表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
3/22

森本真央(3)

 田中くんのあの発言からも、私たちの関係は全くと言っていいほど変わらなかった。というよりも、お互いが関係を変えないように意識していたと言ったほうがいいかもしれない。

 確かに、田中くんのことはすごく好きだ。一緒にいると楽しいと思う。けれど、それは恋愛感情とは違う気がするのだ。けれど、どこが違うのかと聞かれても答えることができない、そんな感じ。

 だから私は、自分の中ではっきりと答えが出るまでは返事をしないことに決めたのだ。中途半端なままで返事をするなんてことは私にはできないし、それに、そんなことをしてしまったら田中くんに対してすごく失礼だと思う。私のことをおそらくは真剣に好きだと言ってくれている相手に対して、中途半端な返事をするわけにはいかない。田中くんにも私のその思いは伝わっているらしくて、返事を急かすようなことはせず、ただ、今まで通りの態度を貫き通してくれている。それが、ありがたかった。

 時間は、淡々と流れていく。高校受験当日が来て、合格発表があって、そして――――卒業式がやって来る。




「んじゃ、宏斗と真央ちゃんの合格を祝って、乾杯っ!」


 片手にウーロン茶の入ったグラスを持って、桜井さんが乾杯の音頭を取る。それに続いて、田中くんのお父さんや厩舎のスタッフがグラスをかちゃん、と打ち鳴らす音があちこちで聞こえる。

 3月の中旬の、暖かい月曜日。桜井さんが遊びに来るというので田中くんの家にお邪魔してみたら、何とそこでは『ヒロ坊の門出を祝う会』なるものが開催されていて、しかも、私が来たのをきっかけに、その会は『ヒロ坊の門出を祝い、真央ちゃんの今後を応援する会』なるものに早変わりしてしまったのだ。騎手になることを決めてから何度か厩舎に行ったことがあるのでスタッフとは顔見知りになってはいるけれど、正直、ちょっと気まずい。だって、田中くんのお母さん以外、女は私だけなのだ。


「まったくもう……結局自分たちが酒飲んで騒ぎたいだけじゃんかよー」


 部屋の壁にもたれかかって、私と田中くんはウーロン茶をちびちびと飲む。和室の中央には長机が置かれていて、その上には田中くんのお母さんや、厩務員さんの奥さんのお手製の料理が大量に載っている。私を入れてもたった10人の宴会で、しかも桜井さんと田中くんは普段からそんなに食べない癖をつけているから、食べるのは専ら厩務員さんばかり。これだけの量が一体誰の胃袋に入るのだろうか、と心配になってしまう。


「はいはい宏斗、せっかく祝ってもらってるんだから愚痴言わない。真央ちゃん、何か食べたいものあったら取ってきてあげるよ」


 さっきまで厩務員さんと戯れていた桜井さんがこっちに来て、私と田中くんに割り箸を手渡してくれる。


「大丈夫です、自分で取ってきます」

「でも、あの中に入って取ってこれる自信、ある?」


 そう言われて机のほうを見てみると、机のあたりではすっかり酔っ払ってしまった男性陣が大盛り上がりを見せている。確かに、あまり近寄りたくない雰囲気だ。うちのお父さんがあまりお酒を飲まないから、ああいうのには慣れていないのだ。

 怯む私を見て、桜井さんはちょっと笑ってこう言ってくれた。


「待ってなよ、適当に見繕ってきてあげるから」

「あ、じゃあ和兄、オレの分も」

「おまえは自分で行け」


 田中くんにはそう言い置いて、桜井さんはすたすたと机のほうに歩み寄っていき、私の分と自分の分を取って戻ってくる。それから、未成年3人組(桜井さんはまだ19歳)で仲良くごはんを食べた。


「ところでさ、宏斗は入学式で何言うつもり?」

「へ? 何それ。入学式でボケなきゃいけないわけ?」

「違うって。入学式で新入生は抱負を言わなきゃいけないの。で、そのときに何を言うつもりか、ってことだよ、俺が聞きたいのは。マスコミたくさん来るから、うかつなこと言えないぞー」


 そういえば、競馬学校の入学式にはそんなようなものがあると聞いたことがある。もしも私が合格したとしたら、私は一体何を言うだろう。3年間がんばります、というのは違う気がするし、目標とする騎手の名前を挙げるといっても、各々の騎手にそれぞれ違った特性があるから、1人には絞れない。というより、こういう心配は合格してからするものであって……。


「じゃあ、オレは……『桜井騎手が目標』って言ってやろうか?」

「だめ! それは私が言うっ」


 『桜井騎手』という単語が聞こえてきた瞬間、咄嗟にそう言っていた。さっきまで『1人には絞れない』なんて思っていたのに、でも、やっぱり私の目標は桜井さんなんだ。

 で、2人は突然そんなことを言い出した私をぽかんとした表情で見ていたかと思うと……


「……ぷっ」


 田中くんが吹き出したのをきっかけに、爆笑しだした。桜井さんにまで笑われてしまって、少し釈然としないものを感じる。確かに突飛な発言だったとは思うけれど、そこまで笑われてしまうとかなりせつない。そして、恥ずかしい。顔が赤くなるのが自分でもわかる。


「わかったわかった、じゃあそれは森本が入学してきたときに聞かせてもらうわ。しっかし、それって合格してから考えることじゃん、森本。……あー、腹痛ぇ」

「もう、そこまで笑わなくてもいいじゃない」

「でも、嬉しいなぁ。そうやって『目標だ』って言ってもらえるの」


 ひとしきり笑い終わったらしい桜井さんが、にっこり笑って言う。その笑顔を見て、なんだか心の奥がほんわか温かくなるような気がした。桜井さんは、こうやっていろんな人に、そして馬に、幸せを与える人なんだと思う。


「そういや和兄、昨日の第3レースだけどさ……」


 田中くんがそう言ったのをきっかけに、そこからはもうひたすら競馬談義に花が咲く。

 現役騎手と、騎手の卵と、騎手を目指す女の子。そんな3人だから、必然的に話題は馬のことばかり。田中くんと話すのよりも楽しいと感じるのが、自分でも不思議だった。




「いや、今日は楽しかったなー」

「そうですね。本当、楽しかったぁ」


 帰り道。これから栗東に戻るという桜井さんと一緒に、のんびりと川原を歩く。私の家はちょうど駅の近くなので、一緒に行こうということになったのだ。日差しはぽかぽかと暖かく、初めて桜井さんに会ったときよりも空気が柔らかくなっていて、もうすぐ春が来るのだということを感じる。3歳戦が、これからどんどん面白くなる季節。


「でも、突然お邪魔して悪いことしちゃいましたね」

「いや、ああいうのは人数多いほうが楽しいからさ。気にしない気にしない。それに俺、真央ちゃんにもう1回会いたかったし」


 さらっとそう言ってのけて、桜井さんは笑った。あっけらかんとした笑み。悩みとは無縁そうな、そんな表情で。


「スランプから抜けられたのは、真央ちゃんのおかげだからさ。……ありがとう」

「そ、そんなことないですよ! 私はなにもしてないですよっ。切り抜けたのは、桜井さんじゃないですか」


 私が慌ててそう言うと、桜井さんは大真面目な顔で言う。


「いや、本当に真央ちゃんのおかげなんだって。……俺さ、レースの前には真央ちゃんのこと思い出すようにしてるんだ。俺にもう1度チャンスをくれたのは、背中を押してくれたのは、真央ちゃんだから。真央ちゃんがレースを見ててくれるかもしれない、って思うと、気合入るんだ」


 そう言われて、なんだか恥ずかしくなってきてしまった。だって、私は本当に何もしていないのだ。乗り越えたのは、乗り越えるまでに苦しい思いをしたのは、ほかでもない桜井さん自身。そして、いい騎乗をしたのも、桜井さん自身。

 なのに、桜井さんは優しく言ってくれる。今日の日差しのような、優しい笑顔で。


「だからさ、たくさん力をもらったから、今度は俺が真央ちゃんの背中を押してあげる番。俺にできることがあったら、何でも言ってよ」


 ……こんな子供の私を、対等な存在として扱ってくれている。それは嬉しくもあったけれど、同時に、とても重い言葉でもあった。だって、それは早く桜井さんと同じ場所まで行かなければいけないということだから。早く対等にならなければいけないということだから。

 いつの間にか、駅はもう目の前だった。桜井さんはこれから電車で栗東まで帰って、そして、また馬と一緒の生活に戻る。


「じゃ、また手紙書くよ。体重には気をつけなよ。競馬学校受けられなくなったらシャレにならないからね」

「はい。桜井さんも怪我しないでくださいね」


 改札の前で見送る私に手を振って、桜井さんは電車に乗り込む。電車はするすると発車して、私だけが日常に取り残される。まだ競馬の世界に行けないのは、私だけ。

 早く騎手になりたい。田中くんや桜井さんに追いつきたい。強く強く、そう思った。




 それから、時間はどんどんと流れて秋がやってきた。


「森本!」


 田中くんが手を振っているのが見えて、私は人波を掻き分けて駆け寄っていった。秋晴れの、東京競馬場。今日のメインレースはG1・天皇賞。

 桜井さんは今日、北野厩舎の馬・パステルカラーと組んで初めてのG1に挑戦する。1ヵ月前にG1の騎乗条件である31勝をクリアした桜井さんは、落馬したパステルカラーの主戦騎手に代わっていきなり天皇賞に乗ることになったのだ。


「久しぶりじゃん、元気してた?」

「田中くんこそ。競馬学校はどう?」


 そう聞くと、田中くんは唇に人差し指を当てるポーズをした。田中くんをよく見てみると、競馬学校生が競馬場に来る際には制服着用のはずなのに、田中くんは私服。……ということは……。


「田中くん、まさか学校に黙って来たの?」

「そういうこと。だからバレたらマズいの。森本来るって言うからさ、一緒に見たかったんだ」


 悪戯っぽく笑って、田中くんは言う。……まだ例の発言に答えを返せていない私には、そんな言葉がちょっと心に痛いから、曖昧に笑うことしかできない。

 そんな私の心境を察したのか、田中くんは話題をそらした。


「しかし、和兄も無茶苦茶だよなー。切符届いたの、金曜日だって?」

「そうなの。びっくりしちゃった」


 そう。2日前の金曜日にいきなり桜井さんから速達で手紙が届いたと思ったら、その中には東京までの新幹線の往復切符が入っていたのだ。便箋には『よかったら見にきてよ』という言葉。ちょうど見に行くかどうか悩んでたところだったから、最近はもうすっかり何も言わなくなったお母さんにも正直に話して、東京まで見に来ることにしたのだ。


「ま、試験終了祝いってことなんじゃない? 森本、お疲れさん」

「でも、結果出るまでまだ1ヵ月あるんだよ……」


 そう。先週、競馬学校の入学試験が終わったのだ。1次試験は9月にあって、私は桜井さんが所属する栗東のトレーニングセンターで受験してきた。試験会場の近くまで行った段階で私はガチガチに緊張してしまっていたけれど、桜井さんがわざわざ顔を見に来てくれて、それでかなり救われたのだ。というか、それがなかったら1次で落ちていたのではないかと自分でも思う。

 で、先週あったのは、2次試験。千葉県白井にある競馬学校で行われた、3泊4日の合宿形式の試験だった。保護者面接もあって、それにはあんなに反対していたはずのお母さんが来てくれた。

 そこで、女の子の友達ができた。女子の受験者は私のほかに4人いて、そのうちの1人、三村 桜花おうかちゃんという子とはかなり意気投合して、連絡先を交換して『また春にここで会おうね』と約束して別れた。同じ夢を持つ同性の子の存在を確認できて、嬉しかった。

 入試結果は、来月届く。


「それにしても、疲れただろー。今日は気晴らしにパーッとやろうぜ。もちろん、賭けない方向で」

「そんなの当然でしょ、私たちは未成年なんだから」


 そんな他愛もない冗談を交し合いながら、田中くんの案内でメインスタンドへと足を進める。

 もうすぐ、桜井さんの初めてのG1、天皇賞が始まる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ