森本真央(5)
競馬学校に入学して、半年。毎日がすごく楽しくて、毎日が新しい発見の連続で、毎日が勉強で……とにかく、ずっと馬と関わっていける、そんな充実した日々。同期の11人の中でも下から数えたほうが圧倒的に早いくらい下手な私なりに、がんばってきたはずだった。……2日前までは。
「真央姉、大丈夫?」
「……だいじょ……ごほっ、それよりも桜花ちゃ……くしゅん、今日は何やったの……?」
「そんなのいいから、寝てなさいって! 真央姉、ちゃんと休まないといつまでも長引いて、そのぶんなかなか乗れなくなっちゃうよ」
布団から起き上がろうとする私を、外から戻ってきた桜花ちゃんが慌てて止める。外で厩舎作業をしてきた桜花ちゃんの手がこれだけ冷たく感じるってことは……ああ、また熱が上がってるのだろうか。
2日前から、私はひどい風邪をひいてしまって寝込んでいる。5日前くらいから寒気がするな、と思っていたらあっという間に咳と鼻水とくしゃみが止まらなくなり、たちまち熱っぽくなり、2日前からは38度台まで熱が上がってしまった。小さい頃から基本的には丈夫な私だけど、1度調子が悪くなってしまうとなかなか治らない。受験のときにも大丈夫だったのに、どうしてこういうなんでもないときにこういうひどい風邪をひいてしまうのだろう、と自分を恨んでみる。私は下手なのに。人よりも何倍もがんばらなきゃ、騎手になんかなれないのに。
そう思っていると、机に向かって学科のノートとなにやらにらめっこをしていた桜花ちゃんがこっちを向いた。風邪がうつるといけないから別の部屋で寝起きしたほうがいい、という先生の言葉にも耳を貸さず、桜花ちゃんは寝込んでいる私と同じ部屋で生活し続けている。それならいっそ私が空き部屋に移ろうか、とも思ったのだけれど、残念ながら起き上がれるような状況にはない。
「ごはんどうする?」
「……食欲ない」
「だーめ、とりあえずお味噌汁と果物くらいは食べなきゃ」
取ってくるからね、と言って、桜花ちゃんは部屋を出て行く。部屋に、静寂が訪れる。少し寒くなってきた気がして、私は布団をぎゅっと体に引き寄せた。
桜花ちゃんは、しっかりしてるよなぁと思う。三姉妹の真ん中で、桜花ちゃん曰く『自分以外はふたりとも天然』という状況のせいか、桜花ちゃんは人の世話をやくのがとても上手だ。1人っ子で甘やかされて育った私とは大違い。
しかも、牧場で生まれ育ち、10年以上も馬に関わって生きてきただけあって、馬の扱いも同期の中では群を抜いて上手い。性格だって、多少きついところはあるけれど、でも、何かがあるとこうやって親身になってくれる。
正直、私はそんな桜花ちゃんがうらやましい。もちろん、桜花ちゃんだっていっぱい努力してるのは知ってる。馬の扱いなんてものは、経験を積まなきゃうまくいかないことくらいわかっている。でも、はっきり言って劣等生な私が、『桜花ちゃんに追いつかなきゃ』と思って必死になってやってることを桜花ちゃんが涼しい顔してこなしているのを見ると、悲しくて悔しくて泣けてくることもあるのだ。もちろん、そんなときには私だって必死になって筋トレをしたりするのだけど。
そういえば、一足先に競馬学校に入って、時々トレーニングルームで一緒になった田中くんがこんなことを言っていた。
『競馬学校でどれだけいい成績取ったって、それは結局レース前の調教と同じ。アイルランド大使賞(卒業時に最も技術的に優れている生徒にもらえる賞)取ったって、実際に騎手になってみなきゃ本当の実力なんてわからないんじゃない?』
確かに、その通りだ。でも、悔しいと思ってしまうのは、うらやましいと思ってしまうのは、どうしようもない。そう言いたかったけれど、そんな負け惜しみのようなことを言っていても始まらないのはよくわかっているから、何も言えなかった。
私にそれを教えてくれた田中くんは、1ヶ月前から栗東に実習に行っている。2年生の9月から1月までの間、生徒はそれぞれ茨城県の美浦と滋賀県の栗東にあるトレーニングセンターに分かれて厩舎実習に行くのだ。そこで、調教師や厩務員さんやプロの騎手と一緒に仕事をし、騎手になったらそのときにお世話になった厩舎にそのまま所属することになるのだ。
「田中くん、いいなぁ……」
思わずひとりごとが漏れる。そう、田中くんが今お世話になっているのは、栗東・北野厩舎。桜井さんが所属しているところだ。普通、同じ厩舎にふたりも所属騎手がいるなんていうのはあまりないことらしいけど、でも、田中くんは北野厩舎に引き受けてもらうことになったのだ。田中くんが言うには、こういうことらしい。
『北野調教師さ、和兄を早くフリーにしてやりたいんだって。和兄、別の厩舎からも結構騎乗依頼来るようになったらしいから、いつまでも自分の厩舎の馬だけに乗せてるわけにはいかないだろ、って。だから、とりあえずオレが騎手になるまでは和兄にはフリーになるの待っててもらって、オレが騎手になったら和兄がフリーになって、オレが北野厩舎所属になればいいってわけ』
北野厩舎に行くことが決まったときに、田中くんはこう言っていた。うらやましい。桜花ちゃんのことをうらやましいと思うのとは別の次元で、田中くんがうらやましい。桜井さんの顔を毎日見られて、毎日一緒に仕事をして……。私なんて、あの天皇賞以来、1年間桜井さんに会っていないのに……。
会いたい。桜井さんに会いたい。
「真央姉、今日のデザートはりんごだよ。あたしいらないから、真央姉、あたしの分も食べてよ」
扉を開けて、桜花ちゃんが部屋に入ってくる。布団の横に座って私を起こしてくれて、そしてまた部屋を出て行く。桜花ちゃんもこれから食堂でごはんを食べて、お風呂に入ってまた夜の飼付け(馬にエサ――飼葉をあげること)のために、外に出ていくのだ。私が風邪をひいたのも、たぶんそれが原因だと思う。半乾きの髪で外に出て、おまけに水を運んでいるときに転んで頭から水をかぶってしまったから、冷えてしまったのだろう。ああ、そういえば私の担当馬の飼付け、桜花ちゃんやほかの同期のみんなに任せっぱなしだった。早く治して、がんばらなくちゃ。
風邪をひいてしまってから、味がしないからあんまり食べたくはないのだけど、いくら何でも胃の中がからっぽのままで薬を飲むわけにはいかないから、とりあえずお味噌汁を飲んで、りんごをかじる。その音が静かな部屋に響く。とたんに、焦りと寂しさが押し寄せてきた。
私、どうしてここにいるんだろう。私は騎手になるためにここに来たのに、寝込んで実習ができなくなっていたんじゃ意味がない。桜花ちゃんやほかの同期のみんなは、私がこうして寝ている間にも経験を積んでいるのに。競馬学校では1年先輩の田中くんも、栗東で必死になって実習をしているのに。そして……桜井さんは、着実に勝ち鞍を伸ばしているのに。――――こんなんじゃ、いつまで経っても追いつけない。
11月の、冷たい朝。風邪もすっかり完治して、いつものように、朝ごはんの前の厩舎作業と朝飼付けを終えた私と桜花ちゃんは、のんびりと話をしながら食堂に向かっていた。
「さーてと、今日も1日がんばりますかぁ」
「そうだね。今日の実技って障害だっけ?」
「そうそう、あたしあれ苦手なのよ、この前落っこちたしさぁ」
そう。この前の障害飛越のときに、桜花ちゃんは珍しく落馬してしまったのだ。ちゃんと受身とっていたから怪我はなかったけど、あれには見ていたこっちがびっくりした。去年の天皇賞みたいな怖い思いをするのは、極力避けたい。
廊下を歩いていると、先生たちが何人か固まって話をしているのが聞こえてきた。挨拶をして通り過ぎようとしていた私の耳に、こんな声が届く。
「……しかし、田中が落馬とはね……」
――――え?
一瞬、耳を疑った。田中って、田中くん?
思わず立ち止まって、その会話に聞き耳をたてる。天皇賞の記憶が蘇ってきて、横にいる桜花ちゃんの袖をぎゅっとつかむ。
「病院に運ばれたってことは、相当ひどいんでしょうね」
「なんでも、頭を打ったらしくて意識がないとか……」
その言葉を聞いたとたん、こらえきれなくなってしまった。止めようとする桜花ちゃんの手をふりほどいて、心配そうな顔をして話している先生たちのところへ駆け寄る。面食らった顔をして、先生が一斉にこっちを向いた。
「いつ、栗東から連絡あったんですか!?」
「森本! 聞いてたのか?」
「教えてください! 落馬って、いったいどういう状況で……」
「今朝、調教中に落馬して、救急車で病院に運ばれたらしい。意識がないから一応学校にも連絡しておくって、桜井が……。とにかく、おまえが心配してもどうなるものでもないから。早く食事してこい」
「……はい」
煮え切らない返事をする私を、桜花ちゃんが食堂まで引きずっていく。桜花ちゃんの顔も、いつもよりも厳しい。桜花ちゃんだって田中くんとは結構親しかったのに、心配じゃないのだろうか。そんなことを考えていると、ふいに桜花ちゃんが振り向いた。私の両肩に手を置いて、ぎゅっと力を込めてくる。
「心配なのはわかるけど、真央姉、今は自分のことに集中しなよ。そんな上の空で乗ってたら、宏斗先輩みたいに落馬するのがオチだよ」
しっかりしなよ、という桜花ちゃんの言葉が、ずしんと胸に響く。確かに桜花ちゃんの言っていることは正論だ。私には、今田中くんの落馬に関してできることは何もない。ただ、自分がしなければいけないことを精一杯こなすだけ。それに、落馬っていうのは、ある意味避けては通れない問題なのだ。それにいちいち動揺していては、とうてい騎手になんかなれっこない。
しっかりしなさい、真央。田中くんはきっと大丈夫だから。きっと、2月になったら何事もなかったようにけろっとした顔で競馬学校に戻ってくるから……。
田中くんが落馬し、入院してから2週間後。頭を強く打ち、右足にヒビが入った田中くんは未だに入院中らしい。とりあえず命に別状はないと聞いて、私は少し安心した。もちろん、心配であることには変わりはない。けれど、命に別状がないのなら心配したってどうしようもない。治るのを待つだけだ。幸い、足の怪我もきちんと治れば馬に乗るのに差し支えはないらしいし。
「森本さん、手紙来てるわよ」
「あ、はーい」
夕方の厩舎作業が終わって寮に戻ってくると、寮母さんがそう言って私を手招きしている。全寮制という状況で、電話もよっぽどのことがないと取り次いでもらえないから、外部との通信手段は専ら手紙ばかり。だから、私は誰かが手紙をくれるのをかなり楽しみにしている。たった1年間しか通っていない高校の友達も時々手紙をくれたりするし、両親なんかは、切手を貼った返信用封筒まで同封して送ってくれたりする。この手紙は、一体誰からだろう。
封筒を受け取って差出人の名前を見ると、そこには『田中宏斗』の文字があった。田中くんが、どうして私に手紙を? だって、田中くんは中学校の頃から『自分は筆不精だ』って言い張ってるような人なのに……。
「真央姉、どうしたの?」
手紙を持ったまま立ち止まっている私に、後から来た桜花ちゃんが話しかけてくる。
「あたしこれから筋トレしに行くけど、真央姉は?」
「あ、ごめんね。今日は学科の復習したいんだ」
「……そっか。じゃ、またごはんの時にね」
怪訝な顔をしながらもトレーニングルームに向かう桜花ちゃんの背中を、私は少しうしろめたい気持ちで見ていた。学科の復習なんていうのは口実で、今はひとりになりたかったのだ。せっかく誘ってくれたけれど、今は早くこの手紙を読まなきゃいけない気がする。なんだか、胸騒ぎがする。筆不精な田中くんがわざわざ手紙を書いてよこすんだ、きっと、この手紙にはとても大事なことが書いてあるはず。
部屋に戻って、机の前に座ってゆっくりと手紙の封を切る。綺麗に三つ折にされた便箋を開いて、最初の1行目を読み始める。
『今度の日曜日、競馬学校に行くことになった』
今度の日曜日……明後日だ。でも、田中くんは今栗東で実習中なのに、しかもまだ入院中なのに、どうして……?
その答えを求めて、2行目を読み始めて――――凍りついた。そこに書いてあったのは、あまりにも信じられない言葉だったのだから。
『競馬学校やめることにしたから、挨拶のついでに残ってる荷物取りに行くよ』
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