三村桜花(4)
中学3年、1月。みんなが受験のために目の色を変えている時季の中で、学年でただ1人、あたしだけが浮きまくっていた。それもそうだ、みんなよりも一足先に、あたしは進路が決まってしまったのだから。
『競馬学校騎手課程合格』というあたしに対する風当たりは、かなり強かった。先に進路が決まったからっていい気になってるだの、女のくせに競馬学校に行ってどうするんだだの、あと……これはごく一部(あっことか)にしか言っていないのだけど、実は体操での推薦の話もあって、その話は当然断ったのだけど、それがどこかから漏れたらしくて、そのことでも散々陰口を叩かれていた。せっかく推薦の話があるのに蹴ったなんて、そこを目指している人に申し訳ないと思わないのか、と。
ばかみたい。あたしだって苦しかったのに。みんなよりも先に合格するってことは、みんなよりも先に受験があるってことなのだ。それはつまり、みんなよりも先に準備を始めなきゃ間に合わないってことなのに。しかも、いわゆる普通の学校を受けないあたしに、先生は構ってくれなかった。勝手にやれ、とまで言い放つ先生もいた。それがすごくむかついて、あたしは絶対に競馬学校に行ってやる、と決意を新たにしたくらいなのだ。
女のくせに、というのも腹が立つ話だ。そんなこと言ったら、真央姉はどうなるのだ。真央姉、というのは競馬学校の受験で友達になった子、森本真央ちゃんで、あたしよりひとつ年上(だから真央『姉』)。一見おとなしそうに見えるけど、意志はかなりしっかりしている子だっていう印象を受けた。何だかすごく女の子らしくて、こんな子でも競馬学校を受けるんだなぁ、とあたしはびっくりした。そんな真央姉だって、ちゃんと競馬学校に合格して(住所と電話番号交換してあったから、合格と同時に連絡をとったのだ。真央姉も合格してて、電話で大騒ぎしてお父さんに怒られてしまった)、あたしと同じ道を目指すのだ。女が騎手になっちゃいけないなんて決まりは、どこにもない。
それに、推薦を蹴ったからって文句を言われる筋合いはどこにもない。あたしは、それだけを目指してきたのだから。こんなこと言っては何だけど、もともと、あたしは騎手になるためのバランス感覚と筋力を養うために体操部に入ったのだ。そんな動機で始め、それなりに面白いとは思うけど情熱はない体操の道に進むことは、逆にそこを目指している人に悪い。
で、合格が決まってから。浮きまくってしまっているあたしは、学校ではおとなしくするように心がけることにした。あまり浮かれて、クラスの人の感情を逆撫でするようなことはしたくないのだ。あたしだって受験の直前はつらかった。だから、同じ思いを抱えているはずのみんなに、余計な迷惑をかけたくない。
「なるほど、だから最近桜花は暗かったのな」
「そーゆーこと。あたしに感謝しなさいよっ。そのおかげであんた、休み時間に居眠りできるんだからね」
学校からの帰り道。帰る方向が途中まで一緒の稔にそんなようなことを話すと、稔は感心したようにそう言った。そして、ふわぁ……と大あくびをする。眼鏡の奥の目尻に、涙が滲む。
2年前のあの日から、あたしは稔のことが嫌いではなくなってきた。お姉ちゃんや秋華と話したことを、成り行き上稔にも話さなければいけないような気になって話したら、稔はすごく喜んでくれて、『そう言ったからには絶対に騎手になれ!』と励ましてくれたのだ。あたしが受験を乗り切れたのは、ひょっとしたら稔のその言葉のおかげだったかもしれない。
「それにしてもあんた、何時まで勉強してるわけ? 体壊したら何にもならないよ」
「んー、なんか、勉強してないと不安になるからさ。今年も倍率高そうって話だし」
最近、稔は学校で居眠りすることが増えた。去年までは休み時間のたびにあたしや他の男子とおしゃべりしたり、外で体を動かしたりしてたのに、年が明けてからはもうダメ。休み時間だけじゃなくて、場合によっては授業までもが稔の貴重な睡眠時間と化しているのだ。
「今年も倍率3倍くらいになりそうだって。まったく、そこまでして男子校なんかに入りたいものかね……って、それは俺も同じか」
「あ、そっか。晃陵って男子校だもんね。あたしとは性別も脳みそも違う世界だわ」
はは、っと笑う稔。その笑顔が以前よりも心なしか暗くなったような気がして、あたしは少しつらくなった。稔は、あたしのことをわかってくれた。でも、あたしは稔のつらさをわかってあげることができない。
稔は、県外からも受験者がいるくらい名の知れた私立の、晃陵学園高校を受ける。男子校で、勉強以外することがないらしいから、毎年かなりの大学合格実績をあげているらしい高校。当然、合格するのはなかなか大変なのだという。うちの学校でトップクラスの稔でも、確率は五分五分だという。学年で真ん中くらいのあたしには想像もつかない世界だ。
「あああ、もう早く終われって感じだよー。桜花がうらやましいーっ」
その言葉に、内心ちょっとむかっとする。そりゃあ、うらやましいって気持ちはわかる。でもそれを本人の目の前で言うのはどうなのよ? それに、あたしだってかなりがんばってて、それくらい稔だって知ってるはずなのに……。
「桜花はいいなー、早々と合格決まったし、なんつーか、桜花の場合はがんばるっていうのも日常生活の範囲内だろ。だっておまえ、牧場の娘なんだし。合格して当然じゃん?」
――――その言葉を聞いた瞬間、あたしは立ち止まっていた。動けなかった。そんなことを稔から言われるなんて、思ってもみなかった。
稔は、何もわかってない。競馬学校の倍率は、だいたい40倍なのだ。稔が受ける晃陵なんかよりも、倍率は何倍も高い。そんな試験に合格するためには、日常生活にだってかなりの努力を要す。あたしだって、体重が増えすぎないように努力してきた。毎年夏休みには、安井さんに紹介してもらって大きな牧場に泊まりこんで、騎乗訓練をしてきた。牧場の娘だって、息子だっていっぱい不合格になるのだ。騎手の子どもも、調教師の子どもも、ほとんどが落ちるのだ。そんな中で合格できるのは、ほんの一握りの中の、そのまた一握り。合格して当然なわけがない。落ちて当然の試験なのだ。
そんな中で必死になってきて、どうにか合格を勝ちとったあたしのことを、そんな風に思ってたなんて……!
「ん? 桜花、どうした?」
パシンッ!
稔が、立ち止まったあたしの顔を覗き込んだ瞬間、あたしは稔の顔を思いっきりひっぱたいていた。呆然とした顔でこっちを見る稔。それを見てたら、ますます怒りがこみあげてきて……。
「桜花……あ、ご、ごめ……」
「もういい」
何かを言おうとする稔の言葉を、自分のものとは思えないくらいの冷たい声がさえぎる。あたしは、こんな奴に何を期待してたんだろう。わかってくれるはずなんてない。だって、稔はあたしの家業をバカにしたじゃないか。表面だけ取り繕っていても、内面はやっぱりバカにしてたんだ。
稔のことを信じてたあたしは、なんだったんだろう。
「稔ならわかってくれてるって、信じてたあたしがバカだった!!」
そう叫んで、あたしはその場から走り去った。こんなみっともない泣き顔、見られたくなかった。稔の顔を、見たくなかった。
稔のバカ、稔のバカ、稔のバカ!!
それから、あたしと稔はほとんど口を利かなかった。稔のことを、あたしがひたすら避けていたのだ。今回ばっかりは、稔が何を言っても許したくない。
そんなことをしている間に、晃陵の入試が終わった。うちの学校からは5人が受験していたけど、合格したのはただ1人――――稔だけだった。みんなに祝福される稔を、あたしは苦々しい気持ちで見ていた。あたしが必死になって勝ち取った合格のことをあんな風に思ってた稔なんかに、『よかったね』なんて口が裂けても言いたくない。
そんなことを考えているうちに、いよいよ、卒業式の日がやってきた。
「それにしても、稔くんの答辞よかったね。感動しちゃったよ」
「あっこ、実はあんたの目って節穴だったのね。あんなののどこがいいのよ」
式が終わった後の教室。中学生活最後のホームルームが始まるまで、あと少し。あたしとあっこは、教室の隅っこで卒業式の話をしていた。校長の話が長くて卒業生のくせに居眠りしちゃったとか、来賓の人の頭にライトが反射していてまぶしかったとか……卒業生代表の稔の答辞が、認めたくはないけどちょっとじぃんときたとか……。
『中学3年間の間に、人間関係で悩んだこともあったし、喧嘩したこともありました。それをそのままにして卒業するのは、本当の卒業とは言えません。だから、卒業生は今日中に、人間関係をきちんと修復してから卒業します。中学生活で、人間関係が嫌だった人は、嫌だったということをきちんと伝えてから。喧嘩したままの人は、相手ときちんと話し合って、したいと望むのならば仲直りをしてから。『あのときにちゃんと言えばよかった』という後悔は、きっと一生残ります。後悔したままでは、僕たちを3年間見守ってくれたこの学び舎に申し訳が立ちませんから、後悔は、全部この学校に置いていきます。卒業生のわがままを、許してください』
「桜花ちゃん、卒業したら寮に入るんでしょう? 稔くんに、3年も会えないんだよ? ちゃんと仲直りしておきなよ」
「いや、稔のことはもういいって。それよりあっこ、これ書いてよ」
さんざんあたしに仲直りを勧めるあっこに、あたしは卒業アルバムを開いて差し出した。アルバムの1番後ろにある、寄せ書き用の白いページ。3年間同じクラスで、あたしの合格を心から喜んでくれた、親友と呼べる相手だったあっこに書いてほしい。
「あ、じゃあ桜花ちゃんも書いて書いて!」
同じようにしてあっこが差し出してきたアルバムを手にとり、ペンできゅきゅっと書き込む。調理師を目指して、高校の家政科に進むことにしたあっこ。お店を持ちたい、って言ってたから、『お店持ったらあたし専用の低カロリーメニュー置いてね♪』と書いておく。あっこに書いてもらったものを見ると、『目指せ、桜花賞・秋華賞・菊花賞制覇!』と書いてある。応援してもらえるのは、すごく嬉しかった。
にこにこと笑ってアルバムを眺めていると、ふいに後ろから手が伸びてきて、あたしのアルバムは奪われてしまった。文句を言おうと思って振り向くと、そこには、稔がいた。
「ちょっと、何するのよ! 返して!」
「やーだよっ」
立ち上がって手を伸ばすけど、相手はあたしよりも20センチくらい背が高いのだ。届くわけがない。ジャンプして取ろうとしてよろけたあたしに、稔が小声で言う。
『返してほしけりゃ、後で校門のところで待ってろ』という稔の言葉は、中学最後のホームルームの間じゅう、ずっとあたしの頭の中をぐるぐる回っていた。
ぽかぽかとした、春の日差しの中。あたしは、言われた通りに校門の前で稔を待っている。中学生活3年間の思い出の写真がたくさん入ったあのアルバムに、せっかくあっこに寄せ書きを書いてもらったのに。返してもらえないなんて絶対に嫌だ。
……あと、実はほかにも理由がある。あっこの手前、あのときは照れくさくて言えなかったけど、あたし、本当は稔と仲直りをしたいのだ。いつまでも意地を張って仲直りしないまま終わるよりは、たとえ仲直りできなくても1度でも話をしてからのほうがいい。あたしのことを、口先だけかもしれないけど1度は励ましてくれた相手に、そのお礼も言わないまま競馬学校には行けない。
そう思って待っているのだけど……遅い。あたしと同じクラスだから、終わったのは同時のはずなのに、もう10分も待たされている。
「桜花! ごめんごめん、先生につかまってた」
と思っていると、稔が走ってきた。はぁはぁと息を切らしている稔を見ると、文句もどこかに飛んでいってしまう。急いで来てくれた相手に文句を言っても仕方ない。
「ここで話してても仕方ないからさ、歩きながら話すか」
「うん」
なんだか、素直に言葉が出てくる。2ヶ月近くも話していなかったなんて、嘘みたいだ。3年間通いなれた通学路とも、今日でお別れ。新しい生活には期待がいっぱいあるけど、でも、ほんの少しだけ寂しさを感じる。
「答辞、どうだった?」
突然そう聞かれて、あたしは答えに困った。素直に褒めるのは、まだ仲直りしてないから恥ずかしいし、かといってけなすのも気の毒だ。それにしても、どうしてそんなことあたしに聞くんだろう。
「いやぁ、先生につかまってた、って言ったろ? 実は、答辞のことで説教されてさ」
「え? そんな、怒られるような内容だったっけ?」
思わずそう聞き返すと、稔は照れたように笑った。
「実はさ『人間関係が……』って言った部分、あれ、先生と打ち合わせしてなかったんだ。どうしても言いたかったから、あの場で勝手に言ったんだよ。それで説教されたってわけ」
「はぁ……」
全く、稔ってやつは。お調子者で、クラスの問題児で、でも、誰からも好かれる稔。晃陵に受かって先生たちも安心してたんだろうけど、だからこそ答辞を任せたんだろうけど、やっぱり、最後の最後まで問題児だったってことか。
「で、桜花。俺がそう言った理由わかる?」
あたしは、答えなかった。考えられるのっていえば、あたしとの喧嘩のことくらいだけど、そんなこと言って違ってたら、あたしはとんでもなくうぬぼれてるってことになる。だから、何も言えない。稔のほうから謝ってくれるのを待つしかできない。
「……この前は、悪かった。ごめん」
「誠意が感じられない」
口ではそう言ったけど、あたしは泣きたいくらい安心していた。キレたのはあたしのほうだけど、一方的にひっぱたかれた稔だって怒っていて当然なのだ。もう、稔とは仲直りできるはずなんてないと思っていたのだ。だから、嬉しかった。稔があたしと仲直りしたいと思ってくれているのが、嬉しかった。意地張ってないと泣きそうなくらい安心した。
「ねぇ、稔」
安心したら、言葉がするすると流れ出てくる。ああ、稔はすごい。意地っ張りなあたしをここまで素直にさせる稔は、やっぱりすごい。
「あたしこそごめんね、稔。仲直りしてくれて、ありがとうね。あたし…………」
自分でも何を言いたいのかよくわからないまま、あたしの口からは次々と言葉が出てくる。稔が、じっとあたしを見ている。眼鏡の奥の、あのときと同じ優しい目。
「あたし、稔が好き」
一瞬、自分が何を口走ったのかわからなかった。けど、自分が発した言葉が何を意味しているのかがようやくわかってきて、あたしは真っ赤になってしまう。
ああ、でも、あたしはきっと、ずっと稔のことが好きだったんだ。だから、あたしは稔の前では泣いたりできたんだ。だから、稔にああ言われてすごくショックだったんだ……って、冷静に分析してる場合じゃない! とにかくこの場を何とかしなきゃ。
「あの、違うの、その、あのね、あたしね……」
「……違うんだ?」
「違わない!」
勢いでそう言ってしまって、あたしはもう1度真っ赤になる。稔が、くすくすと笑って鞄の中からアルバムを取り出して何かを書き込む。あれは……あたしが奪われたアルバム。驚くほど真剣な顔で、稔はペンを走らせる。そして……
「はい」
アルバムをぱたん、と閉じてあたしに手渡してきて、にかっと笑った。いつもの、お調子者の稔の笑顔。その笑顔の意味をいまいちつかみきれないまま、あたしはアルバムを開いて、ぱらぱらとめくる。あっこの寄せ書きの次のページに、稔の綺麗な字が並んでいる。
『もうちょっと早く気づけばいいのに。鈍感』
一瞬ムカっときたけど、次に書いてある言葉を見て、あたしは――――固まった。
『でも、そこが好き』
「3年、待つからな。3年経ってちゃんとした騎手になったら、まずは俺に会いに来いよ。おめでとう、はそれまで言わないからな」
心の奥が、じんわりあったかくなってくる。ありがとう、なんて照れくさくて言えないから、あたしは右手を稔に向かって差し出した。
「……握手しよ」
稔の大きな手が、あたしの小さな手を包み込むように握ってくれる。このぬくもりを、覚えていよう。くじけそうになるたびに、この温かさを思い出そう。
稔は、騎手を目指すあたしの、1番の支え。