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SHOOTING STARS  作者: 福永涼弥
本編
12/22

森本真央(8)

 競馬学校に戻ってきてから、何度もあの晩の夢を見た。




『ああ、もちろん今すぐに返事欲しいわけじゃないから、ゆっくり考えてくれて構わないよ。……それにしても、宏斗とつきあってたわけじゃなかったんだね』


 栗東最後の日の、あの晩。固まっている私にお構いなく、桜井さんはいつになくハイになってしゃべり続けている。私に背を向けて、あくまでもさらっと話そうとしているけど……その声はとてもきりっとしていて、まるで、知らない男の人みたいだった。


『初めて会ったときからずっと気になってたし、天皇賞見にきてくれたときには本当に嬉しかった。……でも、宏斗の気持ちも知ってたし、真央ちゃんも宏斗のこと好きなんだろうな、って思ってたから、身をひくつもりだった。従弟の彼女を、奪いたくはなかったし』


 背を向けたまま、桜井さんは一歩踏み出す。街路灯の光の輪から離れて、背中だけがぼんやりと照らされている。


『でも、真央ちゃんが宏斗のことそこまで好きじゃないんなら話は別。それってつまり、俺にだってチャンスがあるってことじゃん? だから、もう宏斗に遠慮なんてしない。……もう1回言うよ』

 そう言って、桜井さんは振り向いた。さっきよりも真剣さは増しているけれど、でも、すごく優しい瞳。


『俺は、真央ちゃんが好きだ』




 夢は、毎回毎回ここで途切れる。そしてそのたび、私はもう悩んで悩んで悩みまくっている。結論が出ないまま、また同じ夢を見ることの繰り返し。食事があまり喉を通らなくなって、減量する気なんてさらさらなかったのに体重が1キロ落ちて、桜花ちゃんを抜いて学年最軽量になってしまった。

 桜井さんが私のこと好きって言ってくれるのは嬉しい。でも、今の私は北野厩舎所属の競馬学校生。ここで私が自分の気持ちを伝えてしまったら……どうなるのだろう。下手したら厩舎の雰囲気が悪くなってしまうかもしれない。そんなことは絶対にしたくない。

 それに、私は栗東で実習をしている身であって、おおっぴらに恋愛にうつつを抜かせる状況にはない。競馬の世界は噂話が広がるのがものすごく早いから、ただでさえ北野調教師の家に居候させてもらっていて迷惑かけているのに、これ以上迷惑かけるわけにはいかない。でも、隠れてつきあうなんてこそこそした真似はしたくはない。

 でも、桜井さんにあまり返事を待たせるわけにもいかない。私が桜井さんのことを好きなのは事実なんだから、諸々の状況を無視する気にさえなれば何も問題はない。そう考えることもできるけど、当事者は私だけではない。桜井さんだって当事者なのだ。もし私が桜井さんの気持ちに応えてしまって、それが噂にでもなってしまったら……下手したら、騎乗依頼が来なくなってしまうかもしれない。そんなこと絶対にしたくない。

 どれだけ考えても、答えなんて出ない。桜花ちゃんに相談することもできずに、私は競馬学校にいる1ヵ月間ひたすら悩み続け、そして――――後期厩舎実習のために、栗東に戻る日が来てしまった。どんな顔をして桜井さんに会えばいいのか、わからなかった。



 そして、また実習が始まった。桜井さんにどう返事したらいいのかわからない。もちろん、自分の気持ちを打ち明けるわけにはいかない。けれど露骨に避けたり、くっついたりするわけにもいかない。だから、とにかく今まで通りに振る舞うこと。それが、とりあえずのところの私の結論だった。そうするのが1番破綻のない方法だと考えて、そういう結論を出した。

 そして桜井さんも、本当に今まで通りの振る舞い方だった。本当は告白なんてしてないんじゃないか、私のこと好きだって言ったのは冗談なんじゃないか、と思うくらい、普通に振る舞っていた。本当に見事なものだった。

 3月半ばの日々は、淡々と流れていく。


「今日のエッジは……坂路はんろでシェイクの併せ馬の相手。和久に細かい指示してあるから、とりあえずそこまで行ってこい」

「はい」


 年が明けて3歳になったエッジの調教をつけるのは、私の役目だ。今北野調教師から指示された調教内容は、今週末にレースを控えているうちの厩舎の4歳馬、ポップシェイクの追い切りの相手。坂路をひたすら下っていく調教だ。エッジに跨って、厩務員さんにいてもらいながら坂路へ向かうと、もう桜井さんとシェイクは先にそこにいた。


「じゃあ、今日は8割くらいで6ハロン(1200m)走らせるから、ペース配分頼む。全力で走らせる必要ないからね」

「はい、わかりました」


 こうやって、調教中に普通に会話をすることはできる。でも、それ以外の会話をするのには多大な労力が必要。あまりにも意識し過ぎてしまって、どうすればいいのか時々わからなくなってしまうのだ。

 心の中のもやもやを吹っ切ろうとして、エッジに合図をする。割と素早い反応を見せ、エッジが走り出す。続いて、シェイクが追いかけてくる。シェイクが並びかけてくる。と、普段はおとなしいエッジが突然隣のシェイクに反応して、ペースを上げようとする。シェイクもそれに合わせてペースをあげようとするものだから、桜井さんが必死になって抑えようとしている。私は慌ててエッジの手綱を引いた。けれど、普段とは全く違った走り方をするものだから抑えきれない。半分パニックになりながら、どうにかエッジのペースを緩めて止まり、隣のシェイクを見ると……険しい表情の桜井さんが、こっちを見ていた。エッジがこれだけ暴走してしまったんだ、きっとシェイクも8割どころじゃない走りをしてしまった。――――抑えきれなかった、私のミスだ。


「真央ちゃん」


 桜井さんが、シェイクに乗ったままこっちへやってくる。厳しい声で、私に言い放つ。


「……とりあえず、今日の調教はこれで終わりだから。厩舎戻るよ」

「はい……」


 そう言うことしか、できなかった。調教でここまでひどいミスをしたのは初めてで、何をどうしたらいいのかわからなかった。


「確かに、今日のエッジは妙に気が立ってたからなぁ。そのせいじゃない? これからは気をつけなよ」


 厩務員さんがそう言ってくれるけれど、頷くことしかできない。気が立っていたのは事実だけど、でもそのくらい大丈夫だと思っていた。何とかなると思っていた。それなのに……情けない。今月は出走予定がないエッジはともかく、今週レースのシェイクにまで悪影響を及ぼしてしまったなんて……。

 厩舎に戻って、北野調教師にさっきのことで注意を受けて(今回は珍しく鬼と化すことはなかった)、そして厩舎作業に取り掛かる。エッジを洗って、馬房を掃除して、水と飼葉をやって……壁にもたれかかって、エッジががつがつと飼葉を食べているのを見ていると、シェイクの手入れをしていた桜井さんが私の前まで歩み寄ってきて、左手を上げ……


 ぱんっ


 音と共に、右頬に痛みが走った。――――桜井さんにひっぱたかれたのだ。あまりのことにパニックになりながら、痛む右頬に手を当てて桜井さんを見た。厳しい目。騎手になってから5年にもなるプロの目が、私を非難している。


「さっきのはいくら何でもひどすぎる。今まで実習で何してきたの? あんな乗り方しかできないんなら――――騎手になるの、辞めたほうがいい」


 吐き捨てるようにそう言って、桜井さんは踵を返して立ち去っていく。右頬はまだ少し痛んで、私はその場にへたり込んだ。泣くことすらできずに、ただただ、ばかみたいにその場にそうしていることしかできなかった。




 その翌日の金曜日、桜井さんはずっと口を利いてくれなかった。どうやら私は完全に嫌われてしまったみたいだ。当然だ。あんなひどい騎乗をした後輩となんか、口を利きたいはずがない。それがわかるから私も、桜井さんに話しかけたりはしなかった。もちろん、北野調教師や茜さんに心配かけないように食卓ではお互いによくしゃべるけれど、会話をすることは、なかった。

 そんな状態だったから、桜井さんが土日のレースに乗るために阪神競馬場へ行ってしまったときは、少なからずほっとした。そうして、いろいろなことを考えた。

 土日の間に、少しでも頭を冷やそう。月曜日のお休み(トレセンは月曜休み)には調教師から許可をもらって久々に家に帰ろう。JRで1時間、余裕で行って帰ってこれる。そして……桜井さんと初めて会ったあの川原で心を落ち着けて、桜井さんへの気持ちをすっぱり断ち切って、火曜からはまた普通の顔をして、厩舎の先輩と後輩という形でいられるようにしよう。今までと、何も変わりはない。

 そう腹をくくってしまって、土曜の競馬中継を見ていたときのことだった。

 調教師が、テレビにかじりついている私の横に座って話しかけてくる。さっきまで電話で誰かと話をしていたみたいだけど、何かあったのだろうか?


「あのな森本。急な話で悪いんだが、俺の身内に不幸があったらしいんだ。……だから明日、シェイクのレースが終わったら茜を連れて通夜に直行して、明日はそのまま向こうで泊まってくることにした。留守番、頼めるか?」


 調教中の力強い感じとは少し違った、すっきりしない表情の北野調教師。亡くなった身内の方とはきっと親しかったのだろう。見ているだけでそれがわかる。


「そうですか……わかりました」


 だから私は、迷うことなくそう返事をした。そうなると月曜日に帰省はできなくなるけれど、普段からお世話になっている調教師の頼み、そういう事情なら快く留守番を引き受けなければいけない。




 そんなわけで、日曜日の昼間はとても静かだった。北野調教師も茜さんも、私に1人で留守番させるのをさんざん心配していたけれど、もともと私は1人っ子、1人での留守番は慣れっこになっている。

 朝起きて、厩舎にいるエッジやほかの馬の調子を確認して、適当に昼ごはんを作って食べる。後片付けを済ませて厩舎に行き、馬の手入れをする。そのまま厩務員さんと一緒に競馬中継を見て(今日レースだったシェイクと桜井さんは3着だった)、厩務員さんたちといろいろと馬のことを話す。それだけで日は暮れてしまって、私は留守番という本来の目的を忘れかけていたことに気がついて慌てて北野調教師の家に戻った。6時半。いくら鍵をかけてあったとはいえ、昼からずっと家を空けっぱなしだった。

 しぃんと静まり返った、家の中。北野調教師と茜さんと……桜井さんがいないこの家ではどうも食欲がわかないので、夕食の代わりにホットミルクを飲むことにした。何も食べないのよりはましだろう。

 鍋で温めたミルクをマグカップに移し、ソファに座って一息つく。カップの中の液体に目を落とし、ぼんやり考える、私以外にこの家に誰もいないのは、実習に来てから半年になるけれど初めてだ。……やっと、ひとりになって落ち着いて考える時間ができた。

 そう思うと、突然涙がぼろぼろとこぼれてきた。ミルクの中に涙がぽたぽたと落ちて、波紋が広がる。カップを目の前にあるテーブルに置いて、私は膝を抱えて泣いた。

 どうしたらいいのだろう。私は一体何をしたいのだろう。騎手になりたくて、高校を辞めてここまで来た。桜井さんに少しでも近づきたくて、ひたすらがんばってきた。それなのに……その桜井さんからあんなことを言われてしまうような、そんな情けない騎乗しかできないなんて……。


 ピンポーン


 そんなことを思いながらわんわん泣いていると、ふいに、玄関のチャイムが鳴った。こんなみっともない泣き顔をしているのに出てもいいのだろうか、でも出なかったら留守番の意味がないし……。そう考えていると、またチャイムの音がする。さすがに出なきゃいけないと思って慌てて涙を拭っていると、玄関先でがちゃがちゃと音がする。なんだか怖くなってきて動けない。そのまま固まっていると――――聞きなれた声が私を呼んだ。


「真央ちゃーん?」


 そう言いながらリビングのドアから顔を覗かせたのは、桜井さんだった。私の顔を見るなり突然表情を変え、つかつかとソファの前まで来て、私の横にどっかりと腰を下ろす。そうして桜井さんは、うつむいて固まっている私の顔を両手で挟んで強引に上げさせ、横を向かせる。まっすぐな眉の下にある一重瞼の目が、私をじっと見ている。


「何があったの」


 何も言えずに、私は首を横に振ろうとした。言えるはずない。桜井さんに言われたひとことがきっかけになって、いろんなことを考えてしまって泣いているのに、そんなことを本人を目の前にして言えるはずがない。


「こんなひどい顔して、何でもないわけないだろ。……木曜のあれ、気にしてるの?」


 そう言われても、言えないものは言えない。うつむこうとしたけれど、さっきから顔の向きを固定されてしまっているからどうにもできない。泣いてはいけないとわかっているのに、涙だけがどんどん溢れてくる。それは誰がどう見ても、桜井さんの質問を肯定しているのと同じだった。


「……やっぱりそうか」


 そう言って、桜井さんは私の両頬に添えていた手を離した。一瞬頬がひやりとして、そしてまた涙で濡れる。止まらなかった。初めて会ったときと同じくらい、涙がどんどん溢れてきた。

 ふいに、桜井さんの右手が私の頭に伸びてきた。左手が私の肩をつかんで、ぐいっと引き寄せる。桜井さんが着ているチェックのシャツが、目の前に見えて……私は、桜井さんの胸の中にいた。右手で私の髪をき、左手で背中をさすってくれる桜井さん。それだけで、また泣きそうになる。――――こんな風にしてくれる人への気持ちを、断ち切るなんてできるはずがない。


「……まず、ひっぱたいてごめん。あまりにも意識がどっかいっちゃってるっぽかったから、ちょっと喝入れるつもりだったんだけど、あのやり方はなかったよな」


 確かに、あの時の私はお世辞にも平常心とは言える状況ではなかった。ひっぱたかれたのは記憶にある限りでは生まれて初めてだったからショックだったけれど……よく考えてみたら、正面に立っていた桜井さんが私の右頬を叩いたということは、桜井さんは利き手でない左手を使っていたということになる。それなりに手加減はしていたということみたいだ。

 ただ、原因を作った私が言える立場ではないのはわかっているけれど、できればもっと別のやり方をしてほしかったというのが本音でもある。


「あと、あれはちょっと言い過ぎた。確かにあのときの真央ちゃんはひどかったから、先輩として言うべきことは言わなきゃって思ったんだけど……俺と真央ちゃんは違うもんな。俺が昔先輩に同じこと言われたからって、真央ちゃんにもそれが通じるわけないもんな。……本当に、ごめん」


 そう言いながら、桜井さんは私の体を少し離して、私の顔を覗きこむようにしながら続ける。いつもよりも赤い顔をしている桜井さんが、なんだかおかしかった。


「……でも、誤解しないで。俺は別に真央ちゃんのことが嫌いになったわけじゃない。むしろ、すごく好きだから……泣いてるの見たら我慢できなくなって、つい……。ごめん、迷惑だった?」

「迷惑なんかじゃ……!」


 ぐちゃぐちゃになってしまった私の頭にその言葉が響いて、思わず、口が勝手に動いていた。桜井さんがびっくりしたような顔で私をじっと見て、確認するように聞いてくる。


「本当?」


 恥ずかしくなってきてしまって、私は首をぶんぶんと縦に振った。一言でも何か言ったら泣きそうだった。嬉しかった。私のこと嫌いになったわけじゃないとわかって、泣きたいくらい嬉しかった。そして、もう1度確認してくる桜井さん。


「俺、少しは自惚れてもいいわけ?」


 何も言えない代わりに、同意するように深く頷く。そうすると、今度は何の前触れもなくいきなり抱きしめられる。胸の奥の気持ちをどうにか伝えたかったけれど何を言ったらいいかわからなかったから、私は桜井さんのシャツの裾をきゅっと握った。

 好きです。桜井さんが、好きです。




 時計が7時の鐘を打ったのにびっくりしたらしく、桜井さんが腕を放した。それをきっかけに私は桜井さんから体を離して立ち上がる。安心したら急におなかが空いてきた。それとともに、大事なことを聞くのを忘れていたことに気がつく。


「ところで桜井さん、どうしてここに?」

「いや、調教師に競馬場で会って事情聞いたから、茜さんに合鍵貸してもらって俺も一緒に留守番しようかなって。『泥棒とか変質者とか来たら大変だから、和くん、よろしく頼んだわよ!』って言ってた」


 そう言って、桜井さんはくっくっくと笑った。


「でも俺、はっきり言って留守番してないよな? 鍵あるからって勝手に入ってるし、真央ちゃん泣かせるし。変質者よりよっぽどたち悪かったりして」

「そんなことないです。……来てくれて、ありがとうございます」


 そう言って、私は頭を下げた。もし桜井さんが来てくれなかったら、しばらく私は落ち込み続けて使い物にならなくなっていただろう。自分ひとりで立ち直れないのはまだまだ未熟な証拠だけれど、いつかは桜井さんと対等になって、桜井さんが悩んでいるときに手助けができるようになりたい。そのために、まずは同じ土俵に立つことから始めないと。まだまだ半年近く実習が残っているから、その間は恋愛感情をきちんと封印して、そして、騎手免許を取得したらきちんと自分の気持ちを言葉で伝えよう。


「ところで真央ちゃん。ひとつ聞きたいんだけどさ」


 すっかり冷めてしまったミルクを持ってキッチンに入った私に、桜井さんが声をかけてくる。ソファの背もたれの上で組んだ腕に頭を乗せて、上目遣いに私を見ている。


「告白の返事、今聞きたいって言ったら怒る?」


 ……私の決意は、早速崩れ落ちそうな気配を見せていた。

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