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SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
6/22

三村桜花(2)

 キーンコーンカーンコーン……


「じゃ、あたし帰るねっ! 先生には何とかうまく言っておいて!」

「わかったー。また明日ねー」


 もうすぐ春休みになるある日。帰りのホームルーム終了を知らせるチャイムが鳴ると同時に、あたしはあっこに挨拶をして教室を飛び出した。『廊下は走らない』なんてポスターを無視して昇降口まで走って降りて、校門を飛び出す。今日ばっかりは部活をさぼって早く帰ることにした。だって、今日は仔馬が生まれるかもしれない日なのだ。

 昨日から産気づいていて、今日出産するかもしれないのは、うちの牧場で生まれて、一昨年引退して、うちで繁殖生活に入っているマリンブルー、通称マリン。残念なことに競走馬としての成績はあまりよくなかったけれど、血統的には結構な価値がある期待の牝馬だ。そのマリンの、初めての出産。立ち会わずにはいられない。

 しかも、マリンはあたしにとって特別な馬なのだ。マリンの生まれた日は、あたしが小学校に入学した日。しかも、あたしと誕生日が1日しか違わないのだ。偶然だと言ってしまえばそこまでだけど、でも、あたしにとってそんなマリンは特別な馬。秋華もマリンのことが大好きで、あたしと秋華はマリンの出産をずっとずっと楽しみにしていたのだ。

 ひょっとしたら、もう生まれているかもしれない。まだがんばっている真っ最中かもしれないし、まだまだ生まれるまで時間がかかるかもしれない。とにかく、早く帰ってマリンの様子を見なくては。学年の女子の中で1番足が速いのを、今日ほどありがたいと思ったことはなかった。




 家に着き、汚れてもいい服に着替えて玄関を出ると、厩舎のほうからお父さんが歩いてきた。短く刈り込んだ頭にタオルを巻いて、マリンが産気づいてからたぶん一睡もしていないのだろう、無精ひげを生やして疲れきった顔をしている。きっとこれから休憩だろうな。


「おう、帰ったか」

「ただいま。マリンはどう?」


 背の高いお父さんと話すときには、背の低いあたしは結構苦労する。あたしとは身長差が30センチほどあるお父さんを見上げて聞くと、お父さんはちょっと難しい顔をした。


「いや、まだまだ時間かかりそうだな。なにしろ初産だからなかなか出てこないんだよ」

「ふぅん……。あたしこれから見てくるね。何かあったら呼びに来ればいい?」

「ああ、頼む。さすがに疲れたからちょっと寝る」


 お父さんとそんな会話を交わして、あたしは厩舎の1番奥にあるマリンの馬房に向かう。そこにはお母さんとお姉ちゃんと秋華と、あと、出産の時季に毎回手伝いにきてくれる近所のおじさん、安井さんの姿が見えた。昔、北海道にあるうちよりも大きな生産牧場で働いていたこともある安井さんは、うちみたいな小さな牧場には貴重な人材だ。うちのお父さんだって知識と経験は豊富だけれど、そういう人が1人しかいないのはいくら何でもつらいものがあるから。


「だから、あんたは戻りなさい。まだまだ生まれるまでには時間かかるんだから」

「……やだ」


 近づいてみると、お母さんと秋華がなにか話しているのが聞こえた。声をかけようとしたのを思いとどまって、とりあえず会話に耳を傾ける。


「生まれたら呼びにいってあげるから、お父さんのところにいなさい」

「そうよ秋華、あなた、まだ宿題やってないでしょう? 戻ってやってきなさいよ。マリンには、お姉ちゃんがついてるわ」

「やだ。マリンと一緒にいるの」


 お母さんの言葉と、ちょっとピントがずれているようなお姉ちゃんの発言のおかげでなんとなく状況がわかった。秋華はマリンのそばにいたいのに、お母さんとお姉ちゃんが許してくれないのだろう。まぁ、いつ生まれるのかわからないのにいつまでも付き添わせるわけにはいかないから、お母さんたちの言うことはもっともなのだけど……でも、ここまで頑なに秋華を家に戻そうとするってことは、まさか、マリンと仔馬に何か危険が迫ってるんじゃ……?


「お母さんっ」

 いつまでもその会話を立ち聞きしてるわけにもいかないから、とりあえず馬房の前まで行き、声をかける。弾かれたように、4人があたしに注目する。


「おねーちゃんっ」


 と、秋華があたしに近寄ってきて、あたしの服をつかんで上目遣いになにかを訴えてくる。秋華のふくふくのほっぺが、夕方の冷え込みのせいで真っ赤に染まっている。


「おかーさんと菊花おねーちゃんがね、おうちに戻りなさいって言うの。ねえおねーちゃん、秋華、ここにいちゃダメ?」

「え、っと……」


 どうしよう、とお母さんに目で問いかけると、お母さんは『絶対ダメ!』というような表情をする。お姉ちゃんも、同じ表情。……秋華にはべらぼうに甘いお姉ちゃんまでもがそういう反応をするんだ。きっと、秋華に知られたくないことがあって、それを何となく感じているからこそ、普段は聞き分けのいい秋華がここまでぐずるのだろう。……仕方ない。


「ダメ。あんたは戻りなさい、秋華。お姉ちゃんの言うこと聞けないの?」


 泣き落としにかかろうとする秋華を、厳しい目で睨みつける。お母さんとお姉ちゃんは末っ子の秋華に甘いから、こういうときに鬼になれるのは、あたししかいない。


「……はぁい」


 まだ納得がいってなさそうな表情の秋華がそう言うと、今まで黙ってことの成り行きを見ていた安井さんが口を開いた。


「よし、秋華はいい子だな。ひとりで戻るの寂しいだろうから、おっちゃんが玄関まで送っていってやろう」


 そう言うが早いか、安井さんは秋華を担ぎ上げて肩に乗せ、あたしたち母娘おやこに目配せをしてすたすたと歩いていった。名残惜しそうな目で、秋華がこっちを見ていた。


「……で、マリンはどうなの?」


 2人の姿が見えなくなったところで、あたしはお母さんとお姉ちゃんに問いかけた。秋華に聞かせたくない話でも、追い返されていないあたしには聞く権利があるはずだ。


「陣痛は来てるんだけど、まだ押し出す力が弱いみたい。だからなかなか仔馬が出てこなくって……マリン、相当苦しがってるの……。促進剤ももう何本か打ってるんだけど、それでもダメで……」


 浮かない表情のお姉ちゃんがそう言う。それはお父さんも言っていたから知っているけど、それくらいは結構ありふれた話であって、それほど心配することでもないような気がする。一体、何が問題なのだろう?


「だから……下手したら、マリンのほうがもたないかもしれない」


 眉を寄せたつらそうな表情で、お母さんが搾り出すようにその言葉を発する。その言葉に、あたしの心臓がぎゅっと縮むような気がする。マリンがもたなくなる、ということは、マリンと仔馬が両方死んでしまうかもしれない、ということで、それを回避するためにとれる方法っていったら……。


「……仔馬、諦めなきゃいけないの?」


 あたしの言葉に、お母さんとお姉ちゃんがうつむく。残酷な話だけれど、母馬のおなかの中にいる仔馬を諦める覚悟さえすれば、母馬は助かるかもしれないのだ。母馬が生きてさえいれば、また仔馬を産むことができる。でも、母馬が死んでしまったら、それすら叶わなくなるのだ。……頭では、それが正しいってことだってわかっていても、でも、そんなことって……

「大丈夫よ、桜花ちゃん」


 唇を噛みしめてうつむくあたしに、お姉ちゃんがそう言う。顔を上げたあたしに、お姉ちゃんはふんわりと笑いかけ、自分の中の何かを吹っ切るようにこう言った。


「大丈夫。お父さんとお母さんと安井さん、それに私と桜花ちゃん。これだけの人間がついてるのに、マリンと仔馬を死なせたりなんかしないわよ。……ねぇ、お母さん」

「当たり前じゃないの。桜花、あんたまさか諦めるつもりだったんじゃないでしょうね?」


 2人の力強い言葉に、あたしの中のもやもやは晴れていく。お母さんもお姉ちゃんも諦めていないのに、あたしが諦めてどうする。だって、あたしが大好きなマリンは、まだ必死で仔馬を産もうとしているのに!

 マリンの横に座って、マリンのおなかをゆっくりと撫でる。あったかくて、大きなおなか。マリンも、この中の生命も、きっと今必死になって生きようとしている。

 がんばって、マリン。あんたのためにも、仔馬のためにも。あたしたち家族のためにも!

 突然、マリンがいなないた。マリンの足元で様子を見ていたお母さんが叫ぶ。


「菊花、桜花! 脚が出てきた。 あんたたちは引っ張り出して。 お父さんたち呼んでくるから!」

「はいっ!」


 お母さんが慌てたようにお父さんを呼びにいき、お姉ちゃんがマリンに駆け寄り、さっきまでお母さんがいたところに跪く。あたしもお姉ちゃんにならって、少しだけ出てきた仔馬の前脚を握り締める。その脚に何だか違和感を覚えたけれど、そんなことを気にしている余裕なんてない。前脚から出てきたということは逆仔ではないからとりあえず安心だし、脚が出てきたから、あとはマリンのおなかの中に引っかからないように引っ張り出すだけだ。


「せーのっ!」

 お姉ちゃんは右前脚、あたしは左前脚を持って引っ張る。もう1度、もう1度。思いっきり引っ張ると、仔馬がずるずると出てきた。その拍子にあたしは尻餅をついてしまって、敷いてある藁の上に倒れこむ。ああ、でも、何とか無事に出てきてくれた。けど、あたしが覚えたあの違和感は何だったんだろう。わからない。


「桜花ちゃん!!」


 悲鳴に近いお姉ちゃんの声に何かを感じ、あたしは慌てて起き上がる。マリンはちゃんと息をしていて無事みたいだ。でも、仔馬は……!?

 藁の上に横たわったまま、ピクリとも動かない仔馬。

 ――――あたしが覚えた違和感は、これだったのだ。引きずり出そうとして握った仔馬の脚には、あのときにはわからなかったけど、よく思い出してみたら……拍動が感じられなかったのだから。


「……死産、だったんだわ……」


 お姉ちゃんの声が、馬房の中に響いた。




「うそつき、うそつき! 菊花おねーちゃんも桜花おねーちゃんも、おとーさんもおかーさんも……だいっきらい!!」


 音をたてて閉まったドアと、そのドアに内側から鍵がかけられる音。そして、叫び声に近い秋華の泣き声。それを聞きながら、あたしはドアの前で立ち尽くすしかできなかった。

 マリンの仔は、やっぱり死産だった。前脚を掴んだ段階で既に冷たかったことから考えると、おそらくはおなかの中で既に死んでいたのだろうと、大人たちは言っていた。


『おねーちゃんがついてるから大丈夫だって言ってたじゃない! それなのに、どうしてマリンの仔は死んじゃったの? うそつき! おねーちゃんのうそつき!!』


 秋華にさっき言われた言葉が、心に突き刺さる。もちろん、あたしやお姉ちゃん、お母さんやお父さんが悪いわけじゃない。だって、おなかの中で既に死んでしまっていたのだ、あたしたちには何もできない。できるはずがない。だから、秋華があたしたちを責めるのは全く筋違いなのだ。

 けれど、秋華の言葉があたしの心をえぐる。あたしだってつらいのに、『うそつきのおねーちゃん』は、秋華の前では泣けない。『しっかり者の桜花ちゃん』は、お姉ちゃんの前でも泣けない。そして、ショックを受けているお父さんやお母さんの前でなんか、絶対に泣けない。部屋に秋華が篭ってしまった以上、あたしがひとりになれる場所なんて、どこにもない。

 心が痛い。みんなにかわいがられて、素直に泣ける秋華がうらやましい。

 心が痛くて、苦しくて、つらいのに。あたしは、どうやっても泣けなかった。




「おい桜花、こっち終わったぞー」

「…………」


 どれだけつらくても、日常は変わってはくれない。あたしは翌日に普通に学校に行かなければいけないし、何の因果かまたもや一緒に日直をやっている稔にからかわれるのも、変わらない。相手をするだけの気力がないのに、それでも稔はちょっかいを出してくる。

 ……もうやだ。早くひとりになりたい。心の奥の重い感情を、全部吐き出してしまいたい。そうすれば、ちょっとは楽になれるのかな。


「桜花、なんか俺に怒ってる?」

「…………」


 答える気がしない。というより、何かをする気力が残っていない。その証拠に、あたしの机の上に広げてある日誌は白いまま。


「何だよ、反応くらいしろよな。ちぇっ、かわいくねー奴」


 ――――考えるよりも先に、手が動いていた。立ち上がって、机の上にあった日誌を掴んで、近くの机の上に座っていた稔めがけて投げつける。

 『かわいくない』なんて、今は1番言われたくない言葉だ。だって、そのせいであたしは泣けないのだから。そのせいであたしは、こんなにも苦しいんだから!!


「何する……って、桜花!?」


 文句を言おうとしていたらしい稔の声は、途中で疑問形へと変わった。驚いている稔の顔が、何だか歪んで見える。頬を伝う涙が、やたらと塩辛かった。

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