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SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
13/22

三村桜花(5)

 競馬学校に入学して半月経つけれど、あたしには未だに慣れないことがある。それは、厩舎作業。もちろん、あたしが物心ついたころからずっとやってきたその作業に大した変化なんてあるわけがない。だから、作業自体に問題があるわけではないのだ。問題になるのは、それとはちょっと別の部分。

 その問題が主に起きるのは、朝の作業中。


「三村、ちょっとそこにあるフォーク((わら)などを交換するときに使う道具)取ってくれる? 今手が離せなくてさ……」

「わかった。ねえ、秋……」


 あたし自身手が離せなかったのでそう口に出しかけて、あたしは言葉を呑む。作業を一旦中断して、そのままきゅっと口を結んでフォークを拾い上げ、隣の馬房で作業をしている同期の男子に手渡した。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。そして、そんなあたしをきょとんとして眺めている男子。

 これが、慣れないことなのだ。

 そう、あたしは未だに作業中に秋華を呼んでしまうことがあるのだ。秋華と一緒に朝の厩舎作業をしていた長年の習慣が抜け切れなくて、競馬学校にいるはずのない秋華がそのへんにいるような気がしてついつい呼んでしまう。これはかなり恥ずかしい。学校で先生のことを『お母さん』って呼んでしまうのと同じくらい恥ずかしい。

 お母さんといえば、家族と離れているのはやっぱりちょっと寂しいものがある。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも秋華も。あたしのことを全面的に支えてくれた人たちがそばにいないのは、覚悟はしていたけれど予想以上につらいものがあった。騎手になるためだけにいろいろなものをシャットアウトしてきたあたしが、どうしても切り捨てられなかったのは、家族と…………あと、稔なのだ。


 稔とは、あの後1度だけ会った。たぶんあれは初デートと呼ぶべきものなんだろうけど、同時に……あたしが競馬学校にいる3年間はほとんど会えなくなるから、ある意味最後のデートだったかもしれない。稔の進学先が男子校でよかったと、あたしは密かに感謝している。もし周りに女の子がいっぱいいたら、魔がさすってこともありえるかもしれないのだ。……まぁ、あの小心者にそんなことできるはずないとは思うけど。それでも、心配の種はないにこしたことはない。

 あたしの寮の部屋(真央姉と同室)の机の上には、そのとき稔からもらった小さな馬のぬいぐるみが置いてある。小首を傾げた、ぼんやりした顔をしたそれは、そのぼんやりさ具合が何となくお姉ちゃんや秋華に似ていて、もらったときには思わず爆笑してしまった。

 そして、ぬいぐるみの首からはあたしの実家の近くにある神社のお守りがかけられている。安全祈願、と書かれたそのお守りは、稔がそのとき一緒にくれたものだ。『落馬するなよ』と言って、稔はそのときにかっと笑った。で……そのときあたしはよせばいいのにこう言ってしまったのだ。


『なによあんた、まさかあたしが落馬するとでも思ってるの?』

『おまえなぁ、そのやたらと自信過剰なのやめたら? かわいい彼女のためにせっかく買ってきたのにさぁ』


 そう言いながらも、稔の笑顔は変わらない。あたしが何を言っても普通に受け流してくれるところが……面と向かって言うのは恥ずかしいけれど、好きなんだと思う。

 そんな稔とも、家族とも。このままいけば3年も会えない。3年は長い。どう考えても長い。

 騎手になるのがあたしの夢であることには変わりないけれど、でも、ほんの少しだけ寂しいと思ってしまうのはどうしようもなかった。




 競馬学校の日々は、あっという間に過ぎていく。なにしろ、3年間で競馬に関する知識や能力を全て身につけなければいけないのだ。しかも、途中で1年間のトレセン実習があるものだから、学校で学ぶのは実質2年。さすがに、センチメンタルな気分になってばかりもいられない。悩む暇があったら少しでも体を動かしたり学科の勉強をしたりするほうがよっぽど有益だ。あたしも真央姉も、そして他の同期の連中も。そう思って必死にやってきた。

 けれど、そうやって必死にやってきても……いつも心の中には少しだけ不安がある。こうやって3年間外界とはほとんど隔離されたようなところで必死になってやってきても、いつ何が起きるかわからない。突然体が自分の意思を無視して成長し、体重制限をどうやってもクリアできなくなるかもしれない。落馬して再起不能な怪我をするかもしれない。学年で1番体が小さくて、今のところ1番落馬も少ないあたしにだって、そんな不安はある。

 それでも、騎手になるためには、それを全て乗り越えるか蹴倒すか無視するかしなければいけない。それができなかったら騎手にはなれない。だからこそあたしたちは、何も悩まなくてもいいように訓練だけに没頭していた。

 けれど、その不安が現実になってしまう、そんな決定的な事件が起きてしまった。

 宏斗先輩の退学だった。



 田中宏斗先輩。あたしたちより一期先輩で、真央姉の中学時代の同級生だった先輩は、実習先で落馬してしまって入院し、そしてそのまま退学することになった。理由はあたしたちには聞かされていなかったけれど、それでも、先輩が1人いなくなるというのはかなりショックで、いつも大賑わいのはずの競馬中継を見ている間でさえも、みんな浮かない顔をしていた。


「……そりゃあ、こんなスピードで走ってるものから振り落とされたらなぁ……」


 テレビ画面いっぱいに映し出された返し馬の光景に、同期の男子がため息をつく。今日は日曜日。競馬開催日でもあり、そして……辞めることになった宏斗先輩が、学校に挨拶に来る日。


「森本さん、さっきから顔見ないけど……田中先輩に挨拶しに行ったんだって?」

「うん、そうみたい」


 別の男子の言葉に一応そう返事をして、あたしは心の中で密かにため息をついた。やめておいたほうがいいのに、真央姉は宏斗先輩に会いに行ったのだ。夢を諦める人に会ったって、自分がつらくなるだけなのに。ましてやその相手が自分と同じ夢を追っていたのならなおさら。……まぁ、それが真央姉らしいといえばそうなんだろうけど。

 そんなことを考えていたから、あたしはせっかくの競馬中継をほとんど見ないままだった。もう外は暗くなりかけている。真央姉は……まだ戻ってこない。真央姉が宏斗先輩のところに行ってから、もうかなり時間が経っている。一体どうしたのだろう。どこにいるのだろう。心配になって、あたしは立ち上がった。

 トレーニングルーム、お菓子ロッカーの前、寮の部屋、食堂。どこを探しても、真央姉の姿はない。本格的に心配になってきて、あたしは上着を持って外に向かった。これだけ探してもいないということは、外にいるとしか考えられない。

 星がきらきらと瞬きだしていて、空気はかなり冷たい。そんな状態なのに……真央姉は、厩舎の前に座り込んでいた。あたしに気づく様子もなく、心ここにあらずといった感じ。


「真央姉、どうしたの?」


 座り込んでいる真央姉の肩に手をかけて、あたしは真央姉の顔を覗きこんで――――びっくりした。涙でぐしゃぐしゃになった、真央姉の顔。いつもの、もの静かで知的な感じの真央姉はどこにもいない。今あたしの目の前にいるのは、ぼろぼろに傷ついたひとりの女の子だった。


「……桜花ちゃん……」


 それだけ言って、真央姉はまたぼろぼろと泣き出した。その背中をとんとんと叩きながら、あたしは少しだけ苦々しい気分になった。

 だから、宏斗先輩に会うのなんてやめとけばよかったのに。




 ……でも。真央姉の話を聞いているうちに、あたしの心の中までざわざわと嫌な感じに波立ってくるのがよくわかった。だって、こんな状態になってしまって冷静でいられるはずなんてない。宏斗先輩が競馬学校を辞めることに関してはどうしようもないけれど、でも、宏斗先輩がそうやって自分の気持ちにとどめを刺すのを目の前で見てしまうなんて……。

 しかも、その『気持ち』が自分のほうに向いていたのだったら、それはもう、どう考えても苦しいに決まっている。それに加えて、宏斗先輩が自分の気持ちに終止符を打ったのと同時に、真央姉自身が自分の気持ちに気づいてしまったなんて……これはもう、皮肉だとしか言いようがない。よく泣くだけで済んだな、と思うと同時に、あたしは宏斗先輩にかすかな憤りさえも覚えた。

 だって、こんなのおかしい。真央姉がここまでショックを受けるのが、先輩にはわからなかったんだろうか? ここまでショックを受けた真央姉がどうなるか、先輩は考えなかったんだろうか? 図太いあたしでさえもこんなに動揺しているのに、ただでさえ精神的に脆い部分がある真央姉はどうなると思ってるんだろう。それでなくとも、先輩が学校を辞めるって段階で真央姉はかなりショックだったみたいで食事の量が落ちてるのに、これが原因で本格的に調子崩したらどうするつもりなんだろう。調子崩して落馬したりなんかして、それでもしも騎手になれなくなったら……!?

 そりゃあ、宏斗先輩が苦しいのはわかる。でも、それと真央姉のこととは別問題のはずだ。だって、先輩は先輩、真央姉は真央姉。どこまでいっても違う人間。それなのに、自分が苦しいからって他人まで巻き込もうとする(少なくともあたしにはそうとしか思えない。宏斗先輩の行動は、真央姉を苦しめようとしているようにしか思えない)なんて、そんなの完全に間違ってる。

 でも、それ以上にあたしが怒りたい相手は、宏斗先輩じゃなくて……。


「……私、のせい、かも、しれないよね……。だって私、田中くんの……気持ちに、応えてあげられなかったっ。もし……もし私が、ちゃんと、こうなる前に伝えてた……ら、こん……こんなことには、なって、なかったかもしれない……のに…………」


 言葉を詰まらせながら、必死になって言おうとする真央姉。それを見ていたら、あたしの中でちょっと……どころではなく、かなりの怒りがこみ上げてきた。

 違うでしょう、真央姉。そうじゃないでしょう。真央姉が怒るべきなのは、理不尽なことを言ってる宏斗先輩でしょう。自分を責めてどうするの? 結局騎手になれない人のために、自分をそこまで追い詰めてどうするの? そうやって自分を追い詰めて、自分の夢を自分で潰す気なの!?

 喉元まで出かかった言葉。あたしはそれをどうにか飲み込もうとして…………失敗した。


「ああもう、なにをごちゃごちゃと悩んでるのよ!」


 立ち上がって、座って泣いている真央姉を一喝する。1度そう言ってしまえば、あとはもう勢いだった。昔からお姉ちゃんを怒鳴りつけていて慣れているから、そうなったあたしはもう止まらない。


「そんなの、真央姉が悩む必要がどこにあるの! 悪いのは宏斗先輩。だってそうでしょう? 人の気持ちなんてどうしようもないのに、真央姉にばっかり後味の悪い思いさせてる宏斗先輩が悪いのっ!」


 そこまで言って、あたしは息を吸った。びっくりしたような顔の真央姉が、あたしを見上げている。


「だから、しゃきっとしなさいよ真央姉。あんたは悪くないんだから」


 言い終えたら何だか気分がすっきりしてきた。それと同時に落ち着きも取り戻し、あたしは真央姉の隣にどっかりと腰を下ろした。


「……わかった?」

「……うん……」


 あたしの言いたいことがわかった……というよりは、あたしの迫力に押されて何も言えなくなった、って感じの真央姉が、こっくりと首を縦に振り、涙で濡れた頬を服の袖でごしごしと拭った。

 それを見届けたら何となく安心してきて、あたしは何気なく空を見上げた。あの日――――お姉ちゃんと秋華の前で誓ったあの日みたいな、澄み切ったきれいな夜空。

 そんな空を黙って眺めていると、心が穏やかになってくる。と同時に、穏やかな気分のもっと奥のほうでは、早く夢へと近づきたいというドキドキもあって……いてもたってもいられなくなってくる。


「ねえ真央姉」

「ん……?」

「あたしたち、立ち止まってる暇なんてないよね」


 空を見上げたまま、あたしはそうつぶやいた。真央姉も空を見上げて、そして……力強く頷く。しばらくそのまま空を眺めていると――――澄み切った夜空を、一筋の光が横切った。思わず姿勢を直して、真央姉と顔を見合わせてしまう。


「ちょっと真央姉っ!」

「今のって……流れ星!? うわぁ、初めて見た……」


 感激しきった様子の真央姉に、あたしは思いついたことを率直に尋ねる。


「あのさぁ、『流れ星』って英語でなんて言うんだっけ?」


 あたしのその質問に、真央姉がかくっと肩を落とす。まぁ、かなりレベルの高い高校に行っていたらしい真央姉にしてみたら常識かもしれないけど……自慢じゃないけど、あたしの英語の成績は中学校から通算してずっと真ん中より下だ。そんな高度な単語なんて知ってるはずがない。でも、これは明日の学科の英会話で使える。『私は昨日流れ星を見ました』って言えるなんて……なんだか、かっこいい。


「流れ星……流星(りゅうせい)…… ”SHOOTING STAR” だね」


 ものすごく綺麗な発音で、真央姉はそう言った。けれどあたしは、真央姉のその言葉の中に、ある単語を発見してしまって……なんだか、余計にテンションが上がってきた。


「真央姉真央姉、『流星』って!」


 あたしがそう言うと、一瞬ぽかんとしていた真央姉が吹きだした。そう、馬の額に時々ある白い部分のことは『星』、その星が鼻筋まですうっと伸びていると『流星』というのだ。すごい。なんていう偶然の一致だろう。


「そうだねー、流星だね。止まることなく、ひたすら高速を保ってまっすぐに進む流れ星かぁ……なんだか、私たちみたい」


 元気が出てきたっぽい真央姉が、感心したようにそう言う。あたしもその言葉にかなり感心しながら、また空を見上げた。

 あたしたちも、流れ星みたいになりたいね。絶対になろうね。

 人の願いを乗せてまっすぐに進む、そんな騎手に。

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