三村桜花(10)
桜花編最終話です。
ねえ、稔。3年前のこと、覚えてる?
『ちゃんとした騎手になったら、まずは俺に会いに来いよ。おめでとう、はそれまで言わないからな』
あのとき、あんたそう言ったよね。覚えてる?
だから、ごめんね稔。あたし、あのときの約束守りたいの。ちゃんとした騎手にならなくちゃいけないの。だから、まだあんたのところには行けない。
お願いだから、待ってて稔。このレースが終わって、あたしがちゃんとした騎手になったら、そしたら真っ先にあんたのところに行くから。だからあんたも、ちゃんと約束守って。
おめでとう、ってまだあたしに言ってくれてないのに、死ぬなんて許さないんだから。
手袋をし、ヘルメットの紐をきちんと締め、ムチを片手に持って、ゆっくりと深呼吸する。そうすると、少しだけ気分が楽になった。首から下げたお守りを、服の上から握りしめた。競馬学校に入る前に、稔があたしにくれたものだ。まったくもう。安全祈願のお守りをくれた張本人が事故に遭ってどうするの。
涙腺はずっと緩みっぱなしで、今にも涙がこぼれそうだ。胸の奥がぎゅうっと痛くなって、あたしは思わずお守りを握る手に力をこめた。
神様。どうかお願い。あたしと稔を助けてください。
「ほれ、ぼーっとしてんなよ新人」
そんなことを考えていると、隣にいた先輩騎手からぽんと背中を叩かれた。その呼びかけに促されて、あたしはパドックへと足を踏み入れ、これから騎乗する馬の姿を探した。
あたしが今日乗る馬は、アルストロメリアという3歳牝馬。残念ながらうちの生産馬じゃないけれど、そんなことはどうでもいい。既に2戦しているけれど、成績は5着と8着。微妙なところだ。レース展開と結果を見る限り、どうも後方からの競馬が苦手らしいということがわかってきたから、今回はできるだけ前のほうで走らせてみるという作戦をとることにしている。
できるだけさっさとレースを終わらせて稔のところへ行くつもりのあたしにとっては、これはど好都合なことはないかもしれない。
騎乗の号令がかかり、あたしはリアのところへ歩み寄った。今日は妙に気合が入っているみたいで、秋本調教師と担当の大路さんがふたりで曳いている。あたしはリアのおなかのあたりに手を当てて目を閉じ、何度目かの深呼吸をした。
「三村」
調教師の呼びかけに顔を上げると、調教師と大路さんが心配そうな顔をしてあたしを見ていた。気遣わしげなその様子に、あたしはちょっとだけ泣きそうになった。
「お姉さんから聞いたけど……大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
その言葉を、あたしはばっさりと切り捨て、黙って目を伏せた。お願いだから、同情なんてしないでください。優しい言葉なんてかけないでください。そんなことされたら、泣きたくなっちゃう。真央姉に諭されて、自分で決めたはずの決心が揺らいじゃう。稔のところに行くって、また泣き喚きたくなっちゃうから……。
「とりあえず、気をつけてな。くれぐれも無茶だけはするんじゃないぞ」
下を向いているあたしの肩を、大路さんがそう言いながらぽんぽんと叩いてくれる。その感触は優しかったけれど、同時に喝を入れられたような気分にもなった。
そうだ、しっかりしなきゃ。これからあたしが乗るのは、調教じゃない。レースなんだ。少しの気の緩みが大惨事につながる。あたしだけじゃなく、リアやほかの馬やほかの騎手にまで怪我をさせてしまう可能性だってある。しっかりしなきゃ。しっかりしなきゃ。
頬を自分でぱん、と打ち、あたしはリアに跨った。馬の温もりが、じんわりと伝わってくる。その感触に、あたしは思わず泣きそうになった。
稔が言ってたのは、こういうことだったのかもしれない。生きてる。この馬は生きてる。たとえうちの生産馬じゃなくても、生命は生命。この温もりは、どの馬でも一緒だ。
温かいということは、生きているということなんだ。優しいということなんだ。
競馬学校の入試の前に遅くまで学科の勉強をしていたときに、お母さんが作ってくれたあつあつの焼きおにぎり。
競馬学校に行く前の日に、お姉ちゃんがくれた膝掛け。
小さい頃によく頭を撫でてくれたお父さんの手の大きさ。
あたしに抱きついてくる、秋華の温かさ。
出産直前のマリンのおなかの温かさに、ちゃんと生きて生まれてきた仔馬の体温。
昨日あたしをひっぱたいた、真央姉の手の熱さ。
一瞬だけ触れた、稔の唇のぬくもり。
ふいに、あたしの頬を生暖かい液体が伝って落ちた。まったくもう、どうして、最終的には稔なんだろう。思っていた以上に、あたしは稔に支えられてた。稔がいなかったら、あたしはここにはいなかった。稔のおかげで、あたしはここまで来れた。
それなのに、どうして。どうして、あたしが1番がんばらなきゃいけないときに、あたしから離れようとするの。そんなの許さないんだから。今度逢ったら、真っ先にひっぱたいてやるんだから。だから。
だから絶対に死なないで、稔。ずっとずっと、あたしの側にいて。
それが叶うんなら、あたし、騎手辞めてもいい。
半分呆然とした状態のまま地下馬道を抜けてコースに出ると、一面の青空が広がっていた。ここまで来るとさすがにもう泣いているわけにもいかず、あたしはごしごしと目の周りをこすった。心を落ち着かせるために、深呼吸を2、3度繰り返し、そして手綱を緩め、足慣らしのための返し馬に入る。走らせているうちに、昂っていた気分が落ち着いてくるのを感じた。
今はとにかく、目の前のレースにだけ集中しよう。今のあたしにできることは、それだけ。一刻も早くレースを終わらせて、急いで稔のところへ行くのが、今のあたしにできる1番のこと。
そう決めてしまうと気分が少し楽になって、ゲートに入る前の輪乗りで周囲を観察する余裕も少しだけ出てきた。とりあえず今回の出走馬の脚質はある程度調べてあるけれど、逃げ馬は1頭もいない。これならいける。
お願い、リア。今回だけはあたしのわがままに付き合って。とにかく全力で走って、ペースを上げて。そうすれば、早くレースが終わるから。
あたしとリアは、3枠5番。ゲート入りは奇数から行われるから、偶数番の馬が入り終わるまでには少しだけ時間がある。気持ちを落ち着けるために、あたしはお守りのあたりにそっと触れ、手綱を握りなおした。
時間にしたら2分足らずのレースが、これから始まる。
ゲートが開いた瞬間、あたしはリアに思いっきりムチを入れた。それに答え、リアが前に出る。その勢いに更に加速をつけるように、あたしは手綱をしごき続けた。それにつられるようにして、他の馬がペースを上げる。狙い通りだ。
後ろを向いて後続と2馬身程度離れていることを確認し、馬体を内ラチぎりぎりまで寄せていく。逃げるという覚悟を決めた以上、距離のロスは最小限に抑えたいからだ。ダートコースでよかった。芝だったら、馬が走った部分が抉れてしまって走りにくくなる。特に、最内は距離のロスが少ない分たくさんの馬が集中して荒れやすいけれど、ダートはそんなの関係ない。なにしろ、足元は砂だ。均せば元通りになるから、内だろうが外だろうが馬場にそれほどの違いはない。
最内を確保して、手綱を少し引く。それに反応し、リアがスピードを落としてくれる。いつまでも全速力で走っていては、スタミナが最後までもたない。後ろをちらりと確認したけれど、今のところ後続が差を詰めようとしてくる様子もない。このまま、しばらくはこのペースで走らせればいい。これなら、ひょっとしたら逃げ切れるかもしれない。いや、逃げ切れる『かもしれない』じゃない。
逃げ切ってみせる。
後続からも、あたしと稔を飲み込もうとしている運命の波からも。真央姉をはじめとする同期のライバルたちを相手に、逃げ馬で模擬レースを勝ったあたしに、できないはずはない。
残り3ハロン(600メートル)。後続とは今のところ3馬身くらい差があるけれど、ここからどうしよう。そろそろ他の馬が動き始めるころだ。もう少ししたらこっちから仕掛けるか、それとも先に他の馬に仕掛けさせて、相手がスタミナを使い果たしたころに追うか。――――どっちでもいい。ここまで来たらもう、馬の行く気に任せよう。あたしはそれを全力でサポートするだけ。
第4コーナーに差し掛かったあたりで、ようやく後ろが動く。じわじわと、後ろとの差が詰まってくる。直線に入るあたりでのリードは1馬身。こうなってくると、もう馬の行く気がどうのとなんて言っていられない。あたしが指示を出さないと、リアは動かない。
左側から、2番手の馬が並びかけてくる。追いつかれる前に手綱を緩め、ムチを打つ。ここからは、もうひたすら追うしかない。後続に並ばれる前にムチを打ち、手綱をしごき、全力で追う。その繰り返ししか、もうやることはない。
残り1ハロンとちょっと。ここからは上り坂になっている。正直きついところだけど、それは他の馬も同じだ。どんどんペースが落ちている。でも、リアはなんとかゴールぎりぎりまではもつはず。まだリアにはスタミナが残っているはず。去年の実習中からあたしが調教をつけてきた馬だ、特徴は手に取るようにわかる。もう少し、もう少しだけがんばって、リア……。
と、後ろからドドドドド……と足音が聞こえてきた。思わず振り向くと、よりにもよって2頭並んで追い込んできている。やばい。併せ馬はやばい。お互いに相手に負けないように走ろうとするから、勢いがついてしまっている。このままだとゴール直前にこっちに追いつきそうな勢いだけど、あんなのに並ばれたら、スタミナと気力が切れかかっているリアには勝ち目はない……!
腕が痛い。テン(最初)の3ハロンを馬任せじゃなくてあたしの力技で走らせた分、あたしのほうに負荷がかかっている。でも、ここまで来た以上勝ちたい。勝たなきゃいけない。徐々に迫ってくる2頭の足音を聞きながら、あたしはタイミングをうかがう。ゴールまでは、あと50メートルくらい。あたしの足のあたりに、追い込んでくる馬の息遣いを感じる。
――――今だっ!
右手に持ったムチを、思いっきり振り下ろす。バチン、という音と同時に、リアが前に出る。その勢いに乗じて、手綱を前に押し出す。頭の中が真っ白になって、周りに馬がいるのかどうかすらわからない。とにかく、前に進むことしか考えられない。そのままの勢いで、あたしとリアはゴール板の前を横切った。
スタンドから、歓声が聞こえた。しばらくリアを走らせた後に着順掲示板を見ると、1着のところに『5』という数字が光っているのが見える。
え? 狙ってたけど、本当に1着だったの? とりあえず審議のランプも点いていないから、このまま確定なんだろうけど……本当に、あたしとリアが、1着?
信じられない。馬を無視しためちゃくちゃな騎乗してたのに、あれで、1着?
『俺も桜花も強運の持ち主だから』
ふいに、1年前に稔が言っていたあの言葉を思い出す。レース中には我慢していたけれど、さすがにこらえ切れなくなって、あたしはゴーグルを外した。手綱を握っている手に、ぽたぽたと涙がこぼれる。
ねえ、稔。あたしがんばったよ。がんばったんだよ。
褒めてよ。いっぱい褒めてよ。頭撫でてよ。ぎゅっとしてよ。もう1度キスしてよ。
ちゃんと、あたしに『おめでとう』って言ってよ……!
「おーい三村、どうした?」
隣の厩舎に所属している先輩騎手が、うつむいて固まっているあたしに声をかけてくる。
「余韻に浸りたいのはわかるけど、早く検量行かんと確定出せんぞー」
「あ、はい……」
その言葉に引きずられるようにして、あたしはスタンドの横を抜けて検量室へ向かう。ここで負担重量などに間違いがないかを確認して、違反がなければ着順が確定することになる。スタンドからはいくつもの『おめでとう』の声が聞こえてきて、それだけでまた泣きそうになった。嬉しいけど、でも、あたしが今1番聞きたいのは、稔の声なのに。いつもあたしをからかって、元気づけてくれるあの声で、おめでとうって言ってもらいたいのに……!
「桜花ちゃんっ!」
突然、スタンドで誰かがあたしの名前を呼んだ。その声のしたほうを見ると、人波をかきわけ、髪を振り乱しながら叫ぶお姉ちゃんがいた。
あたしの心臓が、大きな音をたてて動き出す。涙のせいで化粧が落ちかけているお姉ちゃんが、あたしを見据えて大きな声で叫ぶ。
「今、病院から電話があって――――」
「桜花ちゃん!」
検量を終えると、真央姉が控え室から飛び出してくるのが見えた。さっきのお姉ちゃんと同じように、髪を振り乱しながら走ってくる真央姉。すごく心配かけていたんだな、と、一瞬胸が痛む。でも。
「大丈夫? さっきお姉さんが何か言ってたらしいけど、何があったの!?」
……こうやって心配してくれる人の前では、我慢する必要なんてないよね、稔……。
「……って」
さっきお姉ちゃんから聞いた言葉を、小声でつぶやく。それだけで、胸が張り裂けそうになる。この気持ちを、どうしたらいいのかわからない。
「え?」
聞き返してくる真央姉の表情が、暗い。心配しないでよ、真央姉。そうじゃない。真央姉が思ってるような、最悪の結果になんてなってないよ。だって。
「……稔、意識戻ったって……!」
その言葉に、真央姉の顔がぱっと明るくなる。思わず真央姉にしがみついて、あたしはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「稔、意識戻ったんだって。もう命に別状はないところまで回復したって。心配しなくても、いいんだって……!」
昨日からレースが始まるまでの間にさんざん泣いて、もう体の中に水分が残っていないんじゃないかというくらい泣いたはずなのに。それでも、涙はあとからあとから溢れてくる。泣き続けるあたしを、真央姉はずっと抱きかかえてくれていた。
「よかったね、よかったね桜花ちゃん……」
「うん……」
涙声になりながらも、真央姉はあたしにそう言ってくれる。ありがとうね、真央姉。
稔との約束も、宏斗先輩のことがあったあの夜に誓った、真央姉との約束も。あたし、ちゃんと守ったよ。
あたし、ちゃんとした騎手になったんだよ。