10話信秀暗殺と尾張統一
いつも読んで頂き有難うございます。
ついに尾張統一を目指して動き始めます。
信長君の活躍?有るかな?
年が明け天文16年
信秀は広忠に逐次書状を送り三河の内政をしていた。
政秀を現地に送り内政を手伝わしながら3人の子供を探させていた。
大久保弥八郎10歳後の徳川16神将の1人である大久保忠佐。本多弥八郎8歳と本多重千代2歳である。永録6年の三河一向一揆で出奔する正信・正重兄弟である。
この3人は次男以下の子供で有りながら後に有名になる人物と解って居るので早めに取り込んでおこうと拐われる事が決定しているのだ。
この頃の三河は貧しく次男以下は寺に預けられる等余り家に居るものが少ない時代であった。
その為政秀が金子を持ってこの子は才がある是非織田家で育て見たいと言うと両親はお願いしますと言って渡して来たのである。
因みに来年産まれる榊原康政も既に狙わるている。
それ以外にも織田の金を使って三河と遠江の間に防御力の高い城を作らせていたり名護屋から遠江との境の城までに街道を作り始めていた。
三河は清康(竹千代の祖父)の時代以来の景気に実質の支配は織田家であっても歓迎していた。
三河西部は一向宗の権力が強い地域であり永録6年の三河一向一揆が始まる本證・上宮寺・勝鬘寺の三寺があり広忠か約定した守護使不入を破った為発生したとされている。
広忠に確認した処天文13年に約定した事が確認された為
信秀は広忠と政秀に命じ西三河は街道の整備のみ東三河一帯を開発して曹洞宗に援助する事にした。
《尾張から一向宗を無くした方法で少しでも信者を減らしてから。一向宗の三寺を仲違いさせてスキャンダルを作りさらに信者を無くす様にし向けます。
そしたら必ず狼藉を働く者が出てくる曹洞宗(作戦を説明の上)の坊主(扮した兵)に捕まえさせるとあら不思議一向宗が曹洞宗を攻めるので寺を守る名目ができて石山本願寺に書状を出した上で一向宗を叩きます。
すると守護使不入に関係無く信者を失った一向宗の寺だけが残ります。お布施が無ければ生活出来ないですよね。自業自得で潰れます。寺だけ残して後は開発すれば三河は良くなるでしょう。》
所変わって尾張では
益々信秀の領内は景気が良くなり尾張の西部の民は、信秀の統治を望様になっていった。
これに危機感が高まって来ている信友は信秀の排除を決めた。
しかし昨年の今川・松平の進行を返り討ちにした信秀の力に戦をしても負けるのは解って居るので他に方法が無いか悩んでいた。
土田御前は林秀貞から最近の信長の評判を聞いていた真面目に政務をこなし政治や経済に強く(ブレーンが頑張っています)困った事が有ればアドバイスをくれる。武術の腕も良くうつけではない立派な嫡男だと言われるようになっていた。
色々な村に行き農作業を手伝ったり困った事が有れば助けたり街を回って暴漢を取り締まったりと民からの信頼も上がっている(全て正清がやらせているイメージ戦略です)と聞きこのままでは駄目だと信秀を害しても家臣が信長についてしまうどうすればと考えていた尾張守護の後ろ楯が有れば信行に家督が行くのではないかと考え書状を送った
信友は土田御前の書状を見て大分焦っていると解ったので乗る事にした。もし暗殺が成功すれば自分が後ろ楯になると書いて書状を返した。
土田御前からの書状も信友からの書状も忍びが奪って信秀に渡した。これを読み信秀はチャンスが来たと喜んだ。信友からの書状を土田御前に読ませまた奪って来てくれと忍びに頼み政秀と正清を呼んだ。
信秀はこれを理由に信友を潰す事を伝え良い作戦は無いかと二人に聞いた
正清は「信さんが死んだ事にして吉に討たせるのが良いんじゃないか」と言うと政秀が「万が一本当に殿が討たれたらどうするんだ」「暗殺者なら首切られるか心臓を突かれない限り親父がどおにかする」「毒なら?」「この時代の毒なら薬の用意はできてる」「なら大丈夫だな」「親父に暫く信さんに着くよう言っとく」と二人がどんどん進める話を聞き(ワシの命何か軽く無いか?)と思った。清孝を含めた四人の秘密であった。
10日程たった頃
信秀の体調が急に悪くなった
特に毒味役等体調の変化はなかったので皆が流行り病かも知れないと心配されたが清孝の診断では特種な毒であると発表され家中は大騒ぎとなったが信長が大丈夫だと落ち着かせ騒ぎは収まっていった信秀は療養の為中村に行くとされた。
数日後名護屋城に清孝が来て信秀の死が伝えられた。皆が悲しみ急な父親の死に困惑していたそんな時信長を叱咤したのが濃姫であった。
信長は素早く葬儀の準備を命じた
その際三河にも正清を派遣し広忠が謀反しない様にした。
葬儀の前日勘十郎と土田御前が来て喪主は勘十郎にさせろと騒いだが家臣が誰も納得せずそのまま
信長が喪主になった。
葬儀中信長は沈痛な面持ちだったのを勘十郎は見て昔と変わったと思った
葬儀後の席で信友が後継ぐのは勘十郎であるこれは守護職としての命令だと言い出した。
そこに政秀が2通の書状を信長に見せ信友に詰め寄った。「これはどういう事ですか守護職殿」信友は自分が土田御前に送った書状を見て慌てて出ていった。信長は土田御前に向き「母上、父を討って迄も勘十郎に継がせたかったのですか」と涙ながらに言ったが土田御前は何も答えなかった。
勘十郎は「母上何故父上を殺したのですか」と詰め寄ったが信長に停められ信長は土田御前の監禁を指示して勘十郎に監視を付けた。
信長は「此より尾張守護職である織田信友を討つ出陣の準備をしろ」と家臣全てに命じた。
それから2日程で準備が整い清洲城に向け進軍を開始した
信友は籠城を選択して尾張西部の者に書状を出し援軍を求めたがどこからの返事も無いままであった。
信長は城門に向けて四斤野砲を放ち城門を破壊して城内に攻め込ませた。
残りの四斤野砲は城を狙わせた。二の丸を突破するまで射たせ二の丸を突発したと聞いた信長は清秀や長秀を伴い城に突撃したが城内の兵は大砲に驚き戦意を喪失させていた。
信友は最後まで抵抗したが佐久間信盛に捕らえられた。
わずか半時程で終わってしまった。
信長が名護屋城に戻ると出迎えたのは両頬を貼らした信秀と政秀であった。
信長は信秀と政秀に事情を問い詰めた。
信秀は「イヤー実はな正清と政秀の策でな擬死だったんだわ」と然り気無く政秀達のせいにした
政秀は「ちょっと殿何逃げてるんですか殿も納得してたじゃないですか」と死なばもろともと言った感じで信秀に詰め寄った。
信長達(信長・清一・清秀・長秀・勝家・信盛)は囲み「言い遺す事はそれだけか」と詰め寄った
そこに女性陣が来て何とか事なきを得た二人であった。
時は遡り信秀は葬儀の中こっそり戻り西部の豪族に書状を出した。「この後起こる戦は信友の暗殺未遂に対する報復である これを援護するものは根切りにする」と送っていたので有る
この為信友には援軍がこなかったので有る
一方広忠が動かなかったのも正清が事情を説明していたからである。
戻って織田信友と土田御前の裁きだが信友は切腹信友の家族で男は元服後の者は死罪元服前の者は寺に入れる。女は全て尼にせよと命じ。
土田御前は信秀の前に出され信秀より事情を説明され信秀に謝った信秀は死罪と言ったが信長が止め尼にする事になった。
勘十郎は信秀と対面したのち兄が家督を継ぐのを了承して元服まで岩田家に預けられて鍛え直される事になった。
勘十郎の家臣団は解体され暫くの間色々な部署を回り適性により振り分けられる事になった。
西尾張の豪族達は早々に名護屋城を訪れ信秀の軍門に下っていった一部の地域を除いて尾張を統一したことになる。
(一部地域とは伊勢長島に隣接する地域で一向宗の力が強すぎて攻めると長島から一向一揆が攻めてくるエリアである)
尾張統一しました。一向宗と、まともにぶつかるには未だ体力無いので暫く放置です。対策はするけど。




