三村桜花(7)
「もう1回言ってみなさいよ、あんたあたしを何だと思ってるの!? よくもそんな口が叩けるわねっ! あたしを選んだのは、あたしを引き受けたのは、あんたのお父さんなんだよ!! 競馬嫌いだからって、競馬関係者まで馬鹿にするなんて許さないっ!!」
言い出したら止まらなくなってしまって、頭に血が上ったあたしは佳奈子の胸倉をつかんで前後に揺さぶった。乱れた髪の隙間から、佳奈子の鋭い目が見える。その目に宿る強い光に、あたしは一瞬掴んでいた手を離してしまった。
瞬間、頬に痛みが走り、佳奈子が押していた自転車が倒れる音がする。あまりの衝撃に、よろよろと2、3歩後ろに下がる。――――人をひっぱたいたことは何度もあったけれど、自分がひっぱたかれるのは初めてのことで、あたしは呆然とした。
「あんたに……あんたにそんなこと言われたくないわよっ!」
呆然としているあたしに叩きつけるように、佳奈子は叫んだ。肩で息をしながら、乱れた髪を直そうともしないで続ける佳奈子。
「あんたに何がわかるのよ。これまで私がどれだけ競馬のせいで苦労したかなんて、あんたにわかるわけない!」
「――――え?」
思わず、そう聞き返してしまった。あたしは競馬に関係している家に育ったけれど、競馬のことで苦労したことなんて1度もない。どうしてそれで苦労するのかなんて、想像もつかない。
「あんた、昔うちの厩舎が負けっぱなしだったことくらい知ってるでしょう? トレセンの中ではね、厩舎や騎手の成績が子供の交友関係にまで響いてくるの。親が成績の悪い厩舎に関係していたりすると、子供は親のせいでいじめに遭うのよ。負けっぱなしの親のせいで、罪のない子供がいじめられるの。そんな状況なのに、競馬を好きになれるはずなんてないわ」
憎しみのこもった声で、佳奈子は吐き捨てるようにそう言った。あたしに言ってはいるけれど、その憎しみの対象はあたしではない。きっと、この憎しみの対象は――――過去に佳奈子をいじめた奴らと、おそらくは、父親である秋本調教師。
でも、そんなの仕方ないじゃない。競馬に関係した家に生まれるっていうのは、そういうことなのに。好きとか嫌いとか言ってる場合じゃないのに。そんなの、割り切って考えなきゃ仕方ないことなのに。どうしてそれがわからないんだろう。
乱れた髪をかきあげながら、佳奈子は続けた。
「あんたはいいわよ。それなりに成功してる牧場で生まれ育ったんでしょう? 周りに牧場はほかにないから、1つしかない牧場の子供として特別視されてきたんでしょう? 特別視されてきたから、そのまま競馬の世界に入るのも悪くないなんて思ったんでしょう? そんなあんたに、比較され続けて馬鹿にされ続けた私の気持ちなんてわかるわけない」
図星を指された気がして、あたしは何も言えなかった。『競走馬の生産牧場』という特殊な家に生まれ、それに対して何の疑問も反感も抱かずにここまで来てしまったあたしに、反論することなんてできっこない。
「わかった? だから私はあんたが嫌いなの。挫折も、人に叩きのめされる辛さも知らないあんたのこと見てるとむかつくのよ」
言いたいことは全部言ったらしく、勝ち誇ったような顔をしながら佳奈子は自転車を起こす。あたしをひと睨みして、そのまま自転車に乗って去っていく佳奈子。その姿が、闇に溶けていく。
怒りでも悲しみでもない奇妙な感情が、あたしの心の中にうずまいていた。
翌日、佳奈子とあたしは秋本調教師からたっぷりお説教された。大路さんがたまたま喧嘩の現場を目撃していたらしくて、そこから調教師に伝わってしまったのだ。自分の娘にも、自分の厩舎の実習生にも、調教師は同じように厳しかった。昨日調教のことで叱られたときよりよっぽど怖かった。
「……とにかく、先に挑発した佳奈子も悪いし、それに反応する三村も悪い。もう2度と、馬鹿なことはするんじゃない」
「……はい。済みませんでした」
そう言って頭を下げたあたしの横で、佳奈子は仏頂面で押し黙っていた。あたしと目が合うと、ふいっと視線を逸らす。その様子があまりにも憎たらしくてまた手が出そうになったけれど、必死になってこらえる。と、そんなあたしに調教師の声が届く。
「ああ、言うの忘れてたけど……三村、おまえ今日から3日間実家戻っていいぞ」
「はい?」
前後の状況から全くかけ離れた発言だっただけに、あたしはびっくりしてすっとんきょうな返事をしてしまった。煙草に火をつけながら、秋本調教師はぼそっと言った。
「自宅謹慎。出産ラッシュで牧場忙しいだろうから、ついでに手伝ってくるように」
どう返事をしていいものか、一瞬わからなかった。だって、謹慎ってことは罰を受けているってことなのに、それにしてはあたしにとって得なことがありすぎるような気がする。久しぶりの実家ってだけでも嬉しいのに(そしてしばらく佳奈子と顔を合わせなくても済むのに)、おまけに運がよければ出産に立ち会えるかもしれないなんて……これって、相当ラッキーなんじゃ……。
次第に、嬉しさが戸惑いを追い越していく。思わず、謹慎というのを忘れて大きな声を出してしまう。
「は、はいっ。わかりましたっ!」
そう返事をしたあたしを、秋本調教師と佳奈子が呆れたような顔で見ていた。
実家の最寄り駅に着くと、改札の前で秋華が待っていた。荷物を両手に持ちながら苦労して改札を抜けたあたしに、ツインテールを揺らしながら駆け寄ってきた秋華が飛びついてくる。この春から6年生になる秋華に体当たりされるのは相当つらいものがあって、あたしは思わずふらついた。
「おねーちゃんっ!!」
「こら秋華、危ないってば」
「だって嬉しいんだもんっ。久しぶりだね、おねーちゃん。……背、縮んだ?」
「縮むわけないでしょうが。あんたが育ちすぎなのっ。あんた今身長いくつなの?」
「えーとね、143センチ、だったかな?」
あたしと7センチしか違わないという事実に少し悲しくなりながら、車で迎えに来たという秋華についてロータリーへと出る。と、そこであたしはあることに気がついた。……あたしが競馬学校に入る前よりも、車の外側がぼろぼろになっている気が……。
「ねえ秋華、車で来たって……誰の運転?」
「菊花おねーちゃんだよ」
げっ、とうめいたあたしを無理矢理助手席に押し込んで、秋華はちゃっかり荷物を持って後部座席に座る。運転席には三村家最強の天然ボケ、お姉ちゃんがきっちりとシートベルトを締めて座っている。
……まさか、車をぼろぼろにした犯人は……。
「おかえりなさい桜花ちゃん。疲れたでしょう? 早く帰ってのんびりしましょう」
そう言うが早いか、お姉ちゃんは猛スピードで車を発進させた。家に着くまでの10分間が地獄だったのは、言うまでもない。
「……はぁ」
翌朝。いつもより少し遅めの6時に起きたのはいいけれど、あたしはほとほと疲れ果てていた。ゆうべは大変だったのだ。帰ると同時に1頭産気づいて、早速出産の手伝い。無事に生まれた後は秋華がひたすらくっついてきて、その相手。張り切って料理を作ろうとしたお姉ちゃんが案の定大失敗をして、あたしがそのフォローにてんてこまいになる。せっかく帰ってきたのにいつもより忙しいって何なんだろう、と一瞬不思議になる。
ゆうべ生まれた仔馬は、馬房で母馬にぴったり寄り添ってお乳を飲んでいる。マリンは、大きなおなかで飼葉をもりもり食べている。2週間前に生まれたのだという仔馬は、もう元気に外を走っている。懐かしさに、鼻の奥がつんとなった。
ああ、期間限定だとはいっても、戻ってきたんだなぁ。
毎朝の作業をこなし、朝ごはんを食べて休憩する。春休み中の秋華は真面目に宿題をやっているみたいだし、お姉ちゃんは課題がはかどらないとかで部屋に篭っている。ひさびさに、のんびりとした静かな朝。
その静寂を破るかのように、家の前に自転車が止まる音がした。それに続いて、チャイムの音。
「ちょっと桜花、今手が離せないから出て」
「はーいっ」
洗い物をしているお母さんにそう言われて、あたしは何の疑いも抱かずにソファから立ち上がった。はーい、と返事をしながらドアを開け――――次の瞬間、慌ててドアを閉める。
なんで?
どうしてこいつが、ここにいるの?
「おねーちゃん、何してるの?」
いつの間にやってきたのか、秋華がドアの前で固まるあたしに問いかける。返事もできずにパニックに陥っているあたしを見て小首を傾げ、秋華はすたすたとドアに歩み寄り、そしてそのドアを開けた。そこにいたのは、こっちに向かってひらひらと手を振る――――稔。
「桜花、なにもいきなり閉めなくてもいいじゃん。ダーリン泣いちゃうわよ」
「誰がダーリンじゃっ!」
オカマ言葉でそう言って笑う稔に、あたしはほとんど条件反射的に突っ込みを入れていた。状況がまだよくわかっていないあたしを無視して、稔は秋華に話しかける。
「……秋華、まさか俺のことねーちゃんに秘密にしてあったのか?」
「秘密っていうか……言うの忘れてたの」
てへっと笑う秋華。ますますわけがわからなくなってきて、あたしは思わず2人に向かって大きな声を出していた。
「ちょっと、どういうこと? どうして稔がここにいるの!?」
あたしのその言葉を聞いて、稔はこほんと咳払いをし、眼鏡を指で押し上げる仕草をした。……そんな小技はどうでもいいからさっさとしゃべれバカ稔!
「えっとですね桜花さん。俺、春休みだけ期間限定でここでバイトしてんの」
「はぁ?」
それだけもったいぶった挙句に出てきたその言葉に、あたしはすっとんきょうな返事をしてしまう。バイトって、何の? それ以前にどうしてこいつがうちの牧場でバイトなんてことになってるの?
「えーっとね、稔くんね、おねーちゃんが競馬学校入っちゃってから、何回かうちに来たことあるんだよ。おねーちゃんがどうしてるか知りたいって。『桜花さんとおつきあいしている、小坂稔です!』ってねー」
「ねー」
「なっ……!」
秋華ののんきな説明と、それに同調する稔。この奇妙な組み合わせを見ながら、あたしは顔が赤くなるのを感じた。秋華が知ってるってことは、いや、それ以前に何度もうちに来たことがあるってことは、それってつまり……お姉ちゃんとかうちの両親も知ってるってことでしょう? あたしの知らない間に勝手に友好関係なんて築かれちゃうなんて……恥ずかしいという以外に言いようがない。
「で、そうやって何度か来てるうちに出産シーズンの春休みだけでもバイトに来ないか、って誘ってもらってさ。今日もそれで来たってわけ。昨日はおまえが帰ってくるって知らなくてさっさと家帰っちゃったからさ、菊花さんから電話もらってびっくりしたぞ」
「はぁ……」
ようやく事情は飲み込めたけれど、だからといっておおっぴらにはしゃぐのもどうかって感じだし、かといって無視するのも悪い。あたしは、ただ呆然と玄関に立ち尽くすだけだった。
「じゃあ、わたし宿題やってくるね。稔くんとおねーちゃん、そのへん散歩でもしてきなよ」
にこにこと笑いながらそう言って、秋華は階段をぱたぱたと駆け上っていく。玄関に、あたしと稔だけが残された。
「あのさ、桜花」
一瞬漂いかけた気まずい沈黙を、稔の能天気な声が破る。にかっと笑って、稔はあたしにこう言った。
「俺さ、バイト始めたのはいいけど、馬のことってよくわかんないんだわ。暇だったら教えてもらえるとありがたい」
「うん。わかった」
自慢じゃないけどこれでも丸2年は競馬学校に在籍していたあたしだ、馬に関しての知識は一通り詰め込んである。会えなかった2年もの間に成長したあたしを見てもらいたくて、あたしは足取りも軽く馬房に向かった。
「……それにしても、すごいよな。桜花はこういうことを2年も勉強してたのか」
「いや、すごいのは稔だって。進学用の勉強を2年間もできるってことのほうがあたしはすごいと思う」
とりあえずある程度の説明を終えて、あたしと稔は牧場の隅にあるベンチに座って話をしていた。あったかい日差しが降り注ぐ、本当にいい天気。
こうやって稔と一緒にのんびりしていると、ふいに重苦しい気持ちが心の奥から湧いてくる。一昨日の夜に佳奈子に叩きつけられた、あの言葉。
『あんたに何がわかるのよ』
稔だって、初めは競馬のことをバカにしていた。けれどそのうちにわかってくれたみたいで、今はこうやってうちの牧場で期間限定とはいえバイトをするまでになっている。そんなふうに考え方さえ変えてくれれば、稔のときと同じように、あたしは佳奈子と仲良くできるかもしれない。でも、今のままじゃどうしようもない。あたしには、佳奈子の気持ちなんてわからない。
これは、今までにあたしがしてきたことに対してのツケなのかな、とも思ってみる。あたしは今までずっと競馬のことばっかりで、それに関係ない人とはほとんど関わらないようにしてきた。自分のことを理解してくれる人だけと一緒にいた。だから、こうやって自分のことを理解してくれない相手と向き合うことになると、どうしたらいいのかわからない。自分のことを否定されると、どうしていいかわからない。
調教のことだってそう。あたしはうちの馬に乗りたくて騎手を目指した。それなのに、それを否定されるようなことを調教師に言われてしまった。
もう、どうしたらいいのかわからない。
「桜花!」
隣に座っていた稔に大きな声で呼ばれて、あたしは思わず体をすくませる。心配そうな顔をして、稔がこっちを見ている。
「どうした? なんか考え事でもしてた?」
言えるわけない。こんなことでごちゃごちゃ悩んでるなんて、稔に言えるわけない。4年前にも稔に全部ぶちまけて泣いてしまったのに、これ以上言えっこない。……今あたしが悩んでることを言ったら、きっとあたしは泣いてしまうから。
「ん、ちょっとね。ところで今何時?」
「もうすぐ昼。ちょっと腹減ったな」
「そうだね。じゃあ一旦家戻ろうか」
つとめて明るくそう言って、あたしはベンチから立ち上がった。そのまま家に戻ろうとしたけれど、ふと思いついて馬房を覗き、そしてマリンの馬房の前で足を止めた。ついに、そのときがやってきたのだということがわかったのだ。
寝転がって陣痛に耐えている様子のマリンが、そこにいた。