体重を預けている。
「ついでにアタシも居候しまーす!」
部屋の隅ではアマリリスが、引き出しを開けて中身を物色していた。
「な――!」
言葉が出ない。
ウォモ・ウニヴェルサーレ学園学生寮では、割り当てられる部屋のランクは身分に応じて分かれている。
特にミラくらいの王族ともなれば、寮でも一位二位を争うトップクラスの部屋に住むことができ、快適な学園生活を保障されるのだが――
「フン。気分が悪くなるくらい贅沢な部屋だぜ」
「アタシは嫌いじゃないよ。家具は売り払えば金になりそうだしねー」
最悪の寄生者どもが自分の部屋に堂々居座ろうとしている。快適な生活どころではない。
「ふざけないで!」
「ふざける? 俺は大真面目だ」
完全に開き直った態度で、ガラオールは部屋を占領している。
ミラは戸惑う。これほどの無礼を受けた経験は、十八年ほどの人生で一度もなかった。
「入り口で突っ立っていないで、こっちへ来て俺の足でも舐めたらどうだ? ククク……」
「アタシが舐めてあげよっか?」
「お前はいい」
露骨な挑発。ミラの頭にいくつもの選択肢が思い浮かぶ。あいつを殺す。痛めつける。髪の毛一本残さず消滅させてやる。
自分でも気が付かないうちに、ミラの全身がらバチバチと、雷の魔力がほどばしっていた。
「おいおい。わからない王女だな。いや、いまは奴隷か。……あんたは決闘に負けたんだよ。高貴の生まれなら高貴の生まれらしくしろ。潔く奴隷になれよ」
「――っ!」
怒りの雷雲が頂点に達し、魔術でガラオールに攻撃を仕掛けようとした瞬間。
ミラは首筋に冷たいものを感じた。ナイフだ。ナイフが突き当てられている。
「アタシは盗賊にして暗殺者。たとえ魔力をもっていなくても、この距離じゃお前程度の女、千回は殺せるよ」
背後からアマリリスの温い息がかかる。ミラの襟首をつかみ、鋭利な刃で頸動脈を薙ごうとしているのは他でもない、一秒前まで宝石箱を漁っていたアマリリスだった。
なんという身のこなしだろう。魔力を使えないはずの卑民とは思えない。
予備動作など一切見えなかった。ミラは硬直したまま、指一本動かせない。暴れた瞬間殺されるということがわからないほど、ミラは愚かではない。
「そういうわけだ。奴隷」
ガラオールは座ったまま脚を組み替えて、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「五メートルの間合いにアマリリスがいる限り、お前は手も足もでない。だから首輪も手錠も足枷も必要ない。抵抗は無駄だ」
「なにが……なにが望みなのよ!」
ミラは目に溜まる涙を感じながら、問うた。
「卑しい国民議会の圧力で、お前たち平民は望み通り『平民枠』を手に入れた! それで十分じゃない! おとなしく学園で高等教育を受ければいいのに、どうしてこんな野蛮な所業を……!」
「国民議会? お笑いだな。俺たちがそんなものの仲間だと思っているのか?」
ガラオールは腰を上げ、至近距離でミラと対峙した。
剣奴らしいゴツゴツの手を伸びてきて、ミラの顎が強引に持ち上げられる。
「もう一度言う。俺とアマリリスは平民どころじゃない、奴隷だ。国民議会なんてものは、富裕な商工業者や職人ギルドの代表に過ぎない。連中も貴族と同じく、奴隷を自分と同じ人間だなどと思っていない」
「そーゆーこと」
ナイフを持つ手を一寸たりとも動かさず、アマリリスはガラオールの言葉を引き取る。
「アタシたちは奴隷。何千年も昔から王侯貴族に虐げられてきた。そして次の千年はたぶん、商売で金を手にした平民たちによって支配される運命の存在。『平民枠』? それがどうしたっていうのさ。平民どもが教育の権利を拡大したからって、アタシらには何の恩恵もない」
ミラは心の中で急速に怒りのエネルギーが萎んでいくのを実感する。
代わりに膨らんでくるのは、恐怖。
それはナイフを向けられているからというより、二人の奴隷の言葉に込められた、何千年分もの恨み、妬み……そうしたドス黒い感情の深淵に触れて沸き起こってくる。
「それが、それがどうしたっていうの! プロテジェール王女たる私には関係のない話!」
「勝手にそう思っていればいい。お前が俺の奴隷だという事実は変わらない」
「い……いいこと? 明日の朝には私のお父様、プロテジェール王の使いが学園へやってくる! そしてお前たちなど……一撃で始末する! 娘の、王女の私がこんなふざけた扱いを受けていると知って、父が黙っているはずがない!」
「ククク……どうだろうな。アマリリス、どう思う?」
「どうもこうもないよ。可愛そうなミラちゃんはきょうからずっと、ガルの奴隷であり続けるに決まっているもんねー」
「いまだけよ! 調子に乗れるのは……!」
ミラは恐怖で強張る表情を無理に隠して、精一杯、尊大な顔をつくった。が、二人にはまるで応えていないようだった。
「おうおう。気品ある王女が怖い顔しやがる」
「ブサイクだねー。アタシのほうが百万倍可愛い」
いまに見ていろ。
事実、すでにミラは「血統学初歩」の授業後、母国プロテジェールに急使を走らせている。明朝には精鋭の騎士が数十人、学園に乗り込んでくるはずなのだ。
プロテジェール国にしてみたら、国を代表する姫が平民、いや奴隷などに足蹴にされて黙っていられるはずがない。
「ま、きょうのところはこの辺にしておこうぜ。俺は寝る」
「アタシも寝る! 疲れた!」
「ちょうど天蓋つきのベッドがある。使わせてもらおう」
「ガルと一緒のベッドで寝る! いいよね?」
「好きにしろ」
「じゃあ好きにする! うへへ、今夜は寝かせないよ!」
「いや、寝ると言ったろうが」
不意に襟首がアマリリスの手から離れる。ミラはよろめいて絨毯に手を突き、
「――隙ありッ! 雷魔術・閃脚万雷!」
これまで気づかれないように脚部にためていた、雷電の魔術を一気に爆発させる。
筋力に莫大な量の魔力を流し込み、光のごとき瞬発力を得る技法。強化された脚から放たれる蹴りは、ミラの白いカモシカのような足と言えども、鉄槌の破壊力を誇る。
「破ぁっ!」
奴隷どもに好き勝手させておく謂れはない。自分は栄光あるプロテジェールの王女。
母国の力など頼らずとも、この屈辱的な服従を蹴破ってみせる。
「退りおれ――奴隷!」
バネのように跳ね上がった左足が、憎き男ガラオールの眉間を粉々に砕き、卑しい少女アマリリスの細首を真っ二つに折る――はずだった。
「ところがどっこい。そうはならないよ」
最後に目にしたのは、アマリリスの刺々しいしたり顔。
ミラは床に顔面を打ちつけ――そのまま意識を失った。
「王族のくせに最後までバカだったね。いや、王族だからこそバカなのかな。同じ手を二度も喰らっちゃって」
「フン。俺が奇襲を警戒しないとでも思ったか」
ガラオールは昏倒したミラを一瞥する。その左足には、ガラオールの籠手から伸びた非魔力伝導性ワイヤーがくくりつけてあった。
「さすが『小さな黒髪の獅子殺し』。抜け目ないねー」
「当然だ。似たような奇襲手は闘技場で何度も経験している」
「だよねー」
「それよりもアマリリス。お前、ポケットに入れた宝石はすべて、ドニャ・エルヴィーナの姉御に送れ。『平民枠』の支払いにあてる」
「はあ……そっか。そういやアタシたち、ボスに借金してるんだったね」
アマリリスはポケットをジャラジャラと鳴らし、ため息をついた。
「借金は借金でも、返すあてが十分にあるからいい。こうして王族貴族どもから奪い続ければいいんだからな」
「それもそっかー。えへへ」
ガラオールは倒れ伏したミラにくるりと背を向け、部屋の中央を占めるベッドに歩み寄る。
「上等な寝床だ。これならいい夢が見れるかもな」
「アタシが添い寝してあげるから、絶対悪夢なんか見ないよ!」
「勝手にすればいい」
二人は着替えを済ませたのち、四人はゆうに寝られそうなベッドへ潜り込む。
気を失ったままのミラは、扉の隙間から恐々様子を伺っていたプロテジェール家の召使に介抱され、別室で一夜を過ごした。
翌朝。
ミラにとっては予想外なことに、母国からの連絡は何もない。
その翌日も、翌々日も――音信不通。
「どうして? お父様は何をしているの? 娘の私がこんな目に遭っているのに?」
召使に訊いてもわからない。急使をさらに送っても、精鋭の騎士どころか手紙の一通すら寄こしてこない。
ガラオールとアマリリスは、宣言通り自分から部屋を奪い、宝石や服をくすね、奴隷のように雑用を押しつける。
それだけならまだよかった。財産を多少盗られても痛くもかゆくもない。つまらない雑用は自分の召使に任せればいい。
本当に辛いのは――日が経つにつれて、周囲の学友たちの扱いが変化していくこと。
次第にミラは……奴隷の二人に抵抗する気力を失っていった。






