森本真央(2)
ずっと、騎手になりたかった。
小さな頃から競馬に興味があった私は、もともと小柄だったことを幸いに、密かに騎手を目指していた。馬に関する知識を本で勉強して、JRA(日本中央競馬会)に女性騎手が誕生したときには勇気づけられた気がして、すごく嬉しかったし、いつかは同じ場所で競馬をしたい、そう思い続けてきたのだ。桜井さんのデビュー戦を見てからは、その思いに更に拍車がかかった。
けれど、その夢はあっさりと壊れてしまった。挑戦する前に、粉々に打ち砕かれてしまったのだ。お母さんの言葉が、その原因だった。
『真央は、当然南高を受けるんでしょう?』
今年の4月のことだった。3年生になってすぐの頃、担任の家庭訪問のときに、お母さんは私にこう言ったのだ。騎手になりたい、ということを競馬嫌いのお母さんにいつ打ち明けるべきかどうか悩んでいたところにそう言われてしまって、踏ん切りがつかなかった私はそこで言葉を濁した。
いつかはしなければいけない話だけれど、その話は先生が帰ってからゆっくりしようと思っていたのだ。先生の前で言ってしまったら、お母さんと先生の2人がかりで説得されてしまうのが目に見えているから。とにかくこの場を乗り切って、それから何とかお母さんを説得しようと思っていたのだ。態度がどれだけ不自然になろうとも、ごまかせればそれでよかった。
けれど、言葉を濁したことでごまかせたと思っていたのは、私だけだった。
『ああよかった。だって先生、この子ったら女の子なのに競馬が好きとか言うんですよ。もしも騎手になるとか言い出したらどうしようかって悩んでたところでねぇ……』
この言葉が、私の夢を粉々に打ち砕いた。お母さんが反対するのはわかりきっていた。どうにか説き伏せるつもりでいたけれど、『悩んでた』なんて言われてしまったら、どうにもできなかった。
本当なら、私にはお兄ちゃんかお姉ちゃんがいたはずなのだという。けれど、その子供は流産だった。その流産以降、子供を授かることは難しいとお医者さんに言われていて両親はずいぶん苦しんだらしいけど、お母さんは何とか私を身ごもり、生んだのだという。たったひとりの娘を。
だから、お母さんは私をがんじがらめにしてきた。たったひとりの娘なのだから、どうしても間違いのないように育てたいという意志がそうさせたのだろう。そう思う気持ちは、お母さんからもお父さんからも聞かされ続けてきたから、よく知っていた。
そんな風にして育ってきたから、そうすることが正しいのだと思ってきたから、困らせてまで自分の夢を貫き通すなんてこと、私にはできなかった。
だから、私はその夢を心の底に封じ込めた。誰にも言わずに、お母さんが望むように県内トップの南高に進んで、お母さんを安心させるつもりだった。けれど、それ以来お母さんのことを素直に好きだと言えなくなってしまって、競馬を見るのを止めさせようとするお母さんと喧嘩することが増えた。見ることが、あきらめた夢のせめてもの代わりなのに。
そう、私はあきらめたはずだった。なのに。
……どうして涙が止まらないのだろう。どうして、こんなに胸が苦しいのだろう。
「……落ち着いた?」
「……ごめんなさい……」
心配そうな桜井さんの言葉に我に返って、まだ鼻はぐずぐずしていたし、今までのことを全部話してしまったせいで喉ががらがらだけれど、何とか声を押し出す。ずいぶん長く泣いていたから、太陽はもう半分くらいしか見えなくなっている。
「どうして謝るの?」
うつむいた私の顔を覗き込んで、桜井さんはこう言った。そして、桜井さんは私の頭の上にぽん、と手を置いた。今までずっと馬を慈しみ、勝たせてきた、温かくて優しい手。
「……つらかったね」
優しい言葉。初対面でいきなり八つ当たりみたいな発言をした挙句に大泣きしてしまった子供に、桜井さんはこんなにも優しい言葉をかけてくれた。つらいのは、桜井さん自身なのに。桜井さんのほうが、私なんかよりもずっとずっとつらいはずなのに…………。優しさに、また涙が滲む。
「でも、真央ちゃん。あきらめる必要なんかどこにもない。俺だって、母親の大反対を押し切って騎手になったんだ。俺にできたことが、真央ちゃんにできないはずはない」
オレンジ色に染まった川面をまっすぐ見つめながら、桜井さんは断言する。あまりにも力強く言ってくれるものだから、私は逆に心配になってきてしまって……あろうことか、4つも年上の桜井さんに言い返してしまった。
「で、でも……桜井さんと私じゃ違いすぎます……」
「そう、俺と真央ちゃんは別人だよ。真央ちゃんと真央ちゃんのおふくろさんが別人なようにね」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。桜井さんは、そんな私を見てにっこり笑う。
「そうだろ? だから、おふくろさんのことを気にする必要はどこにもない。母親だからって、子供の人生をコントロールする権利を持つわけじゃないんだ」
その言葉は、夢をあきらめてから乾いてひび割れてしまった私の心にじいんと沁みた。初めて夢を打ち明けた人が、こうやって私を後押ししてくれる。それは、とてもとても嬉しかった。
感動のあまり何も言えずにいる私を見て、桜井さんはほうっとため息をひとつついた。そして、立ち上がってジーンズについた草をぱんぱんと払う。
「で、真央ちゃんにそんなえらそうなことを言ったからには……俺もがんばらなきゃ、いけないんだよな。このままじゃ、いけないんだよな。――――真央ちゃん」
立ったまま、桜井さんは目線だけをこっちに向けた。
「俺を追いかけてきてよ。情けないけれど、俺ひとりじゃ今の状況から抜けられる気がしないんだ。だから、ちょっと後ろから、俺のこと追いかけてくれないかな。自力で走れるようになるまで、真央ちゃんに追いつかれないように、俺、死ぬ気で走るから。あの馬の分まで、走るから」
私を見下ろして、オレンジ色の空をバックにして桜井さんは笑った。桜井さんの髪が風になびいて、黒髪がオレンジ色に染め上げられている。その光景はあまりにも綺麗で、私の心臓は大きく打った。
でも、それ以上に桜井さんの言葉のほうがよっぽど私を驚かせた。私は、桜井さんを追いかけていいんだ。桜井さんは追いかける対象になってくれるんだ。
――――桜井さんは、これからも走り続けてくれるのだ。よかった。本当によかった…………。
「……私、桜井さんを追いかけていいんですか?」
「もちろん。そう簡単には追いつかせる気ないけどね」
1度決壊した涙腺が、再び緩む。ぼろぼろと泣く私に、桜井さんは手を差し伸べて立たせてくれた。長い時間外にいたせいで冷え切ってしまっていた私の手に、桜井さんの温かさが伝わってくる。
「行こうか」
「はい」
私たちは、並んで歩き始めた。自力で走れるようになったらぶっちぎってやるから覚悟しておいてと、桜井さんが笑いながら言う。
私も、そして桜井さんも。これから、ここからもう1度歩き始める。
「そう言えば、森本って結局どこ受けるの?」
年が明けて、1月。始業式の帰りに中山金杯について語り合っていたら、突然田中くんがこう聞いてきた。以前はお母さんの言いなりにならなければいけない受験がとても嫌だったけれど、もう気にならなくなってきた。だから、受験校を堂々と言える。
「今年は南高を受けるの。先生もたぶん大丈夫だろうって言ってくれてるし、それに、絶対に合格しなきゃいけないんだから」
「え、『今年は』って? それに、森本って競馬学校志望だろ?」
私の夢を知っている(桜井さんに会った次の日に話したのだ)から、私が普通に受験をすると聞いておかしいと思ったのだろう。不思議そうな顔をして立ち止まった田中くんに、私は笑顔でこう言った。
「両親がね、南高に合格したら競馬学校受けてもいいって」
そう、桜井さんと会ったその日の晩に『騎手になりたい』と両親に打ち明けたのだ。突然の私の言葉にお母さんは半狂乱になり、お父さんはしばらく神妙な顔をして黙りこくっていたけれど、私の初めての自己主張を受け入れてくれ、もともと競馬好きなので応援するとまで言ってくれた。
けれど、お母さんはしつこかった。ありとあらゆる反対理由を並べ立て、私をあきらめさせようとしたのだ。考え直せ、怪我したらどうするの、女の子なのに騎手になりたいなんて恥ずかしいとは思わないのか……。
けれど、1度あきらめて、その上でその夢を追いかけることを決めた私にはそんな理屈は通じなかった。考え直す気は全くない、怪我をしたら私には運がなかっただけのこと、『女の子なのに』と言うのなら、どうして私を男の子に産んでくれなかったのか、こう言い返した。けれど、論破してしまうと、今度は泣き落としという手段が待っていた。
『だいたい真央、あなた南高に入るんじゃなかったの? お母さん、真央が南高に行くの楽しみにしてたのよ!』
こう言われるとさすがに良心が痛んだけれど、そこでふと気づいた。どっちにしろ競馬学校の試験は9月に行われるから今年は受けられない。来年の試験まで待たなければいけないのなら……。
『じゃあ、南高に受かったら競馬学校受けてもいい?』
こう言うとお母さんは一瞬固まって動かなくなった。驚いたような表情をするお母さんに、一気に畳み掛けた。
『だって、どっちにしろ今年の試験は終わっちゃったから、その間ぶらぶらしてるよりも高校行ったほうがいいでしょう? もしもお母さんがその条件呑んでくれるのなら、私は南高を受けるよ。そうすれば競馬学校落ちても南高に残ればいいんだし』
畳み掛けるようにこう言うと、お母さんは渋々ながらも了解してくれた。どうやら、競馬学校に落ちる可能性が高いと踏んだ上でOKを出したらしい。失礼な話だ。
競馬学校の受験は来年度の1度だけ。競馬学校に落ちた場合には大学進学を目指して勉強すること。もちろん、南高に落ちた場合には当然競馬学校も受けさせない。
こういう条件で合意に至ったということを桜井さんに手紙で報告すると、桜井さんからすぐに返事が来た。桜井さんはあれから少しずつ以前のような騎乗をするようになって、ぽつぽつと勝ち星を挙げられるようになった。そして何よりも、のびのびとした騎乗をするようになった。それに勇気づけられて、私もがんばろうという気になった。追いかける目標はまだまだ遠い。
「ところで、田中くんはどうするの?」
私よりも少し背の高い田中くんを見上げて問いかける。と、田中くんは短く刈り込んだ頭を照れたようにがしゃがしゃと掻き、立ち止まった。
「あー……実は、もう受かったんだよね」
そんなの初耳だ。でも、そういえば田中くんは2学期に何日か休んでいたけれど、あれは入試だったのか。黙っているなんて水臭い気もするけれど、でも、こうやって友達が合格を決めるのは嬉しい。
「おめでとう! どこ受かったの?」
そう聞くと、田中くんは不意に真剣な視線を向けてくる。いつもふざけあっているから、彼のこんな表情を見るのは初めてだ。まっすぐ前を見据えた、強い瞳。
「競馬学校騎手課程。オレ、騎手になることにしたんだ」
――――しばらく、口がきけなかった。あまりにも突然すぎて、どう反応していいのかわからない。というよりも、まさかこんな近くに騎手志望がもう1人いるなんて思ってもみなかった。でも、田中くんが騎手になろうとするのは考えてみれば自然な話だ。お父さんが調教師で、従兄が騎手だなんて……競馬一家そのものじゃないか。
「本当はさ、受かったらすぐに言おうと思ってたんだ。そしたら森本が競馬学校受けるって言うだろ? なんか、言い出せなくなっちゃってさ……」
口元に苦笑を浮かべながら、田中くんは恥ずかしそうに言う。けれど、声には誇りと力が漲っている。何だか気押されてしまって、足元がふらつく。
「森本は親の反対を押し切ってまで受験しようとしているのに、オレは誰にも反対されなかったどころか一足先に合格しちゃったっての、なんか、がんばってる森本見てたら言えなかった。……黙ってて、ごめん」
「そんなの、田中くんが謝る必要ないってば。……本当に、おめでとう」
一歩先に踏み出している田中くんに対して羨望の気持ちがないといったら、嘘になる。けれど、同じ夢を目指している人間として、ここは笑顔でいたい。僻んだりなんかしたくない。
「でさ、どうせこの際だから言っておきたいことがあるんだけど……」
「え? 何?」
田中くんの顔が、真っ赤になっている。どうしたのかな、と思っていると、田中くんはとんでもないことを口にしたのだった。
「オレ、森本が競馬学校来るの、待ってるから。……好きな子と3年も離れてるのなんて、耐えらんないよ」