梅花の候
梅の花が咲いている。初春の空に、真白に花開いて。
鏡子は白梅が好きだった。妹の桜子は紅梅が好きだと言う。一方で盆梅はあまり好まない。鉢の中に根を押し込まれている様が、自分を見ているようで不愉快なのだとか。
僅かに首を傾けて、見上げることしばし。開きそうな蕾の数を二十ほど数えたところで、「転びますよ」と忠告された。
ぐるりと視線を向ければ、そこには帝大の制服を纏った青年がひとり。なるほど、どうやらこの青年が鏡子に声をかけたらしい。
「あまり上ばかり見上げていては、足もとが疎かになりますよ」
もう一度、青年が言う。鏡子はこてりと首を傾げた。
「止まっていても、危ないでしょうか」
「危うく見えました、自分には」
「ならば、きっと危ないのでしょうね」
他人が自分を見てどう思うかなど、鏡子にはわからない。だが、初対面の青年からさえそう見えたのならそうなのだろう。
「梅はお好きですか」
「白梅が好きです」
妹の桜子は紅梅が。
いつぞやの折、その話を知っていた伯父が気まぐれに鏡子と桜子に着物を買ってきた。白梅と紅梅。それぞれがあしらわれた着物は流石に美しく、喜び勇んで着てみたものだ。
ところが、着替え終えて鏡を見れば、あまり自分には似合わぬものだとひと目でわかった。どこかしっくりこないのだ。
贈り主である伯父もそう思ったのだろう。試しに姉妹の着物を交換してみてはと言われ、気が進まないながらももう一度着替えてみたところ、今度は不思議と肌に馴染んだ。
桜子もそう思ったのだろう。始めに鏡を見て、次に互いを見て。困ったように微笑んで、似合うと喜ぶ伯父を見ていた。
そぐわぬものを好きになる。儘ならぬものだと鏡子は思う。
梅花は。青年が言った。
「桜のようには散らぬのですね」
「桜吹雪がお好きですか」
「わかりますか」
「そのように聞こえました」
風に舞う花片は、まるで風花のようだと。
春の訪れに歓喜するように咲き誇る桜の花片を風花にたとえるとは不思議なものである。そう言うと、青年は横を向いて梅花に視線を向けた。
「北国の生まれなので、懐かしく思うのかもしれませんね」
「吹雪くのですか、あなたの郷里は」
「視界を真白が埋めるほど」
想像してみる。瞼を下ろした鏡子は、その裏に真白を見た。それは白梅だと誰かが言う。白梅の真白が視界を埋める。
次に浮かんだのは伯父から贈られた着物だった。白無垢に似た着物。散る白梅が、その中央の浅黄が奇妙なほどに鮮やかで。
瞳を開くと、そこには変わらず白梅がある。その向こうには青空が。
気持ち良く晴れた日だった。冬の装いでは少し汗が滲む。かと言って春の装いをするには肌寒い。肩掛けをかき合せて、鏡子は再び白梅を見上げる。
毎年見上げていた梅の木は、いつの間にか少し小さくなったように見えた。自分の背が伸びたせいもあるだろう。焼かれ焦げた枝が切り落とされたせいでもある。
煤の匂いが鼻をついた気がした。なんとも言い難い感情が胸に込み上げ、堪えるために唇を軽く噛む。
「……風が出てきましたね」
青年の気配が揺れる。
頬を撫でていた風が遮られ、ふと視線を向けると青年が穏やかな表情で鏡子を見下ろしていた。
学帽の下から覗く瞳は、僅かに青い。異国の血が混じっているのだったか。
そういえばずいぶんと背の高い青年である。梅を眺めていた首の傾きそのままに青年を見上げ、鏡子はゆっくりと瞬いた。
「鏡子さん」
「はい」
「戻りましょうか」
「……はい」
促され、頷く。
青年に差し出された手が、辞退する前に鏡子の右手をさらう。そのまま、まるで幼子のように手を引かれて歩いた。
男女七歳にして席を同じうせず。そう言われていた頃ほどではないが、男女が並んで歩くことすら眉をひそめられるというのに。まして、手を繋いで歩くなどと。
抗議するために口を開いたところ、「鏡子さん」と青年の穏やかな声が遮った。
「祝言は、紫陽花の頃にしましょうか」
「紫陽花、ですか?」
それでは梅雨になってしまう。
花嫁衣装の重さと厚さを思いあまり気の乗らない変事をする鏡子に、青年は「六月の花嫁といって」と繋いだ腕を引き寄せる。
青年の半歩後ろを歩いていた鏡子は、突然彼の胸元に鼻先が触れるほどの距離まで近づいたことにぽかんと口を開いた。
「その頃に祝言を挙げた花嫁は、幸せになれるそうなので」
――瞳が、合った。
骨ばった男性らしい手がやんわりと鏡子の手を掴んでいる。抗えばすぐに解ける力で。
それでも、鏡子は青年の瞳に呑まれたように身じろぎひとつできなかった。
(この人が)
春の空だ。鏡子は思った。白梅の向こうに広がっていた、柔らかな青。彼の瞳はその色をしている。
応えなければ。その思いだけで開いた唇は、けれど紡ぐべき音を見いだせなくてすぐに閉じる。
鏡子さん。青年が鏡子の名前を呼ぶ。
(この人が、夫になる)
それは、どこか現実味の薄い話だった。
青年は伯父が連れて来た人だった。見合いとは名ばかりの顔合わせ。そう言い含めて、伯父は普段は専ら袴を愛用している鏡子に振り袖を着せ着飾らせた。
連れられて行った先にいたのは、紅をさす時に覗きこんだ鏡の向こうの自分よりもよほど端麗な容姿をした青年。帝大の制服をきっちり着込んだ上背のある青年は、いっそ冷厳にすら見えた。
けれどどうだろう。後は若い二人でと、見合いの席お決まりの言葉とともに放り出されてみれば、最初の印象とは違い、青年は始終穏やかな瞳で鏡子を見ている。
「祝言の準備をしながら、お互いのことを知っていきましょう」
「……順序がごちゃ混ぜです、それでは」
「ええ。すみません」
まるで悪びれた様子のない態度だった。
微笑すら浮かべた彼の様子を鏡子は不満に思うべきなのだろうが、不思議とそういう気持ちは沸いてこなかった。ただ、不可解なものを見る気持ちになる。
鏡子と青年は今日が初対面だったはずだ。そもそも結婚することが前提で顔合わせをしたのだから、鏡子にこの婚姻に関する強い反発心などはない。だが、青年のようにここまで積極的な思いもないのは確かだった。
戸惑いを隠せない鏡子に、青年は初めて表情を崩した。困ったような顔。苦笑が口元に浮かぶ。
「北の寒村育ちで、勉学ばかりしていたものであまり上手い言葉は思いつかないのですが」
そっと青年の両手が鏡子の手を包んだ。
「先生から貴女の話を聞いて、ずっと会ってみたいと思っていたのです。……それが見合いの席になるとは、流石に思っていませんでしたが」
「物好きな方ですね。伯父の話で、桜子ではなく私に興味を持たれるなんて」
伯父は姪二人どちらも可愛がっているが、体が弱く家に籠りがちな妹の桜子の方を殊更に気にかけている。
いつも優しく微笑んで他者への気遣いを忘れない桜子が典型的な大和撫子だとすれば、姉である鏡子は下手に体が丈夫だったせいで、袴姿にブーツを履いて、自転車を乗り回す絵に描いたようなお転婆娘だ。伯父からは苦言を呈されることが多く、だからこそ、さっさと相手を見つけて少しでも大人しくさせようとこんな見合いの席を設けたのだろう。
青年に聞かなくとも、伯父が自分たち姉妹をどのように話しているかぐらいは予想がついた。何せ親戚同士で集まるたび、鏡子のお転婆ぶりをからかい、桜子の淑やかさを見習えないものかと大げさに嘆かれるのだ。
そう言うと、青年は「鏡子さんくらいでは、お転婆とは言えませんよ」と鏡子の疑問を一笑に伏した。
「郷里では、男女の別なく駆け回るのが普通でしたから。取っ組み合いの喧嘩も、虫集めも」
「喧嘩も?」
「村一番の力持ちも女性でしたよ」
鏡子さん。幾度目かの呼びかけ。
青年の瞳には真摯な光が宿り、つられて鏡子の背筋が伸びる。
「幸せにすると約束する自信は、情けないことにあまりないのです。ですがもしお嫌でなければ、自分と一緒に、幸せになっていただけませんか?」
「泰孝様」
鏡子は青年を真っすぐに見た。
「紫陽花の頃は、雨が多くて私たちもお呼びする方々も大変ではないでしょうか」
「そういえば、梅雨のことをすっかり失念していました」
「無理に急ぐ必要はないのです。まだ梅花の候なのですから」
「では」
泰孝に掴まれていない方の手を、鏡子は彼の腕に添えた。
「ゆっくりでは、駄目でしょうか。……祝言は、来年でも」
「……参りましたね」
現実味が薄いのだ。鏡子は思う。自分が嫁ぐということ、この美しい青年と夫婦になるということ、そして――。
妹が。桜子が、もうどこにもいないということ。
椿の花が咲く頃。屋敷とともに炎に消えた桜子。大風に煽られた火は屋敷を燃やし尽くすまで消えず、焼け跡には一本の梅の木だけが残った。鏡子が好み、桜子に似合うと言われた白梅の木が。
植え替えられた白梅を思い、瞳を伏せる。頭上で泰孝が小さく息を吐いた。
「自分はどうも、貴女の言うことには逆らえぬようだ」
「すみません、勝手を」
「いいえ、いいえ。そうではないのです。責めているわけではないのですよ」
困るのは。泰孝は本当に困り果てたような声音で言った。困るのは、そんな自分を悪くないと思ってしまうことです、と。
「ならば、祝言は一年後。次の梅花の候にしましょうか」
「え?」
「そうすれば、きっと白梅も……紅梅も、咲いていますから」
ふ、と鏡子は息を吐いた。唇にゆるゆると笑みが浮かぶ。
「梅がお好きですか」
「ええ。特に紅梅が」
それは鏡子にとって何よりも嬉しくて、同じくらい寂しい気持ちになる言葉だった。
(この人と、夫婦になる)
何故だろうか。
それは先ほどまでよりも、ほんの少しだけ。暖かな気持ちになるようなことに思えた。