森本真央(4)
田中くんに案内されて、最近改修されたメインスタンドに出ると、まず、芝の青が私の瞳に飛び込んできた。人のざわめきと熱気が、あたりの空気を支配する。馬を愛し、競馬を愛する人たちがここに集っている。
秋晴れの空。それまでのレースで使われて少し荒れている馬場。東京競馬場の名物の大けやき。そして……様々な馬のゴールを見届けてきた、ゴール板。きぃんと冷えた風が、珍しくおろしている私の髪を揺らし、頬を撫で、背後へ抜けていく。
心臓が、どくんどくんと音をたてて動き出す。
「おーい、森本?」
田中くんが私を呼ぶのが聞こえたけれど、返事なんかできなかった。はあっと、ため息にも似た声が漏れた。初めて来る競馬場は、私の心を思い切りゆさぶってくれた。
ここで、今までに数々の名勝負が行われてきたのだ。たくさんの馬がここで勝利を収め、たくさんの馬がここで競走馬人生にピリオドを打った場所。そして……
ああ、ここが騎手の仕事場なんだな。馬と人が、共に戦う場所。
早く、ここに騎手として来たい。スタンドからこの雰囲気を味わうのではなくて、コースの上からこの独特の雰囲気を味わいたい。早く騎手になりたい。
何があっても、絶対に騎手になりたい!!
「森本ってば!」
田中くんが大きな声で私を呼ぶまで、私は動けなかった。競馬場の魅力……というより、魔力みたいなものにすっかり魅入られてしまったのだ。
「……どう?」
私の内面の変化を感じ取ったようで、田中くんが私の顔を覗き込んでそう聞いてくる。
「……なんか……すごいね」
そう言うのが精一杯だった。心臓はまだどきどき言ってるし、それに、まだ頭の中は興奮状態。
けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。もうすぐ、馬がコースにやって来る。レース前のお披露目をしているパドックには行かなかったから、馬の調子を見られるのは本馬場入場のときだけなのだ。見逃すわけにはいかない。
スタンドが、わあっ……と沸く。誘導馬が2頭連れ立って馬場に出てきた。いよいよ本馬場入場と、足慣らしをする返し馬の時がやってきたのだ。
1頭、また1頭と、大歓声を背負って馬場を駆け抜けていく。桜井さんとパステルカラーは、赤い帽子の3枠5番。鞄の中から慌てて双眼鏡を取り出して、走り出すパステルカラーをじっくりと眺める。と、何だか妙なことに気がついた。
「……あれ?」
思わず声が出た。怪訝そうな顔でこっちを見る田中くんに双眼鏡を渡して、周りの人に感づかれないように小声で囁く。私の思い過ごしかもしれないのだから、あんまり騒ぎになってはいけない。
「ねぇ、パステルカラーの脚の動き、なんかおかしくない?」
そう。なんとなくだけど、パステルカラーの右前脚の動きが他の3本の脚と比べて鈍いような気がするのだ。私のその言葉に、田中くんは双眼鏡を覗き込む。
「え? ……あ、確かに少しぎくしゃくしてる気がしなくもないけど……。考えすぎじゃない?」
田中くんは不思議そうな顔をしながら私に双眼鏡を返して、また馬場をじっと眺めている。その目は、近い将来プロになる覚悟のある人の目で、私はそれ以上なにも言えなかった。だって、私はまだ素人でしかない。田中くんは競馬学校生だけど、私はそうではないのだから。
なんとなくもやもやした気持ちのまま、スタートの時間は刻一刻と迫ってくる。そして、そのときがやってきた。
スターターの合図でファンファーレが鳴らされ、秋晴れの東京競馬場の空に吸い込まれていく。スタンドを埋め尽くす、手拍子と歓声。ここにいるみんなが、ひいきの馬に期待をかけているのだ。その気持ちは、みんな同じ。
そして、私はその期待を桜井さんとパステルカラーに向ける。
ゲートが開いて、真っ先に飛び出したのはパステルカラーだった。あまりスタートが得意でない馬なのに、今日のスタートは今までで1番と言っていいほどの出来。レースで初めてコンビを組む割には、桜井さんとの息もそれなりに合っているように思う。だって、レースこそキャリアの長い別の騎手が乗っているけれど、調教のときにはいつも桜井さんが乗っているのだから!
「よし、パステルも和兄も落ち着いてるぞ」
力の入った、田中くんの声。そう、さっきまでプロの目だった田中くんの目は、もう既に身内――――従兄の勝利を願う人のものになっている。私だってそう。いつか同じ道に進みたいと思っているのだから、客観的に桜井さんの騎乗を眺めたいのだけれど……そんなの、目の前でレースを見ている限りは無理だ。冷静になれるわけなんかない。
大逃げをする馬も、極端に後方につける馬もいない中、パステルカラーは馬群のちょうど真ん中にいる。1000メートルの通過タイムは、このペースでいくとたぶん1分。ゴール横の電光掲示板に表示されたタイムは、私の読み通りちょうど1分。標準的なペースだ。ここから、徐々に馬群がばらけだす。直線に入る前に馬ごみを抜ける作戦を取る騎手もいるし、最終コーナーでうまくさばいて進路を確保する方法を取る騎手も。桜井さんは、いったいどんな手綱さばきをするのだろう。そして、パステルの妙な歩様は大丈夫だろうか。直線に入るときには脚に負担がかかりやすいのだけれど、乗り切れるだろうか……。
馬群を目で追っていたら、最終コーナー前の大けやきに視界が遮られる。いつもいつもこの木を邪魔だとは思うけれど、あるものは仕方ない。どうせ見えなくなるのなんかほんの数秒なのだから。その間に劇的な変化なんか起きるわけ――――
次の瞬間、私は息を呑んだ。自分の目で見ているものが、信じられなかった。
パステルカラーがいきなりバランスを崩し、桜井さんが馬場に投げ出されたのだ。
寒いわけでもないのに背中にすうっと冷たいものが走り、両足ががくがくと震える。場内のどよめきが、急激にフェードアウトしていく。だって、落馬ってことは、もしも運が悪かったら――――!!
「森本!」
田中くんが私の肩を掴んでがくがくと揺さぶる。それでようやく意識が現実へと戻ってきたけれど、まだ震えが止まらない。いつの間にか競争を中止したパステルカラー以外の全ての馬がゴールしたらしくて、場内にはパステルカラーが転倒したことについての審議を伝える放送が流れる。けれど、そんなのはどうでもよかった。だって、桜井さんが担架に乗せられて、そのまま救急車へと担ぎこまれてしまったのだから。
どうしよう。
桜井さんにもしものことがあったら、どうしよう……!!
「おい、桜井は大丈夫か?」
「あれはやばいだろ。下手したら死んだんじゃねぇの?」
場内のざわめきの中から、その言葉だけがはっきりと私の耳に届く。心臓が、その言葉に向かってぎゅっと縮む。
「……や…………っ」
思わず、声を漏らしてしまう。頭の中でその言葉が回り続けて、逃げられない。その場にずるずると崩れ落ちるようにしてしゃがみ込み、耳を塞ぐ。けれど、その言葉はいつまでも私の中から離れない。
田中くんが私を抱え起こしてくれるまで、私はその場から動けなかった。
その後、何がどうなったのかはよく覚えていない。覚えているのは、呆然とする私を田中くんがタクシーに乗せて、桜井さんが搬送された病院に連れて行ってくれたことだけ。そこで私はようやく落ち着いて、今、病院の待合室で桜井さんを待っている。
待合室のベンチはただ冷たくて、病院全体がしんとしていた。北野調教師もパステルカラーの担当厩務員さんも怪我をしたパステルカラーのところに行っているし、田中くんは桜井さんのご両親(つまり、田中くんの伯父さんと伯母さん)と北野調教師に電話しに行っているから、今待合室にいるのは私だけ。
『下手したら死んだんじゃねぇの?』
落馬で人が死ぬなんてこと、ありえないと思っていた。そんなのは昔の話で、今の時代にそんなことが起きるなんて思ってもみなかった。
けれど、よく考えてみたら、私の思いなんていうのは根拠のない幻想でしかなかったのだ。だって、『そんなのは昔の話』ということは、裏を返せば『今でこそそんな大惨事は起きなくなっているけれど、昔は実際にそういう事故があった』ということなのだ。事故に、昔も今も関係なんてない。馬に乗っているのは、昔も今も人間なのだから。
そこまで考えたら、突然怖くなってきた。
同じ人間である私だって、いつそうなったっておかしくはないのだ。もし競馬学校の入試に運良く合格して、そして騎手になったとしたら、私だって今回のような落馬事故を起こす可能性はあるのだ。そうなるのは実際に騎手になってからかもしれないし、ひょっとしたら、競馬学校在学中に落馬するかもしれない。騎手を目指す以上、落馬は避けては通れない問題なのだ。そうなるのは正直、怖い。
こんなこと考えている私が、騎手を目指してもいいのだろうか。その程度の覚悟ができていない私が、運良く競馬学校に合格したとしても、ちゃんと騎手になれるのだろうか……。
膝の上で握り締めた手に、力がこもる。何をばかなことを考えているのだ、私は。試験はもうとっくに終わって、後は結果を待つだけなのだ。合格しているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けれど、もう後にはひけないのだ。
騎手になるのは、私が選んだ道なのだから。
「森本」
田中くんの声に、私はうつむいていた顔を上げた。田中くんは妙にさっぱりとした顔をして、ジュースの缶を2本持って歩いてきた。
「ごめんごめん、戻ってくる途中で和兄のことで医者につかまってさ」
私の隣に座って、そのうちの1本を渡してくれ、そして自分はさっさとプルタブを開けて飲み始める。私がもらったのは温かいミルクティー。田中くんが飲んでいるのはウーロン茶。
「早く飲まないと冷めちゃうよ」
「……ありがと」
冷え切ってしまった手に、ホット缶の温かさが沁みていく。なんだか、その温かさがありがたかった。
「それ、看護師さんからもらったやつだから。後でお礼言っておきなよ」
「うん……」
桜井さんのことが気になって、返事がうまくできない。田中くんがあんなにさっぱりした顔をしているのだから、きっとそんなに深刻な怪我ではないのだろう。でも、お医者さんから説明を受けたのならきちんと教えてほしい。確かに私は身内ではないけれど、それでも私なりに心配しているのだから。
「さっき北野調教師に電話したけど、パステルカラー、骨折してるみたいだって」
……骨折。桜井さんが乗った馬が骨折するのは、これで2頭目だ。1頭目は悲しいことに安楽死処分になってしまったけれど、パステルカラーはどうなるのだろう。できることなら、そうはならないでほしい。たとえ2度と競走馬として復帰できなくてもいい。けれど、命だけは助けてあげて。だって、そうじゃなきゃ生産者さんも、馬主さんも、北野調教師も、厩舎のスタッフも、そして、パステルカラーを愛してくれている競馬ファンも、みんな悲しい思いをすることになるのだから。
……そうなってしまったら、桜井さんはまた、自分を責めてしまうだろうから……。
「それ飲んだら、和兄に会ってきなよ。肋骨に少しヒビ入った程度で済んだらしいし、本人もさっき目ぇ覚ましたらしいけど、肋骨以外はいたって健康らしいから」
まるで小さな子どもに言い聞かせるように、田中くんはゆっくりと、ぐちゃぐちゃになってしまった私の頭にもちゃんと届くように話してくれる。そのおかげで、ぐちゃぐちゃになってしまっていた私の意識はようやく元に戻り始める。
「オレ、もうすぐ学校に戻らなきゃいけないんだ。だから、悪いけど和兄のところには1人で行ってくれる? 北野調教師がもうすぐこっちに来て、森本のこと東京駅まで送ってくれるらしいし」
田中くんのその言葉に、私はこくんと頷いた。桜井さんが元気だと聞いて、心が少し軽くなったし、そして、今私がしなくてはいけないことが何となくわかったから。
田中くんと今日のところは笑顔で別れて、桜井さんに会って元気だということを確認して、そして、家に帰る。予想以上に帰るのが遅くなってしまいそうだから、お父さんとお母さんが心配しているはずだ。早いうちに連絡を入れなくては。
ミルクティーの最後の一口を飲み終えて、私は立ち上がった。やるべきことはたくさんある。グズグズしている暇なんてない。
空の西端が、オレンジ色に染まっている。初めて桜井さんと会った日から、もう1年。
あの頃の私は、自分の進みたい道に踏み出すこともできない甘ったれの子どもだった。
あの頃の桜井さんは、自分の進んだ道を後悔していた。
あれから、いつの間にかもう1年。私は、少しでも成長できたのだろうか。
「ごめん、せっかく見に来てくれたのにドジっちまった」
ベッドに横たわったまま、桜井さんが苦笑を浮かべる。1年前に比べたら、ずいぶん大人っぽくなった桜井さん。少し疲れているように見える、桜井さん。
「そんなの、いいんですよ。誘ってくれてありがとうございます」
桜井さんの枕元に座って、まずは感謝の気持ちを込めてお礼を言う。レース自体はうまくいかなかったけれど、桜井さんは、大切なことを気づかせてくれたのだから。
「……競馬って、怖いよな」
桜井さんが天井を見つめてつぶやく。その言葉に、私は黙って頷いた。一瞬の油断が文字通りの命取りになる世界に、桜井さんは住んでいる。だからこそ、この言葉は胸に響く。
「大観衆の前で思うような騎乗ができるときもあるし、全くできないこともある。体重制限があるから必死になって努力しなきゃいけないけれど、その努力に見合うだけの結果がついてくるとは限らない。おまけに――――こうやって怪我することも、よくある」
そう言って、桜井さんは顔を私のほうに向けた。そのまま、まっすぐ私を見据え、口を開く。次に桜井さんが言う言葉は、もうわかっている。そして、その答えも私の中に既にある。
「それでも、真央ちゃんは騎手になりたいって言い切れる?」
一切の嘘もごまかしも込めずに、私はまっすぐ桜井さんを見つめた。
「……はい。桜井さんは……どうですか?」
それでもなりたい、って言い切るのは、考えが甘いのかもしれない。けれど、それでもなりたい。騎手以外になりたいものなんて、思いつかない。
そして、私にそういう質問をした桜井さん自身の答えも聞いてみたい。同じ夢を抱いて、私よりも一足先にその夢を実現させた人の答えを。
桜井さんは一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑顔になってこう言った。
「当たり前じゃん。そうじゃなきゃ真央ちゃんにそんなこと聞かないし」
桜井さんの笑顔に、なんだか心がほぐれていくのを感じる。桜井さんから、また先に進むための力をもらってしまった。
こうやって力をもらった以上、私はもうあきらめない。