三村桜花(9)
電車の中では寝ようと思っていたのに、稔があんなことをしたせいで全然寝つけなかった。寝不足に電車酔いが加わったおかげで泥のように重い体を引きずって、どうにかこうにか秋本調教師の家の前まで辿り着く。息を深く吸って、心を落ち着かせる。
とにかく、迷惑をかけたことを謝らなければいけない。実家に戻されたおかげで出産に立ち会えてラッキーだったけれど、でも実家に戻ったのはあくまでも謹慎のためだ。浮かれてばかりもいられない。今回の件で信頼を落とした分、これからは必死になってその信頼を取り返さなければいけない。
そう思っていると、庭の植え込みの陰になっているあたりから声が聞こえてきた。
「え、やだな、そんなことないってば」
思わず耳を澄ましてみると……それは、佳奈子の声だった。立ち聞きするつもりなんて最初はなかったけれど、むくむくと好奇心が湧き上がってくる。息をひそめて、あたしはその場に立ち止まった。
「そうだよね、うん……うん」
聞こえてきた声の優しさに、あたしは心底驚いた。紛れもなくこれは佳奈子の声なのに、話し方が全く違う! この前あたしに暴言を吐いた奴と同一人物だとはとても思えないような、そんな話し方。どうも電話をしているみたいだけど、電話の相手は誰なんだろう?
「うん、わかった。じゃあ、また明日ね。ばいばい」
声が徐々にこっちに近づいてくる。鉢合わせする前にさっさとここを離れようと思ったけれど、そう思ったときにはもう遅かった。がさがさと植え込みを掻き分けて、佳奈子が姿を現す。
さっきまでの声音とは全く別の声で、不機嫌そうな佳奈子があたしに問いかける。
「……そこで何してるの?」
……さっきまであんなにご機嫌な声出してたくせに、どういう変わり身の早さだ。
「いや、別に」
そう言いながら、あたしは佳奈子を密かに観察した。右手には携帯電話が握られている。どうもこれで誰かと話をしていたらしい。家の電話じゃなくてわざわざ携帯にかけてきて、しかもそれをわざわざ外に出て受けているなんて不自然だし、しかも、それに答える声がいかにも女の子女の子してたということは……。
「ひょっとして、男の子と電話してたの?」
純粋な好奇心から、あたしはそう聞いていた。もしそうだとしたら、こんな冷血毒舌女に興味を持つのがどんな奴なのかが見てみたいものだ。と、図星を指されたのか佳奈子がいきなり真っ赤になった。しばらく金魚のように口をぱくぱくさせていた佳奈子が、小声であたしに問いかける。
「……聞いてたの?」
「ちょっとだけね。ごめん」
そう言うと、佳奈子はつかつかとあたしに近寄ってきた。またひっぱたかれるような気がして、あたしは体を硬くした。
けれど、そんなあたしに届いたのは、予想外の言葉だった。
「おねがい、父さんと母さんには言わないでっ!」
「え??」
「父さんたちには黙ってて!」
真っ赤になりながら、佳奈子は何度も何度もあたしにそう言った。その様子があまりにも面白くて、そして、そう言いたくなる気持ちがよくわかって。うちの場合は稔のせいでバレちゃったけれど、やっぱり、身内に知られるのはどことなく恥ずかしいものがあるから。
「わかったわかった。調教師たちには黙ってるから。やっぱり、知られたくないもんね」
だからあたしは素直にそう言った。すると、不思議そうな顔をして佳奈子が問いかけてくる。……やばい。あたし今思いっきり墓穴掘ったかも。
「……あんた、今『やっぱり』って言ったでしょ? どうして私がそう思ってるなんてわかったのよ?」
げ。やっぱり突っ込まれた。何気なく言ってしまったけど、あんなふうに言ったら実体験を暴露してるのとほとんど同じだ。
「まぁ、あたしにもいろいろありましてね」
いろいろと突っ込まれるのは気が進まないので、あたしは適当にごまかそうとした。でも、相手はこのあたりでも有数の進学校に通っているだけはある。その程度ではごまかされてくれないようで、更に質問を重ねてくる。
「いろいろって?」
聞き返されてぐっと詰まったあたしを見て、佳奈子はふっと力の抜けた笑いを浮かべ、あたしの横をすり抜けて玄関のドアに手を掛けた。
「入りなよ。こんなところで立ち話してても仕方ないし。あんたの話、もっと聞いてみたいからさ」
一瞬、佳奈子が何を言っているのかわからなかった。あたしが実習に来てから半年もの間、あたしをひたすら目の敵にしてきた佳奈子が、あたしに友好的な態度を取っている? ありえない。そんなことありえない。でも、今あたしの目の前にいる佳奈子は、こうやってドアに手を掛けてあたしを家に招いている。ということは、佳奈子はやっぱりあたしに対して友好的な態度を取っているってことで……。恋愛関係のネタって、ここまで人を引き寄せる力があるんだろうか。
ほんの少しだけ、佳奈子と近づけた気がした。ひょっとしたらこれも、稔のおかげかもしれない。だって、こうやって話せるきっかけは稔とのことがあるからだもの。
ありがとうね、稔。
そんな思いを胸に、あたしは佳奈子に促されて秋本家に足を踏み入れた。
それから、あたしと佳奈子は友達になった。どうしても競馬のことが好きになれない佳奈子に競馬云々といった話はもちろんしないけれど、佳奈子は普通に彼のことをあたしに話すし、あたしは家族や稔や真央姉のことを話す。あたしが無事に騎手デビューを果たし、稔も佳奈子も佳奈子の彼も無事に大学に合格できたら4人で遊びに行こうという約束もした。
そうこうしているうちに、あたしは無事に騎手免許を取得し、何を間違ったかアイルランド大使賞(技術的に優れた生徒が卒業時にもらう賞)まで受賞してしまった。そして、みんな無事に大学にも合格できた。
あとは、あたしのデビュー戦のみ。それさえ終われば、約束がもうすぐ叶う。
床に寝転がって、あたしは大きく伸びをした。天井を見つめながら、あたしは明日のことをぼんやりと考えている。
明日はついに、あたしのデビュー戦。秋本厩舎所属のアルストロメリアという馬に騎乗することになっている。ドキドキはしているけれど、緊張感は全くない。むしろ、早く明日になってほしくてわくわくしているくらいだ。
ゴール板の前を、馬と一緒に全速力で駆け抜けるのがあたしの夢だったのだから。その夢を叶えること以上に大切なものなんて、あたしには思いつかない。
おなかが空いてきて、あたしはむっくり起き上がった。明日のレースに備えて、あたしたち騎手は規定どおりに競馬場の中にあるこの調整ルームに入っている。ここで出されるごはんがまずかったりしたらちょっとショックだな、と思いながら、あたしは食堂に向かった。
食堂の隅のほうで、真央姉がひとりでごはんを食べているのが見える。そういえば真央姉も明日デビュー戦だった。桜井さんが騎乗停止を喰らったせいでデビューが1週早まったらしい。まったく、ひとりでごはん食べてるのは寂しいだろうから、誘ってくれればいいのに。
「真央姉っ」
どことなく元気がない様子の真央姉に声をかけると、真央姉は驚いたようにあたしの顔を見た。そして、すぐに目を伏せる。
「どうしたの?」
そのいつにも増して挙動不審な様子を見ていたら心配になって、あたしは真央姉の隣の椅子を引いてそこに座った。と、真央姉が食事の載ったトレーを持って立ち上がる。
「ちょっと真央姉?」
「ごめん、部屋に戻るね」
真央姉はそう言って、小走りにその場を離れていった。緊張でもしているのだろうか。でも、それにしては様子がおかしかった。
少し心配になりながら、あたしはひとりで寂しく夕食をとった。味なんて、よくわからなかった。
ごはんを食べ終わってから、あたしは真央姉の部屋を訪ねた。今日の真央姉はどこかおかしかった。何があったのだろう。明日のデビュー戦のことで緊張でもしているのだろうか。そうだとしたら、緊張なんてする必要ないのに。あたしたちの同期の中で1番本番に強いのは、たぶん真央姉なのに。
真央姉は、去年の暮れに行われた4回目の模擬レースで1着になった。模擬レースはクジで騎乗馬を決めるけれど、あのとき真央姉が乗っていた馬は決して調子がいいとは言えなかった。おまけにその模擬レースは実際の競馬の開催日にあったから、たくさんの人がそのレースを見ていた。そんな状態で勝ってしまうんだ、真央姉は間違いなく本番には強いはず。それなのに、どうして……?
ドアをコンコン、とノックする。しばらくの沈黙の後、真央姉がドアを細めに開けて顔だけ覗かせた。
「……どうしたの?」
「真央姉こそ。なんか今日様子おかしいけど、大丈夫?」
「別に、なんでもないけど……」
嘘だ。なんでもなかったら、声が震えているはずがない。やっぱり、なにかあったんだ。
「真央姉ったら!」
あたしは強引にドアを開け、部屋の中に滑り込んだ。床に真央姉を座らせ、あたしも座って真央姉を正面から見据える。それでも、真央姉は下を向いてあたしと視線を合わせようとしない。さすがに腹が立ってきて、あたしは真央姉に向かって言った。
「なんでそうやってあたしを避けるの? あたし真央姉に何かしたっけ? ねえ、答えて」
それでも、真央姉は下を向いたままだ。その頑なさに、我慢の糸が切れる。真央姉の両肩をつかんで思いっきり揺さぶって初めて、真央姉はあたしの顔を見た。
「真央姉! 言ってってば。あたしに気を遣ってるつもりかもしれないけど、隠し事されるよりはずっとマシだよ。ねえってば!」
しばらく、真央姉は何かを考えていたようだった。ぎゅっと目を閉じて、そしてまた目を伏せてあたしに問いかける。
「……後悔しないのね」
「しない」
あたしがきっぱりと言い切ると、真央姉は何かを決心したようにあたしを見据えた。真央姉の口が、ゆっくりと動く。
「調整ルームの前で、秋華ちゃんに会ったの」
「秋華に?」
そういえば、あたしのデビュー戦をお姉ちゃんと秋華と稔が見に来ると言っていた。でも、それと真央姉とあたしにどんな関係があるんだろう。全くわからない。
「秋華ちゃん、『お姉ちゃんに言わなきゃいけないことがあるのに、お姉ちゃんはもう調整ルームに入っちゃって連絡取れないから、お姉ちゃんに伝えて欲しい』って言ってたの」
「何を?」
心臓が、いやな音をたてて動く。真央姉がここまで話すのをためらうってことは、どう考えてもそれはあたしにとって嬉しい知らせではない。でも、ここまで来てしまった以上、聞かないわけにはいかない。
真央姉の喉が、何かを飲み下すような動きをする。震える声で、真央姉はこう言った。
「稔くんが交通事故に遭って、意識不明の重体だって……」
頭の中が真っ白になって、息ができない。がたがたと全身が震えて、怖くなってあたしは自分の体を抱きかかえた。
稔が重体。稔が重体。稔が重体。その言葉だけが頭の中を駆け巡って、どうしていいかわからない。とにかく病院に行かなきゃ、と思って立ち上がると、真央姉に思いっきり腕を掴まれた。
「どこ行くの!?」
「病院に決まってるじゃない!!」
「ダメ!!」
一瞬、真央姉が何を言っているかわからなかった。だって、稔がそんなことになってるのに、あたしがここにいていいはずがないのに。病院に行かなきゃ。だって、
「だって、稔が死んじゃうかもしれないじゃない!」
「ダメだって、レース終わるまで競馬場から出ちゃいけないんだから!」
「やだ、行く! 稔のところに行く!!」
体全体が熱いのに、頬だけがやけに冷たい。視界が歪んで、滲む。半分パニックになって、あたしは泣き喚いた。だって、あたしが1番大事なのは稔なのに。稔がいたから、ここまでがんばってこれたのに。その支えがなくなってしまったら、あたしはもう立っていられない。ひとりでなんて、いられるはずがない。
「お願いだから、真央姉、行かせてよ!」
「そんなことしたら、明日のレース出られなくなっちゃう!」
「レースなんてどうでもいい!!」
そう叫んだ瞬間、真央姉に腕を思いっきり引っ張られた。バランスを崩して、あたしは床に倒れこんだ。どうにか起き上がったと思ったら、頬を思いっきりひっぱたかれた。あまりに痛くて、一瞬それ以外のことを忘れた。
「……本気で言ってるの?」
怒りを押し殺した真央姉の声には、反論を一切許さない厳しさがあった。その迫力に、あたしは言い返す言葉を見つけられなかった。……こんな真央姉、初めて見る。
「ここまで、あなたのためにどれだけの人ががんばってくれたと思ってるの!? ご両親やお姉さんや秋華ちゃんや、競馬学校の先生たちや秋本調教師や厩舎のスタッフたち、どれだけの人が、あなたのために必死になってると思ってるの?」
そう言いながら、真央姉はあたしを抱きしめた。ふりほどく気力なんて、もうどこにも残ってなかった。
「稔くんだってそうでしょう? ずっと桜花ちゃんのこと応援しててくれたんでしょう? 桜花ちゃんが騎手になるの、待っててくれたんでしょう!? わかってるの? デビュー戦すっぽかしたりなんかしたら、みんなの信頼を裏切ることになるんだよ? そんなことしたら、もう二度と馬に乗せてもらえなくなるんだよ? そんなの、稔くんが喜ぶわけなんてないじゃない!」
あたしの肩に、雫が1滴落ちた。それに気づいたあたしが少し身じろぎをすると、真央姉はようやくあたしを放した。顔をぐしゃぐしゃにしながら、涙声になりながら、それでもあたしを見据えて、真央姉は更に続けた。
「それに、あなたががんばってくれなかったら私たち同期生はどうなるの? 学年で1番上手かった、アイルランド大使賞取った自慢のライバルが、そんな形で競馬から去っていくのなんて見たくないよ。だから、だからお願い。みんなのために、稔くんのために、あなたのために。……お願いだから、明日だけはレースに出て……」
あれからあたしは、真央姉に抱えられるようにして部屋に戻った。眠れるわけなんてなくて、夜中ずっと窓の外を眺めていた。
「……稔……」
ぽつん、とその名をつぶやくだけで、涙が止まらなくなる。胸の奥にものがつかえているようで、苦しい。窓ガラスに額を押し付けて、あたしは声を殺して泣いた。
もうすぐ、夜が明ける。