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SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
17/22

森本真央(9)

 息を大きく吐いて、私は馬から降りた。心臓がとんでもない速さで動き、さっきまで手綱とムチを握り締めていたせいで冷たくなっていた指の先の先まで血液を送り続ける。ゴーグルを外し、帽子も外し、私は空を見上げた。

 澄み切った10月の空が、まぶしかった。

 トレセン実習を終えて、私たちはこの10月から競馬学校に戻ってきている。これからは騎手免許試験に向けてのトレーニングをする日々だ。2月には競馬学校を卒業することが決まっているし、無事に試験に通れば(普通にやってれば落ちることはまずないらしい)騎手免許がもらえる。


「真央姉、おつかれさま」

「桜花ちゃんこそ。初勝利、おめでとうございます」


 帽子をしたままの桜花ちゃんが、馬から飛び降りるようにしながら駆け寄ってくる。頬を真っ赤に上気させて、桜花ちゃんはてへっと笑った。

 今日は、トレーニングの一環の模擬レースの日だ。4回ある模擬レースのうち、1回目と2回目は競馬学校で、3回目と4回目は中山競馬場で行われる。1回目の今回は一般公開されているから、いろいろな人が見に来ている。だいたい100人くらいの人が見ている今回のレースで1着になったのは、桜花ちゃん。人前でああやってあっさり(本当にあっさりだった。見事な逃げ切り勝ちだったのだ)勝ってしまうのは本当にすごいと思う。私なんか、緊張してしまって全然思うような騎乗ができなかったっていうのに。

 11頭立てのレースで、桜花ちゃんは1着、私は6着。これが、今の私と桜花ちゃんの実力の違いなのかもしれない。


「真央ーっ!」


 名前を呼ぶ声が聞こえたのでそっちを向くと、お父さんとお母さんがこっちに向かって大きく手を振っていた。名前を呼んでいたのは、お母さんだ。少し照れくさくなりながら、私も小さく手を振り返す。

 ふたりとも、見ててくれた? 私、こうやって今までがんばってきたんだよ。




 模擬レースの興奮が醒めないまま、今日ももう夜の9時になってしまった。あと30分で消灯。隣の机に頬杖をついてなにやら考え事をしていた桜花ちゃんが、実習中のノートを見直して今日の反省をしている私に話しかけてくる。


「……ずっと聞こうと思ってたんだけどさ、真央姉、桜井さんとはどうなったの?」


 その言葉に、私は飲んでいたお茶(食堂からこっそり拝借してきたもの)を噴き出してしまった。気管にお茶が入ってごほごほと咳き込む私の背中を、驚かせた張本人の桜花ちゃんがさする。ああもう、実習に持っていったあのノートがびしょ濡れだ。


「……まったく、いきなりなんてこと聞くのよぉ……」

「ごめんごめん、でも気になってたんだもん。だってさ、実習から戻ってきたあとの真央姉、妙にすっきりした顔してるからさぁ。……で、どうだったの? どうにか先輩後輩の関係でいられた?」


 どうにかごまかそうと思っても、意思とはうらはらに顔が赤くなる。こんなの、自分から何があったのかばらしてるのと同じだ。つつかれる、絶対何があったのか根掘り葉掘り聞かれるーっ!


「そんな顔するってことは……ふっふっふ、さあ、この桜花さんに話してみなさいって。何があったの?」

「……桜花ちゃん、あなた絶対に面白がってるでしょ……?」

「うん」


 即答されて、全身の力が抜けるのを感じた。これはもう、抵抗するだけ無駄だ。こうなった桜花ちゃんは、誰にも止められない。


「実はね……」


 聞かれるままに、私は今までのことを話していた。正直、誰かに話したいっていうのはあったのかもしれない。ずっと誰にも言わずにここまで来たけど、それでも、誰かに聞いてほしくて仕方なかったのだ。

 留守番していたあの日のことを話し終える(もちろん、一部言えないこともあったからそのあたりは伏せてある)と、興味津々といった感じで聞いていた桜花ちゃんが、興奮しきった声で叫んだ。


「それで真央姉、何て返事したの!?」


 苦笑しながら、私はゆっくりと言葉を発した。その返事を聞いて、桜花ちゃんは顔を曇らせた。確かに、桜花ちゃんみたいな一直線に突っ走るタイプの女の子にしてみたら、私の返事はまどろっこしいものかもしれない。

 でも私は、あの選択が間違っていたとは思わない。そう返事することが、あのときの私にできる1番の選択だったのだから。



『返事は、私が無事に騎手になるまで待っててください』




 駅に降り立つと、電車の外は意外なほど暖かかった。幸先がいいような気がして、思わず頬が緩む。騎手免許を無事に取得して、正式に北野厩舎に所属することになったから、今日からはまた栗東での生活が始まるのだ。穏やかに地面を照らす太陽が、これからの道までもを照らしてくれているような、そんないい天気。

 今日から、私の騎手としての人生が始まる。

 そして、今日から始まるものがもうひとつある。

 改札を抜けると、駅前に見覚えのある車が止まっていた。私が改札から出てきたのを認め、運転席に座っていたあのひとが車から降りて、私に手を振っている。思わず、くすっと笑ってしまった。合図してくれなくても、その車の持ち主があなただってことはわかってるのに。

 嬉しくなって、私は車へと駆け寄った。あのひとが、私の頭に手を乗せて乱暴に撫でる。――――ほとんど半年以上会っていなかった桜井さんが、私に笑いかける。


「おかえり。ちゃんと免許取れた?」

「はい。おかげさまで」

「で、返事は?」


 再会から1分でずっと保留にしてあった返事を求めてくるあたり、さすがは桜井さんだ。そのうちに無茶な騎乗をして騎乗停止処分とかをくらいそうで、後輩としては少し不安になる。

 でも、無理もない。あの出来事があった日からはもう1年近く経っている。そこまで返事を待たせたのは、私のわがままのせいなのだから。好きだってことはとっくに自覚していたくせに、1度にふたつのことを同時にこなせない私の弱さが、そこまで桜井さんを待たせてしまったのだから。もう待たせるわけにはいかない。

 返事は、もうとっくに決まっている。右手を差し出して、私はじっと桜井さんを見据えた。


「これからよろしくお願いします、和久さん」


 一瞬だけ驚いたような顔をした和久さんだけれど、その表情はすぐに満面の笑顔になった。あまりの嬉しそうな顔は、見ているだけでどきどきしてきてしまう。

 ああもう、どうしてこんなに好きなんだろう。


「こちらこそ。お互いにがんばろうな、真央」


 ……和久さんの手が、私の手に触れた。




 北野調教師はさんざん悩んで、私のデビュー戦を3月3週土曜日の阪神競馬場のレースに設定した。騎乗馬は、どうにか2勝することができたアクアエッジ。調子は良くもなく悪くもなくという感じで、1度レースを使ってみて、それから調子が上向きになるように調教し、もし私が乗ってみてそれなりに相性がよさそうだったらそのまま私を主戦騎手にしようという考えらしい。責任重大だ。

 そんなわけで、デビュー戦の日程が決まってからの私は毎日毎日ひたすら真剣に馬と向き合い、調教師と向き合い、厩務員さんと向き合い、エッジの馬主さんと向き合ってきた。そんなことばかりしていたら、和久さんに『たまには俺のことも構ってくれよ』と苦笑されてしまったくらい、とにかく毎日必死にやってきた。初戦から全力で取り組むことができなかったら、そこから先の発展はないのだから……。




 デビューを2週間後に控えた日曜日。テレビの画面を見つめて、北野調教師はむっつりと押し黙っている。あぐらをかいて少し背中を屈めて競馬中継の画面を見つめている調教師の背中から何かドス黒いオーラのようなものを感じて、隣でテレビを見ていた私はそっと立ち上がってキッチンへと逃げ込んだ。キッチンで夕食の支度をしていた茜さんが、何事かというように調教師を見て……苦笑する。


「えらくご機嫌斜めみたいだけど、何があったのかしらね」

「今のレースで、か……えっと、桜井さんが斜行しちゃったみたいです」


 小声で話す茜さんに合わせて、私も小声でかいつまんで事情を説明する。そのうちやらかすのではないかと思っていたけれど、まさか、本当にやるとは。

 斜行、というのは、読んで字のごとく馬が斜めに走ってしまうことを指す。ときどきそういう癖を持つ馬がいるけれど、今回和久さんが乗っていた馬にはそういった癖はないはずだ。ということはつまり、ムキになってしまった(もしくは判断ミスをしたか)和久さんが馬を斜めに走らせてしまったということで……。私との間にいろいろなことがあったときの彼の行動からもわかるように、和久さんは夢中になったらまわりが見えない傾向がある。だから少し心配していたのだけれど、まさかその心配がこんなに早く的中するなんて。

 しかも今回はよりにもよって後ろにほかの馬がいる状況でだったから、進路妨害とみなされて処分の対象になる可能性がある……というか、その可能性はものすごく高い。ペナルティーとして考えられるのは騎乗停止処分で、6日間(レースは週に2日しかないから、実質3週間)の騎乗停止を命じられてしまうかもしれない。

 そこまで思ったところで、私はあることに気がついた。もしそうなったら、和久さんが騎乗予定だった来週のレースには誰が乗るのだろう。うちの厩舎のポップシェイクが来週の土曜に和久さんの騎乗で出走登録をしてあるけれど、もし騎乗停止処分をくらった場合には誰か代わりの騎手を探さなければいけない。和久さん以外にうちの厩舎とつながりがあるほかの騎手はみんな、そういう日に限って別の競馬場で騎乗予定が入っているから、乗れる人がいないという事態に陥ってしまう。かといって、それなりにいい調子に仕上がっているシェイクの予定をずらすことも難しい。こんな難題を抱え込まされては、北野調教師が機嫌を悪くするのも当然だ。


「困っちゃったわねぇ。和くん結構無茶するから……真央ちゃんも大変ね」


 茜さんはそう言いながら意味深な視線を私によこす。どう反応していいのかわからずに(とりあえず、和久さんと私がそういう関係だということはおおっぴらにはしていないのだ)とまどう私に、調教師が呼びかけた。


「森本!」

「はいっ」


 反射的に返事をして、私はキッチンを出て北野調教師の近くへと戻った。テレビ画面に釘付けになっていた目線をようやく外して、調教師は私をじっと見て――――こう宣言した。


「そういうわけだから、おまえのデビュー戦は来週だ。シェイクに乗ってくれ」




「ごめんごめんごめん真央、本当にごめん!」

「謝って済む問題じゃないでしょう? まったくもう……」


 その日の晩。やっぱり6日間の騎乗停止をくらってげっそりしながら栗東に戻ってきたとたんに北野調教師からこってり油を絞られて更にげっそりしてしまった和久さんは、心配して寮まで様子を見に行った私の顔を見るなりこう言ったのだ。本当に、謝って済む問題じゃないのに。騎乗停止処分を受けるということは、それだけ周囲に迷惑がかかることだし、それだけじゃない。騎手としての和久さんの評価を落とすことなのに。このひと、本当にわかってるんだろうか? つきあうようになってからときどき、このひとが私より年上だということを忘れてしまう。どこか抜けている気がするのだ。

 そんな気持ちが顔に出ていたのか、和久さんは私の顔を見て慌てたように付け足した。


「いや、今回の騎乗停止は俺のミスだからそれはいいの。それは自分でちゃんと挽回するから真央は心配しなくていい。俺が謝ってるのは、真央にとばっちりが行っちゃったことと、いろんな人に迷惑かけることだよ」


 それがわかっていれば問題はない。けれど、正直私は戸惑っていた。こう言っては悪いけれど、本当にとばっちりだった。デビュー戦に向けてそれなりの心構えはしてきたけれど、それが1週間早まるなんて予定外もいいところだ。入試の日程が1週間早くなったのと同じようなものだ。しかも私は決してシェイクの扱いが上手いとは言えないのに……もともとあまりなかった自信がしゅるしゅるとしぼんでしまう。

 そう思って黙ってしまった私を元気づけるように、和久さんは私をそっと抱きかかえた。黙ったまま、私はおでこを和久さんの肩の上に乗せる。こうされるだけでどこか気持ちが楽になるのだから、つくづく単純なものだ。……悔しいけど、こうやって私の扱いかたを心得ているあたり、和久さんは伊達に歳はとっていない。


「俺のかわりに、シェイクを頼む」


 その言葉に、私はこくりと頷いた。うだうだ悩んでいても仕方ない。こうなった以上、これをチャンスだと思ってがんばるしかないのだから。




 レースに騎乗する騎手は、レースの前日には各競馬場にある調整ルームというところに行かなければいけない。前日は外部との連絡が一切取れないそこに泊まり、翌日のレースに備えるのだ。

 そういうわけで私は今、中山競馬場の調整ルームの前にいる。いよいよ明日が私の騎手デビュー戦なのだ。騎手をもう1度目指してから4年経って、ようやくここまで来れた。ここまで、いっぱい悩んでいっぱい泣いてきた。それでも、いろんな人に助けてもらってどうにかここまでがんばってきた。

 ここからは、自分の足で歩かなければいけない。私を助けてくれた桜花ちゃんも私と同じで明日デビュー戦だし、和久さんだって同業のひとりだ。誰かに頼ってばかりでは、騎手としての私はだめになってしまう。

 覚悟を決めて深呼吸をし、調整ルームに入ろうとしたそのとき、


「あのっ、森本真央さんですよね!?」


 私の名前を呼ぶ声が後ろで聞こえて、私は振り返った。

 桜花ちゃんによく似た女の子が、肩で息をつき、泣きながら私を見ていた。

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