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SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
14/22

三村桜花(6)

 競馬学校にいると、時間が普通の倍くらいのスピードで過ぎていく気がする。毎日が勉強で、同じことをしているはずなのに毎日が新鮮で。真央姉を筆頭に、同期の連中とも仲良くやっているし、それに毎日大好きな馬と関わっていられて。

 とにかくもう、楽しくて楽しくて。




「……なんか……桜花ちゃん、嬉しそうだね」


 荷造りをしているあたしの背後から、布団の上に寝転がっている真央姉の恨めしそうな声が聞こえる。その声に振り向くと、枕を抱えてごろごろしている真央姉と目が合った。

 あーあ、相当まいってるよこれは。


「そりゃあね。真央姉は嬉しくないわけ? だって明日から実習だよ? 実際に現場で競馬に関わっていけるんだよ?」

「そりゃあそうだけど……」


 煮え切らない真央姉の返事。あたしが返事をしないでいると、真央姉ははぁ、とため息をついた。もうこれは何を言っても無駄だ、と判断して、あたしは再び荷造りにかかる。

 まぁ、真央姉の気持ちもわからないではない。自分が実習に行く厩舎の先輩を好きになってしまった、なんて状況では、素直に喜べるはずなんてない。実習に行くのに恋愛だの何だの言っていられるはずなんてないけれど、でも毎日顔を合わせているのに自分の気持ちを押し殺すなんてこともできるはずない。宏斗先輩のこととか、とことん真央姉にはトラブルがつきまとっているよな、と思う。

 でも、本当は真央姉だって実習に行くのが楽しみなはず。その証拠に、真央姉はもうとっくに荷造りを済ませてしまっている。その横には、同じように明日から実習のはずのあたしの荷物がごちゃっと積まれている。こういうところに性格の差が出るよなぁ、と自分でも思う。几帳面な真央姉、ズボラなあたし。考える前に行動するあたし、考えに考えまくってそれでも結論が出ずになし崩し的に行動する真央姉。同じ競馬の道に進もうとしているのにこんなに性格が違って、それでもちゃんと友達なのだから面白い。

 そんな真央姉とも、実習先が違うから半年近く会えなくなる。真央姉は栗東の北野厩舎だけど、あたしの実習先は、競馬学校のすぐ近く、茨城県の美浦トレセンだ。うちの生産馬が何頭か所属している秋本厩舎に引き受けてもらうことになっている。

 あたしが実習に行くのを楽しみにしている理由は、そこなのだ。うちの生産馬たちは元気にしているだろうか。その馬たちに会えるのが、調教で乗れるのが、楽しみで仕方ない。

 あたしは、両手をぎゅっと握りしめた。乗りたい。早く乗りたい。早く実習に行きたい!


「気合入れるのはいいけどさ……桜花ちゃん、もうすぐ消灯だよ?」


 真央姉に言われて我に返ると、時計はもう消灯時間の5分前を指していた。やばい、早くしなきゃ間に合わない。慌てて作業をするあたしの横に真央姉が座り、荷造りを手伝ってくれる。おかげでどうにか消灯時間前に作業を終えて、布団を並べて寝転がる。


「……桜花ちゃん」


 暗闇の中で、真央姉が小声であたしを呼ぶ。


「明日から、がんばろうね」

「……うん」


 小声で返事をして、あたしは目を閉じた。小学校のころの遠足の前の日みたいに、その晩はなかなか寝付けなかった。




 実習初日、あたしはまず秋本調教師の家に挨拶しに行った。実習期間中あたしは寮生活(トレセンにはちゃんと寮があるのだ)をすることになっているけれど、何かの際にはお世話になることがあるかもしれない。あたしと同い年の女の子がいるという話だから、その子にもちゃんと挨拶しておかなくては。うまくいったら友達になれるかもしれない。調教師の子供だから、多少は競馬に興味もあるかもしれないし。

 ……そう思っていたのだけど。

 玄関のチャイムを鳴らしたあたしを出迎えたのは、その子の不服そうな顔だった。真ん中分けの黒髪ボブ。美人の部類に入るのだろうと思われる、セーラー服を着たその子は、玄関で頭を下げたあたしを見るなりこう言ったのだ。


「……何、あんたが実習生なわけ?」


 その一言にかなりむかっときたけど、ぐっと我慢する。まぁ確かに、彼女はこれからあたしがお世話になる調教師の娘だから、あたしよりも立場は上だ。でも、それを差し引いたって……初対面で『あんた』はないだろう。こんな扱いを受けたのはあたしの17年の人生で初めてだ。

 気まずい沈黙を、パタパタというスリッパの音が破る。秋本調教師の奥様が、慌てたようにやってくる。


「ちょっと佳奈子! その口の利き方は何!? ……本当に、ごめんなさいね三村さん。さあ、あがってちょうだい。……佳奈子、お茶淹れてあげなさい」

「どうして私がそこまでしなきゃいけないの? 私、課題で忙しいの」

「佳奈子!」


 いきなり目の前で親子喧嘩が始まってしまって、あたしは目のやり場に困って下を向く。……つまり、あたしはこの子には歓迎されていないどころか、あからさまに嫌われてるわけか。初対面でここまで嫌われるのは、これまたあたしの人生では初めて。


「とにかく、これは父さんと母さんが勝手に決めたことでしょう? 私には関係ないから勝手にやって」


 そう言い捨てて、彼女はスリッパをバタバタ言わせながら階段を上っていく。足音が遠ざかり、バタンとドアが閉まる音がする。

 どうやら、あたしは彼女とは友達にはなれないみたいだ。というより、あそこまであたしを邪険に扱った奴となんか、友達になりたくない。初期の稔並みに、いや、それ以上にあたしはあの子が嫌い。大っ嫌い!!




 秋本厩舎には、小さいころに1度だけ来たことがある。そのころからスタッフはほとんど変わっていなくて、スタッフ同士の結束はむちゃくちゃ固い。

 当時……8年前の秋本厩舎は、そりゃあもうひどいものだった。素質のある馬なんていうのはほとんどいなくて、出るレース出るレース惨敗続き(非常に申し訳ない話だけど、そのうち1頭はうちの生産馬だった)。スタッフが必死にあがいて、もがいて、どうにか勝ちを1つ、2つと積み重ねていこうとする。あたしが初めて行ったときには、そんな苦しい時期だった。それを乗り越えたスタッフたちだから、結束が固いのにも納得がいく。

 秋本調教師の家の次にあたしが訪ねたのは、作業を終えたスタッフ全員がのんびりとくつろいでいる、そんな厩舎だった。


「おう、来たか。これからよろしくな、三村」

「はい、よろしくおねがいしますっ」


 厩務員さんたちのリーダー的存在の大路さんが、すっかりがたがたになってしまった歯並びを見せてにかっと笑う。この笑顔も、昔見たときと変わらない。


調教師せんせいのとこには挨拶行ったか?」

「はい」


 あたしがそう返事をすると、大路さんは声のトーンを一段落としてこう言う。


「……で、どうよ。カナちゃんには会ったか?」

「……会いました」


 さっきの怒りがまだ収まらないままのあたしがそう言うと、大路さんはうんうんと頷いてあたしの肩をぽんぽんと叩いた。


「ああいう子だからな、無理して仲良くなろうなんて思っちゃいかんぞ。なにしろあの子、大の競馬嫌いだから」

「俺ら厩務員のことも、完璧に馬鹿にしてるもんなぁ」

「そりゃおまえ、当然だって。あの子無茶苦茶頭いいぜ? 俺らみたいな低学歴は相手にしてねえってことよ」


 ぎゃあぎゃあと佳奈子談義で盛り上がる厩務員さんたちを見て、あたしは心の中でため息をついた。そこまで筋金入りだなんて……どうしてなんだろう。競馬に携わってる家に生まれたのなら、競馬を好きになって当然なのに。

 どうして佳奈子は、そこまで競馬が嫌いなんだろう……?




 それからというもの。佳奈子とは週に1回、月曜日に秋本調教師の家に夕食を食べにお邪魔するときだけ顔を合わせる生活が続いた。佳奈子があたしに話しかけることは絶対になかったし、もちろんあたしもそんな佳奈子に話しかけはしなかった。

 実習の前半は、何事もなく過ぎていった。2月になって1度競馬学校に戻って、そして3月からは実習の後半。クラシック(春から秋にかけて行われる、3歳限定の一連のレースのこと)に向けて、そろそろトレセン全体が活気づき始める。残念ながらうちの厩舎にはそのクラスのレースに挑戦できる3歳馬がいないから、そのざわめきとはあまり関係ない。それでも、どこかハイな気分になるから不思議だ。

 もちろん、あたしがハイになっている理由はそれだけではない。春は出産の季節。マリンの仔が、この春に生まれてくるのだ。あの死産以降なかなか受胎しなくて、今回があの後から初めての出産になる。できれば出産に立ち会いたいから、月曜日(トレセンは月曜日がお休み)に生まれてほしい。


「早く生まれないかなぁ。ねえ、チータ?」


 厩舎の横にある洗い場で、うちの牧場の生産馬、ペリペチータの手入れをしながらそうつぶやく。さっきあたしが乗って調教をつけたばっかりで、汗をかいているチータは、気持ちよさそうにおとなしくあたしに洗われている。かわいいやつだ。今日は少し元気がなかったようだったから、調教師と相談して調教は予定のよりも少し軽めにしておいた。


「三村ー、もうすぐ馬場空くぞー」

「はーいっ」


 大路さんが呼んでいるのを聞いて、あたしはヘルメットの紐を締めなおした。それと同時に、浮き足立つ気持ちもぐっと引き締める。これからもう1頭の調教なのだ。ヘルメットと気の緩みは事故につながる。

 チータをほかの厩務員さんに任せて、もう1頭のターコイズブルーという馬に跨る。うちの生産馬ではないけれど、それでも、大事な秋本厩舎の管理馬だ。

 足元に負担のかかりにくいウッドチップ(木の破片)を敷き詰めたコースで、少し強めの調教。いつもよりも手ごたえがないから、もう少し強めに追ったほうがいいような気がする。どうしよう。とりあえずほんの少しだけ強めに……。よし、これならいつもと同じくらいの走りだ。大丈夫。

 調教を終えて厩舎に引き上げると、洗い場の前には秋本調教師が立っていた。帽子をかぶって、下からあたしを睨みつけている。馬から降りて調教終わりの報告をしようと口を開きかけた瞬間、


「ばかやろう!」


 いきなり怒鳴られた。全く心構えができていなかったぶん、その声にあたしは震え上がった。でも、怒鳴られるようなことをした記憶はない。心当たりがないぶんあたしはますます不安になって、びくびくしながら調教師の次の言葉を待った。


「誰があそこまで強めに追えって言った」


 そう言われて、ようやくさっきの調教のことを言っているのだとわかる。でも、チータのことなら、調教師と相談した結果弱めにしたはずだし、ターコイズはいつもより手ごたえが悪かったからほんの少しだけ強めにしただけで、そこまで叱られるほど強くなかったはずなのに、どうして?

 心の中ではそう反論したいのに、頭がそれを却下する。あたしは実習生で、いずれは秋本厩舎所属の騎手になる人間なのだ。あたしの上司にあたる人に、そんなことを言える立場にはない。

 何も言えずに、あたしは自分の上着の裾をぎゅっと握った。わけがわからなかった。そうしていないと、そうやってどこかにやり場のない思いをぶつけていないと、口から言葉が溢れてしまいそうだった。


「チータの体調悪いのには気づいたのに、どうしてターコイズには気づかなかったんだ。ターコイズだって、スタンドにいた俺の目にはチータと同じくらい調子悪そうに見えたがな。気づいてたら、あんな無茶な乗り方はできないはずだ。違うか?」

「……いえ……」


 違わない。全然気づかなかった。もし、あたしの気づかなかったそれが事実なら、それは間違いなく、100%、あたしのミスだ。

 ため息をついて、調教師は続ける。


「チータが可愛いのはわかる。おまえの実家の生産馬だからな。ただ、騎手はえこひいきなんかしてはいけない。実家の生産馬だろうが、そうでなかろうが。全ての馬に平等な対応ができてこその騎手だ。――――わかったか?」

「……はい」


 次からは気をつけること、と言い残して、調教師は去っていく。はあ、とため息をついて、あたしはその場にずるずるとへたり込んだ。心臓をメッタ刺しにされたような気がして、その場から動けなかった。

 あたしが今までやってきたことが、全否定されたような気がした。あたしが騎手を目指したのは、うちの馬に乗りたかったからなのに。肩入れしちゃいけないというのなら、あたしはどうしたらいいかわからない。

 あたしは一体、なんのためにここまで来たんだろう。




 その日の夜。落ち込むと無性に甘いものを食べたくなる困った癖を持つあたしは、寮を出て厩舎に向かっていた。確か今日、馬主さんが来てシュークリームを置いていって、まだ冷蔵庫に残っているはずだ。厩舎の鍵は預かってるし、体重だってそう気にするほどのものでもない。たまには……落ち込んでるときくらいは、こんな贅沢を自分に許したっていいはず。幸いひとつはあたしの分として確保してあるし。

 後ろから自転車が近づいてくる音が聞こえて、あたしは思わず振り向いた。もう9時だ。こんな時間に自転車で出歩いているなんて、誰だろう。

 自転車に乗っている人は、あたしが誰なのかを確かめると驚いたような顔をして自転車から降り、自転車を押しながら近づいてくる。

 佳奈子だった。こんな時間に佳奈子と行き合わせるなんて、珍しいという以外に言いようがない。思わず尋ねてしまう。


「……こんな時間にどこ行くの?」

「厩舎。あんたは?」

「あたしも厩舎。珍しいわね、競馬嫌いのあなたが厩舎に行くなんて」


 またもや『あんた』と言われたことにむかついて、あたしはとげを含んだ言葉を返した。


「別に。父さんに頼まれただけよ。馬主さんからもらったシュークリーム取ってきてくれって」


 それがどうしたの、とでも言いたげに佳奈子は言う。そして、自転車を押しながらくすっと意地悪そうな笑みを浮かべた。


「聞いたわよ。あんた、調教で大ポカやらかしたんだって? どうせあんたのことだから、これから厩舎に行ってシュークリームのヤケ食いでもしようって思ってるんでしょ?」


 ……読まれてる。当たってる分言い返せずに黙るあたしを見て、佳奈子は更にもう一言発した。


「ばかみたい。たかが競馬にそこまで本気になるなんて。父さんもこんな子引き受けるなんて、どうかしてるわ」


 その言葉に、あたしの中で何かがぶちんと切れた。あんたに何がわかるのよ。調教師の親を持ちながら競馬に興味を示さない、それどころか鼻で笑っているようなあんたに、何がわかるのよ!!

 次の瞬間、あたしは佳奈子の胸倉を思いっきり掴んで、右手で佳奈子の頬をひっぱたいていた。

 顔を真っ赤に染めた佳奈子が、あたしを睨みつけていた。

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